――未知花。
やっと会えたな、未知花――。
眠っていると声が聞こえた。低くささやくような、やさしい声。
男の人だけど聞き覚えはない。
目を開けなくちゃと思ったけれど、眠くて眠くて無理だった。未知花はとろんとした夢の中にふたたび沈んでいく。
――だけど、とても幸せな気分だった。
✻ ✻ ✻
「貸してくれたっていいじゃない、お姉ちゃんのケチ!」
不機嫌に叫び、桜井未知花をにらんだのは義理の妹の萌奈だった。
三歳下の萌奈は中学三年生。意味のないわがままを言う年ごろではない。
これはきっと嫌がらせなのだ。未知花を困らせるための。
だって萌奈が貸せと言っている和装バッグは、浴衣で夏祭りに行くには大げさだ。中学生の浴衣姿なら可愛らしい巾着の方が似合う。
なのにわざわざ未知花の部屋に忍び込み、棚から勝手に取り出そうとするなんて。
見つけて止めた未知花だったが、盗みまがいの行動もケチという暴言も、きっとわざとなのだろう。
「これは駄目なの。お母さんの形見なんだって前にも言ったでしょ」
「何それ、どうせ私とママなんか家族じゃないわよ。ほんとお姉ちゃんてひどい! ねえママぁ!」
ほら、言いたかったのはこのセリフ。
父の再婚相手の連れ子が萌奈だ。彼女はたぶん、被害者ぶりたいだけだと思う。血のつながりのない姉に歩み寄り、甘えてみたのに突き放された、と。
「なあに未知花ちゃん。萌奈のおねだり、やっぱり聞いてあげられないの?」
呼ばれた義母が、わざとらしくため息をついた。
やっぱりも何も、断ったことを蒸し返す萌奈が悪いのに。そこはスルーなのか。
「これはちゃんとした着物の時に使うバッグだから、萌奈ちゃんの浴衣には似合わないって言ってるんです」
「萌奈が無知だってこと? だって私は未知花ちゃんのお母さんみたいに着物やお茶に詳しくないのよ。教えてあげられないのは仕方ないでしょ! 私のことまで馬鹿にするのね!」
そうきたか。うんざりしたのが顔に出てしまう。
そんな未知花を義母はいまいましげに見、萌奈をひっぱってプイっと出ていった。
父の再婚は二年前、未知花が高一で萌奈が中一の時だった。
女の子同士だし仲良くやるだろう、なんていう男親の見通しは甘くって、女同士だからこそうまくいかない場合だって多々ある。
未知花と萌奈はまさにそれだった。
セミロングの黒髪で、とりたてて美人でもない普通の女子高生。それが未知花だ。
服装は派手じゃなく、成績も運動も平均。そこそこ友だちがいて、クラスでは浮かないけど目立たない。
対して萌奈はおしゃれが好きだ。なんとか校則をかいくぐりアクセサリーや化粧を試したがる。とにかく、ちやほやされたいのだ。
それは別にどうでもいいけど、見栄っ張りで何かと人を見下したがるのが困りものだった。
形見のバッグを貸せというのも、未知花だけが良い物を持っているのが気に入らないのだろう。
バッグだけじゃない。未知花は着物を何枚かと、帯や帯留め、それに抹茶茶碗もいくつか実母から受け継いでいた。
それらは母が大切にしていた物。
ちゃらちゃらしてそそっかしい萌奈なんかに貸したら、きっと汚して返してくる。
未知花の母は、九歳の頃に病気で亡くなった。
実家が古物商――つまりアンティークショップをいとなんでいるということもあるのか、着物が好きで茶道をたしなむ人だった。
未知花にも教えてくれて、でもそれはどこかの流派で習ったとかじゃなかった。自己流の大らかなもの。
だから義母がネチネチ言うこともない。和服でお茶をたてるぐらい、今からだって独学でやればいいと未知花は思っている。でもそう言ったらまた嘘泣きでもされそうだ。
「めんどくさい……」
ちゃぽん。
湯船につかりながら、未知花はつぶやいた。
ぶくぶくぶく。
目の下まで沈んで鼻から泡を出してみる。子どもの頃みたいだ。母とのお風呂では、こうして遊んだっけ。
父は何故、義母なんかと再婚したのだろう。顔合わせした第一印象は悪くなかったのに、どんどん嫌味っぽくなってきた。
未知花を悪者にしたがる萌奈のせいなのかもしれない。実の娘を守ろうとして、未知花にとげとげしくなるのだ。
だけどそんなの、未知花のせいじゃない。
「やっぱり遠くの大学、受けようかな……」
これでも未知花は受験生だ。
だけど高三の夏休みにもなって志望校がしぼりきれない。それは家を出たい気持ちが抑えきれないからだった。
東京市部にある自宅から通える大学はたくさんある。地方の子からみれば、それだけでアドバンテージなのはわかっていた。
でも、こんな家にずっといるの?
できれば萌奈も義母もいないところに行きたい。
――未知花!
「え?」
名まえを呼ばれた気がして未知花はザバッとお湯から起き上がった。
耳の奥に聞こえた声は、男の人。なんだか焦ったふうに言いつのる。
――未知花もどれ! 早く来い――!
「なに、なに?」
家の中で発せられた声だとは思えなかった。洗面所のドアの外ではなく、未知花の頭の中で響く声。わけがわからなくて、ちょっと怖い。
「来い、てどこに――?」
とりあえず風呂からあがり、手早く体を拭いた。
パジャマを着て部屋に戻る。とくに変わったところはなさそうだった。
「なんだったんだろ……」
――棚を!
