夢を見ていた。
とても、素敵な夢。
「そんなにこっちを見て、どうした?」
闇のように深く暗い瞳。
だけど、その奥には愛しい者への熱が込められていて。
この視線が私に向けられていたら、どれだけ素敵だろう。
そんなことを思いながら、ただ彼を見つめる。
そして彼は照れくさそうに笑った。
名前もなにも知らない、夢にだけ現れる彼。
これが予知夢だったらいいのに。
そんな私の小さな憧れは、彼の言葉で打ち砕かれる。
「……愛してるよ、桜子」
ああ、やっぱり。
やっぱり、この人は私と人生を分かち合う人ではない。
私がいくら希ったって、この人の物語に登場することはできない。
だったら、私の夢に現れないでほしい。
そう思う反面、夢を通してでも会えることを喜んでいる私がいた。
「私も、お慕いしております」
彼の言葉に返したのは、私の声ではない。
本当に、なんて素敵で、なんて残酷な夢なんだろう。
優しく微笑む彼を見つめながら、そんなことを思った。
❀
「百華、いい加減に起きなさい!」
お母さんの大きな声が、私を夢の世界から現実の世界に引き戻す。
カーテンの隙間から差し込む朝日。窓の向こうから聞こえてくる、鳥の声。
一つ一つが、私の生きている世界を教えてくる。
着物を着ていた彼らの世界に、私は生きていないのだと。
夢から覚めてしまった瞬間というのは、こんなにも残酷なのか。
今の夢。
彼は私ではない誰かに愛を囁いていたけれど、あれほど容姿の整った男性に熱い視線を向けられて、嫌な気なんてしない。
つまり、もっと夢を見ていたかった。
ああもう、朝なんて来なければいいのに。
「百華!」
もう一度眠りにつけば彼に会えるような気がして、布団の中に潜り込もうとしたら、さっきよりも怒った声が聞こえてきた。
私がまた寝ようとしていたことが気付かれたようなタイミング。
これは、二度寝なんてできないな。
私は仕方なく、身体を起こした。
ベッドから降りて、キッチンで朝食の準備をしているお母さんの隣に立つ。
ほとんど準備が終わっていて、味噌汁のいい匂いが鼻をくすぐる。
それにつられて、私のお腹が空腹であることを告げた。
結構な音で、隣にいるお母さんには聞こえたらしい。お母さんはくすくすと笑い声を零した。
「さあ、朝ごはんの時間よ」
お母さんに言われ、私は味噌汁をお椀に注いでから、食卓テーブルに並べていく。
朝食らしい焼き鮭と、サラダ、そして白米。
またお腹が小さく鳴る。
昨日の夜、あんまり食べなかったせいかな、なんて思いながら、味噌汁に手をつけた。
どんなことがあっても変わらない、お母さんの味。
いつもお母さんのお手伝いをしているけれど、いまだに一人ではこの味を再現することができない。
『嫁いだ先で、相手の好みの味を作ることができたら、それで十分なのよ』
いつだったか、お母さんにそう言われた。
私は、お母さんの味が一番なのに。だから、お母さんと同じ味を作りたいのに。
どうしてわかってくれないの、と思うこともあったけれど、今では納得している。
お母さんのこの味は、父様が好きな味なのだから。
そんな二人の姿を見てきたから、私も素敵な男性を見つけたいと思ってはいるけれど……
夢で出会った彼よりも素敵な人と、出会えるような気がしていない。
彼のことを思い出して、無性に気になってきた。
「……ねえ、お母さん」
お母さんが洗い物をするための水を止めたタイミングで、声をかけてみる。
「なあに?」
「お母さんの知り合いに桜子って人、いる?」
知らない人の夢なんて、そうそう見ないだろうから、身近な人の話から夢でも見たのかと思った。
私の知り合いには桜子という子はいないし、お母さんの友人の中にいるのかと思ったけれど。
聞いて、どうするんだろう。
会いに行く? わざわざ、失恋しに?
