気付いたら、教室にいた。
大嫌いで、居心地の悪い、私の教室。
大嫌いなクラスメイトもいて、また真っ暗で地獄のような日常が始まってしまうのかと憂鬱に思ったけれど、どうやら様子がおかしかった。
なぜ、教室にいる?
そんな動揺が、クラスメイトたちにも走っていた。
そうだ。
私は、自分の部屋にいたはず。
それなのに、どうして。
「あれ? うちのスマホ、圏外なんだけど」
「私もだ」
その会話が聞こえると、各自、スマホを取り出して、それが真実かどうか確認し始めた。
こっそり私もスマホをブレザーのポケットから取り出して、画面をつけてみる。
たしかに、圏外だ。
クラス全員が圏外になるなんて、そんなことありえるのだろうか。
「ねえ……なんか外、おかしくない?」
ふと、誰かがそう言った。
窓の近くにいたクラスメイトたちは、窓際に集まり、外の様子を眺めている。
「誰もいない……」
「は?」
「いやいやいや、そんなわけ」
動揺は混乱へ。
違和感は、人気がないことだけではなかった。
「窓が開かない!」
その叫び声が聞こえた途端、すべての窓が開くかどうか確認された。
開いた窓は、なし。
それがわかると、今度は教室を出ようと、ドアに走る人がいた。
「お、揃ってんな」
だけど、クラスメイトがドアを開けるよりも先に、誰かが開けた。
そこには、全身真っ黒な服を着た男。
「誰、あれ」
「わかんないけど、でも、なんかイケメンじゃない?」
私たちが混乱しているのはわかっているはずなのに、男はまっすぐ黒板の前に立った。
「えー、柊学園二年四組の諸君! 地獄のゲームへようこそ」
男はにやりと口角を引き上げた。
なんとも不気味で、気持ちが悪い。
ああ、そうか。
ゾクッとした、とはこういうときに使うのか。
「地獄ってなに……」
「ゲーム?」
教室のあちこちから、小さな声が聞こえてくる。
普段から地獄のような空間で過ごしている私は、それには大して興味を抱かなかった。
「ルールは簡単!」
彼は、クラスメイトたちの声を打ち消すように、大きな声を出した。
その顔は、今のこの状況を愉快だと言っているみたいに見える。
そして男は、私たちに向けて人差し指を指した。
「俺がお前らを殺す」
男は、私を見ていない。
だから、私には言っていない。
そのはずなのに、彼の指先が私に向けられているようで。
私を殺しに来たんだと思わされた。
「コロス……?」
「今、殺すって言った?」
「い、いや、聞き間違いでしょ」
そう感じたのは私だけではないようで、各々が仲のいい人たちとそんなことを言い合っている。
「ただまあ、無条件に殺していくってのも可哀想だと思ってな? お前たちにチャンスをやることにした」
私たちはなに一つ理解していないのに、彼は話を進めていく。
彼にストップと声をかける者はいない。
愉しそうに話す彼に恐怖を抱き、混乱しているから、なにも言えなかった。
「今から鬼ごっこをしよう。もちろん、鬼は俺。で、俺に捕まれば死ぬ。逆に言えば、逃げ切れば勝ち。範囲は、校内のみ。な? シンプルだろ?」
たしかにシンプルだけど、理解できた人は一人もいそうになかった。
「お前、急に来てなに言ってんだよ」
そんな中で、真山侑生が声を上げた。
彼は、いつもの場所である、教室の後ろにいた。
さすが、スクールカースト上位に君臨するだけある。
こういうときでも物怖じしない性格は、羨ましい。
「ん? そんな難しいこと言ったか?」
「そうじゃねえよ。殺すとか、意味不明なこと言ってんじゃねえってこと」
真山侑生の取り巻きたちは、首を縦に振っている。
彼は、面倒そうに頭を掻いた。
長めの黒髪が、少しだけ乱れる。
「仕方ねえなあ」
彼は声を漏らすと、教卓の前から離れた。
一歩。
また一歩。
彼が歩みを進める度に、教室内に緊張が走る。
お前らが息をすることは許さない。
まるで、そう言っているかのようで、私もちゃんと息ができているのか、わからなくなり始めた。
そして彼は、真山侑生の前に立った。
「な、なんだよ」
あれほど堂々と喧嘩を売っておきながら、いざ彼が目の前に来ると、怖気づいたらしい。
あの男は、それだけの存在なんだと、私はさらに恐ろしく思った。
「んー……お前じゃダメだな」
彼は真山侑生の頭の先から足先までじっくり見て、そう言った。
そして彼が指さしたのは、真山侑生の隣にいた、真山侑生と最も仲がいい浅見冬弥。
指を拳銃に見立て、彼は、一言。
「……バン」
彼が小さく呟くと、浅見冬弥はまるで魂を抜かれたかのように、その場に倒れた。
今、なにが起きた……?
