紅葉の絵皿の売り主は、「深山奏人」という名だと店の帳面に書かれていた。読み方はわからない。
この記録は、品物に問題があった場合に取り引き履歴を追えるようにするためのもの。氏名だけでなく住所も書きとめられていて、未知花は今そこに向かっている。
隣にいるのは付喪神の志賀――ではなくて、従兄弟の聖だった。だって茶碗から姿をあらわさないんだもの。
「私まで行かなくてもよくない?」
「いいだろ、息抜きだよ。最近すごく真面目に勉強してたらしいじゃないか」
「受験生だもん……」
それだけではない。志賀のことを頭から追い払うために集中していたのだ。でもそんなこと聖には言えなかった。
アンティークショップで夜ごと泣く紅葉の皿。
そんな怪談を伯母から聞いて、聖はとても面白がった。そして、どんな事情があって皿を手放したのか取材しに行こうと未知花を連れ出したのだ。
でもそれは、夏休みなのだから少しぐらい遊べばいいという未知花への気づかいかもしれない。義理の母や妹とはうまくいかなくても、せめて祖父の家にいるあいだは楽しく過ごせるように。
二人は電車に一駅だけ乗り、鎌倉で降りた。
暑さの中でも駅前の小町通りは人通りが多い。でも目指す住所は線路の反対側だそう。
「私、住所だけじゃぜんぜんわからない」
「そうだろな。地元民にまかせとけ」
鎌倉はたいして大きな町ではない。だけど低い山と谷戸が入り組んでいて、細い道がななめに走る。曲がり角をひとつ間違えるとまるで別の場所にたどり着くことになりかねないのだった。
「ほんと言うと、電車を使わずに裏山越えて来る道のが近いんだけどさ」
「そうなの?」
「真夏に女の子にやらせることじゃないと思ってやめた」
「……ありがと」
そういえば〈宵待堂〉から谷戸に入った先にハイキングコースがあった。小さいころ歩いた気がするが、それのことだろう。
たしか木立の茂る、なだらかな山道だった。聖にとってはなんでもない。でもこの気温では未知花など倒れるかもしれなかった。
「しっかし暑すぎるな。帰りにかき氷食べるか? それともアイスのクレープとか、冷やしわらび餅とか」
「んー、ぜんぶ食べたい!」
「ばーか、腹こわすぞ。そのうち連れてってやる――だから大学、こっちから行けるとこにしろよ」
聖がさりげなく言い、未知花は立ちどまりそうになった。
「……うん」
「おし。がんばれ」
――未知花を支えてくれる人たちが、この町にはいる。何も気にせず頼れと言ってくれる人たちが。それに甘えてしまっていいのかな。
親との関係で悩むなんて未知花はなんて子どもっぽいのだろう。聖だって、たった二歳しか違わないのに全然かなわない気がした。
「聖くんて、大人だなあ」
「お、今さら俺の魅力に気づいたか」
「昔からカッコよかったよ。高校の時とかモテてたんでしょ。伯母さんから聞いてたもん」
明るいスポーツマンの聖は伯母の自慢だ。部活の県大会の成績や、体育祭での活躍、バレンタインチョコの数などいろいろ聞かされた。
「でも伯母さん、成績はともかく、て話をしめるんだよね」
「どうせ頭はよくないよ、悪かったな」
聖はしかめっ面をしてみせた。
――だがこの直後、二人はそろって狐につままれたような顔をすることになる。
訪ねた住所には「深山」という家はなかったのだ。念のため近隣を探しても、通りがかった人に訊いても見つからない。
「偽の住所を書かれたってこと……?」
実は出かける前に、住所と一緒に記載されていた携帯電話には連絡していた。だがつながらなかったのだ。スマホの電源が落ちているなんてよくあることだし、気にせず来てみたのだが。
「家も電話も、嘘なのか……」
眉をひそめた聖がつぶやいた。たぶん、そういうことなのだろう。
そこまでしてあの皿との縁を切りたかった売り主。
いったい何があったのか、未知花はむしろ気になり始めてしまった。
✻ ✻ ✻
かき氷はおごってもらったが、それ以外はなんの成果もなく未知花は帰宅した。
てん末を祖父に報告すると苦笑いされた。皿を売りに来た男は、高校生なので身分証明書がないと言い張ったそうだ。免許もないし休日に学生証は持ち歩いていない、と。
さらさらと何も見ずに書けるのは自宅ぐらいだろうし、高価な品でもないので黙認したのだった。
「そりゃやられたな」
でも祖父は気にしていないようだった。
犯罪がらみでないなら問題はない。売れない皿の一枚や二枚は放っておけと言われたが、幽霊もそのままでいいのだろうか。肝がすわっている。
二階に上がり部屋のふすまを開けた未知花は、息をのんだ。窓辺でぼんやりしている志賀がいたのだ。
志賀はゆっくり未知花に目をくれると、はにかんだように笑った。
「おかえり」
「びっくりした……ずっと出てこないし、どうしてるかと思ってた」
「ああ悪い、茶碗に戻ったままで何日経ったかな。未知花のこと考えてただけだったんだが」
「え?」
「おまえに言われたからさ……」
志賀は照れくさそうに未知花に向き直った。
「俺は昔から未知花のことよく知ってたろ。人の姿で未知花に会えて、恥ずかしい話だが舞い上がってたんだ。でもおまえにしてみりゃ気持ち悪かったよな。すまん」
いきなり常識的な謝罪をされて、むしろびっくりした。
「未知花が知ってる俺は、ただ様子のいい茶碗だ。大事に使われている焼き物としての距離感を、この姿でも求めるのはいけねえよ。そこんとこ俺は間違えてた」
「あ……わかってくれたなら、いいよ」
抹茶茶碗と未知花の距離感。というのも変な言い方だけど。
それは手のひらにそっと包み、唇をつけ、という扱いのこと。
逆に志賀からやると、未知花を抱き寄せたり、となるわけで。うん、キスされなくてよかった。
未知花は深くため息をつき、畳にへたり込んだ。帰ったばかりであらたまった謝罪を受けるなんて、勘弁してほしい。
でも、安心した。
志賀が怒ったまま姿を消してしまったら、たぶんとても悲しかった。この人にはちょっとした行き違いぐらいでいなくなってほしくない。そう、何故か思った。
だが志賀は、きりっと真剣な面もちで未知花に宣言した。
「そういうわけだから、今後は未知花に俺を知ってもらい好感を高めるために努力するんで。よろしく」
「え?」
「え、じゃねえよ。未知花を俺に惚れさせてみせるってことさ」
未知花はポカンと志賀を見つめた。
何を言い出すの、この人。数日かけて考えたことがそれ?