「きゃ!」
また声が聞こえて、未知花はとびあがった。
誰もいないのに、どういうこと。心霊現象ぽくてビクビクしたけど、とにかく棚を開けてみる。そうっとのぞくと。
「――あ」
すう、と胸の奥が冷たくなった。
母の和装バッグがない。
「まさか萌奈――?」
未知花が風呂に入ったすきに盗ったということだろうか。あれだけ言ったのに。
母の想い出を踏みにじられたような気がして、未知花は怒りながら泣きそうになった。
未知花は居間に行って、バッグが消えたと両親に告げた。
この時間は、帰宅した父もいる。昼間からの経緯を話し、萌奈の部屋を調べさせてくれと言ったら義母が目を吊り上げた。
「萌奈が盗んだみたいに言うのね」
「じゃあ外から泥棒が入ったんですか。警察呼ばなきゃ」
「待ちなさい未知花。妹のことだよ」
「お父さん私がおかしいって言うの? いちど勝手に持っていこうとしたんだもん、疑うのは当たり前でしょ!」
「貸せばいいだろう、家族なんだから」
どうして未知花の心が狭いみたいな話になるのだろう。くやしくて唇をかむ。
「家族だったら、人の物をとっていいの? 信用できなくしたのは萌奈ちゃんなのに!」
――未知花、部屋に!
また声が聞こえた。
未知花はハッとなって廊下に飛び出す。そうっと未知花の部屋のドアを開けて入ろうとしているのは萌奈だった。ハッと振り返る萌奈の手には、バッグ。
「ちょっと、どうしてそれ持ってるの? バレたから返そうとしたのね」
「――もう、なによ! お姉ちゃんのバーカ!」
萌奈はバッグを床に投げつけた。そして自室に逃げ込んでしまう。
「こら、萌奈!」
さすがに父が義理の娘をとがめる声を上げたが、萌奈はドアを開けない。だが未知花はそんなものにかまっていられなかった。廊下に転がったバッグを拾い、壊れていないか確かめた。角がへこんだ気がする。
「……も、やだ」
未知花はバッグを抱えてつぶやいた。
✻ ✻ ✻
「じゃあ行ってきます」
未知花の言葉に、義母は返事もしなかった。
大荷物をひきずり、未知花はひとり、駅へ向かう。これは父公認の家出だ。
行先は、北鎌倉にある母の実家。
そこでは祖父がアンティークショップ〈宵待堂〉をいとなんでいる。
萌奈があの調子では母の遺品を家になど置いておけない。そう主張したら父も渋々うなずいてくれた。
だから、すべて祖父の家に持っていくのだ。ガラガラと引いているスーツケースには着物や帯、茶碗が詰め込んである。
ついでにしばらく泊まっていけ。電話したら祖父はそう言ってくれた。夏休み中ずっと義母と萌奈と一緒にいるなんて嫌だったし、渡りに船で乗っかることにする。
なので背負ったリュックには着替えと勉強道具が詰まっていた。タブレットでできる通信教育の受験対策講座をとっているのでこういう時には助かるけど、さすがにちょっと重い。それに夏の陽射しが朝からきつかった。
「……暑い」
「ほんと暑っちいな」
ぼやいたら、いきなり横から話しかけられ未知花は小さく悲鳴を上げた。
振り向くと、そこにいたのは着物姿の男の人だった。まだ若い。二十代前半ほどに見えた。
背中まで伸びた黒髪を無造作に縛って、きりりとした雰囲気の人だ。
茶の着物、灰色がかった銀の帯。堂々とした立ち姿で悪っぽい雰囲気もあるけれど、未知花に向けるまなざしはとてもやさしい。
「ほら、荷物どっちか持ってやるぜ。両方でもいい」
「え、なん、なんですかあなた」
とまどう未知花だったが、気がついた。
この人の声は知っている。バッグが盗られそうなのを未知花に教えてくれた、あの不思議な声。
今日は声だけじゃなく人の姿がそこにある。だけど言うことはやっぱり変だった。
「俺はおまえの持ってる茶碗の付喪神さ。近ごろやっと百年物になったとこでね。娑婆に出られるってな、いいもんだな」
「つ、つくもがみ!?」
聞き慣れない言葉にとまどう。神さまなの、この人?
立ち尽くしていたら、ふ、と微笑まれ説明された。
付喪神というのは古い道具が魂を宿し姿を得たものだそうだ。
そうなるには九十九年とか百年とか、そのあたりが目安らしい。でも「俺が幾つかなんざ、数えてねえよ」と志賀は笑った。
あ、志賀というのは、この人を呼ぶ仮の名だ。だって信楽焼の茶碗が自分だと主張するから。
たしかに母の大事にしていた茶碗のひとつに信楽の美しい焼き締めがある。それは今も木箱におさまりスーツケースに入っていた。
「でも、そんなの信じられない……」
「なんでだよ。俺は未知花のことずっと見守ってたんだぜ」
志賀は愛おしげに未知花を見やった。つい照れてしまう。
どうしよう、わりと格好いいんだもん、この人。
「人の姿をとれるようになったのはこの間だが、もう何年も意識はあったんだ。未知花が俺を大事に包んで今の家に引っ越したのも知ってるし、あのトンチキな妹が無茶言ってキーキーわめくのも聞こえてた」
「とんちき?」
「ん? 最近は言わねえか? 悪いな、なにぶん古い男なもんで」
志賀はひょいと肩をすくめてみせた。
古い――たしかに、百歳ほどなら祖父より年上だ。生まれは昭和のはじめか、もしかしたら大正。この着物姿もそういうわけか。
「って納得しちゃ駄目でしょ、私!」
丸め込まれそうになり、未知花はパンと自分の頬を叩いた。そんなこと、あっさり信じられるもんか。
「なんでだよ納得しろよ――なあ未知花、これからは俺がそばにいる。俺におまえを守らせろ。なんてったって俺は、おまえの物なんだからな」