「冬弥……? おい、冬弥!」
真山侑生は困惑した様子で浅見冬弥の名を呼ぶ。
教室の隅っこにいる私からは見えないけれど、冷静ではいられない事態が起きていることは理解できた。
真山侑生が浅見冬弥の名前を呼ぶたびに、教室に動揺が走る。
彼が私たちを殺すと言ったのは、嘘じゃないってこと……?
私は恐怖のあまり、立っていられなくなって、その場に座り込んでしまった。
机やみんなの足の隙間から見えるのは、浅見冬弥が倒れている姿。
遠目で見ても、ただ眠っているようにしか見えない。
血だって、出ていない。
浅見冬弥は、本当に殺されたのだろうか。
「おい、お前! 冬弥になにしたんだよ!」
すると、真山侑生の怒鳴り声が聞こえた。
「あのなあ。話聞いてなかったのか? 殺すって言ったろ? だから殺したんだよ」
わかりきったことを聞いてくるな。
彼の声は、そう言っているようだった。
冗談じゃなかった。
この人は、本気で私たちを殺すつもりなんだ。
どうしてこんなことになっているのか、わかっている人は誰もいない。
「さあて、次は誰を殺そうか」
それは、鬼ごっこ開始の合図のようだった。
まだ、この状況が理解できている人は少ないだろう。
だけど、全員、今の光景を目の当たりにして恐怖心が芽生えたのか、悲鳴をあげながら、教室を飛び出した。
「いいねえ、そう来ないと」
彼はまた、愉しそうに言った。
私も、逃げないと。
そう思うのに、身体が動かない。
どんどん、教室の中から人が減っていく。
真山侑生も、浅見冬弥を置いて逃げ出した。
残ったのは、まったく動く気配のない浅見冬弥と、全身真っ黒の彼、そして、私。
見つかれば、殺される。
来ないで。
見つけないで。
心音が耳元で聞こえ、彼にも聞こえているんじゃないかと思うと、気が気でなかった。
机の脚の隙間から様子を伺っていると、彼の足が動いた。
ゆっくりと、死へのカウントダウンをしているよう。
気付かないで。
彼がこちらに向かってきているようで、私は息を止めた。
ちょっとした音すら、彼に届いてしまいそうで。
お願い、ここに……
そう強く願ったのに、彼は私の前で足を止めた。
彼が。
簡単に、人の命を奪えてしまう彼が。
今、目の前に。
恐る恐る顔を上げると、冷たい目をした彼が、私を見下ろしていた。
逃げないと。
そうしないと、私は、今ここで、殺されてしまう。
だけど、どれだけ身体に命令しても、震えるばかりで動いてくれない。
すると、彼の片側の口角がゆっくりと上がった。
「お前、いい顔するな。よし、決めた。お前は最後に殺すことにしよう」
「え……」
突如与えられた命の猶予に、私は戸惑いを隠せなかった。
鬼ごっこをして、捕まれば殺される。
そういうルールだったはずだ。
それが、こうも簡単に。
そう思ったけれど、そもそもこの鬼ごっこ自体、彼が勝手に決めたゲーム。
彼の気まぐれでルール変更があっても、おかしくないのだろう。
「だが、お前が余裕そうでいられても困るな……ああ、そうだ。お前にはいい役目を与えてやる」
見逃す、と言われているのに、私の中の恐怖はまだ消えない。
それはきっと、彼がずっと、気味の悪い笑みを浮かべているからだろう。
そして、彼の言う“いい”役目。
そんなの、絶対にいいわけがない。
ああ、こんなことなら、さっさと殺してくれればよかったのに。
「まず一つ。俺と共に、逃げる奴らを見つけること。見つけたら、全部俺に教えろ」
そんなスパイみたいなこと、できるわけがなかった。
それがあの人たちに知られたら?