志賀のことを好きになる未知花。そりゃ可能性はなくはないけど。
今だって、凛々しく見つめるまなざしに心臓はちょっと跳ねている。格好いいと最初から思っていたんだし。
でもこうも正々堂々と宣言されると、ロマンチックではないよね? ときめきとか夢とかを欲しがるのは我がままだろうか。
「どうした、疲れたのか」
「うん……ちょっと暑かった」
がっくり肩を落とした未知花を、志賀は心配そうにした。だけど手は伸ばしてこない。むやみにさわらない、ということは覚えたらしい。
「今日はどこ行ってたんだ?」
「……泣いてるお皿があったでしょ。その元の持ち主を探しに行ってみたの」
「そのままにしとくのは可哀想だもんな。さすが、未知花はやさしいぜ」
「いやまあ、聖くんが連れてってくれたんだけど」
やさしいだなんて真っ直ぐにほめられると照れてしまう。言い訳したら、悲しげにされた。
「あいつと……二人で?」
「うん」
「ちくしょう、逢引みたいなことを」
「あいびき」
それはデートのこと。志賀の手がうずうずとする。でも未知花を抱き寄せるのは我慢し、ぐっと膝をつかんだ。
「あいつ、未知花に惚れてんのか」
「いやいやなんで? 従兄弟だってば」
「従兄弟なら、結婚だってできるだろ」
「結婚!」
話が飛びすぎて未知花は笑いこけてしまった。でも志賀は大真面目だ。
「いつおまえに虫がつくかわからないからな……焼きもちは焼くぞ、俺は」
「私がそんなモテるわけないでしょ。考えすぎだよ」
「いいや、未知花みたいな可愛い女、誰にさらわれるかわからねえ。その泣いてる皿だって、まだ高校生なのに大恋愛してるしさ」
「え……?」
事情をわかっているかのように志賀が言い、未知花は目をまるくした。
✻ ✻ ✻
紅葉のお皿に憑いているのは、高校生の少女だと志賀は教えてくれた。
夜中にそっと話してみたのだそう。泣いている理由が気になるし、未知花に怖がらなくていいと言った手前、人柄を確かめねばと思ったらしい。妙に律儀で未知花は笑ってしまった。
「……未知花も話してみろよ。ほんとに怖くないってわかるぞ」
「え。だって……あなたの力をもらうには」
キスしなければならない、と前に言われた。そんなのできないよ。
「あーええと、ちょっと声を聞くぐらいなら耳に息を吹くぐらいでいける。かもしれねえ」
「はあ?」
話が違う。未知花がじと目で見ると、志賀はばつが悪そうにした。
「だってよぅ……惚れた女の口づけが欲しいと思っちゃ悪いか?」
「嘘は悪いと思う」
「……だな。すまん」
惚れた女、なんて言われても流せるようになってきた自分に、未知花はこっそりため息をついた。
ちなみに今は夜だ。未知花が寝るのなら茶碗に戻ると志賀は申し出てくれたが、その前に名残を惜しまれ少しおしゃべりしている。
昼間の外出は無駄足だった。でも志賀はちゃんと幽霊のことを調べてくれていて、未知花の中の好感度はたしかに上がった。
まんまと乗せられている気がしなくもないが、未知花のためにいろいろ考えてくれるのは嬉しい。
「あ、ほら、またベソベソし始めたぜ」
「ほらって言われても」
「だから聞いてみろって」
「ううう……」
未知花だって、本当はとても気になる。
恋をしていたのに死んでしまった女の子。そしてお皿を売って消えようとした男の子。
「――わかった、お願い」
祖父も自室に引っ込んで静まりかえった家の中を、未知花と志賀はそろりそろりと店に降りた。
未知花の横から志賀が「失敬」とささやき、遠慮がちに耳に唇を寄せられた。キスよりましだけど、やられてみたらすごく恥ずかしかった。
ふ。
吹きかけられた吐息にジンとする。
――そして、女の子の声がした。
✶ ✶ ✶
――あなた、このごろここにいるけどお店の子なの? わたしと同い年ぐらいだよね。
いいなあ、元気で。
わたし、いろは。
彩る葉っぱ、て書いて彩葉。このお皿みたいでしょ。
これはね、奏人くんとプレゼント交換したの。ううん、お土産交換かな、修学旅行の。
奏人くんは、わたしの彼……だった人。もう違うよね、わたしは死んじゃったんだから。
修学旅行でね、班が別々だったから約束したの。お互い内緒で、お土産を探して交換しようって。
相手のそばに、いつも自分がいるみたいに思える物を渡そうよって。
だからこのお皿を奏人くんにあげたんだ。わたしっぽい絵じゃない?
