夫の久右衛門(きゅうえもん)は日々()を歩いて練り歩くいわゆる行商でした。
 そんな久右衛門と(わたくし)、よねは遠い親戚に当たります。親同士が決めた結婚でしたが、結婚当初から私を快く受け入れて慈しんでくれた久右衛門のことを、私もすぐに好きになりました。

 久右衛門は口が上手く、そのおかげか鮎も飛ぶように売れていきます。彼が天秤棒を持ち、菅笠をかぶるだけで人が寄ってくる——そんな噂さえ流れるほどでした。一日の大半は家を留守にしている久右衛門。彼が商売に出ている間、私は商売がより繁盛するように、丁稚(でっち)の採用や教育に励んでいました。

 とても幸せで満ち足りた結婚生活だったと思います。
 でも、幸福な結婚生活は、次第に翳りを帯びるようになりました。
 結婚7年目に差し掛かった頃です。相変わらず鮎の売れ行きはとどまるところを知らず、結婚生活も、丁稚の教育も、商売人の妻としても心得もすっかり板についていた時分です。久右衛門のそばに、女の影が見えるようになりました。
 女というものは恐ろしいものです。
 たとえ相手の女の姿を目にしていなくても、夫の不実にはすぐに気がつくものです。これが女の勘というものでしょうか。きっかけは久右衛門が寝ている間に、「おきよ」と知らぬ女の名前を口にしたことでした。

 きよ、という名前を、私は聞いたことがありました。
 確か、私と同じように、商家に嫁いだ娘の名前です。おきよの旦那は反物売りだったと思います。顔を見たことはありませんが、この辺りでは「反物屋の娘が美しい」と有名でした。久右衛門が寝言で口にした「おきよ」という人物が、反物屋の妻の名前であるかについて、はっきりとした根拠があるわけではありません。けれど、商売に出ている時の久右衛門の行動を、私は正確に把握していないので、言ってしまえば夫が外に出ている間、どこで何をしているかなど知る由もないのでした。

 一日の終わりに売れ行きの報告は受けるものの、報告されないことについては分かりません。
 私はとある一日に、こっそりと久右衛門の後をつけてみることにしました。
 愛しい夫のことを疑う日々に、嫌気がさしていたと言えばそうです。彼が無実であることを一番に信じたかったのは、他でもない私だったのですから。

 結果は——散々なものでした。
 久右衛門は商売の途中で反物屋にこっそりとしのびこんだかと思うと、そこから小一時間は出てきませんでした。中からは男女のまぐわう声がかすかに聞こえてきます。私はあっと口を押さえ、耐えられなくなってその場から逃げて参りました。

 その頃の私は、女たちの間で流行っていた人情本という娯楽小説にはまっていました。貸本屋に行けば簡単に借りることができたので、夫が留守にしている間の娯楽として、本を読み漁っていたのです。
 その中でもとりわけ有名な、為永春水の『春色梅児誉美』が好きでした。人情本を読み始めてしばらく経ちますが、『春色梅児誉美』を読んでいる時の興奮と言ったら表現しきれません。

 夫の不倫が発覚してからというもの、人情本を読み漁ることだけが、私に心の拠り所になっていました。時にご近所の女友達同士で語り合うこともあります。とにかく、夫の不倫から目を逸らしたくて仕方がありませんでした。

 そんな『春色梅児誉美』が、幕府の改革によって取り締まりの対象とされてしまったのもちょうどその時分でした。作者の為永春水が処罰され、私は唯一の娯楽を失ってしまったのです。

 私は泣きました。
 夫がいない家でひとり、さめざめと涙を流す自分がひどく惨めに思えて仕方ありません。同時に襲ってきたのはやっぱり、きよという女への憎しみでした。
 ああ、どうして女はこうなのでしょう。
 一番悪いのは私を裏切った夫であるはずなのに、憎しみの矛先は相手の女に向いてしまうものです。きよが、夫をたぶらかしたのではないか——そんなふうに考えると止まりませんでした。

 それだけではありません。
 なんと夫は、きよと一緒になりたいがために、私に三行半を突きつけてきたのです。
 悪いのは私じゃない、あなたの方がきよと不実をはたらいたのだ、と主張しても、口が上手い彼は上手に交わしてしまいます。私の愛情が欠落していたから、他の女を好きになったのだと言われてしまい、嫁入りの際に私が持ってきた持参金まで持っていってしまったのです。

 町では私たちのことが噂になりました。けれど、誰一人として久右衛門を責める者はいません。久右衛門に対して町中の人間は絶大な信頼を寄せていました。「久右衛門が逃げ出したくなるような非道なことを、およねがしたのだ」とあらぬ方向へ話がねじまげられ、私にはもうどうすることもできませんでした。久右衛門を失うならば、自分が責められようと彼が責められようと、知ったこっちゃありません。最愛の人を失うことに変わりないならば、弁明する気力すらなくなってしまったんです。

 それからの私の荒れようは察するに難くないと思います。
 夫を失っただけでなく、心の拠り所にしていた人情本も、もう読むことができません。生きる希望を一気に失ってしまい、心が空っぽになっていました。

「私がすべて悪うございました。あなた、私はもう少し償いたいの。おきよさんと一緒に話を聞いてくれないかしら」

 心がおかしくなっていた私は、とうとう離縁を受け入れたふりをしました。久右衛門に“罪を償いたい”と申し出て、おきよと共に自分の前に現れるように申し出ました。大雨が降りしきる、夏の夜のことでした。
 久右衛門は私から持参金の他に嫁入り道具や私物をもらえると思ったでしょう。喜びいさんできよと共にやってきました。
 玄関の扉をきっちりと閉め、久右衛門、おきよと話をしました。
 外は雷の音も鳴り響き、家の中でどんな物音を立てても、他の家までは聞こえなかったでしょう。

 私は、二人にご馳走を振舞いました。最後の宴だとお酒を出し、二人を泥酔させました。二人とも、最初は訝しげにこの奇妙な晩餐に参加していましたが、ひとたびお酒を飲むと陽気になっていきました。それから数時間して、ぐっすりと眠りこけてしまったのです。

 抱き合うようにして眠りこけている二人を引き剥がし、自分の着物の帯締めを外した私は、まずおきよの首を一気に締め上げました。眠っていたおきよはカッと目を見開き助けを求めましたが、やがてすぐに力尽きてしまいました。
 その後、同じ要領で久右衛門も首に紐をかけました。さすがに男性ということもあり、こちらはかなり苦戦しました。久右衛門は泡を吹きながら、カリカリと首元の紐を引っ掻き、帯締めを解こうとします。ですが、無抵抗で不意打ちにあった彼にはどうすることもできず、鬼の形相をした私の手によって息絶えました。

 気がつけば汗だくになっていました。
 私は最後に、二人を殺めた帯締めをじっと見つめると、それを自分の首にかけました。
 ああ、もうこれ以上どうにもならないと思ったことはありません。
 どうか来世では、愛する人と最後まで添い遂げられますように。
 そう願いながら、ぎゅっと両手に力を込めました。