特別親しい仲になると豪語した亜蘭さまは、それからも頻繁に中庭を訪れてはむぎ太郎さんを撫でて、お菓子を食べて、私と話していった。
あれ、暇なの?と疑問が浮かんだけれど、時折父から聞く大学での様子を聞くに、亜蘭さまは研究やら論文やらととても忙しいらしい。そして一番の不安要素である、ヒロイン・香代子との進捗はというと、正直なところ私にはよくわからなかった。
二人で離れで会っているようだけれど、それもごく短い時間でしかなく、家庭教師以外で外で会っていたりする様子も見受けられない。……どころか、なぜか親戚の子の入学祝いを一緒に選んでほしい、と私が買い物に連れ出される破目になり、つい先日は亜蘭さまと二人きりで街を散策してうっかり楽しんでしまった。一応弁明しておくと、香代子も一緒にと誘ったけど例のごとく断られた。
確かこのころには、香代子も「志藤先生」から「亜蘭先生」と名前呼びに移行していたはずなのに未だ先生呼びのままだし、一体いつになったら二人がくっついて私の安寧が確保されるのだろうか。
「――考え事ですか?」
ふと、視界に手が入ったかと思うと、俯いて頬にかかった髪を亜蘭さまの指がすくって耳へと掛けた。
「っ」
我に返った私は、見上げた先でこちらを覗き込んでいる美男子と視線がかち合う。あまりの至近距離に声にならない悲鳴が口から零れる。紅茶のような透明度の高い瞳は、こちらの反応を楽しんでいるような、好奇の色を含んでいるのが見て取れた。
「し、志藤さま、近いです! 離れてください」
恥ずかしさで赤くなる顔を隠すように亜蘭さまから逸らし、ぶっきらぼうに言葉を放つ。隣の彼は「ふう」と大げさに溜息をついて肩をすくめる。
「小百合さんの言う『特別親しい仲』というのは、なかなかハードルが高いですね」
私が名前で呼ばないのをチクリと指摘されて、私は「う」と言葉に詰まった。
「これだけ頻繁に逢瀬を重ね、デヱトにも行って……それでもまだ親しい仲と認めてもらえないとは」
「い、いろいろと、語弊があるかと……」
「語弊などないですよ。俺は事実を言っているだけです」
逢瀬だのデヱトだの、語弊だらけだ。そういうのは、ヒロインと好きなだけどうぞ。そう言いたいのを飲み込んで、私はキャラメルを一つ口に放り込んだ。亜蘭さまが持ってきてくれたこのキャラメルは、甘すぎなくて何個でも食べられそうで困る。
「志藤さまは、私のことを太らせようとしてますよね?」
「どうしてです?」
「だって、いつもいつも美味しいお菓子や食べ物を持ってきてくださるんですもの」
「太らせるつもりは毛頭ありませんが、小百合さんが美味しそうに食べているのを見るのが好きなんです」
「そ、それは……、変わったご趣味で……」
好き、という言葉に頬が熱を帯びていく。赤くなっている顔を見られたくなくて、余計に顔を俯けて、私は膝の上のむぎ太郎さんを無駄に撫でまわす。話を逸らそうと話題を変えたのに、なんだか余計に追い詰められている気がしてこれ以上余計なことは言うまいと口を噤む……。
手を握られて、あろうことか手に口づけをされた日からというもの、亜蘭さまの距離の詰め方がエグい。デヱト――改め買い物に出かけたときだって「迷子になったら大変だ」と四六時中手を繋がれてしまったし、隙あらば触れてこようとする。今みたいに、「好き」とか「可愛い」とかこちらが勘違いしてしまいそうになるような言葉をぽんぽん口にするし……。
私はそんな亜蘭さまに振り回されっぱなしだ。
蓋をしたはずの、叶うことのないこの恋心を掘り起こされそうになる度に、私は「勘違いしちゃだめ」と自分を諫めるのに必死だった。亜蘭さまとの時間を重ねれば重ねるほど、胸はときめいて、そしてそれ以上に苦しさを伴って私を苦しめる。これ以上、心を揺さぶらないでほしいと思う一方で、今のこの幸せを手放したくない自分もいて、板挟み状態のままずるずると時間だけが過ぎていった。
きっと、穏やかな毎日に平和ボケしてしまった私に天罰が下されたのだろう。
短い秋が終わり、木枯らしが冬の訪れを知らせた頃、それは突如として私の身に降りかかった。
――ガシャンッ
と、食器の倒れる音と同時に、教室内に女生徒の驚愕の声が響いた。
「きゃぁっ!」
「香代子さんっ⁉」
「どうしたのですか⁉」
調理実習の授業でおせち料理を作り試食を終え、片づけの最中洗った食器を拭いていた香代子が倒れた。顔は血の気が失せて真っ白になり、体を震わせて嗚咽まじりに苦しんでいた。その尋常じゃない様子に、香代子はすぐさま先生の指示で医務室に運ばれ、医者を呼びに先生が走った。私たちはその場で待機を言い渡され、ただ待つことしかできずにいた。
「大丈夫かしら、香代子さん」
「心配だわ……」
「突然でしたわよね……」
生徒たちが不安そうにそう言葉を交わす中、私は体の震えが止まらなかった。
あの苦しみ方は、原作で見た毒殺未遂のシーンそのものだったから。
なんで?