奏人くんからは、楽譜の模様のハンカチをもらった。奏人くんはピアノが上手いんだ。
ハンカチだから、かばんに入れておけばずっと一緒でしょ。すごく嬉しかった。
でもね、そのちょっとあとで、わたし事故にあったの。車にはねられたのかも。
ドン、てして。
何がなんだかわからなかった。ただ痛かった。
びっくりしたけど、その瞬間、奏人くんのこと考えた。
わたし死ぬのかな。
これで奏人くんの隣には、いられなくなるのかな。
そんなの奏人くん泣いちゃうよ――それは嫌だなって。
ごめんね奏人くん。
どうしよう、ごめんね。
わたしのせいで泣かせてごめんね。
奏人くんが泣くぐらいなら、わたしのこと忘れてほしい。
そう思った。
だって、わたし笑ってる奏人くんが大好きだから。
わたしのことは、もう忘れてよ。
そうしたら奏人くんは幸せになれるから。
ねえ、わたしとの思い出なんか捨ててね。
奏人くんは、ずっと笑っていて。
お願い。
お願いだから。
……死ぬとき、わたし、誰かにそう言えたのかもしれない。その人が奏人くんに伝えてくれたのかもしれない。
だって奏人くん、このお皿を手放したもの。
だけど、さびしいんだ。
わたし死んだんだよね。
なのにどうしてここにいるの。
どうしてさびしいの。
わたしだって奏人くんと生きていたかった。
いきなりお別れだなんて嫌だった。
それに、言い忘れたの。
今までありがとう、て。
もういちど言いたいの。
大好き、て。
伝えたいな、奏人くんに。
そう思うとつい、泣いちゃって。
だめね、奏人くんには泣かないでって思うくせに、自分はすぐ泣くなんてずるいなあ。
でもわたし、やっぱり奏人くんのこと大好きなんだもの――。
✶ ✶ ✶
「なら伝えればいいよ」
未知花は鼻をすすりながら言った。見えない彩葉に向けた言葉だ。
「奏人くんのスマホ、番号教えて。ショートメール送ってあげる」
「なんだそりゃ」
志賀はきょとんとしていたが、彩葉の幽霊が軽く息をのむのがわかった。
奏人が店で書いた住所と電話は彩葉のものだったそう。そして彩葉も、奏人の電話なんてそらんじている。
付喪神の力は不思議ですごいけど、それだけじゃできないことがある。
だから未知花の知識と現代ツールで協力するんだ。
ただの女子高生の未知花が幽霊を救ってあげられるなら――こんなに素敵なことはないよね?
✻ ✻ ✻
次の朝。
夏休みを鬱々と過ごしていた深山奏人は、スマホの通知で飛び起きた。
アンティーク〈宵待堂〉です
彩りの葉のお皿は、まだ売れていません
お客さまへの伝言をお預かりしています
「今までありがとう」
「大好き」
とのことでした
送信元は、もちろん未知花だ。
既読になったのを確認し、すぐに削除する。誰からのメッセージなのか詮索されては困るから。
これを見たら、奏人はどうするだろう。
皿を買い戻しに来てくれるといいな、と未知花は他人事ながらドキドキした。
思い出を整理するのはそんなに簡単なことではないと未知花は知っている。母の形見にすがりつくように生きてきた未知花だから。
だから。
急いで忘れなくてもいいと伝えたかった。
苦しいのなら、まだ抱えていてもいいじゃないかと背中を押したかった。
自分が、そう信じたいから。未知花は母を忘れたりはできない。絶対に。
「相手、きっと来るぞ」
スマホを操作し終えた未知花の隣で志賀が無責任な発言をした。
「わからないでしょ」
「いいや。男はな、惚れた女をすぐに諦めたりできやしないのさ」
口調はいたずらっぽかったけれど、まなざしは熱く未知花をとらえている。思わず鼓動が速くなって、未知花はちょっと困った。
どうしよう、私、この人のこと好きになったりするの? わけのわからない付喪神なのに。
自分の気持ちにとまどって、未知花はわざとツーンと横を向いた。
「またそんなことばっかり。私のどこがいいのよ」
「……こうして見知らぬ幽霊のために頑張るところ、とか?」
「それは……あなただってそう」
「お、俺たち気が合うな。あとは、物を大事にするところ。てことはつまり思い出とか人の心とかを大切にしてるってことだろ。未知花は他人のことを思いやれるんだよ」
あまりにがっつり分析された。ほめられて、未知花はどんな顔をすればいいかわからなくなる。
「私、そんないい人じゃないよ……気持ちの踏ん切りがつかなくて、しつこいとも言えるでしょ」
「それでいいだろ、〈宵待堂〉の子なんだから」
「……どういうこと?」
アンティークショップ〈宵待堂〉。
そういえば店の名の意味など考えたことがない。
「なんでこの店〈ヨイマチ〉なんだろ、て思ったことはある。マツヨイグサって花はあるけど」
「ヨイマチってのは、昔の詩人で絵描きが作った唄からだろうな。待っても待っても来てくれない人を想い続ける、ていう」
「ふうん……」
「古い道具には、人の想いがこもってる。大切にされてきた物によく似合う店の名だと、俺は思うぜ」
「そう、だね」
たくさんの人の手を経てここにたどり着いたアンティークたち。ただの道具ではなく、誰かの心がこもったものなのだ。
それに〈宵待堂〉の名は、奏人を想い続ける彩葉の気持ちにもぴったりで――。
「俺も、待ってるよ。未知花を」
「ちょっ……!」
しんみりしていたら志賀の告白をブチこまれた。隙あらば、というやつだ。
油断していた未知花はうっかり頬を赤らめてしまい――それを見て、志賀はなんだか嬉しそうだった。
✻ ✻ ✻
それからすぐ、奏人は〈宵待堂〉にあらわれた。未知花は店に出て行かなかったが、紅葉の絵皿を買い戻したいと頭を下げて申し出たそうだ。
売値と同額で返そうと祖父は言った。なので取り引きそのものがなかったことになる。
そして不思議なショートメールのことは、怪訝な顔の祖父相手に奏人が根掘り葉掘りできず、うやむやになった。
店を出る彩葉がつぶやいた言葉は、根津が聞いていて伝えてくれた。
「奏人くんがわたしを忘れないでいてくれて、やっぱり嬉しいの。〈宵待堂〉のみんな、ありがとう」
