屋敷の奥地。
 銀杏(いちょう)や杉が所狭しと立ち並ぶ中に建立された(やしろ)の一角で、女は今日も己の務めを果たしていた。

「……はあ、はあ」

 丑三つ時はとうに過ぎ去り、葉擦れの音ばかりが響く暗闇には蠟燭(ろうそく)(ともしび)が揺れ動いている。巫女舞も終盤に差し掛かり、あと四半時(しはんとき)もすれば務めは終わりだ。
 息も絶え絶えになりながら女は踊り、舞う。本来あるべき神楽(かぐら)の姿からはかけ離れた汗が、女の額から伝い落ちていった。
 女には余裕がなかった。体力がないからではない。むしろ幼い頃は野山を駆け回り、自身の好奇心が満たされるまで家には帰らなかったくらいのお転婆娘だったのだから、そんじょ其処等(そこら)の娘なんかよりは余程体力がある。
 余裕がないのは、主に心の方だ。

「はあ、はあ、はあ……っ」

 女は独りで一身に耐える。
 自身の胸の内に(まと)わりつき、背筋を凍り付かせるような寒気に。
 脳内を直接揺らし、針で突き刺されんがばかりの痛みに。
 肺の空気を根こそぎ奪われ、四肢を焦がされるような苦しみに、女は耐えた。

「くっ、ううっ…………っ!」

 最後の旋回を終えたところで、女は苦悶の表情を浮かべて床に倒れ伏した。
 その拍子に、手に持っていた鈴を取り落とす。しかし、本来なら鳴るはずの音は聞こえない。それもそのはず、鈴の中には玉は無く、音が鳴らぬよう白い綿が詰め込まれているのだから。
 静寂の中で、一刻ばかりの巫女舞を踊る。それが、女に与えられた使命であり、逃れることのできない務めだった。
 頻度は一日に二回。不幸の気が濃くなる逢魔が時と丑三つ時の前後半刻を踊り続ける。
 女が生まれながらにして持っていた不幸の気を吸い寄せる体質こそが巫女の資格で、この巫女舞を踊ることで屋敷全体、ひいては女が仕える一族そのものに降りかかる不幸を一身に引き受ける。そうすることで一族は不幸に見舞われず、初代当主が鎮西(ちんぜい)を平定してから二百年以上続く繁栄の時を今もなお享受していた。
 女の名は、葉桜(はざくら)
 地図上で最も東に位置する島国――和ノ日乃本國(わのひのもとこく)の鎮西を統括する紫鶴宮(しづるみや)家に仕える巫女である。
 一族の繁栄の一翼を担っている葉桜は、比類なき厚遇を拝していた。巫女としての務めを終えれば広々とした座敷に戻り、柔らかな布団で眠りにつく。朝の訪れとともに目覚めれば、栄養価の高い食事を摂ることができ、務めの時刻までは悠々自適な時間を過ごすことが許されている。
 葉桜の本来の身分を考えれば、これ以上はない待遇。その、はずだった。

「どうして、私が……」

 蠟燭の灯に照らされた薄暗がりの中で、葉桜は堪らずに(うめ)く。巫女舞を終えたばかりは身体に力が入らず、未だ我が身に巣食っている寒気や痛みや苦しみが和らいでいくのを待つほかなかった。
 辛い。
 苦しい。
 痛い。
 寒い。
 怖い。
 逃げたい。
 口に出すのが憚れる感情がとめどなく溢れてきて、目元からは涙が零れた。しかし、その涙をかつて拭ってくれた両親はもういない。天涯孤独の身となった葉桜に、他の生き方は残されていなかった。

「……っ」

 彼女はこれ以上涙を零してはいけないと衣服の袖で(まぶた)を押さえ、歯を食いしばって立ち上がる。そのまま社から出て屋敷に入ると、寝所に当てがわれた部屋に戻り、さっさと寝支度を整えて布団に潜り込んだ。