「ちょ、そんなこと言われても……」
すい、と手で頬に触れられる。これじゃ口説かれてるみたいじゃないの。
住宅地の道端だからそんなに人も通らないけど、朝っぱらから勘弁してください。顔を赤くした未知花は、消え入りそうな気分だった。
✻ ✻ ✻
そして。
未知花を守ると宣言した志賀は、はっきり言って役立たずだった。
だって駅に着いたら切符の買い方も知らないし、お金も持っていない。
――でも、不思議な存在だということはよくわかった。
電車賃が必要と聞き、志賀は「ちょいと姿を消すわ」と宣言した。
そして柱の陰に入ったら、もういなくなってしまう。探しても本当に見当たらないのだ。
未知花が首をひねりながら改札を抜けホームに行くと、こんどは自販機の向こうからヒョイと出てきてドヤ顔で笑われた。
改札を通る間だけごまかしたということか。非難する未知花の視線に志賀は、「だって俺の本体は茶碗だぜ」とスーツケースを指差した。
……なるほどそれなら仕方がない、これは無賃乗車ではないのだ。だって志賀は手荷物だから。
でもこの手荷物は、しゃべる。
そして未知花にベタベタする。
電車で並んで座ったら、つつい、と髪をひと房もてあそばれた。彼氏なんていたことがない未知花には、ちょっと刺激が強くて困る。
「なあ、爺さんの家に行くんだろ? このままあっちで暮らそうぜ。あそこなら俺が姿を見せててもいいんじゃねえか?」
「あそこって……お祖父ちゃんち、知ってるの?」
「うっすらとな。あっちにいたころ俺はまだはっきりした魂を持ってなかったが……未知花の母さんが俺を気に入って、この茶碗は売らないでって爺さんにねだったんだ。あの家には古い物がたくさんあって、付喪神だっていたと思う。今はどうだかわからないが」
「へえ……」
母の話が出て、未知花の胸がつまった。
そうか、志賀は母のことを知っているんだ。
「そりゃ知ってるさ。それに未知花のこともずっと感じてた――やっと会えたな」
「はあ……」
「他人行儀にすんなよ。俺のことを大事に大事にしてくれてただろ? そっと触れてくる指、柔らかい唇」
「ちょ、ちょっと! やめて!」
なんか言い方がやらしい。電車内で何を言い出すんだ。
本体の茶碗のことなら、たしかにその通りだけど。
だって大切な形見だもの。ていねいに扱っていたし、お茶をたてて飲む時は唇をつけるのがあたりまえ。
くりかえすけど、それは茶碗だからなの!
「なあ、爺さんちにいようぜ? 未知花だってあんな義理の家族と暮らしたくないよな」
「それは……でも無理だよ、今は夏休みだけど学校が始まる前に帰らなきゃ。北鎌倉からじゃ今の高校に通えないもん」
「ああ、学校……いや、おまえ大学をどうするかって悩んでたろ。それはまだ先のことなのか」
「なんで知ってるの」
「未知花が言ったんじゃねえか。聞こえてたぜ」
「……部屋で言ったひとりごと、聞いてたの? ぜんぶ?」
未知花はサァ、と青ざめた。
部屋の棚の中にいたという、茶碗の付喪神の志賀。それはいろいろ聞こえてしまうだろうけど――。
「ヘンタイ」
未知花はボソリとつぶやいた。
だってだってだって。
女の子のプライバシーをなんだと思ってるのよっ!
✻ ✻ ✻
北鎌倉は小さな駅だ。
電車を降りたその瞬間、人目を避けてかがんだ志賀は、足もとでそのままかき消える。目の前でやられて、さすがに未知花はビクンとした。
何故そんな強硬手段をとったかというと、ホームの端がそのまま改札だから。この駅には隠れる場所もない。
こじんまりと可愛い駅舎は未知花のお気に入りポイントでもあるけど、志賀にとっては困りものみたいだった。
「おーい、未知花!」
乗ってきた電車が行ってしまうと、開いた踏切の向こうで手を振る人がいた。
「聖くん!」
「迎えに来たぞ、荷物あるって聞いてさ」
さわやかな笑顔を向けてきたのは、従兄の山之内聖だった。母の兄の、息子。二つ年上の大学生だ。
祖父と同居しているわけではないが、伯父一家は〈宵待堂〉の近所に住んでいる。伯母は店員としてもアンティークショップを支えてくれていた。
線路を渡るのに未知花がガタつかせたスーツケースを聖はひょいと持ち上げる。高校までバレーボールをやっていた聖は、背も高いし腕力もあるのだ。
「こっちだけでいいのか? リュックも持つぞ」
「いいよ、電車では座ってこれたし疲れてないもん」
聖になら、未知花も素直に甘えスーツケースを任せられる。
母と伯父は仲が良く、おかげで小さいころは聖にしょっちゅう遊んでもらっていた。ひとりっ子だった未知花にとって、聖はいちばん身近な男性かもしれない。
「なんだか未知花、たいへんだったんだってな。祖父ちゃん怒ってたぞ」
「怒ってた?」
「そりゃそうだ。未知花が自分の家で孤立するなんておかしいよ。叔母さんの形見をそっくり移動させるなんて相当なことだし、その再婚相手と娘、地雷だなあ」
歩きながら聖に言われ、未知花は胸のつかえが取れたような気がした。
未知花は悪くないと言ってもらえて、とても嬉しい。自分ではそう考えてがんばっていたけれど、ずっと誰かに同意してもらいたかったのだ。
さっき志賀は未知花を受けとめてくれた。それは嬉しい。
でもだってほら、不思議な存在だから。人間の尺度とは感覚が違うかもしれないし、ちょっと信用しきれない。
そういえば志賀が隠れたままだな、と未知花はスーツケースに視線をやった。
