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 夢を見ていた。
 とても懐かしく、愛おしい記憶。

「猫は甘い物を食べられるのかしら」

 俺と視線を合わせるために、桜子はしゃがみ込んだ。
 差し出されたあれは、なんだっただろうか。
 あのとき桜子に甘い物をもらう前に、桜子が連れ去られたから、覚えていない。
 いつだって、アイツは桜子に哀しい顔をさせていた。
 俺は何度も、桜子が引きずられるように去る姿を見てきた。
 いつか、俺と会うことが嫌になって来なくなるかもしれない。
 そう不安に思っていたが、桜子は変わらず俺の元に来てくれた。

「こんにちは、猫さん」

 別れ際とは異なり、いつだって柔らかく微笑んで。

「猫さんは暖かいのね」

 いつだって、少し冷たい手で優しく撫でてくれた。
 そんな桜子が愛おしくて。
 だからあの日、俺はアイツから桜子を守ろうとしたんだ。
 だが、あっさりと人間に追い払われてしまった。

「おやおや。人間を守って死ぬとは、可哀想な黒猫だ」

 意識が遠のいていく中で、奴の声が聞こえた。

「おはよう、黒猫くん」

 再び目を覚ましたときには、俺は猫ではなくなっていた。
 桜子への想いが未練へと変わり、成仏できなかったのだろうと奴は言った。
 奴は緋翠(ひすい)。緋翠は人間の夢を覗いては、悪夢を喰らう妖らしい。
 なぜ俺に目をつけたのか。一度聞いたことがあるが、ただの気まぐれだと笑っていた。

「君に名をあげないとね。瑚羽(こはね)、なにかいい案はないかい?」

 緋翠の傍には、雀の妖がいた。人のような姿のときは、まるで少女のような妖だ。
 瑚羽は心底興味なさそうに俺を見る。

「……夜」
「なるほど。黒猫くんだものね」

 そして俺は、黎夜という名をもらった。
 人間に化けることも教わり、俺は桜子に会いに行った。

「黎夜様」

 桜子に名を呼ばれ、桜子と言葉を交わす。桜子がしゃがむことなく、視線が合わさる。
 猫だったころよりも逢瀬を繰り返し、とてつもなく愛おしい日々が過ぎ去っていった。
 もっと。
 もっと、桜子と過ごしたい。
 そんなささやかな願いすらも、アイツに奪われた。

「ごめんなさい、黎夜様……」

 涙を浮かべる桜子。
 違う。俺が見たいのは、そんな顔じゃない。

「生まれ変わっても、また、君を見つける」

 たとえ桜子の姿ではなくなったとしても、必ず見つけ出す。
 その強い意志が伝わったのか、桜子は瞳をうるわせながら、微笑んだ。

「……ありがとう、黎夜様」

 そして、桜子が水神への生贄として捧げられるとき。

「さようなら」

 雨にかき消されてしまった、桜子の声。
 怯えるのではなく、ただ柔らかく、静かに微笑んだ桜子。

「桜子!」

 俺が名を呼んでも。思いっきり手を伸ばしても。
 もう一生、桜子には届かない。



   ✿



「おはよう、黎夜くん」

 目を覚ますと、緋翠の薄ら笑い顔が目の前にあった。
 夢の内容を覚えているから、緋翠が気持ちの悪い顔をしている理由は、なんとなく察した。

「また悪夢を見たようだね。私が喰らってあげようか」

 聞き飽きた言葉に、思わずため息が出る。

「お前に喰わせる夢はないって、何回言えばわかるんだよ」

 緋翠を押しのけながら身体を起こすと、その奥にいた瑚羽が俺をじっと見つめてきた。
 まるで俺を見下しているようにも感じる。

「……黒猫の意地っ張り。生きてたころの嫌な思い出なんて……緋翠に喰らってもらったらいいのに」

 瑚羽は昔、人間に虐められて死んでしまったらしい。
 妖になったばかりのとき、その夢にうなされることが多く、緋翠にその夢を喰わしたとか。
 そして悪夢は見なくなったらしいが……

「……嫌だと思ったことなんて、一度もないっつーの」

 悪夢の原因は、記憶。
 緋翠に悪夢を喰われたら、記憶まで欠けるだろう。
 たしかに、桜子の死に際なんて思い出したくない。
 だけど、どの瞬間の桜子も忘れたくなくて、俺は緋翠に夢を渡したくないのだ。
 渡してたまるものか。

