*
いつの間にか、縁側から見える太陽は随分と高く昇っていた。もう暫くもすれば昼餉の時間になる。そしてさらに数刻経てば、本日最初の務めを始めなければならない。
葉桜は陽に照らされた縁側を進んでいく。これほど明るく、温かな御日柄だというのに、葉桜の心はこの上なく曇っていた。理由は当人にもわからない。ただ言い知れぬ靄が濃く立ち込め、葉桜の行く末をより暗く、曖昧にしているばかりであった。
「それはどういう意味ですかっ!?」
その時であった。すぐ近くの角の方から、真人の鋭い声が飛んできた。葉桜は驚いて、中央へと伸びる廊下のわきで足を止める。
声は、近くの客間から聞こえているようだった。そしてその客間は、真人がいつも会談をする時に使っている客間だ。
「どうもこうもありません。そのままの意味です。私は、あの濡羽色の髪を結った、紅色の瞳の女性を娶りたい」
続いて聞こえた男の声に、葉桜は言葉を失った。思わず後退った動きに応じて、艶を帯びた黒髪が肩口から滑り落ち、中紅花の瞳が揺れる。
「いったいどこで彼女のことを……。貴方の言う女性は私の妹ではありません。縁談相手として認めるわけにはいきません!」
「私は別に貴公の妹君だけを見に来たわけではない。先ほど縁側で見かけてね、一目見て伴侶として迎え入れたいと思った。ただそれだけのことだ」
「なりません! 彼女は紫鶴宮家にとって欠かすことのできない女性です!」
二人は、明らかに葉桜のことを話していた。
怒声を発する真人に、先ほどまでの人懐っこい口調とは似ても似つかない落ち着いた男の声。
男が葉桜を嫁にしたいと言っていることにも驚いたが、あの温厚な真人がここまで声を荒らげて葉桜の嫁入りを拒否し、さらには「紫鶴宮家にとって欠かすことのできない女性」とまで言い切ったことも吃驚であった。
葉桜は心の中に温かなものを感じた。ここまで自分を必要としてくれているのかと、感極まる思いであった。
「ははっ。やはり、そうか。彼女こそが、紫鶴宮家にとって必要な生贄なんだな?」
しかし、続く男の言葉に葉桜は大きく狼狽えた。生贄とは、どういう意味だろうか。
同じように驚いた様子の真人は、それでも食ってかかる。
「な、なにを言われるのですか! 生贄なんぞ、当家はしておりません!」
「ああ、言い方が悪かった。生贄というよりは身代わり、さしずめ不幸の犠牲となる巫女といったところか」
「なにを……」
先ほどから動揺している真人に対し、男の声は終始冷静であった。まるで全てを見通しているかのように冷ややかで、それでいて落ち着きがある。本当に、先ほどまで朗らかに話していた剽軽な男と同じ人物だとは思えなかった。
「噂で聞いたことがある。紫鶴宮家が、不幸の気を引き寄せる体質のある者を祀り上げ、舞を舞わせることで日々一族に纏わりつく不幸の気を引き受けさせている、と」
「う、噂でしょう、そんなものは」
「さて、どうかな。紫鶴宮家がその特異体質を持つ者を引き込むために近親者を全て消し、外部との関わりを立たせて鳥籠の如きこの屋敷で飼っているという噂もあるが?」
「だから噂でしょう、そんなものは! 証拠は何処にあるんです!?」
「先ほどからそこで聞いている当人に訊けばはっきりすると思うが?」
唐突に襖が開いた。開け放たれた部屋には、欅の座卓を挟んで向かい合う真人と男が葉桜を見ていた。
「き、聞いていたのですか……」
「え、と……私は……」
驚愕で見開かれた真人の目は明らかに苛立ち、怯えていた。対して、男はどこまでも落ち着きを払っている。先ほどとは打って変わった鋭い視線を葉桜に向けつつも、そこには仄かな柔らかさが垣間見えた。
「怯えることはない。どうか正直に答えてほしい。貴女は紫鶴宮家の巫女として日々舞を踊り、不幸の気をその身に引き受けているのではないのか?」
「そ、れは……」
しかし、柔らかさばかりではなく心の奥深くまで見透かしているような気迫もあった。その前では、日々不幸の気を受け、反発による苦痛に耐え抜いている葉桜と言えど素直に頷くほかなかった。
「やはりそうか。どうかな? これで少なくとも、紫鶴宮家が巫女なる者を囲っていることは事実となった。何か弁明はあるか?」