私は、彼に殺されることを待たずに、あの人たちに殺されるだろう。
だけど、この状況で嫌だと言えるわけがなかった。
「そして二つ目。瀬野明日香を殺した人間を見つけ出せ」
その名前を聞いた途端、私の身体は別の恐怖を思い出した。
瀬野明日香。
彼女は、ずっと私をいじめていた人物だ。
そして、彼女を殺したのは、私。
といっても、事故だ。
渡り廊下から落とされそうになって、抵抗していたら、彼女のほうが落ちてしまった。
でも、そんなことは彼には関係ないのだろう。
誰のせいで、瀬野明日香が死んだのか。
きっと、そこにしか興味がない。
ああ、なんにせよ、私が死んでしまうことに変わりはないのか。
「……どう、して……瀬野さんの、こと、知ってるんです、か……」
私は震える声で言った。
こんなことを聞いて、なんになるんだろう。
なににもならないだろう。
でも、ちょっとした時間稼ぎをしたかったのかもしれない。
私が死ぬまでの、時間稼ぎ。
「明日香は俺のお気に入りだったんだ。それが殺されたとなれば、許せないだろ? だから、全部壊しに来た」
そんな理由で、こんな無茶苦茶なことを……?
「さて、怯える時間も、説明する時間も終わりだ。お前、名前は?」
「鳴海……茉衣……」
教えてもよかったの?
でも、教えないで、彼の機嫌を損ねたら……?
もう、正常な判断はできそうになかった。
彼はじっと私の目を見つめてきた。
黒というより、闇に染まっているような瞳。
身体の奥底から恐怖が込み上げてきて、目を逸らしたいのに、彼の瞳がそうさせてくれない。
――茉衣。
彼の口は動いていない。
それなのに、頭の中で彼の声が私の名前を呼んだ。
今、なにが起きた?
「よし、上手くいったな」
私が戸惑っているのを見て、彼は一人で納得している。
「仮契約をしたんだ。離れていても声が届くように、な」
逃がすものか。
そう言われた気がした。
というか、契約とか、意味不明な力とか。
さっきの、浅見冬弥を殺したのだってそう。
とても、人間とは思えないことばかり。
人間にしか見えないけれど、この人は、一体……
「あなた、何者なの……?」
「俺? 俺は悪魔だよ」
そんな、非現実的なことが、あっていいの?
私の頭は、彼の存在を簡単には受け入れてくれなかった。
「アイツらを見つけたら、俺に声をかけるように、頭の中で名前を呼べ。それで俺はアイツらを捕まえる。ただし、五分で一人も見つけられなかったら……わかってるな?」
私には、拒否権なんてない。
その眼が語っていた。
大人しく、受け入れるしかない。
これが、私の運命なんだ。
「……わかり、ました」
私の答えを聞いて、彼はにやりと口角を上げた。
とんでもない悪魔と契約させられてしまった。
そう思うには、十分な笑みだ。
「じゃあ、頼んだからな。茉衣」
そして、彼はようやく私に背中を向けた。
とてつもない緊張感から解放されて、私はやっと、息ができた気がした。
「あ、そうだ。俺の名前、怜旺だから」
ドアの前まで歩み進んだ彼が、ふと思い出したかのように言った。
……怜旺。
頭の中で彼の名前を反芻すると、彼はまた満足そうに笑い、教室を出ていった。
今の感じで、あの人に私の声が届いてしまうの……?