「さくらこ……いたかしら……」
お母さんは視線を空に迷わせ、考えている。
ただの夢の話なのに、こうしてちゃんと考えてくれているところを見ていると、付き合わせて申し訳ない気がしてきた。
「その人がどうかしたの?」
「……ううん、なんでもない」
私は味噌汁を飲むことで、誤魔化した。
❀
「百華、おはよ!」
登校中、欠伸をしている途中で背後から肩を叩かれた。
おかげで欠伸が引っ込んだ。
「おはよう、莉奈」
私の欠伸事情なんて知らない莉奈は、満面の笑みを浮かべている。
私は眠たくて仕方ないというのに、元気な子だ。
「どうしたの、百華。寝不足?」
「そういうわけじゃないけど……」
「そ?」
私たちは並んで歩き始める。
右に莉奈、左は私。
小学生のときからの定位置だ。
「百華、昨日の配信見た?」
「昨日? なんかあったっけ」
「言ったじゃん! 優真くんの配信日だって! もう、忘れてたの?」
莉奈は呆れたと言わんばかりに、ため息をついた。
そういえば、そんなことも言ってたな。
莉奈の推し、優真くんが配信する、めちゃくちゃカッコいいから見て、だったか。
莉奈ほどミーハーではないから、普通に忘れていた。
でも、私が優真くんに興味を持てないのは、今に始まったことじゃない。
だから、莉奈は文句をそこそこに、昨日の配信について嬉々として話し始めた。
優真くんが相変わらずカッコよかったとか。
スクショタイムが神がかってたとか。
自分のコメントを読んでもらえたとか。
いつも通り、楽しそうでなにより。
やっぱり、イケメンに認知されるというのは、それだけで嬉しいものなのかな。
まあ、私の場合は実在するのかもわからないから、希望を抱いたところでどうしようもないけど。
「百華ー? 今日はいつも以上に聞いてなくない?」
「あ、ごめん……」
私がぼーっとしていたことに気付いた莉奈は、不満そうにするどころか、少し心配そうに私を見ている。
「なんかあった?」
「そんな、大したことじゃないんだけど……」
バカにされるかもしれない、と思いつつ、私は今日見た夢の内容を話した。
いつもなら、夢なんて時間が経てば忘れてしまう。
だけど、今日の夢は全然消えなくて、むしろ、まだはっきりと彼の顔を思い出せる。
あの、真剣な眼差しが。
「イケメンが夢に出てきて、愛の告白してくるとか、控えめに言って最高じゃん」
バカにされなくて安心はしたけど……ミーハーなヤツめ。
「でも百華にじゃないんだっけ?」
「そうなんだよね……」
イケメンに告白された夢、というだけならここまで引っかかっていない。
今の莉奈みたいに、予知夢かも、なんて浮かれていただろう。
でも、あの人の視線の先は、私じゃなかった。
だから、気になってしまうのだ。
「んー……なんでだろうね……あ、そういうドラマか映画を見たとか」
首を横に振る。
あの人を見たのは、夢が初めてのはず。
どこかで見かけていたら、今みたいに忘れていないだろうから。
「もしかして、マンガ? 小説を自分の中で映像化したとか」
「私、本読まないよ」
「そうでした」
莉奈は腕を組み、唸っている。
私よりも、真剣に考えてくれているみたいだ。
ミーハーだなんて言って、ちょっと悪かったな。
そんなことを思いながら橋の上を歩いていると、ふと、視界の端が眩しく感じた。
視線を移すと、水面が朝日に照らされ、反射している。
その眩さに、思わず目を細める。
朝日って、こんなに眩しかったっけ。
「わ、黒猫」
莉奈の声に釣られて、川から目を離す。
少し先から、黒猫がこちらに歩いてきている。
「見て、あの子の目、青色だよ」
莉奈は言いながら、カバンからスマホを取り出そうと、カバンを漁り始めた。
私はというと、その子から目が離せなかった。
その子は、私の視線に気付いたのか、私を一瞥した。
その途端、時間が止まったかのような感覚がした。
「あった!」
莉奈の声で意識は現実に引き戻され、黒猫との視線が合わなくなった。
そして黒猫は、私たちの足元を走り去っていった。
「あーあ、逃げちゃった」
莉奈の悲しそうな声も耳に残らず、黒猫の後ろ姿を目で追う。
「百華、遅刻しちゃうよ?」
「うん……」
そう言われて、私は後ろ髪を引かれる思いで足を進めた。
❀
遠くで、猫の鳴き声が聞こえる。
何度も何度も聞こえるから、目を覚ませと言われているような感覚になってくる。
ゆっくりと瞼を開けると、大木の下で、背中を木の幹に預けて寝ていたことに気付いた。
知らない場所、そして、桜柄の着物という知らない服。
……これ、夢だ。
ということは、またあの人に会える?