満足げに首肯した男は真人に視線を戻すと、静かな口調で問いかけた。その視線の鋭利さは相変わらずだが、葉桜に向けているものとは決定的に違うところがあった。
敵意。
葉桜も当然、それに気づく。
「ははは……弁明ですか、ありますよ。私どもは、あくまでも彼女のためにしているのです。不幸の気をその身に引き寄せてしまう体質のせいで、彼女は地獄のような憂き目に遭っていた。私どもはそんな彼女を保護し、浄化の舞で以て不幸の気を浄化する方法を授けたのです。結果として当家のためにもなっていることは最早否定しません。ですが、当家の利だけのために彼女を巫女として祀り上げているわけではない。そればかりか、当家は彼女に最大の礼を尽くしている。まるで当家が彼女を冷遇しているような内容でしたが、それこそ噂も噂、紛れもない偽りだ。根拠のない噂を信じてあらぬ疑いをかけられるなど、五畿内中央を与かる嵩天宮家の不名誉かと存じますが、如何ですか?」
真人は応酬とばかりに同様の視線を男に返し、ひと息に彼なりの弁明を言い切った。肩で息をしているあたり、相当余裕がないことが見てとれた。
真人の言葉を聞いた男はひとつ頷くと、ちらりと葉桜のほうを見た。
「成程な。確かにぞんざいに扱っているわけではないらしい。だが、虐げていることには変わりない」
「なに……?」
「暴力を振るう。罵詈雑言を浴びせる。葛屨履霜の如き扱いをする。そうしたことばかりが人を苦しめるのではない。心を擦り減らす務めを強要するも建前上の礼節は尽くし、表立って恨みの矛先を向けさせないようにする。懇切丁寧に扱うことで恩を感じさせ、逃げ道を無くす。友好的な態度を見せる傍ら、一定の距離を置き深く関わることは決してしない。これらは全て、心から好意を持って接している相手にすることではない。違うか?」
「……今貴方が仰ったことを、私どもが彼女にしていると?」
「そうだ。彼女の疲れ切った瞳を見れば判る。寧ろ判らぬというのが可笑しな話だ」
男はそこで初めて口の端を吊り上げた。
「だからこそ、私が彼女を娶ろうと言っているのだ。私なら、彼女にそのような思いはさせはしない」
「……っ」
真人の表情がさらに険しくなる。客間に漂う空気は、その手のことに疎い葉桜でもわかるほどに重々しく、息苦しい。
「其方はどうだ? 私の妻となり、屋敷の外で自由な生活を謳歌する日々は嫌か?」
「私、は……」
男の問いに、葉桜は答えられないでいた。突然交わされる棘のような言葉の数々に、酷く怯えていた。
一方で、男の言葉には思い当たる節が多々あった。
佳を含めた多くの女中、下女たちは葉桜とあまり言葉を交わそうとしない。笑いかけることも世間話をすることもない。最低限のお世話が終われば、早々に葉桜の元から離れて仕事へと戻っていく。
浄化の舞で擦り減った心は、いつしか屋敷の外での生活を欲していた。けれど、それはただの我儘で、葉桜を拾い今日まで良くしてくれた紫鶴宮家を思えば辞めたいなどとは口が裂けても言えなかった。ただ彼らが求める務めを誠実にこなし、辛さを見せないように気丈に振る舞う他なかった。
「巫女様っ! 何を躊躇っておられるのですか! 紫鶴宮は、貴女をここまで……っ!」
真人が声を荒らげた。葉桜はびくりと肩を震わせる。
真人から向けられた初めての感情に、葉桜は縫い留められたように動けなくなった。
「わ、か……さま」
真人が葉桜に向けたのは、脅し。
得体の知れない男の元へやってしまう心配でも、葉桜とこれからも共にいたいという情でもなかった。
紫鶴宮から去ってしまうかもしれない焦りを滲ませ、そんなことはするなという脅迫めいた感情であった。
「私、わた、しは…………」
怖い、怖い、怖い……。
胸の奥底から湧き上がってきた恐怖に、葉桜の息はこの上なく乱れていた。
「おい、やめろ」
不意に、男が葉桜の面前に立った。先ほども嗅いだ煙管の匂いがふわりと香り、洋服を模した漆黒の衣服に視界が遮られる。
「そんな鬼のような目を向けては素直な気持ちなんぞ言えないだろう。私は、彼女の素の言葉が聞きたい」
凛としていて、柔らかな口調。言葉の端々には葉桜に対する思いやりが見て取れた。
