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「先ほどは悪かった」

 会談をしていた客間から退出し、一先ず葉桜の居室に戻った後、男は葉桜に頭を下げた。
 突然の謝罪に葉桜は慌てる。

「な、何のことでございましょう?」
「いきなり俺と若君の会談の場へ引きずり込んだことだ。それに、其方が触れられたくない心の部分にまで踏み込んでしまった。誠実であるべき日乃本男児として恥ずべきことをしてしまった。申し訳ない」
「とんでもございません! 貴方様の言葉は、その……とても嬉しく思いました」

 葉桜は男の手を取り、面を上げさせた。衣服よりも深く濃い黒の瞳が顕わになる。

「貴方様の言葉を聞いた時、私はお亡くなり遊ばした父上と母上のことを思い出しました。二人とも私のお転婆に手を焼きつつも、とても可愛がってくれました。すっかり忘れてしまっていた温かさを、私は久しぶりに感じることができました」

 漸く乾いた葉桜の瞳に、再び滴が浮かび上がる。はらはらと零れ落ちていく水の玉を、男は右手で(すく)い上げた。

「そうか。其方は、本当によく頑張ったな」

 そして男は、葉桜を優しく胸に抱く。抱き締められた感触すら遠い昔のことのように感じた葉桜は、さらに涙を流して頷いた。

「はい……はい……っ!」

 紫鶴宮家に来てから、誰も葉桜に触れようとはしなかったことに、葉桜は今さらのように思い至った。それもまた遠因的に、葉桜の心を削り取っていた。葉桜はしゃくり上げそうになる声を必死に堪えた。
 そうしているうちに、早くも西の空が茜色に染まり始めた。会談で揉めに揉めていたこともあり、昼餉を食する間もなく務めの時間が来ようとしていた。

「申し訳ございません。そろそろ準備をして行かなければ……」
「ああ、そうだな。全く、あの若君は本当に狡猾だ」

 どこか訝し気に辺りを見回した男は、ふうと短く息を吐いた。

「先ほど若君も言っていたが、どうにも心配なので俺は其方の務めに付いて行く。気が散るかもしれないが、我慢してくれ」
「いいえ、ありがとうございます。大変心強いです」

 葉桜は恥ずかしそうに俯く。頬はそれと見てわかるほどに赤くなっている。

「それでは、よろしくお願いいたします。あと、その……」
「ん? どうした?」

 そこで葉桜が口籠ったのを見て、男は不思議そうに首を傾げた。葉桜は視線を右往左往させ、散々に迷ってから口を開く。

「その、私としましては、先ほど縁側でお話した時のように、その、気軽に話していただけると、嬉しいです……」

 葉桜は、男の堅い口ぶりや態度がどうにも慣れない感じがしていた。
 そもそも今日初めて会ったのだから当然のことである。しかし、葉桜としては縁側で歓談した時のような気さくさの方が親しみやすかった。

「あ、ああ……そうか。いや、確かにな」

 羞恥を孕ませた葉桜の口調が移ったのか、男の方も気まずげに視線を逸らす。
 それから後ろ頭を再三掻いてから、細く息を吐いた。

「まったく、本当に其方という女性は不思議だ。父上にも教育係の者にも散々に直すよう注意されたのだが。軽薄そうではなかったか?」
「ええ、少しだけ」
「ならばなぜ?」
「私はそもそも平民の出です。そのくらいの方が、丁度良いのです」

 葉桜はいつかの男の顔を思い出して、悪戯っぽく笑った。それから、つと男の前へ膝行(いざ)ると、優しく胸の辺りを撫でた。

「それに、貴方様の素はそちらの方でしょう?」

 これは、葉桜なりの御礼であった。自分の心の奥深くに封印してしまっていた言葉を引き出してくれた男への感謝だった。葉桜は無意識のうちに、男にも素の言葉で話してほしいと思っていた。
 男は、さらに面喰らった表情で葉桜を見た。

「はは、本当に凄いな、君は。わかった。君と二人でいる時は、俺らしくいると約束しよう」
「ええ、よろしくお願いいたします。えと」
「ああそういえば、まだ名を名乗っていなかったな。俺の名は紅葉(こうよう)。和ノ日乃本國の五畿内中央を与かる嵩天宮家の者であり、訳ありの歌えない吟遊詩人だ」
「まあ、ふふっ」

 男の冗談に、葉桜は今度こそ笑った。心がまた、温かくなってくる。
 それから、ゆっくりと男の名前を噛み締めた。
 嵩天宮、紅葉。
 とても厳かで、凡そ吟遊詩人らしくない名だった。

「ほら、今度は君の番だよ」

 葉桜が男の名を心の中で反芻していると、くいっと顎を持ち上げられた。瞬間、葉桜の眼前にその顔が広がる。

「ひょえ! わ、わわ私は……葉桜、と申ひぃます」

 紅潮した頬のまま間近で素顔を見られ、葉桜はどもり噛んだ。続く羞恥の念に葉桜の顔は林檎のように真っ赤になる。
 そんな葉桜の様子に堪えきれなくなったようで、垂れた目はさらに丸みを帯び、そして、