だそうだ。女心は揺れ動くねえ、と根津はクスクス笑っていた。
チラ、と未知花に視線をくれたのはたぶん、「未知花ちゃんの気持ちだってどう動くかわからないんだよ」という意味だと思う。
そんなのわかっているけれど。
まだまだ未知花には解決しなければならないことが山積みだから。
恋なんて、している場合じゃない。
「長々お世話になりました!」
夏休みも残り少なくなり未知花は自宅に帰ることになった。ちょっと、いや、かなり憂鬱だけど仕方ない。
「別に、ここはおまえの家みたいなもんだ。いつでも来い」
「ありがと、お祖父ちゃん」
「本当にそうよ。なんならうちの聖のお嫁さんになっちゃいなさいよ。未知花ちゃんなら大歓迎だわ」
「伯母さん、何言ってるの!?」
今日はサークルの用事があるとかで聖はいない。それをいいことに息子をネタにする伯母に未知花は慌てた。
「聖だって未知花ちゃんのこと満更でもないと思うのよねえ」
平然と言われ、未知花は笑ってごまかした。
「まずは進路、ちゃんと決めなくちゃ」
「そうしなさい。相談があれば電話してこい」
祖父と伯母に見送られ、未知花は北鎌倉駅から電車に乗った。その隣には、当たり前の顔であらわれた志賀がいたりする。
「ねえ、なんで今日は着物じゃないの」
「今風は嫌いか? おまえと並ぶならこの方が似合いだと思ったんだが」
志賀はダークブラウンのパンツとグレーのTシャツだ。後ろに束ねた髪は変わらないけど、この格好だとちょっとチャラいお兄さんになる。でも……正直いうと、素敵だと思ってしまった。悔しい。
未知花は黙って足もとのスーツケースを見下ろした。母の形見を祖父の家に置いてきたので軽くなっている。持って帰るのは、勉強道具と着替え、それから信楽焼の茶碗だけだ。
「俺を連れて帰ってくれて、ありがとうな」
「歩いて追いかけるとか脅すからでしょ」
「脅しじゃなく、本気だぜ」
「そんなことされて迷子になられたら茶碗もどこかに行っちゃうじゃない。むちゃくちゃ言うんだから」
未知花はむすぅ、と唇をとがらせた。
出発前、信楽焼も祖父に預けてしまおうかと迷った。だけど志賀は「絶対おまえから離れない」とゆずらないのだ。
みずから茶碗を抱えて後を追うとまで宣言されても、無一文の志賀には歩くしかできない。そんなことさせられるわけがなかった。
「家ではおとなしくしててね」
「わかってる」
余裕ありげに微笑む志賀は、世間の基準で見てもなかなか男前なのかもしれない。近くに立っていた女性たちがチラチラと視線を送ってきては何かささやきあっていた。
地味な高校生の未知花では、志賀に釣り合わないのではないか。
その気持ちは、自宅の最寄り駅で降りても強まるばかりだった。なんとなくいつもより道行く人から見られている気がして落ち着かない。
ひょいとスーツケースを持ってくれた志賀に、こそっとお願いした。
「もう茶碗に戻ったら? 知り合いに会っちゃったら困るし」
「そんなの先輩って言っときゃだいじょうぶなんだろ?」
「根津さんはそういうことにしたけど」
何か根にもっているのだろうか。言い方にトゲを感じる。
志賀は本当にヤキモチ焼きだ。他の男性と話しただけでウジウジする。
根津が付喪神仲間だから? いや、人間の聖にもうるさく言うし。
「あっれー、お姉ちゃん!?」
未知花はギクリと立ちどまった。
横のコンビニから出てきて大声をあげたのは義理の妹の萌奈だった。面倒な子に見られたな、とげんなりする。
「帰ってきたんだあ、ふうん」
「今日帰るって連絡してあったでしょ」
「そうだけど。あれ、この人お姉ちゃんの友だちなの?」
微妙に嫌味っぽかった声が、志賀を見てあらたまった。未知花のスーツケースを持って立っている志賀にやっと気づいたらしい。一気に笑顔が愛想よくなった。
「こんにちは、妹の萌奈でぇす」
きゅるん、と挨拶され未知花はため息をかみ殺した。
萌奈とはあまり外で話すこともなかったけど、男性相手だと態度が変わるタイプの子だったのか。なんだか納得した。
「未知花の妹のことは知ってるよ」
鼻で笑って、志賀は言った。未知花の部屋に忍び込んで棚をあさっていた萌奈を至近距離で見ているのだから、めちゃくちゃ知っているのだ。
「ええー、お姉ちゃんたら、何を言ったんですかぁ。変なこと教えられてたらどうしよう」
「何も聞かなくても、男に媚びるような女なのは見りゃわかる。子どものくせに育ちが悪いぜ」
志賀は必要以上に大きな声でしゃべった。周りから好奇の視線が寄せられ、萌奈はぷるぷる震えると早足で逃げ出した。
「おし、行こう」
「ちょっと、あんな言い方」
平気な顔で歩き出す志賀に、未知花は慌てて追いついた。地元で妙に目立ってしまうのは困るんだけど。
「駄目だったか?」
「う……スカッとは、した。正直」
「ならよかった」
屈託なく笑われて、未知花も苦笑いしてしまった。
もういいか、この町からは半年ぐらいしたら出て行く予定だし。受験がうまくいったらだけど。
「ありがと」
はにかみながら礼を言ってみる。未知花が言えないことをビシリとぶつけてくれたのだから、それぐらいは。
「水くせえことはいい。俺と未知花の仲だからな」
「どういう仲よ、まだなんでもないでしょ」
「お、まだってことは、これからがあるって期待していいんだな」
「そ、それは……!」
もごもご。
未知花は盛大に口ごもった。
そんなの、わからない。
でも志賀のことは……もしかしたらもう好きなのかもしれなかった。
ああ、好きってどんなだろう。
誰にも相談できないよね、付喪神との恋なんて。
未知花はすこし照れながら、家に向かって無言で歩いた。志賀も黙って隣にいてくれる。
――この付喪神との間に始まるかもしれない、恋。
そんな予感に未知花の心臓はトクンと鳴った。
この記録は、品物に問題があった場合に取り引き履歴を追えるようにするためのもの。氏名だけでなく住所も書きとめられていて、未知花は今そこに向かっている。
隣にいるのは付喪神の志賀――ではなくて、従兄弟の聖だった。だって茶碗から姿をあらわさないんだもの。