葉桜は、胸の内に込み上げてくるものを感じていた。
いつ以来であろうか。
擦り減った葉桜の心を察してくれたのは。
気遣いの言葉をかけ、真に味方でいようとしてくれたのは。
柔和な笑顔を向け、冗談を言い合い、心から楽しいと感じたのは……。
葉桜は思い出した。
それは、豪快な笑い声を響かせる父と、優しく抱き締めてくれた母の顔だった。
原因不明の流行り病で亡くなった、いつでも葉桜の味方でいてくれた、両親の笑顔だった。
「わたしは、私は…………」
葉桜の瞳から、決して人前では流さなかった涙が零れ落ちた。
「今の、生活が……辛ろうございます……」
「……なっ!?」
真人は驚愕に目を開いた。それを見て、黒服の男は満足げに頷く。
「決まりだな。結納金は望む額を出そう。それで手打ちといきたいが、如何か?」
「な、んと……」
真人は悔し気に俯く。その表情は髪に隠れて伺い知れないが、膝の上で握られた拳は小刻みに震えていた。
暫くは沈黙を貫いていた真人だったが、やがて観念したように面を上げた。
「……わかり、ました。それでは巫女様……いえ、葉桜には嫁入りの準備をさせます。ただし、本日分の務めは果たしていただきたい。紫鶴宮としては巫女がいなくなった後の社の祝を決める必要がある。本日中に代理を立てるがゆえ、それまでは巫女としての役割を果たしていただかなければ」
「この後に及んで、まだ舞を舞わせるつもりか?」
「いえ、舞は舞っていただかなくて結構です。代わりに逢魔が時と丑三つ時の前後半刻、社で祈りを捧げてください。家中の者に無用な心配をかけたくはないので。気掛かりでしたら、貴方もご一緒されては如何でしょうか」
真人は立ち上がり、正面から男を見据えた。その目には未だ敵意が見え隠れしていたが、逆らおうなどという反抗心はなかった。
「……と、紫鶴宮の若君は申されているが、どうする?」
「し、承知いたしました……」
葉桜は躊躇いがちに首を縦に振った。
葉桜が承諾するのであれば男にも異存はないようで、これで会談は終了となった。
いつの間にか、縁側から見える太陽は随分と高く昇っていた。もう暫くもすれば昼餉の時間になる。そしてさらに数刻経てば、本日最初の務めを始めなければならない。
葉桜は陽に照らされた縁側を進んでいく。これほど明るく、温かな御日柄だというのに、葉桜の心はこの上なく曇っていた。理由は当人にもわからない。ただ言い知れぬ靄が濃く立ち込め、葉桜の行く末をより暗く、曖昧にしているばかりであった。
「それはどういう意味ですかっ!?」
その時であった。すぐ近くの角の方から、真人の鋭い声が飛んできた。葉桜は驚いて、中央へと伸びる廊下のわきで足を止める。
声は、近くの客間から聞こえているようだった。そしてその客間は、真人がいつも会談をする時に使っている客間だ。
「どうもこうもありません。そのままの意味です。私は、あの濡羽色の髪を結った、紅色の瞳の女性を娶りたい」
続いて聞こえた男の声に、葉桜は言葉を失った。思わず後退った動きに応じて、艶を帯びた黒髪が肩口から滑り落ち、中紅花の瞳が揺れる。
「いったいどこで彼女のことを……。貴方の言う女性は私の妹ではありません。縁談相手として認めるわけにはいきません!」
「私は別に貴公の妹君だけを見に来たわけではない。先ほど縁側で見かけてね、一目見て伴侶として迎え入れたいと思った。ただそれだけのことだ」
「なりません! 彼女は紫鶴宮家にとって欠かすことのできない女性です!」
二人は、明らかに葉桜のことを話していた。
怒声を発する真人に、先ほどまでの人懐っこい口調とは似ても似つかない落ち着いた男の声。
男が葉桜を嫁にしたいと言っていることにも驚いたが、あの温厚な真人がここまで声を荒らげて葉桜の嫁入りを拒否し、さらには「紫鶴宮家にとって欠かすことのできない女性」とまで言い切ったことも吃驚であった。
葉桜は心の中に温かなものを感じた。ここまで自分を必要としてくれているのかと、感極まる思いであった。
「ははっ。やはり、そうか。彼女こそが、紫鶴宮家にとって必要な生贄なんだな?」
