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 陽の光が瞼の裏に当たるのを感じて、葉桜は目覚めた。

「ん……もう、朝ですか」

 頭はぼんやりとしていて、寝たのか寝ていないのかわからない感覚。障子越しに感じる外の明るさから察するに、葉桜が床についてから既に数刻は経過している。となれば、その間疲労困憊で気絶するように眠っていたであろうことは想像に難くない。身体は重いが、昨晩の痛みや苦しみは殆ど消え去っていた。どうにか今日も務めが果たせそうだと、葉桜はほっと胸を撫で下ろす。

「巫女様。失礼いたします」

 そこへ、障子の向こうから落ち着いた女の声が聞こえた。女中の(よし)だ。

朝餉(あさげ)をお持ちいたしましたが、ご気分はいかがでしょうか」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」

 佳は葉桜が紫鶴宮家に仕えるようになった五年前から身の回りの世話をしてくれている。片田舎にある平民の家に生まれ、十四で屋敷に呼寄(こより)された時は礼儀作法も常識もわからずただ右往左往していた葉桜だったが、佳のおかげでどうにかここまでやってくることができた。葉桜にとっては、紫鶴宮で最も気心を許すことのできる相手だ。
 しかし。

「左様ですか。それでは私はこれにて失礼いたしますので、もし何かございましたらお呼びください」

 佳は手早く朝餉の配膳を済ませると、早々に部屋から退出していった。世間話のひとつでもしたかった葉桜は、がっくりと肩を落とす。

「本当に相変わらずですね、佳さんは」

 細く長く息を吐くと、葉桜は布団を片付けてから朝餉を頬張った。麦飯に味噌汁、数種類の煮物に焼魚に漬物に白湯と今日も彩り豊かな品が並んでいる。凡そ子供の頃に食べていた朝食とは似ても似つかない品数に、葉桜の口からは再び溜息が漏れた。
 食欲の無い腹にどうにか全て収めると、いつも通り箱膳は縁側に出しておく。以前勝手に片付けようとしたら、血相を変えた下女に注意されたことがあった。「巫女様に片付けをさせたとあっては私どもが叱られます」と心底迷惑そうな表情を向けられたとあっては、それ以上やるわけにもいかない。葉桜は簡単に身支度を整えてから、後ろ髪が引かれる思いでその場を後にした。
 朝餉が終われば、昼餉の時間まで葉桜にやるべきことはない。下女が忙しなく掃除やら洗濯やら買い出しやらをしている最中に、庭を散歩しても良し、屋敷にある蔵書を読み耽っても良し、再び布団を敷いて惰眠を貪り始めても良しだ。必要とあれば、佳を通じて屋敷の若様を呼び出し、己が欲する物を所望することすら許されている。務めを完璧にこなし、屋敷の中にいる限りは、ありとあらゆる自由が葉桜には認められている。
 しかし、葉桜の心は全く満たされていなかった。日々の生活を保つことに四苦八苦していた昔の方が余程満たされていた。あの頃は自分が納得できるまで泣くことができたし、笑うことだってできた。あの頃の方が、心は間違いなく自由であった。
 けれど今は、そんな感情を忘れてしまったかのように無表情で手入れの行き届いた庭園を眺めているばかりだった。

「おや、これは巫女様。おはようございます」

 葉桜が過ぎ去った時を追想していると、不意に涼やかな声が後ろから聞こえた。振り返れば、そこには穏やかな笑顔を浮かべた紫鶴宮の若様、紫鶴宮真人(まひと)が立っていた。その風貌は白雪の如く白い肌が印象的で、硝子(ガラス)のような澄んだ黒い瞳と艶やかな黒髪との対照も相まって一際に目を引く美男子であった。

「若様。おはようございます。とても気持ちの良い日でございますね」
「ええ、とても。それもこれも巫女様が私たちに降りかかるはずだった不幸を引き受け、祓ってくれているお陰です。重ね重ねお礼申し上げます」

 鎮西一の名家である紫鶴宮の次期当主である真人が、恭しく頭を下げる相手は少ない。ことこの屋敷内においては、当主である真人の父と自身を産んだ母、そして巫女である葉桜の三人だけであろう。