だとすれば、ほとんど私の思考は伝わっているということになってしまう。
あのことは、考えないようにしないと。
そうしないと、すぐにゲームオーバーになってしまう。
かといって、ここでゆっくりしていても終わる。
「探しに、行かないと……」
机を頼りにしながら、私は立ち上がる。
教室の後方に行けば、浅見冬弥がまだ倒れたまま、そこにいた。
近くで見ても、眠っているようにしか見えない。
実は、彼は眠っているだけで、あの人が「殺す」と脅し、嘘をついていたりしないだろうか。
私たちは、いい玩具にされているんじゃないか。
一度疑えば、確かめたくなってしまって、私はしゃがんで、恐る恐る浅見冬弥の口元に手を伸ばした。
寝ていれば、微かな風を感じるだろう。
だけど、なにも、感じない。
息をしている気配がない。
本当に、死んでいるんだ。
本当に、私たちを殺していくつもりなんだ。
その手伝いを、私がしなければならないなんて。
あの人は本当に、悪魔だ。
「茉衣ちゃん!」
唐突に叫び声が聞こえて、私は肩をビクつかせた。
そこにいたのは、五十嵐雛乃。
私の友達だ。
……いや、友達だった子、かもしれない。
雛乃は私の顔を見ると、安堵のため息ついた。
「……どうしたの?」
「えっと、さっき、茉衣ちゃんが逃げ遅れてた気がして……無事でよかった」
心から私を心配していたような顔。
こうして駆けつけてくれるなら、もっとはやく私のところに来てくれればよかったのに。
そんなふうに思ってしまった、自分が嫌だった。
私が不満に思っていることが顔に出てしまったのか、雛乃は視線を泳がせる。
お互いに、なにも言わない。
「……はやく逃げたほうがいいよ」
あの人には、クラスメイトを見つけたら教えろと言われたけれど。
雛乃が私のせいで死んでしまうのは、きっと、後味が悪い。
だから私は、五十嵐雛乃とは出会わなかったことにしたかった。
私が冷たく言い放ったせいか、雛乃はまだ気まずそうにしている。
「……ごめんね、茉衣ちゃん」
雛乃は小さな声で言うと、教室を出ていった。
独りになって、私はようやく教室から出る。
ずっと、仲がよかった雛乃。
私が瀬野明日香に目をつけられて、気付けば隣からいなくなっていた雛乃。
まだ私を気にしてくれるってことは、あのとき、私から離れたのは、雛乃の意思じゃなかったのかな。
なんて、これは私の都合のいい妄想だろうか。
瀬野明日香が、雛乃に命令していたとか。
なんだか、ありえそう。
それくらい、瀬野明日香にはこのクラスでは発言力があったから。
誰もが、瀬野明日香に逆らわないほうがいいとわかっている中で、私は、瀬野明日香に嫌われた。
スクールカーストトップの瀬野明日香が、なぜ私なんかに目をつけたのか。
――あんた、廉くんに色目使ってたでしょ。
瀬野明日香の好きな人、矢崎廉。
席替えをしたとき、彼が私の隣の席になった。
少し話すくらいは普通のことだろうに、瀬野明日香は、私が彼と話すことが気に入らなかったらしい。
そして、いじめが始まった。
無視をされて。
なにをしても嘲笑されて。
物もなくなったし、落書きだってされた。
身体に傷も増えて、私は笑い方を忘れてしまっていた。
高校生にもなって、こんな子供みたいなことをする人がいるのか。
そう呆れたと同時に、死ねばこの理不尽から開放されると思った。
それでも死ななかったのは、怖かったからだ。
今だってそう。
死ぬのが怖いから、あの人の言うことを聞いて、クラスメイトを探している。
私に死ぬ勇気があれば、とっくの昔に死んでいる。
もう、この世界には、生きる理由なんてないんだから。
「びっ……くりした……」
おもむろに化学室のドアを開けると、瀬野明日香と一番仲がよかった三原菜穂と若宮亜依がそこにいた。
二人は、ドアを開けたのが私だとわかると、安心したのちに、私を睨んだ。
「ちょっと、なにしてるの。はやく、どっか行ってよ」
「うちらがあの男に見つかったら、あんたのせいだから」
瀬野明日香が私を嫌っているから、私に敵意を向けていただけの人たち。
今、こうして睨んでくるのは、私が瀬野明日香を殺したことを知っているからだ。
それを大人たちに言わないのは、私がいじめを訴えれば、自分たちが責められることになると、わかっているから。
だから、お互いに真相にフタをしている。
それでも、こうして真実を知っている者同士が顔を合わせれば、当然のごとく、敵意は向けられる。
私は、なにも悪くないのに。
あの日、瀬野明日香が渡り廊下から落ちたのだって、わざとじゃないのに。
どうして私が、こんなに恨まれないといけないの?