本体の茶碗に戻っておとなしくしているのだろうか。ひょいひょいと人間の前にあらわれて「付喪神だ」とか名乗られても困るけど。
志賀は〈宵待堂〉でなら姿を見せていてもいいだろうなんて言っていたが、たぶん駄目。
祖父だって付喪神と同居はしていないと思うんだよね。
✻ ✻ ✻
北鎌倉は、観光客であふれる隣駅の鎌倉に比べると静かな町だ。
お寺さんも多いし、紫陽花の季節には人が押し寄せる。だけど真夏の陽が降る今は、道もすいていた。
有名行楽地を避けた客を相手にする、ツウでしゃれた店々がひっそりたたずむ町並み――そのひとつが〈宵待堂〉。
「あらあら未知花ちゃん、いらっしゃい」
古民家のような店がまえの引き戸を開けると、ほがらかに迎えてくれたのは店を手伝う伯母だった。
ほの暗い店内には和洋のアンティーク家具や民芸品が並び、壁には額や掛け時計がひしめいていた。梁にぶらさがるランプには幾つか灯りがともる。奥の棚には陶磁器や漆器、鎌倉彫の盆などがそっと眠っていた。
「来たか未知花。聖もご苦労さん」
目を上げた祖父は、未知花が入っていっても店の奥に座ったままだった。
眼鏡をかけ、何やら細かそうな書き物に目を通している。扱う品物に関する文献だろうか。深い知識がないとできない仕事なのだと、誇らかに教えられたことがあった。
「お祖父ちゃん、私が泊まる部屋は?」
「二階のいつものところでいい。俺は仕事中だから勝手にしてろ」
ぞんざいに扱われても、祖父が未知花を嫌っているのではないと何故か伝わる。聖も笑って部屋に荷物を運び上げてくれた。
「夕飯、うちで食ってもいいって母さんが言ってたけど」
「だいじょうぶ、ご飯ぐらい作るよ」
「そっか? だけど勉強もしろよ、受験生」
「わかってるよー、だ」
帰っていく聖を送り出して部屋に戻ると、畳に志賀があぐらをかいていてギョッとした。出てきたのか。
他の人がいる前で隠れていてくれたのはありがたいけど、ふくれっ面なのは何故だろう。
「未知花、あの男はなんだ。やたら馴れ馴れしいな」
「聖くん? だって従兄弟だもん。ちっちゃい時から遊んでたし……」
スーツケースを開けながら適当に返事した。持ってきた着物を広げ、衣紋掛けで吊るす。ついでに風にあてよう。
「おまえには俺がいるって言ってるだろ。従兄弟なんか」
「は?」
聖は今日会ったばかりの志賀などより、ずっと長い付き合いだ。なのにものすごく不満そうにされた。志賀はムスッとしたまま近づいてきて、いきなり未知花を抱きすくめる。
「――っ!」
「未知花……俺はおまえのものだって意味、わからないか?」
すっぽりと腕に包まれ、引き締まった胸に顔がうずまった。そんな状態で未知花に何をわかれと。
耳もとでささやかれた吐息だけで未知花にはキャパオーバーだった。未知花がもがいたら少し腕をゆるめたものの、放してはくれない。
「おまえは俺を手に入れてる。俺にも、お前を手に入れさせろ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
未知花は耳までホテホテになって叫んだ。小声でだけど。
「なに、手に入れるって、どういうこと」
「契約さ」
志賀は平然と答えた。
「俺が魂をかたちづくるあいだ、そばにいたのは未知花だ。そしておまえは俺に願った。『そばにいて』と」
「そんな願いごと……」
――したかもしれない。
記憶をたどり、未知花は青ざめた。
義理の家族ができて、心細くて。母の遺品にすがるように涙をこぼしたことがあった。あれのことだろうか。
「俺はそれに応えたんだ。だから俺と未知花は特別につながってるのさ。俺が姿を見せてなくても、少し離れていても、未知花には声が聞こえるだろ?」
「あ、お風呂で聞こえた声って」
そういうことだったのか。と、志賀がするりと腕をほどく。ちょっと未知花からそむけた顔が照れていた。
「風呂のことは言うなよ。あんな時に話しかけるのは俺もためらったんだが……」
「え、やだ、声だけじゃなくて見えちゃったりするの!?」
「見ねえよ!」
後ずさり、胸を抱いて身がまえた未知花に志賀は傷ついた顔をする。真剣なまなざしで訴えられた。
「そんなことしない。興味はあるが、そこを勝手に踏み越えたら付喪神としての矜持ってもんが台無しだろ」
「いや興味あるって言っちゃってるじゃない」
未知花がますます体をちぢこまらせると、志賀はブスッとして開き直った。
「あたりまえだ。好きな女の風呂に興味ねえ男がいたら連れてこい」
「す、き」
真正面から告白されて未知花は硬直した。
これまで恋愛なんてしてこなかった未知花には、なかなかの直球攻撃。
でも風呂をのぞきたいのは当然とか、言われた内容は夢がなくて泣きそうだ。言い返す声が弱々しくなった。
「好き、とか簡単に……私の何を知ってるの」
「いろいろ知ってるぜ、ずっとそばにいたって言ってるだろ。こんなに可愛く育ってくれて契約のしがいがあるってもんさ」
大真面目な志賀の言葉に未知花はたじたじだった。可愛いって、そんな。
未知花のこと、妙なフィルターでもかかって見えてるんじゃないだろうか。その契約とやらのせいで。
「ええっとね、これからクーリングオフとか、できません?」
「食う林檎? なんだそりゃ」
志賀には新しめの言葉がわからないらしい。あせりながら未知花は言い直した。
「だから、契約の解除ってこと」
