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リビングでは未森がダイニングテーブルの椅子に体を預けてタブレットを操作していた。
と、思ったら、その姿勢のまま居眠りをしていたらしい。
ドアの開く音で肩がピクリと動いてとろんとした顔を向ける。
「ふわぁ、お帰りなさい」
「すみません。起こしちゃいました?」
「いえ、いいんですよ。いつも午後はこんな感じなんです」と、照れくさそうに立ち上がる。「美季さんも、なんか、お顔がつやつやしてますよ」
「ホントですか。森の中で、黒猫とお話ししてたんですよ」
「ああ、いました?」
「ここの猫なんですか?」
「いえ、動物アレルギーのお客様もいらっしゃるので、うちでは飼っていません。たぶん、どこかの飼い猫だと思うんですけど、あちこち自由に散歩しててよくうちにも来るんですよ」
「すごく人懐こくて、いっぱい撫でちゃいました」
「きっと御利益ありますよ」
「そうなんですか?」
真顔で受け止める美季に未森が微笑みながらタブレットを表示させた。
「お夕飯ですけど、こちらからお好きな物を選んでください」
メニューに書かれていたのは四種類のコースだった。
《地元野菜を味わうすき焼き、山梨名物ほうとうセット》
《五種類のパスタで地中海クルーズ、山盛りサラダを添えて》
《キノコの森のハンバーグとふわとろオムライスのわんぱくプレート》
《お好きな具材を楽しむ串揚げフライパーティー》
「わあ、御利益ってこれですか。迷っちゃいますね。どれ頼んでもいいんですか」
「はい、もちろん」
顎に手を当てながら画面を見つめていた美季は顔を上げた。
「アンジュさんも召し上がるんですか?」
「それはお客様次第です。お部屋でゆっくりお一人で食事を楽しみたい方もいますし、にぎやかな方がいいというお客様もどちらもいらっしゃいます」
「じゃあ、よかったら、またご一緒に《すき焼きセット》でお願いします」
「かしこまりました」
洗面所で手を洗った美季はドリンクバー横の冷凍ケースに積まれた高級ブランドアイスを眺めた。
「これ、好きなだけ食べてもいいんですか」
「ええ、どうぞ。『夢だったんです』って、五、六個召し上がる方もいますよ」
「でも、そんなに食べたら申し訳ないですね」
「いえ、料金にふくまれてますから、ご遠慮なく」
「といっても、全部食べられちゃったら赤字じゃないですか」
「一つの値段と個数をかけてみると分かるんですけど、意外とたいしたことないんですよ。逆に、それで満足していただけるなら、広告宣伝費としては安いくらいですよ」
経営者の視点はおもしろいなと美季は感心しながら聞いていた。
「それに、いくら食べ放題でも、さすがに十個も食べたらおなかを壊しちゃうでしょ」
「ですよね」
「バニラアイスにエスプレッソをかけるアフォガードなんかもおすすめですよ」
「あ、それやってみたいです」
ドリンクバーのカプセル式マシンでデミタスカップにエスプレッソを抽出し、カップのバニラアイスにスプーンで移すと、茶色い氷の膜が張る。
「このシャリシャリを味わうのがおすすめです」
早速言われたとおりに一口。
「んー、おいしい」
真ん中にくぼみのできたアイスに残りのエスプレッソをかける。
ほどよいコーヒーの苦みとアイスの甘みが絶妙で、あっという間にペロリと食べ終わってしまった。
美季は、テーブルの向こう側でいい香りのする緑茶を飲んでいる未森にたずねた。
「ここの宿って、昼食前からチェックインできるって珍しいですよね。ふつうは午前中にチェックアウトで、客室を掃除して夕方からチェックインですよね」
「うちはお一人様限定ですけど客室が二つあるんで、交互に隣の部屋を使うだけなんです。だから、前日のお客さんがチェックアウトしてすぐに次のお客さんをお迎えできるんですよ。昼間観光してから来るっていうお客様も当然多いですけど、美季さんのように、自分の家みたいに何もしないでのんびり過ごすことが目的のお客さんには喜ばれてますね」
「お一人様限定の宿って、前の経営者もそうだったんですか」と、たずねてから美季が首をかしげる。「あれ、でも、アンジュさんとお二人でここに旅行に来てたんですよね」
「前はふつうのペンション」と、未森が微笑む。「お一人様限定って形で営業しようと決めたのは私」
「なんでですか。お客さんをたくさん集めた方が儲かりますよね」
「と、思うでしょ」と、人差し指を立てる。「そこが落とし穴なのよ」
美季の頭に再び疑問符が浮かぶ。
「やっぱり世の中、いろいろな人がいるでしょ」と、その表情を見て未森が含みのある笑みを浮かべた。「薄利多売で大勢を相手にすると、一定の割合でクレーム対応とか理不尽なレビューがついちゃうから、むしろオールインクルーシブで料金は他より高いけど、納得して来ていただけるお一人様をおもてなしした方が、個人経営の場合は無理がなくていいのよ」
