幸い、香代子の捻挫は大したことなく、医者の湿布薬のおかげもあり翌日には歩けるまでに回復した。原作のように松葉杖は必要なく、よって亜蘭さまの送り迎えの話も出なかった。とはいえ、香代子の家庭教師は翌週から再開されるとのことなので、心配しなくても二人の関係は順調にいくと思われる。
 歩けるとは言っても、やはりまだ万全ではなくちょっと油断するとよろけるものだから、私は登校するときも女学校での移動も徹底して付き添って肩を貸してあげていた。甲斐甲斐しく香代子の世話をする私を見て、取り巻き含め学校中の生徒たちは、私の改心は本物だと信じた様子だった。それを受けて、同じ組の生徒たちも徐々に香代子に話しかけたり気にかけたりしてくれて、以前よりも周囲と馴染んでいて私も嬉しくなる。

 香代子の捻挫事件から数日、私はとても心穏やかな日々を過ごしていた。家庭教師さえなければ亜蘭さまとの接点もないので、私の心が揺さぶられることもない。私は、何にも捉われることなく、学校から帰った後も本を読んだり、課題をしたり気ままに過ごしてた。
 今日は課題もないから、なんとなく縁側に腰かけて庭をぼうっと眺めていたら、「みゃー」と可愛らしい鳴き声が聞こえてきて、私は思わず草履を履いて庭に降りた。
「えっ、猫⁉ どこ! どこどこ⁉」
 一瞬でテンションが上がって私は必死になって猫を探す。実は大の猫好きなのに、前世では猫アレルギーのせいで抱っこどころか触ることすらできなかった苦い思い出がある。幸いかな、小百合は猫アレルギーではなく、何度か街で猫に遭遇して軽く撫でる程度は経験していたのを思い出して胸が躍った。
「猫ちゃんどこにいるの? 出ておいでー」
 鳴き声を探っていると、生垣の中に白と茶色のまだら色の猫を見つけた。しゃがんで姿勢を低くして手を出すと、猫はそろそろとこちらへ近づいてきたので、私はえいっと猫を抱っこして引き寄せる。猫はとても大人しく、嫌がる素振りも見せずされるがまま「みゃー」とひと鳴き。アーモンド型の目は、翡翠を溶かしたような美しい緑色をしていた。
「はわぁぁぁ……!」
 か、かわいい!
「お前、ご主人さまはいるの? それとも野良猫なの?」
 洋服が汚れるのも気にせず、私は猫を胸に抱きしめて手で撫でまわす。縁側に腰を下ろして膝に乗せると、猫も自らすりすりと体を寄せてきた。
「な、なんて懐っこい子なの! お前うちの子になる?」
 ここぞとばかりに猫を堪能しようと撫でまわす。猫は汚れて痩せこけていて、毛並みも手入れされていないところを見るとおそらく野良だろう。これはもう、猫を飼っていいわよという神のお告げに違いないと私の胸は歓喜に踊りだす。
「どうする? うちの子になっちゃう? うちの子になってくれたら毎日美味しいご飯がお腹いっぱい食べられるわよ? おやつも付けちゃう! どう、とっても魅力的だと思わない?」
「――確かにそれは魅力的な提案ですね」
「へっ⁉」
 猫の毛並みを手でブラッシングしながらプレゼンをしていると、思いがけず返事をされて素っ頓狂な声が出た。もちろん、猫が人の言葉をしゃべるわけもなく。
「し、志藤さま……」
「あぁ、そのままで。私もそちらに行ってもいいでしょうか」
 立ち上がろうと腰を浮かした私を手で制して、亜蘭さまはそんなことを言う。予想だにしなかった申し出を断れるはずもなく、私は仕方なしにこくんと頷いた。今日の彼は、いつもの三つ揃えのオーダースーツではなく、スタンドカラーの白シャツにスラックス姿とラフな恰好をしていて目に新しい。いつもはワックスで固めている髪も今日は無造作に下ろされている。いつもがかっちりと固められているだけに、今日の姿はどこか無防備な印象を受けて、私は目のやり場に困った。
「驚かせてすみません、門のところで声を掛けたのですが返事がなく勝手に入らせてもらいました」
「そ、それは、失礼いたしました」
「今日はどうしても小百合さんとお話がしたくて参りました。少しお時間いただけますでしょうか」
「私に……?」
 香代子じゃなくて?
