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 テーブルの上にカセットコンロとすき焼き用の鉄鍋が置かれ、地元野菜と霜降り肉が並べられた。
「卵もすぐ近くの養鶏場のだから、黄身の艶が全然違いますよ」
「なんでも手に入るんですね」
「農産物はね。それ以外は不便だけど」
「おなか空いたから、早く始めようよ」
 アンジュの催促でさっそく牛脂が引かれ、いい音を立て始める。
「お酒は何にしますか?」と、未森が鉄鍋に肉を広げながらたずねる。「ビール、ワイン、サワー系、日本酒、梅酒とかカクテルもありますけど」
「お二人は何を?」
「私はワインかな」
「なんで先に選ぶのよ」と、即決のアンジュを未森が肘でつつき、美季に営業スマイルを向ける。「遠慮しないで、ご希望のものを選んでくださいよ」
「じゃあ、私もワインで」
「本当にいいんですか?」
「ええ、ふだんはビール一杯くらいしか飲まないんで、こんなときくらい違うのもいいかなって」
「じゃあ、イタリアのスパークリングワインがいいかも」と、未森がキッチンの隅にあるドアを開けて中に入ったかと思うと、ボトルを持って戻ってきた。
「ワインセラーがあるんですか?」
「前のオーナーさんの趣味ね。中のワインは新しく買い集めたものだけど」
 三つのグラスに赤のスパークリングワインが注がれ乾杯すると、ちょうどすき焼きがいい具合に煮えてきたところだった。
「はい、どうぞ。お好きな物を遠慮なく召し上がってくださいね」
「やったあ、お肉お肉っと」と、先に手を出すアンジュを、ペシリとたしなめる仕草で止める。
「お客様が先です」
「はあい」
「あ、どうぞお先に」と、美季は手を引っ込めて譲った。
「ううん、冗談、冗談。先にお肉どうぞ。これなんかいい感じよ」
「じゃ、いただきます」と、アンジュにお勧めされた肉をすくって卵に絡める。「すごい、お肉がとろける。卵もまろやかでおいしいです。あと、スパークリングワインも意外と合いますね」
 野菜をお椀に移しながら未森が微笑む。
「アルコールも弱めだし、赤だとすき焼きのタレとお肉の甘みを引き立てるから、飲み慣れてない人にも合うかなと思って」
「すごく気に入っちゃいました」
「じゃあ、もっとどうぞ」と、アンジュが美季のグラスに注ぎ足す。
「わあ、うれしい。ありがとうございます」
「あらためて乾杯」と、憧れのイラストレーターと二人でグラスを掲げ合う。
「ほら、好きな具材取って、煮え過ぎちゃう」と、未森がガスを弱めた。「お肉もいっぱいあるから」
 くたっとした春菊、よく染みた白滝と焼き豆腐、ほぐれたエノキにしめじ、いい具合に脂が落ちてするりと入るお肉。
「ああ、もう、なんか幸せ。一人旅ですき焼きが楽しめるとは思いませんでした」
「私たちも食べられて幸せ」と、アンジュが肉ばかりすくい上げる。
「アンジュさんはお肉がお好きなんですか」
「この人ね、ほとんど野菜食べないの」と、未森が割って入る。
「えっ、そうなんですか」
「偏食ってわけでもないけどね」
 言い訳するアンジュにすかさず未森がツッコむ。
「結構偏ってるって」
「そんなことないよ。キノコだって食べるじゃん」
「葉っぱものは食べないよね」
 見せつけるように春菊を食べる未森にアンジュはベエと舌を出した。
「お客様の前でお行儀悪いです」
「すみません。お詫びの印に春菊食べます」
「一発芸みたいに言わないの」
 お酒が入って軽口のテンポが弾んでいく。
「美季さん、ワインは?」と、未森がたずねる。
「あ、もう、私はいいです。そんなに強くないんで」
「じゃあ、お水持ってきますね」
「ありがとうございます」
 火と蒸気、おしゃべりと笑いの熱気で汗をかいてしまった。
 氷の浮かんだ水が火照りをほどよく冷ましてくれる。
「あのう……」と、耳を赤く染めた美季がおずおずと切り出す。「さすがに失礼なのは承知しているんですけど、お二人はおつきあいしている方とかいらっしゃるんですか」
「男の人って事?」と、未森は軽く首をかしげる。
「ええ、まあ。私、彼氏って一度もいたことなくて、おつきあいするってどういう感覚なのかも分からないんですよ」
「私もね」と、未森はアンジュに視線を送る。「私たち、二人共……だよね」
「うん、まあね」と、アンジュもクイッとワインをあおる。「そういうのには縁がなかったかな。そもそも興味ないし」
