「――小百合さん、頭をあげてください、この通りですから」

 土下座した私の体を起こそうとする香代子の手を拒み、私は頭を下げ続けた。
 目を覚まし、亜蘭さまが去った後、私は真っ先に姉・香代子の元を訪れて、なりふり構わず土下座したのだった。
「本当にごめんなさい。謝って許されることじゃないことは重々承知しています。信じてもらえないかもしれないけど、これからはもうお姉さまを傷つけたり貶めたりするようなことは絶対にしないって誓います」
 香代子がどんな顔をしているのかはわからないけれど、戸惑っていることだけは空気で伝わってきて、私は言葉を重ねる。
「これまでさんざん嫌がらせをしてきた私が言ったところで信じられないと思います。今更どの面下げてって思われるのも当然です。なので、少しでも信じてもらえるように誓約書も書いて持ってきました」
「誓約書⁉」
「はい、もし私がこの先お姉さまを傷つけるようなことがあれば、その時は出家するという誓約書です」
「しゅ、出家⁉」
 畳の上に置いてあった誓約書を、私はすっと香代子の前に押し出す。
「私は押印してありますので、持っていてください」
「と、とにかく小百合さん、お顔をあげてください。病み上がりなんですよ、お体大事にしないと……」
「はい……」
 仕方なく顔をあげると、香代子は心底困惑した表情でこちらを見ていた。長年に渡り自分にひどい仕打ちをしてきた人間が、突然手のひらを返したように平身低頭してきたのだから当たり前だ。もし私が彼女の立場なら、怒り心頭で怒鳴り散らしているかもしれない。なのに香代子は、怒るどころか私の体調まで気にかけてくれている。なんて優しいのだろう。
「そもそも、小百合さんが謝ることなど、なにもないんですよ」
「……」
 ……は?
 香代子の言っている言葉の意味がわからず、私の頭の中ははてなマークで埋め尽くされる。
「私は(めかけ)の娘です。たとえ本意ではなかったとしても、そんな私を長女として、小百合さんとお義母さまはこの家に迎え入れてくださりました。私はもう十分過ぎるくらいよくしていただいているんですから」
 そうだった、と私は彼女の言葉で読んだ原作小説を思い出した。彼女は、どれほど小百合や母から罵声を浴びせられ、ひどい仕打ちを受けようと、いつもそれに対して恨み言を言ったり憎悪の念を抱いたりしたことがなかった。それどころか、こうして感謝してしまうくらい心の澄んだ人だった。
 そんな香代子だから、ヒーローも心を奪われるのは当然のことだと転生前の私はよく首肯していたものだ。こんな聖母マリアのような人間いるわけないって思ってたけれど、今目の前に彼女は確かに存在してる。
 純真無垢な彼女を、どうして小百合と母はこれほどまでに痛めつけられるのか、私は心底不思議だった。
 けれどこうして小百合として生を受け、この時代を生きてきた今の私には、彼女たちの気持ちがとてもよくわかった。時代が、世間が、彼女たちをそうさせるのだ。妾とその子どもは、そこそこ裕福な家では黙認されている一方で、世間からは蔑まれて当然の存在として扱われてきたから。
 この家では、父と正妻である母との間に子がなかなか授からなかったこともあり、当時まだ存命だった父方の祖母たちから「妾を作って跡取りを」と口酸っぱく言われ続けて仕方なく、女中の中から若い女・千代を選んで妾にした。しかし、妾を取ってまもなく母の妊娠が発覚。喜んだのも束の間、その一週間後には千代の妊娠がわかり、母はひどく落胆した。さらに運命というのは残酷なもので、後に妊娠した千代の方が母よりも先に出産してしまう。長女・香代子の誕生だ。その一月後に私・小百合が二女として生まれることになる。そう、私たちは同い年の姉妹だった。本来なら、本妻の子を長女とし、妾の子はあくまで妾の子として別邸や離れに住まわせるのが慣習だが、父がそれを良しとはせず香代子も小百合もどちらも大切に平等に育てたがった。千代は産後の肥立ちが悪く実家で療養していたため、父は乳母を雇って離れで世話をさせた。だが、千代がこの家に戻ることはなく、香代子が3歳の頃に亡くなったという。
 父は娘たちを可愛がる一方で、母への負い目も少なからず感じて香代子に当たる母や小百合に強く出られない。香代子も父に告げ口や弱音を吐かないため、父はそれほど深刻視していないようでもあった。
 だけど、転生前の人生を思い出した今の私にとっては、妾だなんだなんて話は全く意味をなさないどころかくだらなさすぎて問題にもならない。
「どこまでお人よしなの、この人は……」
「小百合さん? 今なにかおっしゃいました?」
 聞き取れなくてごめんなさい、と謝ってくる目の前の香代子に私は「いいえ」と素知らぬ顔で首を振る。彼女は、座り込んだままの私の前に一歩近寄り、腰を下ろして目線を合わせてきた。こうして近くで見ると、香代子は本当に美しかった。柔らかに目元を緩ませて微笑む顔は、慈愛に満ちていて彼女の心まで美しいことを物語る。
「小百合さんのお気持ちはとても嬉しいです。ありがとうございます」
「お姉さま……」
 目の前にいる香代子は、物語の中のヒロインと寸分違わずどこまでも強くて優しかった。
「小百合さん、私たち一月しか違わないのにお姉さまと呼ばれるのはなんだか恥ずかしいです。その……もし小百合さんが構わないのであれば、名前で呼んでくださると嬉しいのですけど……」
 少し怯えを含んだその伺いに、私は激しく首肯する。
「わ、わかりましたわ! では、香代子さんって呼ばせてもらいますね」
 ほっといたように彼女は顔をほころばせて、私の両手を握りしめる。優しく触れた手は、少しかさついていた。皿洗いや掃除、洗濯も時折やらされているせいだ。そんなこと彼女にはもう絶対にさせないと心に決めた。
「小百合さん、私、嬉しいです……」
 その言葉尻が震えていることに気付いて、私ははっと顔をあげる。彼女の漆黒の瞳にうっすらと涙が滲み、揺らめいていた。光を反射するその様は、雲一つないよく晴れた星空のようにきらきらと輝いてすら見える。
「本当にごめんなさい。あなたは私にとって唯一の姉妹なのに……どう償ったらよいか……」
「償うなんてそんな……。こうして心を開いてくださっただけで十分です」
 どれほど彼女の心を傷つけてしまったのだろうかと、罪悪感で胸が締め付けられた。けれど、この心苦しさなど彼女の苦しみと比べることすらおこがましい。過去を悔いているだけでは、何も解決しないし始まらない。だから私は、贖罪としてこれから先、全力で彼女の幸せをサポートしていこうと心に決めていた。
「香代子さん、見ていてくださいね。私、これからは態度で示しますから!」
 涙を堪える目の前の健気な姉は、またしても極上の微笑みをその顔に湛えて頷き返してくれたのだった。