どうして?
香代子の毒殺はまだもっと先の春、香代子と亜蘭さまの婚約が決まったときに小百合が起こした事件なのに……。香代子を殺したいと思う人が小百合の他にもいたということ?でも、まだ毒だと決まったわけじゃないし……。
思考がぐるぐると止まらない。もし、本当に毒だったらどうしよう、香代子は大丈夫だろうか、原作では命に別状はなかったけれども……、原作と違う出来事が起こっている以上、今回も無事だとは限らない。底知れぬ恐怖が、蔦のように蔓延っていく。
「小百合さん、顔が真っ青よ……」
「当り前じゃない、香代子さんがあんなことになったんだもの心配にもなるわ」
取り巻き達が、元気を出して、きっと大丈夫よ、と私の背中をさすってくれてどうにか呼吸ができた。だけど、私の不安を煽るように、状況はよくない事態に陥っていく。先生が警官を数名連れて現れたのだ。それだけで室内はざわざわと不穏な空気に覆われた。
「先生、香代子さんは無事ですか?」
「今、医師の先生が治療に当たってくださっています。それと、香代子さんの症状は毒によるものとのことでした」
先生の言葉に、私は全身から血の気が引いていくのを感じた。手足がずんずんと冷えて感覚が消えていく。そんな……、私は何もしてないのにどうして……!
「はい、みなさんお静かに! 原因が毒だとわかった以上、これが事故なのか事件なのか調べる必要があります。みなさんにはこれから警察の方の指示に従っていただきます」
驚きや不満、不安、困惑の声が次々に上がった。こんな刑事ドラマの中のような出来事が起こるなんて、とみんな戸惑いを隠せない中、警官がなにかしゃべり始めた。
私は香代子の容態が気になって何も耳に入ってこない。震える手に顔を埋めて、ひたすら呼吸を整えていた。
「確認します」
そのくらい時間が経ったか、女性の声が自分にかけられてパッと顔をあげると、女性警官が机の上に出していた私の通学鞄を確認し始めた。どうやら、みんなの持ち物をチェックしているようだ。声を出す気力もなく、荷物を確認するのをただ見守っていた。
「これは、何ですか?」
彼女が鞄から取り出したのは、白っぽい包み紙のようなもので、全く見覚えのないものだった。
「……し、知りません」
声が震えて、ものすごく嫌な予感が胸を過ぎ、私は口元を手で押さえるように覆った。女性警官は、折りたたまれた紙を開いていく。中には、薄茶色の粉のようなものが入っていた。彼女は私に一瞥をくれた後、そばにいた警官に包み紙を医師に渡すよう命じた。
「それ、私のものじゃ、ありません」
私の訴えを聞いているのか聞いていないのか、彼女は無言で私の鞄をくまなく検査して、つぎの女生徒へと移っていった。
それから少ししてさっきの警官が戻ってきて何やら話し合った後、私は警察署へと連行されることになった。
自動車に乗せられて、すっかり暗くなった道を進んでいく。
どうか、香代子が無事でありますように。
私には、ただそれだけを祈ることしかできない。
あれ、暇なの?と疑問が浮かんだけれど、時折父から聞く大学での様子を聞くに、亜蘭さまは研究やら論文やらととても忙しいらしい。そして一番の不安要素である、ヒロイン・香代子との進捗はというと、正直なところ私にはよくわからなかった。
二人で離れで会っているようだけれど、それもごく短い時間でしかなく、家庭教師以外で外で会っていたりする様子も見受けられない。……どころか、なぜか親戚の子の入学祝いを一緒に選んでほしい、と私が買い物に連れ出される破目になり、つい先日は亜蘭さまと二人きりで街を散策してうっかり楽しんでしまった。一応弁明しておくと、香代子も一緒にと誘ったけど例のごとく断られた。
確かこのころには、香代子も「志藤先生」から「亜蘭先生」と名前呼びに移行していたはずなのに未だ先生呼びのままだし、一体いつになったら二人がくっついて私の安寧が確保されるのだろうか。