そう思った刹那、私は、頭の中で彼の名を呼んだ。
――怜旺、化学室に……
そこまで考えて、私は唐突に恐ろしくなった。
これであの人がここに来て、二人を殺す。
私が、見つけたから。
そんな責任を負いたくなくて、私は数歩、後ずさりをした。
あの人が来る前に、ここを離れないと。
「おお、ちゃんといる」
すると、背後から彼の声がした。
彼は三原菜穂と若宮亜依を見つめて、ニヤリと笑った。
「は、ふざけんな、なんで」
「あんたのせいよ! 全部、あんたの」
動揺する三原菜穂と、怒りをぶつけてくる若宮亜依。
「そんな吠えるなよ」
二人の声が大きいから、彼の冷たい声が、余計に恐ろしく感じる。
彼は私の横を通り過ぎると、化学室に入っていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ! なんでアイツから殺さないの!?」
三原菜穂は、私を指さした。
「自分の駒をわざわざ殺すバカがいるかよ」
「はあ!? ありえないんだけど!」
二人は机にぶつかりながら、化学室の中を逃げ回る。
あんたが先に死ね。
お互いを押しのける姿は、そう言っているようで、醜く感じた。
そして二人が私がいないほうのドアから出ようとしたとき、二人は膝から崩れ落ちるように、その場に倒れた。
彼は、まだ二人には追いついていないのに。
一体、どうやって殺しているんだろう。
「これで十人、と」
また目の前で人が死ぬところを見て、私は吐きそうになっているというのに、彼はさらりと呟いた。
二十一人いて、十人?
もう、そんなに殺されているの?
雛乃は?
あの子も、もう殺された?
「この調子でどんどん見つけてこいよ、茉衣」
彼は、私の頭の中が整理できるのを待ってはくれなかった。
「……あの!」
三原菜穂と若宮亜依が逃げようとしたドアから出て、廊下を進む背中を呼び止めた。
彼は少し不機嫌そうに振り向く。
「……瀬野さんを殺した犯人を見つけたら、このゲームは終わりますか」
私が名乗り出れば、この地獄は。
「終わらねえよ?」
なにを当たり前のことを言っているんだ。
彼の表情は、そう言っていた。
そんなに、瀬野明日香を気に入っていたの?
そして、彼はまた私の中にある謎を解決せずに、クラスメイトたちを探しに行ってしまった。
やっぱり、大人しく従うしかないのか。
「……おい」
そう思っていると、誰かに背後から右肩を掴まれた。
それはかなり強い力で、思わず顔を顰めてしまう。
振り向けば、怒りを滲ませた真山侑生がそこにいた。
それだけではない。
江南幸太に高遠凌空もいる。
浅見冬弥を殺されたことに怒りを抱いている三人。
なぜ私を捕まえ、睨むのか。
それはきっと。
「お前、アイツとグルだったんだな」
「このゲームが始まったのも、お前のせいか?」
「明日香たちに虐められた腹いせかよ。なあ」
真山侑生が軽い力で私を押すと、私は簡単に尻もちをついてしまった。
ただでさえ私よりも背が高い三人。
床から見上げれば、もっと恐ろしい存在に見える。
なにか言い返さないと。
そう思うのに、反抗したときの報復がどれほどのものかを知っているから、私の身体はただ震えるだけだった。
「関係ない奴巻き込んでまで、復讐したかったのかよ」
「マジでふざけんな。冬弥を返せ」
「てか、お前だけが死んでろよ」
容赦ない暴言たち。
なんで私が。
なんで。
私は、なにもしてない。
悔しさで、握った拳に力が入る。
「……ったく、明日香の周りにはうるせえ奴しかいないのか」
どこかに行ってしまったと思っていた彼が、どうやら戻ってきたらしい。
私を助けに来たのか、彼らを殺しに来たのかは、定かではないけれど。
この状況で安心してしまう私は、もう、悪魔に魂を売ってしまったのかもしれない。
「お前……なんで明日香のこと、知ってんだよ」
「そりゃあ、明日香は俺のお気に入りだったからな」
真山侑生たちと、彼が睨み合っている。
逃げるなら、今しかない。