「どうしてだよ。俺は未知花がいいから願いに応えたんだぞ。軽い気持ちじゃないから安心しろ」
「安心って、そうじゃなくて……」
駄目だ、用語だけじゃなく話が通じない。未知花は困り果て、畳にへたり込んでしまった。
やっと会えたな、未知花――。
眠っていると声が聞こえた。低くささやくような、やさしい声。
男の人だけど聞き覚えはない。
目を開けなくちゃと思ったけれど、眠くて眠くて無理だった。未知花はとろんとした夢の中にふたたび沈んでいく。
――だけど、とても幸せな気分だった。
✻ ✻ ✻
「貸してくれたっていいじゃない、お姉ちゃんのケチ!」
不機嫌に叫び、桜井未知花をにらんだのは義理の妹の萌奈だった。
三歳下の萌奈は中学三年生。意味のないわがままを言う年ごろではない。
これはきっと嫌がらせなのだ。未知花を困らせるための。
だって萌奈が貸せと言っている和装バッグは、浴衣で夏祭りに行くには大げさだ。中学生の浴衣姿なら可愛らしい巾着の方が似合う。
なのにわざわざ未知花の部屋に忍び込み、棚から勝手に取り出そうとするなんて。
見つけて止めた未知花だったが、盗みまがいの行動もケチという暴言も、きっとわざとなのだろう。
「これは駄目なの。お母さんの形見なんだって前にも言ったでしょ」
「何それ、どうせ私とママなんか家族じゃないわよ。ほんとお姉ちゃんてひどい! ねえママぁ!」
ほら、言いたかったのはこのセリフ。
父の再婚相手の連れ子が萌奈だ。彼女はたぶん、被害者ぶりたいだけだと思う。血のつながりのない姉に歩み寄り、甘えてみたのに突き放された、と。
「なあに未知花ちゃん。萌奈のおねだり、やっぱり聞いてあげられないの?」
呼ばれた義母が、わざとらしくため息をついた。
やっぱりも何も、断ったことを蒸し返す萌奈が悪いのに。そこはスルーなのか。
「これはちゃんとした着物の時に使うバッグだから、萌奈ちゃんの浴衣には似合わないって言ってるんです」
「萌奈が無知だってこと? だって私は未知花ちゃんのお母さんみたいに着物やお茶に詳しくないのよ。教えてあげられないのは仕方ないでしょ! 私のことまで馬鹿にするのね!」
そうきたか。うんざりしたのが顔に出てしまう。
そんな未知花を義母はいまいましげに見、萌奈をひっぱってプイっと出ていった。
父の再婚は二年前、未知花が高一で萌奈が中一の時だった。
女の子同士だし仲良くやるだろう、なんていう男親の見通しは甘くって、女同士だからこそうまくいかない場合だって多々ある。
未知花と萌奈はまさにそれだった。
セミロングの黒髪で、とりたてて美人でもない普通の女子高生。それが未知花だ。
服装は派手じゃなく、成績も運動も平均。そこそこ友だちがいて、クラスでは浮かないけど目立たない。
対して萌奈はおしゃれが好きだ。なんとか校則をかいくぐりアクセサリーや化粧を試したがる。とにかく、ちやほやされたいのだ。
それは別にどうでもいいけど、見栄っ張りで何かと人を見下したがるのが困りものだった。
形見のバッグを貸せというのも、未知花だけが良い物を持っているのが気に入らないのだろう。
バッグだけじゃない。未知花は着物を何枚かと、帯や帯留め、それに抹茶茶碗もいくつか実母から受け継いでいた。
それらは母が大切にしていた物。
ちゃらちゃらしてそそっかしい萌奈なんかに貸したら、きっと汚して返してくる。
未知花の母は、九歳の頃に病気で亡くなった。
実家が古物商――つまりアンティークショップをいとなんでいるということもあるのか、着物が好きで茶道をたしなむ人だった。
未知花にも教えてくれて、でもそれはどこかの流派で習ったとかじゃなかった。自己流の大らかなもの。
だから義母がネチネチ言うこともない。和服でお茶をたてるぐらい、今からだって独学でやればいいと未知花は思っている。でもそう言ったらまた嘘泣きでもされそうだ。
「めんどくさい……」
ちゃぽん。
湯船につかりながら、未知花はつぶやいた。
ぶくぶくぶく。
目の下まで沈んで鼻から泡を出してみる。子どもの頃みたいだ。母とのお風呂では、こうして遊んだっけ。
父は何故、義母なんかと再婚したのだろう。顔合わせした第一印象は悪くなかったのに、どんどん嫌味っぽくなってきた。
未知花を悪者にしたがる萌奈のせいなのかもしれない。実の娘を守ろうとして、未知花にとげとげしくなるのだ。
だけどそんなの、未知花のせいじゃない。
「やっぱり遠くの大学、受けようかな……」
これでも未知花は受験生だ。
だけど高三の夏休みにもなって志望校がしぼりきれない。それは家を出たい気持ちが抑えきれないからだった。
東京市部にある自宅から通える大学はたくさんある。地方の子からみれば、それだけでアドバンテージなのはわかっていた。
でも、こんな家にずっといるの?
できれば萌奈も義母もいないところに行きたい。
――未知花!
「え?」
名まえを呼ばれた気がして未知花はザバッとお湯から起き上がった。
耳の奥に聞こえた声は、男の人。なんだか焦ったふうに言いつのる。
――未知花もどれ! 早く来い――!
「なに、なに?」
家の中で発せられた声だとは思えなかった。洗面所のドアの外ではなく、未知花の頭の中で響く声。わけがわからなくて、ちょっと怖い。
「来い、てどこに――?」
とりあえず風呂からあがり、手早く体を拭いた。
パジャマを着て部屋に戻る。とくに変わったところはなさそうだった。
「なんだったんだろ……」
――棚を!