「相変わらず一途だね、黎夜くんは」

 緋翠はクスクスと笑う。
 なんだか、嘲笑われている気分だ。
 面白くなくて、俺はその場を離れるべく、立ち上がった。

「その桜子が生まれ変わったと知ったら、君はどうするのだろうね?」

 緋翠の妙な言葉に、つい足を止めてしまった。
 振り返れば、緋翠はまた薄ら笑いを浮かべている。
 これはろくなことを考えていない顔だ。

「いやなに、人の世で面白い夢を探していたのだけれど、君と桜子の過去を夢見ている子がいたのだよ。あれはきっと、桜子の生まれ変わりだね」

 桜子の、生まれ変わり……

『生まれ変わっても、また、君を見つける』

 夢を見たからか、過去の自分の言葉とそれを聞いた桜子の顔が脳裏によぎった。
 何十年、いや、何百年も逢いたいと願った、愛しい人。
 また、桜子に逢えるかもしれない。

「……だから?」

 今すぐにでも駆け出したい気持ちを抑えて、興味のないフリをする。

「逢いに行かないのかい?」

 案の定、緋翠は驚き、つまらなそうにした。
 やはり、俺を暇つぶしに使おうとしていたらしい。
 おもちゃにされるのは、ごめんだ。

「……行かない」

 俺は猫に姿を変え、今度こそその場を離れた。
 慣れてしまった、妖の世。
 毎日祭りのように騒ぐ奴らの足元を、踏まれないように掻い潜りながら進んでいく。
 緋翠にはああ言ったが、どうにも気になってしまい、俺は人の世に出た。
 先刻すれ違った、妙に気になる娘。
 あれがきっと、桜子の生まれ変わりなのだろう。
 あれが……

「猫ちゃん?」

 無意識にたどり着いたのは、桜子の最期の場所。
 そして、あの娘と出会った場所。
 しかし、まさか娘に声をかけられるなんて。

「おいで、猫ちゃん」

 娘はしゃがみ、手を広げるが、俺は近寄ってもいいのか迷ってしまった。
 あの娘と触れ合ってしまったら、きっと、俺はもう戻れない。
 そんな予感がした。

「あ、そうだ……クッキー、食べれる?」

 娘は懐から甘い匂いのする食べ物を取り出した。
 ああ、まさか、桜子と同じようなことをしてくるなんて。
 あの日のやり直しをさせてもらえるなんて。
 この娘は、そこまで記憶を取り戻したのだろうか。

「猫ちゃん? やっぱり、猫に甘い物はダメなのかな」

 娘は言いながら、クッキーを引いた。
 ダメだ、あの日を繰り返すのだけは、絶対に。
 俺は娘に擦り寄ると、クッキーを齧った。
 すると、娘は柔らかく微笑んだ。
 それが桜子と重なり、目の前にいるのは桜子ではないのに、桜子がそこにいるように錯覚してしまった。
 俺が戸惑っている隙に、娘はそっと、俺の頭を撫でる。
 桜子の冷たい手とは違って、温かい手。
 桜子のように優しいけれど、少しだけ逞しい指先は、桜子のものではない。
 ちょっとした違和感が、妙に残酷に感じた。
 少しずつ娘の手がぎこちなく動くから、俺は視線を上げた。
 娘は、浮かない顔をしている。

「あのね、猫ちゃん。私、今日猫ちゃんの夢を見たの……その夢でね、猫ちゃんが男の人にケガをさせられたんだけど……」

 娘は今一度、しっかりと俺を撫でた。

「元気な猫ちゃんに会えてよかった」

 それは、とても柔らかい声だった。

『よかった……あの子、生きていたのですね』

 人の姿をして逢いに行ったとき、桜子もそんなふうに俺の心配をしてくれていた。
 少しずつ桜子と娘が重なるが、どうにも違和感が拭えない。

「……それでね。あの人も、夢に出てきたんだ」

 そうだ。
 娘は、まだ一度も思い出したとは言っていない。
 すべて、夢として語っている。
 この寂寥感の正体は、それか。

「朝もあの人の夢を見て、素敵だなあって思ってたのに……やっぱり、桜子のことが一番なんだってわかっちゃって」

 それを聞いて、俺は気付かされた。
 俺はあの日で時間が止まっているから、また桜子との時間を刻むことができるだろうなんて浮かれていたけれど。
 あの日の続きを過ごすことなんて、できやしないんだ。
 ここにいるのは、桜子であり、桜子ではないのだから。