ここの宿を選ぶときに美季は当然他も比べてみたのだが、一泊二食付きの平均的な料金の二倍ほどで、女性一人客の貸し切りといった条件やサービス内容を考えたらそれほど高くはないという印象だった。
調べてみれば、それを求めていた人には深く刺さる内容だから、実際、美季も多少の値段の差など気にはならなかった。
むしろ、そういった他と違う料金設定に興味を引かれたのが、そもそもここを知るきっかけでもあったのだ。
「都会のホテルは様々な人の要望に応えなくちゃいけないし、たくさんの客室を埋めないと経営を維持できないけど、うちはそうじゃないからね。むしろ、限定しちゃった方がいいのよ」
「その方が有利なんですか?」
「お客さんを一人に絞れば、友達が一人泊まりに来るようなものだから、よけいな労力も経費もかからないでしょ。お客さんを増やそうと思うと、一人ではやりきれなくて、他の人を雇ったりしなくちゃならないから、そのお給料の分もっと稼がなくちゃならなくて、逆に経営が苦しくなっていくのよ」
まるで経営学の講義を受けているような話だが、美季には興味深い内容だった。
「たしかにうちは宿泊料は他より高いけど、部屋も広いし貸し切りだから、それだけの価値はあると思うし、お一人様限定って明確に打ち出している以上、要望に添えないグループ客からは選ばれないし、期待外れと言われる心配もない。むしろ、あんまり有名になったらダメなのよね」
「そう言われてみると、口コミレビューとかで、他のお客さんへの文句を書いてある事って結構ありますよね。夜中までうるさかったとか、ビュッフェのマナーが悪いとか、大浴場ではしゃいでいたとか、それって本来は宿のせいではないんでしょうけど、でも嫌な印象が残ってしまうから、マイナス評価になっちゃうんですよね」
「それだってお客さんの正直な感想だから、消してもらうわけにもいかないし、前のオーナーさんも、昔に比べるとそういうところが難しいって嘆いてたの」
「ああ」と、美季が天井へ視線を流す。「寂しい話ですね。ここなら前も素敵な宿だったんでしょうに」
美季の感想に未森もため息をこぼしていた。
「でも逆にね」と、声のトーンが変わる。「気に入ってくださる方が増えれば、定期的に通ってもらえるし、私とアンジュが暮らせるくらいの稼ぎにはなるからそこまでハードルが高いわけでもないの。お客さんが来ないなら来ないで、のんびり休んでいればいいし。それくらいゆるくてもやっていけるようでないと厳しいでしょうね」
いったん話を切って、未森はふっと笑みを浮かべた。
「あとは借金がないのが一番大事かな」
「意外とシビアな現実に基づいた夢なんですね」
「何があてになるのかなんて結局誰にも分からないでしょ。立派なことを言っていた人たちが結局誰も正解を知らなかったんだなって。私は結構堅い仕事だと思ってたけど、あっさり切られちゃったわけだし」
美季自身も社会人になってまもなく世の中が変わって、真面目に働いていた人たちが報われなかったり倒れてしまった現実を目の当たりにしてきた。
業界で経験を積んできた未森も無念だったろうし、だからこそ、自分なりの答えを探し当てたのだろう。
あらためて美季はリビングからキッチンを見回してみた。
アンジュのイメージを再現してあるだけでなく、未森の哲学が反映されている。
自分もその風景の一部になったかのようで、美季はうれしかった。
色紙に描いてもらった自分の似顔絵じゃなく、本物の自分がなじんでいる。
とても贅沢な時間を味わっている。
それだけでも、他よりも高額の宿泊料金がむしろ安いような気がした。
未森はほどよく冷めた緑茶を飲み干した。
「そんなのうまくいかないって言う人も、そりゃもちろんいたけど、やってみないと分からないし、今のところうまくいってるからやって良かったと思うのよね。それに、たとえこの先失敗しても、他の誰かにやらされたことじゃないから、納得はできるかなって」
自分からたずねたとはいえ、いいことばかりとは限らない現実に言葉が出ない。
と、そこへアンジュが階段を下りてきた。
「ねえ、夕飯なあに」
「ほらね、ああいう、お客さんより偉そうな人もいるし」と、未森が美季におどけた笑みを向ける。
「だって、しょうがないじゃない」と、アンジュがテーブルに歩み寄る。「仕事するとおなか空くのよ」
「私も仕事してるんだけどね」
「あーはいはい。感謝してます。どうせ料理は苦手ですよ」
「あ、そうなんですか」
見上げる美季にアンジュが肩をすくめた。
「ずっと実家暮らしだったから困らなかったのよ。こっち来てからも結局頼りっぱなし」
「でも、それでうまくいくからいいですよね」
「依存してるの」と、アンジュが後ろに回って未森の肩を揉む。「この人がいないと生きていけない」
「車で少し行けばコンビニあるよ」
「まあね。おいしいラーメン屋さんもあるし。夜閉まるの早いけど」
「ね、その程度なの。チャラいでしょ」と、軽くあしらう未森に、美季は苦笑いを返すのが精一杯だった。