「私まで行かなくてもよくない?」
「いいだろ、息抜きだよ。最近すごく真面目に勉強してたらしいじゃないか」
「受験生だもん……」
それだけではない。志賀のことを頭から追い払うために集中していたのだ。でもそんなこと聖には言えなかった。
アンティークショップで夜ごと泣く紅葉の皿。
そんな怪談を伯母から聞いて、聖はとても面白がった。そして、どんな事情があって皿を手放したのか取材しに行こうと未知花を連れ出したのだ。
でもそれは、夏休みなのだから少しぐらい遊べばいいという未知花への気づかいかもしれない。義理の母や妹とはうまくいかなくても、せめて祖父の家にいるあいだは楽しく過ごせるように。
二人は電車に一駅だけ乗り、鎌倉で降りた。
暑さの中でも駅前の小町通りは人通りが多い。でも目指す住所は線路の反対側だそう。
「私、住所だけじゃぜんぜんわからない」
「そうだろな。地元民にまかせとけ」
鎌倉はたいして大きな町ではない。だけど低い山と谷戸が入り組んでいて、細い道がななめに走る。曲がり角をひとつ間違えるとまるで別の場所にたどり着くことになりかねないのだった。
「ほんと言うと、電車を使わずに裏山越えて来る道のが近いんだけどさ」
「そうなの?」
「真夏に女の子にやらせることじゃないと思ってやめた」
「……ありがと」
そういえば〈宵待堂〉から谷戸に入った先にハイキングコースがあった。小さいころ歩いた気がするが、それのことだろう。
たしか木立の茂る、なだらかな山道だった。聖にとってはなんでもない。でもこの気温では未知花など倒れるかもしれなかった。
「しっかし暑すぎるな。帰りにかき氷食べるか? それともアイスのクレープとか、冷やしわらび餅とか」
「んー、ぜんぶ食べたい!」
「ばーか、腹こわすぞ。そのうち連れてってやる――だから大学、こっちから行けるとこにしろよ」
聖がさりげなく言い、未知花は立ちどまりそうになった。
「……うん」
「おし。がんばれ」
――未知花を支えてくれる人たちが、この町にはいる。何も気にせず頼れと言ってくれる人たちが。それに甘えてしまっていいのかな。
親との関係で悩むなんて未知花はなんて子どもっぽいのだろう。聖だって、たった二歳しか違わないのに全然かなわない気がした。
「聖くんて、大人だなあ」
「お、今さら俺の魅力に気づいたか」
「昔からカッコよかったよ。高校の時とかモテてたんでしょ。伯母さんから聞いてたもん」
明るいスポーツマンの聖は伯母の自慢だ。部活の県大会の成績や、体育祭での活躍、バレンタインチョコの数などいろいろ聞かされた。
「でも伯母さん、成績はともかく、て話をしめるんだよね」
「どうせ頭はよくないよ、悪かったな」
聖はしかめっ面をしてみせた。
――だがこの直後、二人はそろって狐につままれたような顔をすることになる。
訪ねた住所には「深山」という家はなかったのだ。念のため近隣を探しても、通りがかった人に訊いても見つからない。
「偽の住所を書かれたってこと……?」
実は出かける前に、住所と一緒に記載されていた携帯電話には連絡していた。だがつながらなかったのだ。スマホの電源が落ちているなんてよくあることだし、気にせず来てみたのだが。
「家も電話も、嘘なのか……」
眉をひそめた聖がつぶやいた。たぶん、そういうことなのだろう。
そこまでしてあの皿との縁を切りたかった売り主。
いったい何があったのか、未知花はむしろ気になり始めてしまった。
✻ ✻ ✻
かき氷はおごってもらったが、それ以外はなんの成果もなく未知花は帰宅した。
てん末を祖父に報告すると苦笑いされた。皿を売りに来た男は、高校生なので身分証明書がないと言い張ったそうだ。免許もないし休日に学生証は持ち歩いていない、と。
さらさらと何も見ずに書けるのは自宅ぐらいだろうし、高価な品でもないので黙認したのだった。
「そりゃやられたな」
でも祖父は気にしていないようだった。
犯罪がらみでないなら問題はない。売れない皿の一枚や二枚は放っておけと言われたが、幽霊もそのままでいいのだろうか。肝がすわっている。
二階に上がり部屋のふすまを開けた未知花は、息をのんだ。窓辺でぼんやりしている志賀がいたのだ。
志賀はゆっくり未知花に目をくれると、はにかんだように笑った。
「おかえり」
「びっくりした……ずっと出てこないし、どうしてるかと思ってた」
「ああ悪い、茶碗に戻ったままで何日経ったかな。未知花のこと考えてただけだったんだが」
「え?」
「おまえに言われたからさ……」
志賀は照れくさそうに未知花に向き直った。
「俺は昔から未知花のことよく知ってたろ。人の姿で未知花に会えて、恥ずかしい話だが舞い上がってたんだ。でもおまえにしてみりゃ気持ち悪かったよな。すまん」
いきなり常識的な謝罪をされて、むしろびっくりした。
「未知花が知ってる俺は、ただ様子のいい茶碗だ。大事に使われている焼き物としての距離感を、この姿でも求めるのはいけねえよ。そこんとこ俺は間違えてた」
「あ……わかってくれたなら、いいよ」
抹茶茶碗と未知花の距離感。というのも変な言い方だけど。
それは手のひらにそっと包み、唇をつけ、という扱いのこと。
逆に志賀からやると、未知花を抱き寄せたり、となるわけで。うん、キスされなくてよかった。
未知花は深くため息をつき、畳にへたり込んだ。帰ったばかりであらたまった謝罪を受けるなんて、勘弁してほしい。
でも、安心した。
志賀が怒ったまま姿を消してしまったら、たぶんとても悲しかった。この人にはちょっとした行き違いぐらいでいなくなってほしくない。そう、何故か思った。
だが志賀は、きりっと真剣な面もちで未知花に宣言した。
「そういうわけだから、今後は未知花に俺を知ってもらい好感を高めるために努力するんで。よろしく」
「え?」
「え、じゃねえよ。未知花を俺に惚れさせてみせるってことさ」
未知花はポカンと志賀を見つめた。
何を言い出すの、この人。数日かけて考えたことがそれ?