「……じゃあ、なんでソイツとつるんでるんだよ」
立ち上がって逃げようとしたとき、江南幸太の発言が私の身体を捕らえた。
ダメ、はやく、逃げないと。
「そりゃあもちろん」
「瀬野を殺したの、ソイツなのに」
時間が、止まった気がした。
私が瀬野明日香を殺したということを知っているのは、三原菜穂と若宮亜依だけではなかった。
彼女たちが仲良くしていた真山侑生たちにも、その情報は共有されていて。
ああ、思い出してしまった。
なぜ、あの教室が地獄だったのか。
その噂は瞬く間に広まって。
見て見ぬフリをしていた人たちも、完全に私の敵になった。
味方なんていなかった。
避けられて、後ろ指さされて、睨まれて。
もうこんな世界、捨ててやるって、思ったんだ。
だったら、今、この人に殺されたって構わない。
彼の真っ黒な瞳に捕らえられ、そう思った。
「茉衣ちゃん、逃げるよ!」
大人しく、死の瞬間を受け入れようとしていたら、誰かに腕を引っ張られた。
雛乃だ。
私よりも足が遅いと記憶していたのに、雛乃は私の前を走り続けた。
足を止めたのは、一年二組の教室。
私たちが出会った場所だ。
廊下側にある、真ん中辺りの机に隠れるように、雛乃はしゃがんだ。
私はその隣に腰を下ろす。
全力疾走していた雛乃は、声を殺して息を整えている。
あんなことを言ったのに。
あんな態度をとったのに。
どうして。
私が雛乃を見ていることに気付くと、雛乃は柔らかく微笑んだ。
「間に合ってよかった」
「……なんで、助けたの」
こんな言い方しかできない自分が、嫌いだ。
助けてくれてありがとう、くらい言えないのか。
また困った顔をする雛乃を見て、私は自分を責めた。
「……もう、後悔したくなくて。私はいつも弱くて、茉衣ちゃんを助けられなかったから」
悪魔に魂を売ってしまった私の心に、雛乃の優しさは、まるで解毒剤のようで。
こんなにも暖かくて、泣きそうになる優しさを、私は忘れてしまっていたなんて。
「茉衣ちゃん、覚えてる? 一年のときの、遠足のこと」
私は小さく頷く。
柊学園では、入学してからすぐに、親睦を深めるため、なんて名目で遠足が行われる。
ただ近くの公園まで歩いていくだけという、つまらない行事。
だけど、クラスメイトといろいろ話しながら歩くため、案外目的は達成されるイベント。
そこで、体力のない雛乃は、気付けばクラスの列から離れていた。
私は、そんな雛乃の隣に行き、一緒に歩いていた。
なんで、そんなことしたんだっけ。
「私、いきなりみんなとは合わないのかもって自信なくなってたから、茉衣ちゃんが一緒に歩いてくれたの、本当に嬉しかったんだ」
だけど、雛乃は、あのとき、私の傍にいてくれなかった。
そんな残酷なことを思ってしまう私は、雛乃の友達と言える?
「独りになる怖さを知ってるのに、茉衣ちゃんの傍にいてあげられなくて、ごめん」
雛乃は、そっと私の手を取った。
そして強く握りしめられる。
「ごめんね、茉衣ちゃん」
ああ、やっぱり、雛乃が死ぬのは嫌だ。
私が死ぬだけで、終わらせてよ。
ねえ、怜旺。
「……茉衣ちゃん?」
そっと雛乃の手を下ろすと、雛乃は不安そうに私を見てくる。
怜旺に呼びかけたから、もうすぐ怜旺はここに来るだろう。
雛乃まで見つかる前に、ここを離れないと。
「なにしてるの、茉衣ちゃん、見つかっちゃう」
私が立ち上がったことで、雛乃は慌てている。
ごめんね、雛乃。
そして、ありがとう。
「……雛乃。私は、雛乃を許すよ」
「茉衣ちゃん……?」
困惑した雛乃の声を聞きながら、私は視界の端に彼の姿を捉えた。
逃げることは、叶わなかった。
だとすれば、雛乃を守り切るだけだ。
彼はまっすぐに私たちがいる教室に入る。
「最後の一人、見つけたか?」
それはつまり、雛乃が残った一人ということ。
そんなにも殺されてしまったなんて。
私が、瀬野明日香を殺したせいで。
「……私を殺して、ゲームを終わらせてください」