「きゃ!」
また声が聞こえて、未知花はとびあがった。
誰もいないのに、どういうこと。心霊現象ぽくてビクビクしたけど、とにかく棚を開けてみる。そうっとのぞくと。
「――あ」
すう、と胸の奥が冷たくなった。
母の和装バッグがない。
「まさか萌奈――?」
未知花が風呂に入ったすきに盗ったということだろうか。あれだけ言ったのに。
母の想い出を踏みにじられたような気がして、未知花は怒りながら泣きそうになった。
未知花は居間に行って、バッグが消えたと両親に告げた。
この時間は、帰宅した父もいる。昼間からの経緯を話し、萌奈の部屋を調べさせてくれと言ったら義母が目を吊り上げた。
「萌奈が盗んだみたいに言うのね」
「じゃあ外から泥棒が入ったんですか。警察呼ばなきゃ」
「待ちなさい未知花。妹のことだよ」
「お父さん私がおかしいって言うの? いちど勝手に持っていこうとしたんだもん、疑うのは当たり前でしょ!」
「貸せばいいだろう、家族なんだから」
どうして未知花の心が狭いみたいな話になるのだろう。くやしくて唇をかむ。
「家族だったら、人の物をとっていいの? 信用できなくしたのは萌奈ちゃんなのに!」
――未知花、部屋に!
また声が聞こえた。
未知花はハッとなって廊下に飛び出す。そうっと未知花の部屋のドアを開けて入ろうとしているのは萌奈だった。ハッと振り返る萌奈の手には、バッグ。
「ちょっと、どうしてそれ持ってるの? バレたから返そうとしたのね」
「――もう、なによ! お姉ちゃんのバーカ!」
萌奈はバッグを床に投げつけた。そして自室に逃げ込んでしまう。
「こら、萌奈!」
さすがに父が義理の娘をとがめる声を上げたが、萌奈はドアを開けない。だが未知花はそんなものにかまっていられなかった。廊下に転がったバッグを拾い、壊れていないか確かめた。角がへこんだ気がする。
「……も、やだ」
未知花はバッグを抱えてつぶやいた。
✻ ✻ ✻
「じゃあ行ってきます」
未知花の言葉に、義母は返事もしなかった。
大荷物をひきずり、未知花はひとり、駅へ向かう。これは父公認の家出だ。
行先は、北鎌倉にある母の実家。
そこでは祖父がアンティークショップ〈宵待堂〉をいとなんでいる。
萌奈があの調子では母の遺品を家になど置いておけない。そう主張したら父も渋々うなずいてくれた。
だから、すべて祖父の家に持っていくのだ。ガラガラと引いているスーツケースには着物や帯、茶碗が詰め込んである。
ついでにしばらく泊まっていけ。電話したら祖父はそう言ってくれた。夏休み中ずっと義母と萌奈と一緒にいるなんて嫌だったし、渡りに船で乗っかることにする。
なので背負ったリュックには着替えと勉強道具が詰まっていた。タブレットでできる通信教育の受験対策講座をとっているのでこういう時には助かるけど、さすがにちょっと重い。それに夏の陽射しが朝からきつかった。
「……暑い」
「ほんと暑っちいな」
ぼやいたら、いきなり横から話しかけられ未知花は小さく悲鳴を上げた。
振り向くと、そこにいたのは着物姿の男の人だった。まだ若い。二十代前半ほどに見えた。
背中まで伸びた黒髪を無造作に縛って、きりりとした雰囲気の人だ。
茶の着物、灰色がかった銀の帯。堂々とした立ち姿で悪っぽい雰囲気もあるけれど、未知花に向けるまなざしはとてもやさしい。
「ほら、荷物どっちか持ってやるぜ。両方でもいい」
「え、なん、なんですかあなた」
とまどう未知花だったが、気がついた。
この人の声は知っている。バッグが盗られそうなのを未知花に教えてくれた、あの不思議な声。
今日は声だけじゃなく人の姿がそこにある。だけど言うことはやっぱり変だった。
「俺はおまえの持ってる茶碗の付喪神さ。近ごろやっと百年物になったとこでね。娑婆に出られるってな、いいもんだな」
「つ、つくもがみ!?」
聞き慣れない言葉にとまどう。神さまなの、この人?
立ち尽くしていたら、ふ、と微笑まれ説明された。
付喪神というのは古い道具が魂を宿し姿を得たものだそうだ。
そうなるには九十九年とか百年とか、そのあたりが目安らしい。でも「俺が幾つかなんざ、数えてねえよ」と志賀は笑った。
あ、志賀というのは、この人を呼ぶ仮の名だ。だって信楽焼の茶碗が自分だと主張するから。
たしかに母の大事にしていた茶碗のひとつに信楽の美しい焼き締めがある。それは今も木箱におさまりスーツケースに入っていた。
「でも、そんなの信じられない……」
「なんでだよ。俺は未知花のことずっと見守ってたんだぜ」
志賀は愛おしげに未知花を見やった。つい照れてしまう。
どうしよう、わりと格好いいんだもん、この人。
「人の姿をとれるようになったのはこの間だが、もう何年も意識はあったんだ。未知花が俺を大事に包んで今の家に引っ越したのも知ってるし、あのトンチキな妹が無茶言ってキーキーわめくのも聞こえてた」
「とんちき?」
「ん? 最近は言わねえか? 悪いな、なにぶん古い男なもんで」
志賀はひょいと肩をすくめてみせた。
古い――たしかに、百歳ほどなら祖父より年上だ。生まれは昭和のはじめか、もしかしたら大正。この着物姿もそういうわけか。
「って納得しちゃ駄目でしょ、私!」
丸め込まれそうになり、未知花はパンと自分の頬を叩いた。そんなこと、あっさり信じられるもんか。
「なんでだよ納得しろよ――なあ未知花、これからは俺がそばにいる。俺におまえを守らせろ。なんてったって俺は、おまえの物なんだからな」
「ちょ、そんなこと言われても……」