志賀のことを好きになる未知花。そりゃ可能性はなくはないけど。
今だって、凛々しく見つめるまなざしに心臓はちょっと跳ねている。格好いいと最初から思っていたんだし。
でもこうも正々堂々と宣言されると、ロマンチックではないよね? ときめきとか夢とかを欲しがるのは我がままだろうか。
「どうした、疲れたのか」
「うん……ちょっと暑かった」
がっくり肩を落とした未知花を、志賀は心配そうにした。だけど手は伸ばしてこない。むやみにさわらない、ということは覚えたらしい。
「今日はどこ行ってたんだ?」
「……泣いてるお皿があったでしょ。その元の持ち主を探しに行ってみたの」
「そのままにしとくのは可哀想だもんな。さすが、未知花はやさしいぜ」
「いやまあ、聖くんが連れてってくれたんだけど」
やさしいだなんて真っ直ぐにほめられると照れてしまう。言い訳したら、悲しげにされた。
「あいつと……二人で?」
「うん」
「ちくしょう、逢引みたいなことを」
「あいびき」
それはデートのこと。志賀の手がうずうずとする。でも未知花を抱き寄せるのは我慢し、ぐっと膝をつかんだ。
「あいつ、未知花に惚れてんのか」
「いやいやなんで? 従兄弟だってば」
「従兄弟なら、結婚だってできるだろ」
「結婚!」
話が飛びすぎて未知花は笑いこけてしまった。でも志賀は大真面目だ。
「いつおまえに虫がつくかわからないからな……焼きもちは焼くぞ、俺は」
「私がそんなモテるわけないでしょ。考えすぎだよ」
「いいや、未知花みたいな可愛い女、誰にさらわれるかわからねえ。その泣いてる皿だって、まだ高校生なのに大恋愛してるしさ」
「え……?」
事情をわかっているかのように志賀が言い、未知花は目をまるくした。
✻ ✻ ✻
紅葉のお皿に憑いているのは、高校生の少女だと志賀は教えてくれた。
夜中にそっと話してみたのだそう。泣いている理由が気になるし、未知花に怖がらなくていいと言った手前、人柄を確かめねばと思ったらしい。妙に律儀で未知花は笑ってしまった。
「……未知花も話してみろよ。ほんとに怖くないってわかるぞ」
「え。だって……あなたの力をもらうには」
キスしなければならない、と前に言われた。そんなのできないよ。
「あーええと、ちょっと声を聞くぐらいなら耳に息を吹くぐらいでいける。かもしれねえ」
「はあ?」
話が違う。未知花がじと目で見ると、志賀はばつが悪そうにした。
「だってよぅ……惚れた女の口づけが欲しいと思っちゃ悪いか?」
「嘘は悪いと思う」
「……だな。すまん」
惚れた女、なんて言われても流せるようになってきた自分に、未知花はこっそりため息をついた。
ちなみに今は夜だ。未知花が寝るのなら茶碗に戻ると志賀は申し出てくれたが、その前に名残を惜しまれ少しおしゃべりしている。
昼間の外出は無駄足だった。でも志賀はちゃんと幽霊のことを調べてくれていて、未知花の中の好感度はたしかに上がった。
まんまと乗せられている気がしなくもないが、未知花のためにいろいろ考えてくれるのは嬉しい。
「あ、ほら、またベソベソし始めたぜ」
「ほらって言われても」
「だから聞いてみろって」
「ううう……」
未知花だって、本当はとても気になる。
恋をしていたのに死んでしまった女の子。そしてお皿を売って消えようとした男の子。
「――わかった、お願い」
祖父も自室に引っ込んで静まりかえった家の中を、未知花と志賀はそろりそろりと店に降りた。
未知花の横から志賀が「失敬」とささやき、遠慮がちに耳に唇を寄せられた。キスよりましだけど、やられてみたらすごく恥ずかしかった。
ふ。
吹きかけられた吐息にジンとする。
――そして、女の子の声がした。
✶ ✶ ✶
――あなた、このごろここにいるけどお店の子なの? わたしと同い年ぐらいだよね。
いいなあ、元気で。
わたし、いろは。
彩る葉っぱ、て書いて彩葉。このお皿みたいでしょ。
これはね、奏人くんとプレゼント交換したの。ううん、お土産交換かな、修学旅行の。
奏人くんは、わたしの彼……だった人。もう違うよね、わたしは死んじゃったんだから。
修学旅行でね、班が別々だったから約束したの。お互い内緒で、お土産を探して交換しようって。
相手のそばに、いつも自分がいるみたいに思える物を渡そうよって。
だからこのお皿を奏人くんにあげたんだ。わたしっぽい絵じゃない?