「とんでもございません。むしろ、お礼を申し上げるのは私の方です。五年前に両親を亡くし、路頭に迷っていた私を受け入れてくださった紫鶴宮の皆様には返しても返しきれない恩義がございます。本当にありがとうございます」
「いやいや、私たちは当然のことをしたまでです。それに西國を与かる身としても、飢え苦しむ民を見捨てておくことなどできはしませんから」

 真人は真っ直ぐな視線を葉桜に向けた。清廉潔白で、濁りなどひとつもない眼差しであった。政略のため絶えず縁談の話が舞い込む真人であったが、その相手が類に漏れず心から真人に想いを寄せているのは、この穢れを知らない眼差しや誰もが羨む端正な顔立ち、あるいは慈愛と優しさに満ちた心根を感じ、惹かれているからに他ならない。
 最も、葉桜にとってはあまり好みではなかった。これといった明確な理由は見当たらない。歳は近いし、見目の麗しさや立ち振る舞いひとつをとってしても文句のつけようはない。敢えて挙げるとするならば、葉桜にとっては真人は想い人の対象というよりは恩人であるからか。若しくは、真人と夫婦になって紫鶴宮家の者として生きていく自信がないからか。将又、自身が日々請け負うている不幸の気をまるで知らないような純潔さが気に入らないからか。

「それでは、私はこれから会談がありますので失礼いたします。本日のお務めも、どうぞよろしくお願いいたします」
「あ、え、ええ。畏まりました。ご会談が上手くいきますようお祈りしております」

 葉桜が自身の心の奥深くに巣食う浅ましい感情に自己嫌悪になりかけていたところで、真人はつと会話を打ち切った。これは僥倖(ぎょうこう)とばかりに、葉桜も頭を下げる。
 立ち去っていく真人の後ろ姿を見送りながら、葉桜は心底残念に思った。不幸の気を己が身に引き受け続ける日々に、自身の心はここまで荒み切ってしまったのかと。
 最初はやる気に満ち溢れていた。両親を失った我が身を保護してくれた紫鶴宮家の恩に報いるため、一生懸命に務めを果たそうとした。しかもその務めは、葉桜にしかできない役割であった。
 葉桜には生まれつき、不幸を引き寄せる体質があった。幼い頃に村に来た巡錫僧(じゅんしゃくそう)によってそれは判明した。
 物を失くしたり怪我をしたりといったことは日常茶飯事で、遠出をした時には二度盗賊に襲われたこともあった。それからは定期的に祓いを受け、自身に集まってくる不幸の気を散らすようにしていた。自分も身の回りも不幸にするこの体質を、葉桜は忌み嫌っていた。唯一の救いとしては、身の回りにいる人に纏わりつく不幸の気をも引き寄せるが故に、その人たちが葉桜と一緒にいない間は不幸な目に遭わなくなることだった。
 巫女としての務めは、この特性を上手く利用したものだった。葉桜は紫鶴宮家に降りかかる不幸の気を引き寄せるとともに、同家に伝わる神楽のひとつ、「浄化の舞」を舞うことにより、自身の内に溜まった不幸の気を浄化する。これによって、紫鶴宮家はもちろん、葉桜自身も不幸な災いを回避することができる。双方共に利のあるこの提案を、天涯孤独となった葉桜が承諾しない訳はなかった。
 また利害関係を排して考えた場合でも、葉桜自身はこの提案に乗り気だった。ただの居候ではなく、自身にしかできない務めがある。自分を救ってくれた一族全員に降りかかる不幸を防ぐことができる。あれほど呪ってきた自分の特性が誰かの役に立つのだ。前向きにならないはずがない。
 しかし、巫女として務めを果たしていくうちに、葉桜の心はみるみる擦り切れていった。
 不幸の気を浄化する際には反発が生まれるため、それ相応の苦しみが伴う。誰もいない社で独りその苦しみに耐え、巫女舞を踊り続けることは容易なことではなかった。
 この苦しみに、いつまで耐えればいいのだろう。幾度となくそのような思考が芽生えた。
 けれど、この苦しみを終わらせることは巫女としての務めを辞することに他ならない。身寄りもなく、(みさお)を立てることが必要な身の上として情事に傾倒するわけにもいかず、巫女としての務め以外に食い扶持(ぶち)を稼ぐ方法を知らない葉桜に、その決断をすることはできなかった。
 結局のところ、本当の意味で精神的限界を迎えるか、あるいは死する以外に苦しみから逃れる術はないのだ。
 何のために自分は生きているのか。
 葉桜は、自由に使える時間はいつもこの問を考えていた。
 そしてその度に、生きる理由は自分を救ってくれた紫鶴宮家のためだという結論を出す。その繰り返しだった。