「どうせ夢を見せるなら、知らない誰かを見ているあの人じゃなくて……私を見てくれる素敵な男の人との楽しい時間を見せてくれればいいのにね」

 娘は少し寂しそうに言った。
 まるで、あの日々を思い出すことを嫌がっているような……
 俺は、桜子がどんな姿をしていても愛する自信があった。
 あの日々よりも穏やかになった今なら、二人の幸せな時間をやり直せるのだと浮かれていた。
 けれど、それは俺の勝手な思い。
 桜子や娘がどう思うかなんて、微塵も考えていなかった。
 桜子はとうの昔にいなくなった。
 ここにいるのは、今俺に触れているのは、桜子の魂から生まれ変わった別の娘。
 優先すべきは、娘の気持ちだろう。
 娘にとって、俺たちの過去はきっと、毒だ。

「……なんて、夢になにを期待してるんだろうね」

 ごめん。つらい思いをさせて、ごめん。
 娘がまだ夢だと思っている今が好機だ。

「あ、猫ちゃん……」

 俺が娘の手から離れると、娘の名残惜しい声が聞こえた。
 振り向くと、娘の眉が八の字になっている。
 ああ、そこまで桜子と重なるなんて。
 頼むよ。俺に、未練を重ねさせないでくれ。
 君は、君の時間を生きるんだ。
 俺は後ろ髪を引かれる思いで、妖の世に戻った。

   ✿

 妖の世に戻ると、俺は緋翠の屋敷に急いだ。
 はやく。また、あの娘が夢を見てしまう前に。

「瑚羽!」

 緋翠よりも先に少女姿の瑚羽を見かけて呼びかけたが、瑚羽は振り返ることなくどこかに向かっている。
 無視をされるのはいつものことだが、急いでいる今、その態度が腹立たしく感じた。
 俺は瑚羽を追いかけ、その前に立った。
 不服そうな視線が、下から向けられる。
 理不尽に嫌われていることに慣れてしまった今、それを無視して本題に入る。

「緋翠、どこにいるか知らない?」
「……記憶、喰らってもらう気に……なった?」
「あー……まあ、そんなとこ」

 説明をしている暇もなく、適当に流してしまったのは、瑚羽をより不快にしてしまうかもしれないと思ったが、案外興味がなかったようで、瑚羽は「ふーん……」と相槌を打った。

「緋翠なら……美味しい夢を喰らったから、呑んでくるって……いつものお店に、いるんじゃない?」
「わかった、ありがとう」

 俺は屋敷を飛び出て、緋翠の行きつけの店に向かった。
 しかしながら、人の姿をするようになって長いというのに、こうして走るときには不便だと感じてしまう。
 猫の姿に変えてから走ればよかった。
 そんな後悔をしながら足を進め、店にたどり着くと、もう酔っ払った緋翠を見つけた。

「おや、黎夜くん。そんなに急いでどうしたんだい?」

 俺の焦燥感とは裏腹に、緋翠は目の前の酒を嗜んでいる。
 焚き付けたくせに、呑気な奴め。

「……夢を」

 たったその一言だけで、緋翠は口角を上げた。

「とうとう私に捧げる気になったのかい?」
「……いや、俺の記憶はやらない」

 何度目か知らないやり取りに、緋翠は口を尖らせる。
 酒が入っていることもあり、表情がころころと変わっていく。
 次々と展開を見せる紙芝居のようだ。

「俺のじゃなくて……桜子の、生まれ変わりという娘の夢を、喰ってほしい」

 緋翠はゆっくりと瞬きをした。
 先刻までの勢いが緩まり、まるで時が止まったかのよう。
 お猪口に残った酒を呷ると、またにんまりと笑った。

「それは面白い申し出だね。しかし、なぜそんなことを言うんだい? 地獄である記憶を幸せな時間に塗り替える好機だろう?」

 俺だって、そう思った。やり直す好機だと。
 浮かれて、人の世に向かった。
 だから、それを否定する気は一切ない。
 ……でも。

「あの娘は、桜子の生まれ変わりだろう。だけど……桜子ではないんだ」

 若干小難しい言い回しをしたせいか、緋翠は首を捻る。

「……とにかく、娘は娘の時間を生きなければならない。俺の後悔に付き合わせるわけにはいかない」
「黎夜くんは優しいねえ。もっと我がままに生きればいいのに」

 あの娘に会うまでは、そのつもりだった。
 自分の欲のままに突き進もうとした。
 だけど、あの困ったような、寂しそうな顔を見ていると、その気も失せた。
 あの娘には、あの娘なりの幸せを掴んでほしい。
 桜子が叶えられなかった自由な道を歩んでほしい。
 そう、思ってしまったんだ。