奏人くんからは、楽譜の模様のハンカチをもらった。奏人くんはピアノが上手いんだ。
ハンカチだから、かばんに入れておけばずっと一緒でしょ。すごく嬉しかった。
でもね、そのちょっとあとで、わたし事故にあったの。車にはねられたのかも。
ドン、てして。
何がなんだかわからなかった。ただ痛かった。
びっくりしたけど、その瞬間、奏人くんのこと考えた。
わたし死ぬのかな。
これで奏人くんの隣には、いられなくなるのかな。
そんなの奏人くん泣いちゃうよ――それは嫌だなって。
ごめんね奏人くん。
どうしよう、ごめんね。
わたしのせいで泣かせてごめんね。
奏人くんが泣くぐらいなら、わたしのこと忘れてほしい。
そう思った。
だって、わたし笑ってる奏人くんが大好きだから。
わたしのことは、もう忘れてよ。
そうしたら奏人くんは幸せになれるから。
ねえ、わたしとの思い出なんか捨ててね。
奏人くんは、ずっと笑っていて。
お願い。
お願いだから。
……死ぬとき、わたし、誰かにそう言えたのかもしれない。その人が奏人くんに伝えてくれたのかもしれない。
だって奏人くん、このお皿を手放したもの。
だけど、さびしいんだ。
わたし死んだんだよね。
なのにどうしてここにいるの。
どうしてさびしいの。
わたしだって奏人くんと生きていたかった。
いきなりお別れだなんて嫌だった。
それに、言い忘れたの。
今までありがとう、て。
もういちど言いたいの。
大好き、て。
伝えたいな、奏人くんに。
そう思うとつい、泣いちゃって。
だめね、奏人くんには泣かないでって思うくせに、自分はすぐ泣くなんてずるいなあ。
でもわたし、やっぱり奏人くんのこと大好きなんだもの――。
✶ ✶ ✶
「なら伝えればいいよ」
未知花は鼻をすすりながら言った。見えない彩葉に向けた言葉だ。
「奏人くんのスマホ、番号教えて。ショートメール送ってあげる」
「なんだそりゃ」
志賀はきょとんとしていたが、彩葉の幽霊が軽く息をのむのがわかった。
奏人が店で書いた住所と電話は彩葉のものだったそう。そして彩葉も、奏人の電話なんてそらんじている。
付喪神の力は不思議ですごいけど、それだけじゃできないことがある。
だから未知花の知識と現代ツールで協力するんだ。
ただの女子高生の未知花が幽霊を救ってあげられるなら――こんなに素敵なことはないよね?
✻ ✻ ✻
次の朝。
夏休みを鬱々と過ごしていた深山奏人は、スマホの通知で飛び起きた。
アンティーク〈宵待堂〉です
彩りの葉のお皿は、まだ売れていません
お客さまへの伝言をお預かりしています
「今までありがとう」
「大好き」
とのことでした
送信元は、もちろん未知花だ。
既読になったのを確認し、すぐに削除する。誰からのメッセージなのか詮索されては困るから。
これを見たら、奏人はどうするだろう。
皿を買い戻しに来てくれるといいな、と未知花は他人事ながらドキドキした。
思い出を整理するのはそんなに簡単なことではないと未知花は知っている。母の形見にすがりつくように生きてきた未知花だから。
だから。
急いで忘れなくてもいいと伝えたかった。
苦しいのなら、まだ抱えていてもいいじゃないかと背中を押したかった。
自分が、そう信じたいから。未知花は母を忘れたりはできない。絶対に。
「相手、きっと来るぞ」
スマホを操作し終えた未知花の隣で志賀が無責任な発言をした。
「わからないでしょ」
「いいや。男はな、惚れた女をすぐに諦めたりできやしないのさ」
口調はいたずらっぽかったけれど、まなざしは熱く未知花をとらえている。思わず鼓動が速くなって、未知花はちょっと困った。
どうしよう、私、この人のこと好きになったりするの? わけのわからない付喪神なのに。
自分の気持ちにとまどって、未知花はわざとツーンと横を向いた。
「またそんなことばっかり。私のどこがいいのよ」
「……こうして見知らぬ幽霊のために頑張るところ、とか?」
「それは……あなただってそう」
「お、俺たち気が合うな。あとは、物を大事にするところ。てことはつまり思い出とか人の心とかを大切にしてるってことだろ。未知花は他人のことを思いやれるんだよ」
あまりにがっつり分析された。ほめられて、未知花はどんな顔をすればいいかわからなくなる。
「私、そんないい人じゃないよ……気持ちの踏ん切りがつかなくて、しつこいとも言えるでしょ」
「それでいいだろ、〈宵待堂〉の子なんだから」
「……どういうこと?」
アンティークショップ〈宵待堂〉。
そういえば店の名の意味など考えたことがない。
「なんでこの店〈ヨイマチ〉なんだろ、て思ったことはある。マツヨイグサって花はあるけど」
「ヨイマチってのは、昔の詩人で絵描きが作った唄からだろうな。待っても待っても来てくれない人を想い続ける、ていう」
「ふうん……」
「古い道具には、人の想いがこもってる。大切にされてきた物によく似合う店の名だと、俺は思うぜ」
「そう、だね」
たくさんの人の手を経てここにたどり着いたアンティークたち。ただの道具ではなく、誰かの心がこもったものなのだ。
それに〈宵待堂〉の名は、奏人を想い続ける彩葉の気持ちにもぴったりで――。
「俺も、待ってるよ。未知花を」
「ちょっ……!」
しんみりしていたら志賀の告白をブチこまれた。隙あらば、というやつだ。
油断していた未知花はうっかり頬を赤らめてしまい――それを見て、志賀はなんだか嬉しそうだった。
✻ ✻ ✻
それからすぐ、奏人は〈宵待堂〉にあらわれた。未知花は店に出て行かなかったが、紅葉の絵皿を買い戻したいと頭を下げて申し出たそうだ。
売値と同額で返そうと祖父は言った。なので取り引きそのものがなかったことになる。
そして不思議なショートメールのことは、怪訝な顔の祖父相手に奏人が根掘り葉掘りできず、うやむやになった。
店を出る彩葉がつぶやいた言葉は、根津が聞いていて伝えてくれた。
