8月21日、私はほとんど眠ることができずに朝を迎えた。
 それでも2時間くらいは意識を失っていたようで、右手に握りしめていたスマホにはっと目をやると、Xの通知が何十件も届いていることに気づいた。
 結人からはやっぱり何もメッセージがない。未読状態のままだ。ついでに立花先生とのトーク画面も確認したが、こちらも同様だった。

 諦め半分で今度はXを開く。
 昨日、結人について呼びかけたポストに対する返信やDMの数々が表示された画面に、ごくりと生唾をのみこむ。万単位でリポストされているのを見て驚いた。DMや引用ポストも多数寄せられている。けれど、本人の所在を教えてくれるものはなかった。ほとんどが結人のことを心配する声だったが、その中にいくつか、「神谷先生の本名を教えてください」といった内容が見受けられた。

「そっか、そうだよね」

 昨日の自分のポストを見返してみると、「神谷結人」や「榊しのぶ」というペンネームは書いていましたが、肝心な本名についてどこにも触れていなかった。いつも結人とはお互いにペンネームで呼び合っていたので、本名を記すのをすっかり忘れていた。事件性があるかもしれない以上、本名が分からなければ、たとえ情報を知っている人がいても何も教えてもらえないだろう。私は、早朝から昨日同様に、結人について情報が欲しいと呼びかける投稿をした。
 
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葉方萌生@HakataMei 1m

【拡散希望】
神谷結人について、昨日はたくさんの方にポストを見ていただき、
ありがとうございました。
神谷について肝心な本名が抜けておりました。
彼の名前は、瀬戸祐介と言います。
東京墨田区に暮らしている二十八歳です。
どうか、彼の居場所について知っていることがあれば教えてください。
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 瀬戸祐介という名前を、久しぶりに文字にして打った。彼と初めて高校で出会った時には、瀬戸くん、と呼んでいたことを思い出す。その後すぐに結人と呼ぶようになったので、もう長いことその名前を口にしてはいなかった。

 祐介くん。

 ふと、頭の中で誰かがそう口にする声が蘇る。

 祐介くん。
 
 女の子の声だ。
 何度も何度も、彼の名前を呼んでいた。私と結人が二人で昼休みに談笑している時も、スポーツ大会の日に結人が大活躍している最中にも、彼女はずっと「祐介くん」と結人の名前を呼んでいた。
 教室の隅っこで、長い髪の毛の隙間から二つの瞳をじっと結人に向けている。私はちょっと、目を合わせるのが怖くて彼女の声が聞こえないふりをしていた。

——ねえ、あいつさ、いっつも瀬戸のこと睨んでない?

——分かる。ずっとこわ〜って思ってた。

——だよね? 瀬戸と同中出身らしいよ。でもずっと瀬戸に相手されてない感じ、イタイよね。

——まじでそれ。ブスで陰気。ていうか、雪村さんと瀬戸が仲良くしてるの僻んでるんじゃない? 

——うわ、それはないわー。雪村さんの方が瀬戸にお似合いなのにね。親が議員だかなんだか知らないけど、権力ではどうにもならないことってあるのにね。

——さすがに、瀬戸の気持ちは金と権力ではどうにもならん。

——言えてる。潔く諦めろって、三浦。雪村さんと瀬戸のストーカーかよ。


 三浦園子——彼女のことを嗤うクラスメイトたちの声を、私はしっかりと耳にしていた。
 陰口を言われていることは純粋にかわいそうだと思った。けれど、自ら彼女に話しかける勇気は私にはなくて。結人は結人で、園子から呼びかけられてもあっさりとした対応しかしない。中学の頃、二人の間で何かあったんだろうか。思い切って結人に尋ねてみると、なんと園子から5回以上告白されたことがあり、困っていると答えた。

——何回断ってもめげないんだよ。俺はたぶん、あいつを好きになることはないのにさ。

 眉間に皺を寄せて、ため息をつきながら答えた結人。私は何度想いを伝えてもすげない態度を取られる園子に同情しつつ、こればかりはどうしようもないと思っていた。

 やがてクラスメイトたちの園子への当たりの強さが悪化し、彼女は学校に来なくなった。もしかしたら保健室登校などしていたのかもしれないが、とにかくある時期から教室には顔を出さなくなったのだ。
 受験期になり、地元の大学に進学したとは聞いたけれど、その後のことは結人からも何も聞いていない。私は結人と共に京都の大学に進学して、高校時代の話よりも、目の前で繰り広げられる悠々自適な大学生活を満喫していた。