そんな淡い期待を抱いていると、膝元に黒猫が擦り寄ってきた。
さっき聞こえてきた声の子だろうか。
そっと手を伸ばし、黒猫の頭に触れる。
すると、その子と目が合った。青く、吸い込まれそうな瞳と。
青眼の黒猫は、記憶に新しい。
もしかして、今朝見かけた黒猫と同じ子だろうか。
あのとき、妙に目が離せなかったから、夢にまで出てきたのかもしれない。
「桜子」
すると、名を呼ばれた。
私の名前ではないけど、ずっと引っかかっている名前が聞こえ、私の中で期待が膨らむ。
きっと、あの人に呼ばれたんだ。
声がしたほうへ視界が動くと、そこには顰め面をした男の人がいた。
「伯父様……」
私が誰だろうと思ったのと同時に、口が動いた。
知り合いなんだ……それにしては、なんだか嫌な感じがする……
ああ、見つかってしまった。
私ではない、桜子がそう思った気がした。
桜子の中に芽生えたこの感情は、なに? 恐怖?
「お前、また勝手に家を出たな」
男の怒りが込められた声は、私も恐ろしく感じた。
喉が締め付けられ、声が出ない。そうして私が固まっている間にも、その男はこちらに近づいてくる。
ついに目の前に立った男は、手を伸ばしてきた。
迫り来る大きな手に、思わず目を瞑ると、猫が威嚇する声がした。
さっきの子が、膝に乗って男に向かって威嚇している。
「なんだ、この猫」
男は容赦なく猫の首根っこを掴み、私から引き剥がした。
猫はその辺に投げ捨てられ、近くにあった柵のようなものに、強く背中を打ち付けた。
そして、重力に従って、黒猫は地面に落ちた。
黒猫が動く気配が、ない。
男に声をかけられたときとは違う恐ろしさが、込み上げてくる。
私のせいだ。私を庇ったから、あの子は。
「行くぞ」
待って、あの子の様子が見たいの。
そう思っているはずなのに、男に腕を掴まれ、引っ張られているせいで、黒猫に近寄ることができなかった。
それから場面が変わり、私は薄暗い部屋にいた。
小さな窓から、大粒の雨が降っているのが見える。
こんなにも雨が降っていたら、この古い建物が壊れてしまいそう。
そんなことを思いながら、ただただ、灰色の空を眺めていた。
あの人に会いたい。桜子の夢を見せるなら、あの人に会わせて。
星も見えない空に、私はひたすら願った。
だけど、雨音は強くなる一方。
お前の願いなど聞くものかと、神様が怒っているみたい。
横恋慕しようとしたから?
だったら、私にこんな夢を見せないでよ。
もう、夢から覚めたい。
こんな世界に、いたくない。
「桜子、出てきなさい」
視界が滲むのは、私が泣こうとしているからだと認識するのと同時に、扉の向こうから声がした。
あの男の声だ。
嫌だ、行きたくない。
そう思っているのに、従わなかったらどうなるかを知っているかのように、この身体は動いた。
扉を開けると、男はニヤリと笑っている。
なんとも不気味な笑みだ。
「光栄に思え、桜子。お前が神の嫁に選ばれた」
神の、嫁?