しかし、続く男の言葉に葉桜は大きく狼狽えた。生贄とは、どういう意味だろうか。
同じように驚いた様子の真人は、それでも食ってかかる。
「な、なにを言われるのですか! 生贄なんぞ、当家はしておりません!」
「ああ、言い方が悪かった。生贄というよりは身代わり、さしずめ不幸の犠牲となる巫女といったところか」
「なにを……」
先ほどから動揺している真人に対し、男の声は終始冷静であった。まるで全てを見通しているかのように冷ややかで、それでいて落ち着きがある。本当に、先ほどまで朗らかに話していた剽軽な男と同じ人物だとは思えなかった。
「噂で聞いたことがある。紫鶴宮家が、不幸の気を引き寄せる体質のある者を祀り上げ、舞を舞わせることで日々一族に纏わりつく不幸の気を引き受けさせている、と」
「う、噂でしょう、そんなものは」
「さて、どうかな。紫鶴宮家がその特異体質を持つ者を引き込むために近親者を全て消し、外部との関わりを立たせて鳥籠の如きこの屋敷で飼っているという噂もあるが?」
「だから噂でしょう、そんなものは! 証拠は何処にあるんです!?」
「先ほどからそこで聞いている当人に訊けばはっきりすると思うが?」
唐突に襖が開いた。開け放たれた部屋には、欅の座卓を挟んで向かい合う真人と男が葉桜を見ていた。
「き、聞いていたのですか……」
「え、と……私は……」
驚愕で見開かれた真人の目は明らかに苛立ち、怯えていた。対して、男はどこまでも落ち着きを払っている。先ほどとは打って変わった鋭い視線を葉桜に向けつつも、そこには仄かな柔らかさが垣間見えた。
「怯えることはない。どうか正直に答えてほしい。貴女は紫鶴宮家の巫女として日々舞を踊り、不幸の気をその身に引き受けているのではないのか?」
「そ、れは……」
しかし、柔らかさばかりではなく心の奥深くまで見透かしているような気迫もあった。その前では、日々不幸の気を受け、反発による苦痛に耐え抜いている葉桜と言えど素直に頷くほかなかった。
「やはりそうか。どうかな? これで少なくとも、紫鶴宮家が巫女なる者を囲っていることは事実となった。何か弁明はあるか?」
満足げに首肯した男は真人に視線を戻すと、静かな口調で問いかけた。その視線の鋭利さは相変わらずだが、葉桜に向けているものとは決定的に違うところがあった。
敵意。
葉桜も当然、それに気づく。
「ははは……弁明ですか、ありますよ。私どもは、あくまでも彼女のためにしているのです。不幸の気をその身に引き寄せてしまう体質のせいで、彼女は地獄のような憂き目に遭っていた。私どもはそんな彼女を保護し、浄化の舞で以て不幸の気を浄化する方法を授けたのです。結果として当家のためにもなっていることは最早否定しません。ですが、当家の利だけのために彼女を巫女として祀り上げているわけではない。そればかりか、当家は彼女に最大の礼を尽くしている。まるで当家が彼女を冷遇しているような内容でしたが、それこそ噂も噂、紛れもない偽りだ。根拠のない噂を信じてあらぬ疑いをかけられるなど、五畿内中央を与かる嵩天宮家の不名誉かと存じますが、如何ですか?」
真人は応酬とばかりに同様の視線を男に返し、ひと息に彼なりの弁明を言い切った。肩で息をしているあたり、相当余裕がないことが見てとれた。
真人の言葉を聞いた男はひとつ頷くと、ちらりと葉桜のほうを見た。
「成程な。確かにぞんざいに扱っているわけではないらしい。だが、虐げていることには変わりない」
「なに……?」
「暴力を振るう。罵詈雑言を浴びせる。葛屨履霜の如き扱いをする。そうしたことばかりが人を苦しめるのではない。心を擦り減らす務めを強要するも建前上の礼節は尽くし、表立って恨みの矛先を向けさせないようにする。懇切丁寧に扱うことで恩を感じさせ、逃げ道を無くす。友好的な態度を見せる傍ら、一定の距離を置き深く関わることは決してしない。これらは全て、心から好意を持って接している相手にすることではない。違うか?」
「……今貴方が仰ったことを、私どもが彼女にしていると?」
「そうだ。彼女の疲れ切った瞳を見れば判る。寧ろ判らぬというのが可笑しな話だ」
男はそこで初めて口の端を吊り上げた。