「奏人くんがわたしを忘れないでいてくれて、やっぱり嬉しいの。〈宵待堂〉のみんな、ありがとう」
だそうだ。女心は揺れ動くねえ、と根津はクスクス笑っていた。
チラ、と未知花に視線をくれたのはたぶん、「未知花ちゃんの気持ちだってどう動くかわからないんだよ」という意味だと思う。
そんなのわかっているけれど。
まだまだ未知花には解決しなければならないことが山積みだから。
恋なんて、している場合じゃない。
「長々お世話になりました!」
夏休みも残り少なくなり未知花は自宅に帰ることになった。ちょっと、いや、かなり憂鬱だけど仕方ない。
「別に、ここはおまえの家みたいなもんだ。いつでも来い」
「ありがと、お祖父ちゃん」
「本当にそうよ。なんならうちの聖のお嫁さんになっちゃいなさいよ。未知花ちゃんなら大歓迎だわ」
「伯母さん、何言ってるの!?」
今日はサークルの用事があるとかで聖はいない。それをいいことに息子をネタにする伯母に未知花は慌てた。
「聖だって未知花ちゃんのこと満更でもないと思うのよねえ」
平然と言われ、未知花は笑ってごまかした。
「まずは進路、ちゃんと決めなくちゃ」
「そうしなさい。相談があれば電話してこい」
祖父と伯母に見送られ、未知花は北鎌倉駅から電車に乗った。その隣には、当たり前の顔であらわれた志賀がいたりする。
「ねえ、なんで今日は着物じゃないの」
「今風は嫌いか? おまえと並ぶならこの方が似合いだと思ったんだが」
志賀はダークブラウンのパンツとグレーのTシャツだ。後ろに束ねた髪は変わらないけど、この格好だとちょっとチャラいお兄さんになる。でも……正直いうと、素敵だと思ってしまった。悔しい。
未知花は黙って足もとのスーツケースを見下ろした。母の形見を祖父の家に置いてきたので軽くなっている。持って帰るのは、勉強道具と着替え、それから信楽焼の茶碗だけだ。
「俺を連れて帰ってくれて、ありがとうな」
「歩いて追いかけるとか脅すからでしょ」
「脅しじゃなく、本気だぜ」
「そんなことされて迷子になられたら茶碗もどこかに行っちゃうじゃない。むちゃくちゃ言うんだから」
未知花はむすぅ、と唇をとがらせた。
出発前、信楽焼も祖父に預けてしまおうかと迷った。だけど志賀は「絶対おまえから離れない」とゆずらないのだ。
みずから茶碗を抱えて後を追うとまで宣言されても、無一文の志賀には歩くしかできない。そんなことさせられるわけがなかった。
「家ではおとなしくしててね」
「わかってる」
余裕ありげに微笑む志賀は、世間の基準で見てもなかなか男前なのかもしれない。近くに立っていた女性たちがチラチラと視線を送ってきては何かささやきあっていた。
地味な高校生の未知花では、志賀に釣り合わないのではないか。
その気持ちは、自宅の最寄り駅で降りても強まるばかりだった。なんとなくいつもより道行く人から見られている気がして落ち着かない。
ひょいとスーツケースを持ってくれた志賀に、こそっとお願いした。
「もう茶碗に戻ったら? 知り合いに会っちゃったら困るし」
「そんなの先輩って言っときゃだいじょうぶなんだろ?」
「根津さんはそういうことにしたけど」
何か根にもっているのだろうか。言い方にトゲを感じる。
志賀は本当にヤキモチ焼きだ。他の男性と話しただけでウジウジする。
根津が付喪神仲間だから? いや、人間の聖にもうるさく言うし。
「あっれー、お姉ちゃん!?」
未知花はギクリと立ちどまった。
横のコンビニから出てきて大声をあげたのは義理の妹の萌奈だった。面倒な子に見られたな、とげんなりする。
「帰ってきたんだあ、ふうん」
「今日帰るって連絡してあったでしょ」
「そうだけど。あれ、この人お姉ちゃんの友だちなの?」
微妙に嫌味っぽかった声が、志賀を見てあらたまった。未知花のスーツケースを持って立っている志賀にやっと気づいたらしい。一気に笑顔が愛想よくなった。
「こんにちは、妹の萌奈でぇす」
きゅるん、と挨拶され未知花はため息をかみ殺した。
萌奈とはあまり外で話すこともなかったけど、男性相手だと態度が変わるタイプの子だったのか。なんだか納得した。
「未知花の妹のことは知ってるよ」
鼻で笑って、志賀は言った。未知花の部屋に忍び込んで棚をあさっていた萌奈を至近距離で見ているのだから、めちゃくちゃ知っているのだ。
「ええー、お姉ちゃんたら、何を言ったんですかぁ。変なこと教えられてたらどうしよう」
「何も聞かなくても、男に媚びるような女なのは見りゃわかる。子どものくせに育ちが悪いぜ」
志賀は必要以上に大きな声でしゃべった。周りから好奇の視線が寄せられ、萌奈はぷるぷる震えると早足で逃げ出した。
「おし、行こう」
「ちょっと、あんな言い方」
平気な顔で歩き出す志賀に、未知花は慌てて追いついた。地元で妙に目立ってしまうのは困るんだけど。
「駄目だったか?」
「う……スカッとは、した。正直」
「ならよかった」
屈託なく笑われて、未知花も苦笑いしてしまった。
もういいか、この町からは半年ぐらいしたら出て行く予定だし。受験がうまくいったらだけど。
「ありがと」
はにかみながら礼を言ってみる。未知花が言えないことをビシリとぶつけてくれたのだから、それぐらいは。
「水くせえことはいい。俺と未知花の仲だからな」
「どういう仲よ、まだなんでもないでしょ」
「お、まだってことは、これからがあるって期待していいんだな」
「そ、それは……!」
もごもご。
未知花は盛大に口ごもった。
そんなの、わからない。
でも志賀のことは……もしかしたらもう好きなのかもしれなかった。
ああ、好きってどんなだろう。
誰にも相談できないよね、付喪神との恋なんて。
未知花はすこし照れながら、家に向かって無言で歩いた。志賀も黙って隣にいてくれる。
――この付喪神との間に始まるかもしれない、恋。
そんな予感に未知花の心臓はトクンと鳴った。