「――考え事ですか?」
ふと、視界に手が入ったかと思うと、俯いて頬にかかった髪を亜蘭さまの指がすくって耳へと掛けた。
「っ」
我に返った私は、見上げた先でこちらを覗き込んでいる美男子と視線がかち合う。あまりの至近距離に声にならない悲鳴が口から零れる。紅茶のような透明度の高い瞳は、こちらの反応を楽しんでいるような、好奇の色を含んでいるのが見て取れた。
「し、志藤さま、近いです! 離れてください」
恥ずかしさで赤くなる顔を隠すように亜蘭さまから逸らし、ぶっきらぼうに言葉を放つ。隣の彼は「ふう」と大げさに溜息をついて肩をすくめる。
「小百合さんの言う『特別親しい仲』というのは、なかなかハードルが高いですね」
私が名前で呼ばないのをチクリと指摘されて、私は「う」と言葉に詰まった。
「これだけ頻繁に逢瀬を重ね、デヱトにも行って……それでもまだ親しい仲と認めてもらえないとは」
「い、いろいろと、語弊があるかと……」
「語弊などないですよ。俺は事実を言っているだけです」
逢瀬だのデヱトだの、語弊だらけだ。そういうのは、ヒロインと好きなだけどうぞ。そう言いたいのを飲み込んで、私はキャラメルを一つ口に放り込んだ。亜蘭さまが持ってきてくれたこのキャラメルは、甘すぎなくて何個でも食べられそうで困る。
「志藤さまは、私のことを太らせようとしてますよね?」
「どうしてです?」
「だって、いつもいつも美味しいお菓子や食べ物を持ってきてくださるんですもの」
「太らせるつもりは毛頭ありませんが、小百合さんが美味しそうに食べているのを見るのが好きなんです」
「そ、それは……、変わったご趣味で……」
好き、という言葉に頬が熱を帯びていく。赤くなっている顔を見られたくなくて、余計に顔を俯けて、私は膝の上のむぎ太郎さんを無駄に撫でまわす。話を逸らそうと話題を変えたのに、なんだか余計に追い詰められている気がしてこれ以上余計なことは言うまいと口を噤む……。
手を握られて、あろうことか手に口づけをされた日からというもの、亜蘭さまの距離の詰め方がエグい。デヱト――改め買い物に出かけたときだって「迷子になったら大変だ」と四六時中手を繋がれてしまったし、隙あらば触れてこようとする。今みたいに、「好き」とか「可愛い」とかこちらが勘違いしてしまいそうになるような言葉をぽんぽん口にするし……。
私はそんな亜蘭さまに振り回されっぱなしだ。
蓋をしたはずの、叶うことのないこの恋心を掘り起こされそうになる度に、私は「勘違いしちゃだめ」と自分を諫めるのに必死だった。亜蘭さまとの時間を重ねれば重ねるほど、胸はときめいて、そしてそれ以上に苦しさを伴って私を苦しめる。これ以上、心を揺さぶらないでほしいと思う一方で、今のこの幸せを手放したくない自分もいて、板挟み状態のままずるずると時間だけが過ぎていった。
きっと、穏やかな毎日に平和ボケしてしまった私に天罰が下されたのだろう。
短い秋が終わり、木枯らしが冬の訪れを知らせた頃、それは突如として私の身に降りかかった。
――ガシャンッ
と、食器の倒れる音と同時に、教室内に女生徒の驚愕の声が響いた。
「きゃぁっ!」
「香代子さんっ⁉」
「どうしたのですか⁉」
調理実習の授業でおせち料理を作り試食を終え、片づけの最中洗った食器を拭いていた香代子が倒れた。顔は血の気が失せて真っ白になり、体を震わせて嗚咽まじりに苦しんでいた。その尋常じゃない様子に、香代子はすぐさま先生の指示で医務室に運ばれ、医者を呼びに先生が走った。私たちはその場で待機を言い渡され、ただ待つことしかできずにいた。
「大丈夫かしら、香代子さん」
「心配だわ……」
「突然でしたわよね……」
生徒たちが不安そうにそう言葉を交わす中、私は体の震えが止まらなかった。
あの苦しみ方は、原作で見た毒殺未遂のシーンそのものだったから。
なんで?