理解し難い単語に、反応ができない。
「最近は雨が多いだろう? これはきっと、神が花嫁を探しているからだろうということになってな。そこでお前が選ばれたんだ」
本当に意味がわからない。
だけど、冗談を言っているようにも見えない。
理解が追いつかなくて、私はまだ、なにも言えなかった。
「数日後、儀式を行うことになった。それまで、大人しくしているように」
男はそう言うと、扉を閉めた。
独りの部屋に、雨音が響く。
まるで、絶望の世界へ招かれているよう。
「私が、花嫁だなんて……黎夜様になんて説明すればいいの……」
勝手に動いた口から出てきた名、黎夜。
もしかしてこれが、あの人の名前?
名前までカッコイイなんて、ズルい人。
だけど、私のときめいている心よりも、桜子が抱いている不安のほうが大きくて、私の感情は見事に飲み込まれた。
変わらず強い雨。
そんな中で私は、傘もささずに橋の上に立っていた。
下を見れば、とんでもない濁流。
水に迫られているようで、恐怖を感じる。
危ないし、離れないと。
そう思っているのに、手首も足首もなにかで縛られているせいで、動けない。
「水神様、どうかお鎮まりください!」
「この娘を生贄といたします!」
「どうか!」
背後から、大人たちの声が聞こえた。大人たちが天に希う声に、耳を塞ぎたくなる。
ああ、そうか。ようやく理解した。
桜子に押し付けられたのは、花嫁だなんて可愛いものではなかった。
私は今から、死ぬんだ。
夢だとしても、それは嫌だな……
「桜子!」
その名に反応して振り向くと、あの人が、黎夜さんが大人たちに押さえつけられている。
あのときみたいに優しい表情ではなくて、泣き叫ぶような顔。
桜子は本当に黎夜さんに愛されていたんだ。
そう感じるほどの表情と声だった。
「ごめんなさい、黎夜様……ごめんなさい……」
雨が地面を打ち付ける音にかき消されてしまうほどの声量。
きっと、彼には届いていない。
黎夜さんは大人たちに抑え込まれながら手を伸ばす。
けれど、それは私に届くことなく、私は川へ吸い込まれて行った。
❀
「目は覚めたか? 卯月」
夢で聞いたのとは違う、優しさと怒りが混ざった男の声。
一瞬、ここがどこなのかわからなかったけど、すぐに理解した。
私が生きている世界、教室だ。
日本史の授業中に寝てしまったようで、私の席の真横に、先生が立っている。
笑顔だけど、目が笑っていない。
「……すみません」
私がそう言いながら身体を起こすと、先生は黒板の前に戻っていった。
みんなの視線が私に集中していることもあって、恥ずかしさで消えてしまいたい。
莉奈なんて、声を押し殺して笑っているし。
これは絶対、あとでからかわれるやつだな。
今朝とは違う悪夢を見たし、本当に最悪。
夢なら、あの人との楽しいデートとか見せてくれればいいのに。
って、あれ……
あの人の名前、なんだったっけ。
せっかく知ったのに、忘れるなんて。
まあ、夢なんてこんなものか。
まだ眠気が残っているのか、私は小さく欠伸をする。
そのとき、窓枠に雀が一羽止まっていることに気付いた。
独りでこんなところにいるなんて、可愛らしい。
そう思ったけど、なんだか、じっと私のほうを見つめているような……
「卯月!」
先生の大きな声に、肩がビクッとなった。
振り向くと、笑顔すら消えてしまった先生が、黒板の前にいる。
普段怒らない人だから、余計に怖い。
「寝たり、よそ見したり……それだけ余裕なら、一つ質問をしようか」
先生はニヤリと笑い、ちょっと……いや、かなり難しめの問いを投げかけてきた。
まったく話を聞いていなかった私は、当然のごとく、答えられなかった。