すい、と手で頬に触れられる。これじゃ口説かれてるみたいじゃないの。
住宅地の道端だからそんなに人も通らないけど、朝っぱらから勘弁してください。顔を赤くした未知花は、消え入りそうな気分だった。
✻ ✻ ✻
そして。
未知花を守ると宣言した志賀は、はっきり言って役立たずだった。
だって駅に着いたら切符の買い方も知らないし、お金も持っていない。
――でも、不思議な存在だということはよくわかった。
電車賃が必要と聞き、志賀は「ちょいと姿を消すわ」と宣言した。
そして柱の陰に入ったら、もういなくなってしまう。探しても本当に見当たらないのだ。
未知花が首をひねりながら改札を抜けホームに行くと、こんどは自販機の向こうからヒョイと出てきてドヤ顔で笑われた。
改札を通る間だけごまかしたということか。非難する未知花の視線に志賀は、「だって俺の本体は茶碗だぜ」とスーツケースを指差した。
……なるほどそれなら仕方がない、これは無賃乗車ではないのだ。だって志賀は手荷物だから。
でもこの手荷物は、しゃべる。
そして未知花にベタベタする。
電車で並んで座ったら、つつい、と髪をひと房もてあそばれた。彼氏なんていたことがない未知花には、ちょっと刺激が強くて困る。
「なあ、爺さんの家に行くんだろ? このままあっちで暮らそうぜ。あそこなら俺が姿を見せててもいいんじゃねえか?」
「あそこって……お祖父ちゃんち、知ってるの?」
「うっすらとな。あっちにいたころ俺はまだはっきりした魂を持ってなかったが……未知花の母さんが俺を気に入って、この茶碗は売らないでって爺さんにねだったんだ。あの家には古い物がたくさんあって、付喪神だっていたと思う。今はどうだかわからないが」
「へえ……」
母の話が出て、未知花の胸がつまった。
そうか、志賀は母のことを知っているんだ。
「そりゃ知ってるさ。それに未知花のこともずっと感じてた――やっと会えたな」
「はあ……」
「他人行儀にすんなよ。俺のことを大事に大事にしてくれてただろ? そっと触れてくる指、柔らかい唇」
「ちょ、ちょっと! やめて!」
なんか言い方がやらしい。電車内で何を言い出すんだ。
本体の茶碗のことなら、たしかにその通りだけど。
だって大切な形見だもの。ていねいに扱っていたし、お茶をたてて飲む時は唇をつけるのがあたりまえ。
くりかえすけど、それは茶碗だからなの!
「なあ、爺さんちにいようぜ? 未知花だってあんな義理の家族と暮らしたくないよな」
「それは……でも無理だよ、今は夏休みだけど学校が始まる前に帰らなきゃ。北鎌倉からじゃ今の高校に通えないもん」
「ああ、学校……いや、おまえ大学をどうするかって悩んでたろ。それはまだ先のことなのか」
「なんで知ってるの」
「未知花が言ったんじゃねえか。聞こえてたぜ」
「……部屋で言ったひとりごと、聞いてたの? ぜんぶ?」
未知花はサァ、と青ざめた。
部屋の棚の中にいたという、茶碗の付喪神の志賀。それはいろいろ聞こえてしまうだろうけど――。
「ヘンタイ」
未知花はボソリとつぶやいた。
だってだってだって。
女の子のプライバシーをなんだと思ってるのよっ!
✻ ✻ ✻
北鎌倉は小さな駅だ。
電車を降りたその瞬間、人目を避けてかがんだ志賀は、足もとでそのままかき消える。目の前でやられて、さすがに未知花はビクンとした。
何故そんな強硬手段をとったかというと、ホームの端がそのまま改札だから。この駅には隠れる場所もない。
こじんまりと可愛い駅舎は未知花のお気に入りポイントでもあるけど、志賀にとっては困りものみたいだった。
「おーい、未知花!」
乗ってきた電車が行ってしまうと、開いた踏切の向こうで手を振る人がいた。
「聖くん!」
「迎えに来たぞ、荷物あるって聞いてさ」
さわやかな笑顔を向けてきたのは、従兄の山之内聖だった。母の兄の、息子。二つ年上の大学生だ。
祖父と同居しているわけではないが、伯父一家は〈宵待堂〉の近所に住んでいる。伯母は店員としてもアンティークショップを支えてくれていた。
線路を渡るのに未知花がガタつかせたスーツケースを聖はひょいと持ち上げる。高校までバレーボールをやっていた聖は、背も高いし腕力もあるのだ。
「こっちだけでいいのか? リュックも持つぞ」
「いいよ、電車では座ってこれたし疲れてないもん」
聖になら、未知花も素直に甘えスーツケースを任せられる。
母と伯父は仲が良く、おかげで小さいころは聖にしょっちゅう遊んでもらっていた。ひとりっ子だった未知花にとって、聖はいちばん身近な男性かもしれない。
「なんだか未知花、たいへんだったんだってな。祖父ちゃん怒ってたぞ」
「怒ってた?」
「そりゃそうだ。未知花が自分の家で孤立するなんておかしいよ。叔母さんの形見をそっくり移動させるなんて相当なことだし、その再婚相手と娘、地雷だなあ」
歩きながら聖に言われ、未知花は胸のつかえが取れたような気がした。
未知花は悪くないと言ってもらえて、とても嬉しい。自分ではそう考えてがんばっていたけれど、ずっと誰かに同意してもらいたかったのだ。
さっき志賀は未知花を受けとめてくれた。それは嬉しい。
でもだってほら、不思議な存在だから。人間の尺度とは感覚が違うかもしれないし、ちょっと信用しきれない。
そういえば志賀が隠れたままだな、と未知花はスーツケースに視線をやった。
本体の茶碗に戻っておとなしくしているのだろうか。ひょいひょいと人間の前にあらわれて「付喪神だ」とか名乗られても困るけど。