どうして?
香代子の毒殺はまだもっと先の春、香代子と亜蘭さまの婚約が決まったときに小百合が起こした事件なのに……。香代子を殺したいと思う人が小百合の他にもいたということ?でも、まだ毒だと決まったわけじゃないし……。
思考がぐるぐると止まらない。もし、本当に毒だったらどうしよう、香代子は大丈夫だろうか、原作では命に別状はなかったけれども……、原作と違う出来事が起こっている以上、今回も無事だとは限らない。底知れぬ恐怖が、蔦のように蔓延っていく。
「小百合さん、顔が真っ青よ……」
「当り前じゃない、香代子さんがあんなことになったんだもの心配にもなるわ」
取り巻き達が、元気を出して、きっと大丈夫よ、と私の背中をさすってくれてどうにか呼吸ができた。だけど、私の不安を煽るように、状況はよくない事態に陥っていく。先生が警官を数名連れて現れたのだ。それだけで室内はざわざわと不穏な空気に覆われた。
「先生、香代子さんは無事ですか?」
「今、医師の先生が治療に当たってくださっています。それと、香代子さんの症状は毒によるものとのことでした」
先生の言葉に、私は全身から血の気が引いていくのを感じた。手足がずんずんと冷えて感覚が消えていく。そんな……、私は何もしてないのにどうして……!
「はい、みなさんお静かに! 原因が毒だとわかった以上、これが事故なのか事件なのか調べる必要があります。みなさんにはこれから警察の方の指示に従っていただきます」
驚きや不満、不安、困惑の声が次々に上がった。こんな刑事ドラマの中のような出来事が起こるなんて、とみんな戸惑いを隠せない中、警官がなにかしゃべり始めた。
私は香代子の容態が気になって何も耳に入ってこない。震える手に顔を埋めて、ひたすら呼吸を整えていた。
「確認します」
そのくらい時間が経ったか、女性の声が自分にかけられてパッと顔をあげると、女性警官が机の上に出していた私の通学鞄を確認し始めた。どうやら、みんなの持ち物をチェックしているようだ。声を出す気力もなく、荷物を確認するのをただ見守っていた。
「これは、何ですか?」
彼女が鞄から取り出したのは、白っぽい包み紙のようなもので、全く見覚えのないものだった。
「……し、知りません」
声が震えて、ものすごく嫌な予感が胸を過ぎ、私は口元を手で押さえるように覆った。女性警官は、折りたたまれた紙を開いていく。中には、薄茶色の粉のようなものが入っていた。彼女は私に一瞥をくれた後、そばにいた警官に包み紙を医師に渡すよう命じた。
「それ、私のものじゃ、ありません」
私の訴えを聞いているのか聞いていないのか、彼女は無言で私の鞄をくまなく検査して、つぎの女生徒へと移っていった。
それから少ししてさっきの警官が戻ってきて何やら話し合った後、私は警察署へと連行されることになった。
自動車に乗せられて、すっかり暗くなった道を進んでいく。
どうか、香代子が無事でありますように。
私には、ただそれだけを祈ることしかできない。