 もう原作の悪役令嬢の私とヒーローの彼が関わることなんてないはずなのにどうして?
「はい、少しで構いませんので」
 仕方なく「どうぞ」と進めると亜蘭さまは、私から一人分離れたところに腰を下ろした。二人きりになるのは、見舞いに来てくれたとき以来で、恥ずかしさにやっぱり顔を見られない。だって、いくら初恋を諦めたと言っても、すぐには気持ちを切り替えられない。やっぱりヒーローはヒーローで、非の打ちどころがないほどにかっこよくてどうしたって惹かれてしまう。私はどきどきとうるさい心臓を落ち着かせようと、膝の上のもふもふを両手で撫でまわした。少し埃っぽくも柔らかな手触りに、ほんの少し心が落ち着いていく。
「香代子さんが歩けるようになられたようで安心しました」
「大事なくて私もほっとしました」
 と言ってから、亜蘭さまは私の仕業だと思っているのだから白々しく聞こえてしまったかも、と不安が過ぎる。ちらりと横目で伺うと、彼は両足の上に置いた手をぎゅっと握りしめて、地面を思い詰めた顔で見つめていた。どうしたのだろうかと胸がざわついたのも束の間、彼はこちらに体を向けると腰を折って頭を下げた。
「小百合さん、あのときは本当に申し訳ありませんでした。あなたの話も聞かず、あなたを疑うような言動をとってしまい、俺は本当に最低なことをしました」
「や、やだ、志藤さまっ、お顔を上げてください!」
 まさか謝罪されるとは思わず面食らった。そして驚きの後、ややして誤解が解けたのだとわかり胸に嬉しさが広がっていく。好きな人に誤解されたままはやっぱり悲しかった。その誤解が解けて、さらにこうしてわざわざ謝りにきてくれたのだと思うと心の底がじんわりと温まった。
「小百合さん、俺を殴ってください。でないと俺の気が済みません」
「殴るってそんな、……ふっ、……ふふっ」
 私が亜蘭さまを殴るなんて、そんなことできっこないのに。その様を想像してしまった私は、なんだか面白くなってしまって笑いを堪えられなかった。人が真剣に謝ってるのに笑うのは失礼以外の何ものでもないと、わかっていても駄目だった。
「俺は本気で……」
「ごめ、なさ……けど、殴れだなんて、おかしくって……ふふふ」
 怒っている様子はないのをこれ幸いに、私は声をあげて笑いこけてしまう。それに自分のことをいつもは「私」と言うのに「俺」になってるのもおかしくて笑いが止まらなかった。
「笑ってしまってすみません。ご不快にさせてしまいましたでしょうか」
 謝るも、返事がなくて不審に思い隣を見る。すると、彼は呆けた顔でこちらを凝視したまま固まっていた。
「志藤さま?」
 声かけにハッとした彼は、「あ、いえ、大丈夫です」と口元を手で覆う。どことなく気まずそうな彼の表情に、調子に乗り過ぎてしまったかなと私は自戒した。
「お詫びの印といってはなんですが、こちらを受け取ってください」
 縁側の上、すっと手のひら大の小包が私と亜蘭さまの間に置かれた。それを見た瞬間、私は息を呑んだ。
 なぜなら、上品な包み紙と光沢のあるリボンが目を引くそれは、足を挫いて気落ちする香代子を励ますために贈ったプレゼントの包みだったから。
 贈る相手、間違えてます!
 口をついて出そうになった言葉を飲み込んで、私は顔の前で両手を振る。
「そんな! いただけません! 誤解が解けただけでもう十分です」
「それでは俺の気が済まないんです。なので、小百合さんは、俺を殴るかこれを受け取るか、どちらかにしてください」
 なにその究極の二択……!
「選んでください、小百合さん」
「そ、そんな……、無茶苦茶です……」
 真剣に訴えてくる亜蘭さまに圧倒されてしまい、私の口からは情けない言葉が零れ落ちた。