志賀は〈宵待堂〉でなら姿を見せていてもいいだろうなんて言っていたが、たぶん駄目。
祖父だって付喪神と同居はしていないと思うんだよね。
✻ ✻ ✻
北鎌倉は、観光客であふれる隣駅の鎌倉に比べると静かな町だ。
お寺さんも多いし、紫陽花の季節には人が押し寄せる。だけど真夏の陽が降る今は、道もすいていた。
有名行楽地を避けた客を相手にする、ツウでしゃれた店々がひっそりたたずむ町並み――そのひとつが〈宵待堂〉。
「あらあら未知花ちゃん、いらっしゃい」
古民家のような店がまえの引き戸を開けると、ほがらかに迎えてくれたのは店を手伝う伯母だった。
ほの暗い店内には和洋のアンティーク家具や民芸品が並び、壁には額や掛け時計がひしめいていた。梁にぶらさがるランプには幾つか灯りがともる。奥の棚には陶磁器や漆器、鎌倉彫の盆などがそっと眠っていた。
「来たか未知花。聖もご苦労さん」
目を上げた祖父は、未知花が入っていっても店の奥に座ったままだった。
眼鏡をかけ、何やら細かそうな書き物に目を通している。扱う品物に関する文献だろうか。深い知識がないとできない仕事なのだと、誇らかに教えられたことがあった。
「お祖父ちゃん、私が泊まる部屋は?」
「二階のいつものところでいい。俺は仕事中だから勝手にしてろ」
ぞんざいに扱われても、祖父が未知花を嫌っているのではないと何故か伝わる。聖も笑って部屋に荷物を運び上げてくれた。
「夕飯、うちで食ってもいいって母さんが言ってたけど」
「だいじょうぶ、ご飯ぐらい作るよ」
「そっか? だけど勉強もしろよ、受験生」
「わかってるよー、だ」
帰っていく聖を送り出して部屋に戻ると、畳に志賀があぐらをかいていてギョッとした。出てきたのか。
他の人がいる前で隠れていてくれたのはありがたいけど、ふくれっ面なのは何故だろう。
「未知花、あの男はなんだ。やたら馴れ馴れしいな」
「聖くん? だって従兄弟だもん。ちっちゃい時から遊んでたし……」
スーツケースを開けながら適当に返事した。持ってきた着物を広げ、衣紋掛けで吊るす。ついでに風にあてよう。
「おまえには俺がいるって言ってるだろ。従兄弟なんか」
「は?」
聖は今日会ったばかりの志賀などより、ずっと長い付き合いだ。なのにものすごく不満そうにされた。志賀はムスッとしたまま近づいてきて、いきなり未知花を抱きすくめる。
「――っ!」
「未知花……俺はおまえのものだって意味、わからないか?」
すっぽりと腕に包まれ、引き締まった胸に顔がうずまった。そんな状態で未知花に何をわかれと。
耳もとでささやかれた吐息だけで未知花にはキャパオーバーだった。未知花がもがいたら少し腕をゆるめたものの、放してはくれない。
「おまえは俺を手に入れてる。俺にも、お前を手に入れさせろ」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
未知花は耳までホテホテになって叫んだ。小声でだけど。
「なに、手に入れるって、どういうこと」
「契約さ」
志賀は平然と答えた。
「俺が魂をかたちづくるあいだ、そばにいたのは未知花だ。そしておまえは俺に願った。『そばにいて』と」
「そんな願いごと……」
――したかもしれない。
記憶をたどり、未知花は青ざめた。
義理の家族ができて、心細くて。母の遺品にすがるように涙をこぼしたことがあった。あれのことだろうか。
「俺はそれに応えたんだ。だから俺と未知花は特別につながってるのさ。俺が姿を見せてなくても、少し離れていても、未知花には声が聞こえるだろ?」
「あ、お風呂で聞こえた声って」
そういうことだったのか。と、志賀がするりと腕をほどく。ちょっと未知花からそむけた顔が照れていた。
「風呂のことは言うなよ。あんな時に話しかけるのは俺もためらったんだが……」
「え、やだ、声だけじゃなくて見えちゃったりするの!?」
「見ねえよ!」
後ずさり、胸を抱いて身がまえた未知花に志賀は傷ついた顔をする。真剣なまなざしで訴えられた。
「そんなことしない。興味はあるが、そこを勝手に踏み越えたら付喪神としての矜持ってもんが台無しだろ」
「いや興味あるって言っちゃってるじゃない」
未知花がますます体をちぢこまらせると、志賀はブスッとして開き直った。
「あたりまえだ。好きな女の風呂に興味ねえ男がいたら連れてこい」
「す、き」
真正面から告白されて未知花は硬直した。
これまで恋愛なんてしてこなかった未知花には、なかなかの直球攻撃。
でも風呂をのぞきたいのは当然とか、言われた内容は夢がなくて泣きそうだ。言い返す声が弱々しくなった。
「好き、とか簡単に……私の何を知ってるの」
「いろいろ知ってるぜ、ずっとそばにいたって言ってるだろ。こんなに可愛く育ってくれて契約のしがいがあるってもんさ」
大真面目な志賀の言葉に未知花はたじたじだった。可愛いって、そんな。
未知花のこと、妙なフィルターでもかかって見えてるんじゃないだろうか。その契約とやらのせいで。
「ええっとね、これからクーリングオフとか、できません?」
「食う林檎? なんだそりゃ」
志賀には新しめの言葉がわからないらしい。あせりながら未知花は言い直した。
「だから、契約の解除ってこと」
「どうしてだよ。俺は未知花がいいから願いに応えたんだぞ。軽い気持ちじゃないから安心しろ」
「安心って、そうじゃなくて……」
駄目だ、用語だけじゃなく話が通じない。未知花は困り果て、畳にへたり込んでしまった。