「そうなんですか」と、美季が交互に二人に視線を向ける。「結婚しろとか言われません?」
「うちはない」と、アンジュは素っ気ない。「親も期待してなかったみたい。かわりに姉が早く結婚して子供も生まれてたからかも」
「お姉さんいらっしゃるんですか」
「うん、四つ上。小学校の教師やってて職場結婚。子供二人いるけど今も仕事してるね」
「私は一人っ子だから、うるさく言われるんですかね」
「私も兄弟いませんよ」と、未森がアンジュのグラスにワインを注ぎながら話をつないだ。「だけど、うちもうるさく言われることはないかな。会社辞めて独立したときの方が揉めた」
「ああ」と、美季が苦笑する。「たしかにそっちの方が問題ですもんね」
「うん、タイミング的に、それどころじゃなくなった感じ。今は離れて暮らしてるからあまり連絡も取らないし」
「やっぱり、親と同居してたら言われますよね。そのくせして、一人暮らしは許さないとか、矛盾してますよね」
 お酒で気持ちが軽くなったのか、美季は一人で語り始めた。
「私、医療事務の仕事で女性が多い職場なんですよ。よく看護師さんって、合コンとかでモテる職業だなんて言われてるみたいですけど、ほとんど離婚してるんですよね。そういうの見てると、頑張って結婚する意味なんてあるのかなって」
「そりゃそうでしょ」と、未森が笑う。「国家資格でどんな世の中でも引っ張りだこの人からしたら、男よりもお金の方が頼りになるんだもん」
 アンジュも何度も深くうなずく。
「お金は浮気もしないし心変わりもしないし靴下を脱ぎっぱなしにしたりもしないでしょ。たいていの男は予選脱落だよね。うちの姉も、子供が成人したら旦那と別れるって今から言ってる」
「ええ、そうなんですか。もう、なんか、悲しくなっちゃいますよ」
 愚痴をこぼす美季にアンジュがたたみかける。
「私にとって理想の男はそばにいない人。邪魔だもん」
「じゃあ、もう、根本的にダメじゃないですか」
「だから、あきらめちゃえば」
「自分では、そう思ってるんですけどね。親が……」
「振り出しに戻っちゃった」と、未森が笑い転げて話を変えた。「じゃあ、そろそろシメのほうとうも入れましょうか」
 鉄鍋に麺とすりおろしたショウガを香りづけ程度に加えて火をつける。
「私、ほうとうって初めてなんですよ」
「きしめんは?」と、アンジュがたずねる。
「あれって名古屋ですよね。行ったことがないです。お二人はやっぱり普段も召し上がるんですか」
「べつに名物だからって、そうでもないよね」
 アンジュの視線に未森もうなずく。
「冬にお客さんにお出しするついでに食べる程度かな」
「お客さんが洋食とか中華ばっかり選んじゃって、なかなか出てこないときもあるし。ガチャの確率意外と低いよね」
「そういうものですか」
「今回はすき焼きに入れてますけど、本来のカボチャとかと煮込む鍋焼きうどん風のほうとうもおいしいですよ」
 そんな話をしているうちに、ほうとうが煮えてきた。
 未森がお椀に新しく卵を割り、よく汁の絡んだほうとうを取り分ける。
「すき焼きのシメなんで、卵に絡めて食べると合うんですよ。どうぞ、召し上がれ」
「ありがとうございます。いただきます」
 ちゅるりっとすすった美季の目が見開く。
「うどんですね」と、正直な感想が漏れる。「お肉のうまみを吸ってておいしいですけど」
「そりゃ、そうだよね」と、箸を止めてアンジュが吹き出す。「材料は同じだもん」
「素朴さがいいんだもんね」と、未森もうなずく。
 感想を言い合いながらすりごまと唐辛子で味変しているうちに、あっという間に食べ終えてしまった。
 ホウッと息をつきながら三人とも椅子の背もたれに体を預ける。
「ああ、おいしかった。もう食べられない」
 わんぱく小僧のような感想を漏らすアンジュに未森がわざとらしく頭を下げる。
「お客様よりご満足いただけたみたいで何よりです」
「私も満腹ですよ」と、すかさず美季もフォローを入れる。「デザート入らないですもん」
「喜んでいただけて何よりです。今お茶いれますね」
 未森が急須を持ち出してきてほうじ茶をいれてくれた。
「これはドリンクバーではないんですね」
「機械で出してもいいんだけど、食後のこういうひとときくらい、ちょっと手間をかけた方がいいかなって」
 ちょっとした手間に幸せの種が埋まっている。
 その育て方を知っている人のいれてくれたお茶からは心和む香りが立ち上っていた。