「だからこそ、私が彼女を娶ろうと言っているのだ。私なら、彼女にそのような思いはさせはしない」
「……っ」
真人の表情がさらに険しくなる。客間に漂う空気は、その手のことに疎い葉桜でもわかるほどに重々しく、息苦しい。
「其方はどうだ? 私の妻となり、屋敷の外で自由な生活を謳歌する日々は嫌か?」
「私、は……」
男の問いに、葉桜は答えられないでいた。突然交わされる棘のような言葉の数々に、酷く怯えていた。
一方で、男の言葉には思い当たる節が多々あった。
佳を含めた多くの女中、下女たちは葉桜とあまり言葉を交わそうとしない。笑いかけることも世間話をすることもない。最低限のお世話が終われば、早々に葉桜の元から離れて仕事へと戻っていく。
浄化の舞で擦り減った心は、いつしか屋敷の外での生活を欲していた。けれど、それはただの我儘で、葉桜を拾い今日まで良くしてくれた紫鶴宮家を思えば辞めたいなどとは口が裂けても言えなかった。ただ彼らが求める務めを誠実にこなし、辛さを見せないように気丈に振る舞う他なかった。
「巫女様っ! 何を躊躇っておられるのですか! 紫鶴宮は、貴女をここまで……っ!」
真人が声を荒らげた。葉桜はびくりと肩を震わせる。
真人から向けられた初めての感情に、葉桜は縫い留められたように動けなくなった。
「わ、か……さま」
真人が葉桜に向けたのは、脅し。
得体の知れない男の元へやってしまう心配でも、葉桜とこれからも共にいたいという情でもなかった。
紫鶴宮から去ってしまうかもしれない焦りを滲ませ、そんなことはするなという脅迫めいた感情であった。
「私、わた、しは…………」
怖い、怖い、怖い……。
胸の奥底から湧き上がってきた恐怖に、葉桜の息はこの上なく乱れていた。
「おい、やめろ」
不意に、男が葉桜の面前に立った。先ほども嗅いだ煙管の匂いがふわりと香り、洋服を模した漆黒の衣服に視界が遮られる。
「そんな鬼のような目を向けては素直な気持ちなんぞ言えないだろう。私は、彼女の素の言葉が聞きたい」
凛としていて、柔らかな口調。言葉の端々には葉桜に対する思いやりが見て取れた。
葉桜は、胸の内に込み上げてくるものを感じていた。
いつ以来であろうか。
擦り減った葉桜の心を察してくれたのは。
気遣いの言葉をかけ、真に味方でいようとしてくれたのは。
柔和な笑顔を向け、冗談を言い合い、心から楽しいと感じたのは……。
葉桜は思い出した。
それは、豪快な笑い声を響かせる父と、優しく抱き締めてくれた母の顔だった。
原因不明の流行り病で亡くなった、いつでも葉桜の味方でいてくれた、両親の笑顔だった。
「わたしは、私は…………」
葉桜の瞳から、決して人前では流さなかった涙が零れ落ちた。
「今の、生活が……辛ろうございます……」
「……なっ!?」
真人は驚愕に目を開いた。それを見て、黒服の男は満足げに頷く。
「決まりだな。結納金は望む額を出そう。それで手打ちといきたいが、如何か?」
「な、んと……」
真人は悔し気に俯く。その表情は髪に隠れて伺い知れないが、膝の上で握られた拳は小刻みに震えていた。
暫くは沈黙を貫いていた真人だったが、やがて観念したように面を上げた。
「……わかり、ました。それでは巫女様……いえ、葉桜には嫁入りの準備をさせます。ただし、本日分の務めは果たしていただきたい。紫鶴宮としては巫女がいなくなった後の社の祝を決める必要がある。本日中に代理を立てるがゆえ、それまでは巫女としての役割を果たしていただかなければ」
「この後に及んで、まだ舞を舞わせるつもりか?」
「いえ、舞は舞っていただかなくて結構です。代わりに逢魔が時と丑三つ時の前後半刻、社で祈りを捧げてください。家中の者に無用な心配をかけたくはないので。気掛かりでしたら、貴方もご一緒されては如何でしょうか」
真人は立ち上がり、正面から男を見据えた。その目には未だ敵意が見え隠れしていたが、逆らおうなどという反抗心はなかった。
「……と、紫鶴宮の若君は申されているが、どうする?」
「し、承知いたしました……」
葉桜は躊躇いがちに首を縦に振った。
葉桜が承諾するのであれば男にも異存はないようで、これで会談は終了となった。