「はははっ、そうか! 葉桜! いい名前だ!」

 男――紅葉は盛大に笑った。会談ではあれほど敵意を剝き出しにしていた目が嘘のように、優しく感じられた。
 どこかあどけない、無邪気さすら感じる笑顔を見ながら、葉桜は羞恥と緊張の狭間に生まれた熱を感じ取っていた。
 それから葉桜は早々に巫女服に着替え、社へと向かった。先ほどの言葉通り、紅葉はすぐ後ろをピタリとくっついて来る。

「あの、先ほどお願い申し上げておいてなんですが、私は大丈夫ですよ? 紅葉様は遠路遥々(はるばる)お越しになっただけでなく会談もなされてお疲れのようですし、何処かでお寛ぎなされてはいかがでしょうか?」

 葉桜は振り返り、紅葉を見上げた。陽が落ちてきたせいでやや分かりにくいが、その顔色には明らかに疲れが出ていた。

「いや、俺は全然大丈夫だ」

 しかし紅葉は小さく首を横に振ると、すぐに庭園や柱の影に視線を送る。その様子は、何かを警戒しているふうであった。
 やがて葉桜たちは(わたどの)を通り抜け、縁から土間へと降りて庭園に出る。

「やはり……臭いな」
「あの、臭いとはなんでしょうか?」
「いや、なんでもない。俺の取り越し苦労だといいんだが」

 小さく呟いた紅葉の口調には緊張の色があった。葉桜もつられて辺りを見回すが、いつもと変わりはない。夜間に焚かれる篝火(かがりび)の準備を下男たちがしているくらいだ。
 庭園に並んだ飛び石を伝って屋敷の裏手まで行くと、そこからは石階段が上方へと続いていた。この石階段を昇り切ったところに、いつも葉桜が舞を踊っている社がある。

「この上です、社があるのは」
「成程な。流石は鎮西の紫鶴宮家。裏神の山を切り開いて神体山(しんたいざん)としたのか」
「裏神の、山?」

 聞き慣れない言葉に葉桜は首を捻った。紅葉は迷いながらも、ゆっくりと口を開く。

「神というのは、(あやかし)のことだ。裏神はその中でも、特に邪気の強いものをいう」
「あ、妖!?」

 唐突に出てきた単語に葉桜は驚く。
 妖。それは遥か昔、この和ノ日乃本國に蔓延(はびこ)っていた人ならざるものの総称だ。その多くは人に対して害をなし、時として死に至らしめる凶悪な妖が出現したこともあるとのことだった。
 葉桜は書物の内容を思い出して、軽く身震いをする。

「心配しなくていい。妖は今では見える者の方が少ない。それに書物では悪く書かれることが多いが、妖の全部が全部人に害をなすわけではない。だが裏神、邪気を多く含む妖は別だ。そしてこの山には、強くはないがそこそこの邪気が渦巻いている。おそらく、葉桜が引き付けてきたという不幸の気の正体はこれだ」
「なっ!?」

 葉桜は驚嘆した。思わず足を止めて紅葉の方を振り向く。

「まだ推測だけどな。だが、嵩天宮家はそのことにいち早く気づき、そして紫鶴宮家が邪気を使った何かしらの悪巧みを画策しているという情報を手に入れた。俺は邪気に敏感でね。だから偵察の意味合いも兼ねて、嫁探しとの名目で俺がここを訪れたわけだ」
「そんな、ことが……」
「だから、葉桜を初めて見た時は驚いた。その身の内に多様な邪気を宿しているにも関わらず、普通の者と同じように過ごしていたんだから。相当辛いだろうに平然として、しかも五年以上に渡って紫鶴宮家に仕えていると聞いた。そんな君を、これ以上ここに留めておくことは、俺にはできなかったんだ」

 紅葉は再び、葉桜を抱き締めた。

「悪いが名目上、君は俺の嫁としてここから連れ出す。そしてそのまま畿内まで連れて行こう。だがそこから先は、葉桜の意志に任せる。俺との婚姻が嫌ならすぐに離縁するし、働き口に困っているなら良い所を紹介しよう。それまでは客人として我が家にいてもらって構わない。屋敷の外で何不自由なく過ごせるように手筈は俺が整える。だから君は、君が歩みたい道を進め。君らしく生きろ」

 強く、真っ直ぐな声が葉桜の頭上に降ってきた。
 葉桜はその言葉のひとつひとつを、紅葉の腕の中で聞き、噛み締めていた。
 どうしてここまでしてくれるのだろうと、葉桜は思った。
 葉桜は別に紅葉には何もしていない。それなのに、紫鶴宮家と事を荒立ててまで自分を救い出してくれようとしていることに、どうしようもない違和感を覚えた。

「紅葉様は、どうして……」
(あるじ)! 伏せろっ!」

 葉桜が紅葉の真意を問おうとした時、野太くも鋭い声が辺りに響いた。
 と同時に、紅葉は葉桜を押し倒すようにすぐさま身を屈めた。刹那、風切り音がすぐ近くを掠めていく。

「矢だと。やはり、紫鶴宮の奴らが……」
「ご名答です」

 すぐ傍にあった銀杏の樹の影から姿を現したのは、他ならぬ紫鶴宮の若君、真人であった。