「ふう……仕方ないですね」

 庭園に生えた松の木を眺めながら、葉桜はひとつ息を吐いた。今日も今日とて、同じ結論が胸中に影を落とす。
 昼餉の前に一度巫女舞で着る衣服でも整えておこうかと、葉桜は徐に踵を返した。

「おっと、これは失礼」
「ひゃっ!?」

 その時、知らない男の声とともに小さな衝撃が葉桜の肩に加わった。体格差のせいもあり、小柄な葉桜は平衡感覚を失ってよろめく。

「っとと、すまないね。大丈夫かい?」

 倒れていく身体が、床につく手前で抱き止められた。逞しい腕が葉桜の視界の端に伸びており、背中には安心感を覚える確かな感触がある。
 しかし、その顔に見覚えはない。葉桜が紫鶴宮の屋敷に住むようになってから五年経つが、初めて見る顔立ちだった。黒曜石のように輝く眼に、切り揃えられた黒髪。目鼻立ちの整った顔つきは、若様である真人にも決して負けてはいない。垂れた目尻や緩んだ口元からは優しげな雰囲気が醸し出ており、見つめられているだけで自然と心が軽くなっていく。一方で、葉桜にはとても真似のできない威厳や風格も備えており、目の前の御仁は一度会えば決して忘れることのできない存在感を放っていた。

「え、ええ。大丈夫です。ありがとう、ございます」

 葉桜は起きて姿勢を正すと、驚きと緊張もあって辿々(たどたど)しくお礼を言った。男からふわりと香る煙管(キセル)の匂いが、心臓の音を加速させていく。

「君は女中さんかな? とても美人さんだね」
「は、はあ」

 続けて男の口から出たいきなりの軽口に、葉桜はまたも驚く。そこには、先ほど垣間見せた威厳や風格はない。

「紫鶴宮家には初めて訪れたが、妹君の見目麗しさもさることながら、女中まで美しいとは。なるほど。これはなかなかに侮れない」
「え、えと……失礼ですが、貴方様は?」
「ああ、これは失敬。私は流浪の吟遊詩人です。紫鶴宮家の若君に呼ばれ、退屈されている妹君を喜ばせるよう仰せつかっておりまして。まあもっとも、歌はからっきしなんだけどね」
「え、吟遊詩人様なのに、ですか?」

 葉桜は以前、西洋の暮らしについて書かれた本で読んだことがあった。
 吟遊詩人とは各地を渡り歩いて詩や歌を作り、それらを奏でて人々を楽しませる人たちのことだ。またその一介には、各地に口承で語り継がれている逸話や御伽噺をさらに広め、後世に残そうとしている者もいると聞く。一部では享楽に身を落とした流れ者と揶揄する人もいるようだが、葉桜はその信念と自由を胸に生きる彼らに憧れと尊敬を持っていた。
 ところが、目の前の吟遊詩人は歌を歌えないという。それは果たして、詩曲を歌い語る吟遊詩人としてどうなんだろうか。

「吟遊詩人にも歌を歌えない者はいる。私の場合は、歌を歌おうとすると昔の忌むべき記憶が蘇るからだ。何度もそれらが脳裏を過ぎってきて、私は声が出なくなる」
「それは、御可哀そうに」

 目の前の男の瞳は、どこか苦悶を我慢し、潤んでいるように見えた。
 歌を歌えない理由を訊き、話したくもない事情を話させてしまったからだろうか。
 葉桜は余計な詮索をしてしまったことを悔んだ。自然、視線は下へと向き、俯いてしまう。

