「松尾」
授業が終わり、逃げ出すように教室を出たにも関わらず、校門を出たところで、背中から呼ばれた。でも僕は聞こえないふりをする。
「松尾って」
声は諦めない。それでも足を止めず、僕は通学バッグの肩紐をぎゅっと握りしめる。頼む、もう追いかけてこないでくれ、と念じたが、祈りは聞き届けられないまま、大股で迫って来る足音がして、ぐい、と肩が掴まれた。
「聞こえてるよね。なんで無視?」
美島くんが眉を寄せてこちらを見下ろしている。その彼の前髪を留めているのは、あの日の青いのピン。
俺と同じの、と笑って見せてくれた、あの。
眩しすぎる青から僕は必死に目を背ける。
「ごめん。俺、忙しくて。その、バイト……」
「俺もバイトだから。ってか、なんでさっきから俺の顔、見ないの」
美島くんの声が尖っている。学校のみんなの前でも、僕の前でも一度も出したことのない声を出し、彼はくい、と僕の腕を引く。
「ちょっと来て」
「いや、バイト、遅れちゃうし……」
「だからなに?」
ずんずんと歩きながら美島くんが言う。下校中の生徒たちがちらちらとこちらを見ているのがわかる。このままだと目立ってしまう。
「あの、ほんと、ごめん。悪いけど、腕、離して」
「いやだ」
言いつつ、美島くんは僕の腕を引いて歩道を歩き、目についたバス停でいきなり止まった。そのまま、タイミング良くなのか悪くなのか、滑り込んできたバスに乗り込む。
「え、ちょっと、これ、どこ行……」
「すみません、二人分でお願いします」
僕がおろおろしている間に、美島くんはICカードを取り出し、運転手さんに差しだす。この隙にバスから降りればよかったが、おたおたしているうちに再び美島くんに腕を掴まれ、一番後ろの座席へと連れていかれてしまった。
「あの、ねえ、美島くん。俺、本当にバイト……」
「休むって連絡入れて。どのみち、バス乗っちゃったし、間に合わないだろ」
凍った横顔のまま、美島くんはスマホでメールをしている。メール一本で休むのはどうなんだ、と思ったが、バスの中だし仕方ない。しぶしぶスマホを出し、都合が悪くなり、休みたい旨を綴って送信ボタンを押すと、どっと疲れを感じた。
「ずる休みとか……初めてなんだけど」
「それはよかった。記念日だね」
記念日⁉ こいつなに言ってんだ、と睨みつけたが、そこではっとした。相変わらず怒りがたゆたう瞳が僕を見つめているのに気づいたために。
「で、なに? なんで俺、松尾に無視されてんの? 俺がなにかした?」
「なにもしてないよ」
「してなくてその態度、ありえなくない? 完全に拒否ってるよね。帰りも挨拶したのに返事もしてくれなかった。昨日まで普通だったのに急になに」
「……なにもないよ」
「いい加減にしないと本気で怒るけど」
本気で、と言っている声がもう完全に怒っている。僕が身を縮めると、美島くんははあっと息を吐いてシートにだらり、と体重を預けた。
「俺、嫌なのに。松尾と話せなくなるの。すごく……。でも松尾はそうじゃない? もしかして、俺と話すの……苦痛?」
怒りの声ではなかった。途方に暮れたような、頼りない声だった。僕は思わず自分の胸元を掴む。
苦痛じゃない、と即答したかった。けれど言うのは怖すぎた。
だって、美島くんにとって僕は、特別、じゃない。
「美島くんが大事なこと、教えてくれなかったから」
必死に僕が口を動かすと、美島くんがぎろりと横目で睨んでくる。不審そうなその目に怯みつつ、僕は無理やり口角を上げる。
「俺、知らなかったんだ。美島くんが……アイドルになるって。なんで、教えてくれなかったの? そしたら俺、ちゃんとお祝いしたのに。すごいことじゃん。もっと大騒ぎしていいのに、なんにも言ってくれなくて、俺、ちょっとショックだった」
そうだ。デビューすることは美島くんの生活を変える重大事件だったはずなのだ。でもそれを、彼は僕に教えてくれなかった。
それくらい、僕は美島くんにとって特別じゃなかったということだ。
しかも……違う世界に飛び込んでいくだろう彼と僕の距離は、これからどんどん離れていくはずだ。物理的にも、精神的にも。