雛乃だけは、絶対に殺させない。
そんな強い思いで、私は雛乃の前に立った。
相変わらず、冷たい瞳。
その視線だけで、殺されてしまいそう。
「ダメだよ、茉衣ちゃん! 茉衣ちゃんだけが死ぬなんて!」
「……外野がうるさいな」
彼がそう呟くと同時に、雛乃の声がしなくなった。
振り向くと、雛乃もみんなと同じように、倒れている。
私を殺してって、言ったのに。
なんで。
私は憎しみを込めて彼を睨む。
「あーあ。つまんねえ奴になっちゃって。この世の全部が敵、みたいな顔が気に入ってたのになあ。やっぱり、さっさと殺しておけばよかったかな」
私が睨んでいることなんて、まったく効いていなくて、彼はつまらなさそうに言った。
「まあいいや。あんたが死んで、ゲームセットだ」
彼は、浅見冬弥にしたみたく、指を拳銃に見立てて、私に向けた。
結局、こうなるのか。
だけど、ちゃんと雛乃と話すことができたから。
後悔はない。
……バイバイ、雛乃。
◆
人間は、死ぬと焼かれるらしい。
火葬場と言っただろうか。
人街から離れたそこを、彼女は木の上に座り、ただ静かに眺めていた。
「あんなの見て、なにが楽しいんだよ。天寧」
「……楽しさは求めていませんよ、怜旺さん」
俺は「あっそ」と軽く返しながら、天寧の隣に立つ。
青い空に向かって、煙が立っている。
人間は、これを人の魂が天界に登っている、なんて言うんだから、面白い。
「……無理を言って、すみませんでした」
天寧と同じく、ただ煙を眺めていると、天寧がそう言った。
天寧は数日前、悪魔である俺に頼みごとをしてきた。
――鳴海茉衣さんの魂を救ってほしい。
他者を恨んだまま、自ら命を絶った、鳴海茉衣。
俺がその魂を先に見つけていれば、そのまま悪魔に生まれ変わっていた。
だが、天使である天寧が見つけるほうが、少しばかり速かった。
そして、そのことに気付いた天寧は、見て見ぬ振りができなかったらしい。
運命を捻じ曲げれば、自分に返ってくるというのに。
天使というのは、本当に面倒な存在だ。
「……いいさ。俺が勝手に復讐したかっただけだからな」
明日香の、人とは思えない残酷さが気に入っていた。
たったそれだけで、俺は勝手に明日香に付いて回っていた。
まあ、それを壊されたのは気に入らなかったが、おもちゃが長くは持たないことを、俺は知っている。
だから、復讐なんてどうでもよかった。
ただ、天使が悪魔に頼ってくることが面白くて、手を貸しただけ。
それも、大して残酷でもなんでもない、つまらない夢を見せただけ。
多くの悲鳴を聞けたのは満足だが、実際には殺していない以上、俺としては、消化不良とも言える。
しかしながら、最期の鳴海茉衣の表情。
俺を憎んでいる眼。
あれはきっと、悪魔には生まれ変わらないだろう。
つまり、天寧の目的は達成されたということだ。
「でもいいのか? アイツらは、変な夢を見たとしか思ってないだろうけど」
天寧に頼まれたのは、鳴海茉衣の魂を救うことのみ。
それ以外の魂を刈れば、俺が規定違反で消される。
それはつまらない結果だから、実行しなかった。
「……構いません。彼女を苦しめたことに気付けない魂は、自ら心を入れ替えない限り、天には登れませんから」
天使らしからぬ発言が返ってきて、思わず口角が上がる。
こんなにも面白い奴が、もう天使ではいられないなんて、つまらない理があるもんだ。
「……怜旺さん、案外、無意味ではなかったのかもしれませんよ」
すると、天寧は火葬場の出入り口を見て言った。
そこには、五十嵐雛乃の姿がある。
五十嵐雛乃は、目を真っ赤にしているが、その表情には後悔が残っていないように見える。
そういえば、最期のとき、なにか話していたな。
あれで後悔が消えたのか。
「いいことをしましたね、怜旺さん」
「……冗談やめてくれ」
俺はむず痒くなって、その場から離れた。
鳴海茉衣の魂を救ったところで、この世界は変わらない。
さて、次のおもちゃはどれにしようか。