「まあ、冗談だ」

 その時、泣きそうになっていた葉桜の頭にポンと手が置かれた。「へ?」と間抜けな声を漏らして顔を上げると、悪戯っぽい笑みを浮かべた男がいた。

「じょ、冗談……?」
「そうだ、冗談だ。どうだ? 面白かったか?」

 くつくつと意地の悪い声で男は笑う。まるで悪戯が成功した時の子どものようだ。
 しかし、葉桜は怒らなかった。
 葉桜は一歩男に歩み寄ると、そっとその胸の辺りに手を置いた。

「え、ど、どうした?」

 葉桜の反応は完全に予想外だったのだろう。初めて男の顔から余裕が消えた。
 しかし葉桜は気にも留めず、狼狽える男の胸の上をそっと撫でた。

「少しでも安心できますように、と。そう、思いまして」

 葉桜は見抜いていた。
 男の取り繕った悪戯心に隠れた、曖昧な形の陰の気配に。
 それがなんなのかはわからない。ただなんとなく、男の冗談の全てが冗談だとは、どうしても思えなかった。

「それに、私は自分の幸運をお裾分けすることができるのです。これできっと、貴方様にも幸せが訪れることと思います」
「なんと、そんなことができるのか!」
「ふふふ、冗談です」
「冗談!?」

 もっとも、場の空気はあくまでも軽くしておく。こうしておくと相手に変な気を遣わせることがない。葉桜がかつて村で暮らしていた時に、両親から教わった処世術のひとつだ。
 けれど、男の反応は葉桜にとっても新鮮だった。
 少年のようなあどけない驚きを見せた男につられて、葉桜は小さく笑った。久しぶりに笑ったと、葉桜は思った。
 男も照れくさそうに苦笑いを浮かべ、二人で一頻り笑ったあと、葉桜はゆっくりと口を開いた。

「それはそうと、このような場所で本当はどうなされたのですか?」
「ああ、そうだ。実のところを言うと、用を足した帰りなんだが迷ってしまって。客間はどこだろうか?」
「ああ、それでしたら……」
「いかがなさいましたか?」

 葉桜が男の問いに答えようとしたその時、まる見計らったようなタイミングで佳が現れた。

「ああ、ちょっと道に迷ってしまって。客間の場所をこちらの女中さんに訊いていたんだ」
「左様でございましたか。客間には私からご案内いたしましょう」

 佳はチラリと私を一瞥すると、流れるような所作で踵を返した。葉桜はハッと我に返り、慌てて男から離れる。

「わ、私はここで失礼しますので!」
「あ、ちょっと」

 葉桜は頭を下げると、そそくさとその場から走り去った。自室とは反対方向だったこともあり、葉桜は近くにあった小部屋に身を潜める。

「はあ、はあ。やってしまった……」

 葉桜は高鳴る胸に手を当てて一度二度と深呼吸を繰り返す。それでも一度早鐘を打ち始めるとなかなか止まってはくれない。
 そこでふと、葉桜は真人との会話を思い出した。真人は会談があると言っていたが、もしかすると先ほどの男がその相手なのかもしれない。とすると、冷静に考えれば男は吟遊詩人などではなく、真人と同じ次期当主候補の人か、あるいはその近親者の可能性が高くなる。そんな人に、葉桜は気軽に話すだけでなく冗談まで口にしてしまった。

「怒られる、でしょうか……」

 そしてもうひとつ。葉桜は以前、下女たちが台所で色めき立った歓談をしているのを耳にした。内容は、若様である真人の縁談もさることながらその妹君たちも年頃の年齢になっており、(たお)やかで美しい彼女たちの婿が誰になるか、というものだった。もしかすると、あの男は真人の妹君の話を聞きつけ、縁談を持ち掛けにきた可能性もあるのではないか。
 そこまで考えて、焦りとは異なるモヤモヤとした感情が葉桜の心に去来した。

「……いえ。私には関係のない話ですね」

 葉桜は頭を振り、すぐにその感情を掻き消す。さらに幾度か深呼吸を繰り返すと、高鳴っていた胸の辺りはようやく落ち着きをみせてきた。そろそろ会談も始まっている頃だろうし、もう自室も戻っても大丈夫なはずだと、葉桜は小部屋の外へ出た。