「……わかったよ。あの娘の夢はとびきり美味しそうだったからね」

 緋翠はそう言うと席を立ち、身体を伸ばした。

「私は早速、人の世に向かうけれど、黎夜くんも行くかい?」
「……やめておく」

 あの娘から桜子の面影が抜き取られる瞬間を見ればきっと、俺は緋翠を止めてしまう。
 この決意が揺らいでしまうことがわかっていて、ついて行こうとは微塵も思わなかった。

「……そうかい」

 緋翠はそれだけを言うと、俺の横を通って、店を離れた。
 振り向くと、緋翠の姿はたくさんの妖に隠されてしまったようで、見当たらない。
 なんとも賑やかになってきた。
 ああ、そうか。妖が活発になる夜がやってくるのか。
 あの娘に桜子の欠片が残る最後の夜が。
 俺は猫に姿を変え、人の世に出た。
 向かうのは、あの橋。
 川面で月が揺れる。

『月が、綺麗ですよ』

 あの日見た月も、今日のように美しかった。
 人の姿になれば手が届くだろうかと思ったこともあったが、あれはきっと、誰の手にも届かないから、美しいのだろう。
 見ていることしかできない月。
 ただ遠くで、見ているだけ。

「……黎夜くん」

 静かな空間で、緋翠の声が耳に届く。
 声がしたほうを向けば、緋翠と、その後ろに瑚羽がいる。

「君の望み通り、彼女の夢を喰らってきた。彼女が君たちのことを夢に見る日は、もう来ないだろうね」
「……そっか。ありがとう」

 闇に攫われてしまいそうな声で返すと、再び月を見上げた。
 互いになにも言わない時間。

ーーこれでよかったのかい?

 きっと緋翠は、そう言いたいはずだ。
 けれど、一向に言ってこない。

「……瑚羽と先に帰っているね」

 緋翠の言葉をきっかけに、俺は独りになった。
 静まり返る空間。有るのは月だけ。
 つまり、俺が涙を零したのを知っているのも、月だけ。

「約束……守れなくてごめん」

 俺の言葉は、どこに届くのだろう。
 桜子に届いてくれるだろうか。
 いや、届いてほしい。

「……桜子のことは、永遠に忘れないよ」

 だからまた、夢で逢おう。
 そう心に誓って、俺は揺れる月に背を向けた。



   ❀



「百華、おはよ!」

 いつものように、莉奈と待ち合わせをする朝。
 欠伸が出てしまうのも、いつものこと。

「そういえば、あの夢の話、どうなった?」

 莉奈は、なにかを期待した目を私に向けてくる。

「夢って?」
「イケメンが出てきたって夢! 昨日話してたのに、忘れちゃったの?」

 信じられないと言わんばかりの反応。
 夢……ああ、そんな話もした気がする。

「だって、夢だよ? そんな覚えてないって」
「まあそっか、そんなもんだよねー」

 私の返しを聞いて、莉奈の話題は優真くんのことに変わった。
 それをいつも通り右耳から左耳に流していると、視線を感じた。
 車が一台しか通れないような狭い道で、青い眼をした黒猫が、じっとこちらを見つめている。

「百華、どうした?」
「ねえ莉奈、あの子、昨日の子じゃない?」
「あ、本当だ」

 莉奈が今日こそは写真を撮ろうとポケットからスマホを取り出したのと同時に、黒猫は背を向けて影の中に消えていってしまった。

「もう、あの子逃げ足速すぎ」
「だね」

 そして私たちはまた足を進める。

「そうだ、百華。今日の放課後、合コン行かない? イケメン大学生が集まってるんだって」

 ちょっと年上の男の人、か。
 なんだか、大人の魅力があって素敵かも。

「……行こうかな」

 すると、莉奈は驚いた顔を浮かべて、私を見ている。

「……なに?」
「いや、てっきり行かないって言われると思ってたから」

 たしかに、この手の誘いに乗ったのは、初めてに近いかもしれない。
 どうして、そう思ったのか。

「……黒髪イケメンに目覚めたから?」
「それって、優真くんのこと? もしかして、ハマっちゃった?」

 嬉しい空気を出しているところ申しわけないけど、それは違う気がする。
 きっかけは覚えていないけれど、なんだか頭に残っている。
 そんな曖昧なことを言っても伝わらない気がして、私は説明を諦めた。

「よーし、百華の運命の人、見つけちゃうぞー!」

 莉奈の気合いの入り方に、私は思わず苦笑いを浮かべた。