今よりずっと……僕らふたりの間隔は開いていく。なのに彼は、僕との別れを惜しむこともしてくれない。
あんなに、近い距離で、笑ってくれたのに。
「学校とかも、あんまり来れなく、なるのかな。でも、やっぱり鼻が高いなって思う。一瞬でも、美島くんと、仲良くできて、俺」
あれ、と思う。
声がおかしい。なんでだか目の前も霞む。おかしいおかしい、と思っている間に声がどんどん滲んでいく。
自分の声の後ろに美島くんが見える。
ポテトチップスを美味しそうに食べる美島くんが。
ヘアピンを留めてくれた美島くんが。
「頑張って、ほしいってすごく、すごく、俺、思ってて、おも、ってて、だけどあの」
だけど、なんて言っちゃ駄目なのに、だけど、が出てしまった。出てはいけない言葉のせいで次の言葉が紡げない。
「ああ、ごめん、あの、あれ……」
好きだ、と言ってくれた美島くんの顔が脳裏に浮かんだとたん、耐えられなくなった。
ぽたり、と落ちたのは、涙。
僕は自分の膝に落ちた涙にぎょっとして手の甲を目に当てる。でも、止まらない。
そうしながら僕は気づいてしまった。
だけど、の後にあった言葉に。
応援したい。
だけど、すごく……寂しい。
会えなくなるのは、遠くなってしまうのは、寂しい。
美島くんともう、科学室やバイト先で笑えなくなることがたまらなく……寂しい。
そして、もうひとつ。
……特別。
特別の意味が……僕にはずっとわからなかった。でも、本当はもう、随分前から気づいていたのかもしれない。
僕は……単なるクラスメイトに前髪を触らせたりしない。
コンプレックスの源である、この細い目を、さらすこともしない。
でも、僕は彼に許していた。髪に触ることも、この目を見ることも。
僕にとって忌むべきものでしかなかったこの細い目を、好き、と言ってくれた彼が……特別だから。
「俺、俺、さ、美島くんのこと……特別、だって思ってた、みたいで。一緒に、過ごすの、すごく楽しくて。だから、あの、応援、してるけど、でも、すごく寂しい、っていう気持ち、止められなくて。ごめん、あの」
ああ、頭がこんがらがってまともな台詞が出ない。ぐいぐいと手の甲で目を擦ると、つい、と横から手首を掴まれた。強めの力で目から手が離される。代わりにというように目の前に出されたのは、タオル地の水色のハンカチだった。端っこに白いクラゲの刺繍がされているのが見えた。
ささやかなそのクラゲの刺繍は……たまらなく美島くんに似合っていた。
「使って」
「でも」
「いいから」
低い声で言ってから美島くんは俯く。僕にハンカチを差し出したのとは逆の手が上がり、目尻を擦っている。
「あの、美島くん、俺はいいからハンカチ……」
「いい。使って。俺より松尾のほうが泣いてるし……ってかもう、どこからツッコんでいいか、本当にわかんないんだけど」
もう、と呻いてから、美島くんはぐいと拳で目を拭ってから、僕の手にハンカチを握らせて言った。
「まず、俺ね、アイドルデビューなんてしないよ? 俺がなりたいのは美容師。自分がきらきらするより、誰かをきらきらさせたいんだよ俺は。ってか、なにがどうなってそんな話になってんの?」
「……え」
驚きすぎて完全に表情が抜けた。目を見開いた僕に、美島くんは呆れた顔をする。
「言ったよね。俺、目立つのそんな好きじゃないって。顔ばっかり見られることうんざりしてるから。イメージと違うとかさんざん言われてきたし。芸能界なんてその最たる場所じゃん。確実に俺に向いてないだろ」
「だけど、見た人がいるって聞いたよ? カフェで大手事務所の社長と契約書交わしてたとかなんとか……」
美島くんはきょとんとしてから、思い出すように目を細め、次いで小刻みに頷いた。
「ああ、あれか。それ、違う。なんかうちの弟と妹、ドラマのちょい役で出ないかって話があったんだ。演技力すごいって保育園のお遊戯会で結構話題になって。双子が出る話で、ちょうどいいからって。保育園の園長とその事務所の社長が知り合いとかで一応母親と俺とで会って話聞いたけど、なんか面倒臭そうだし、断っちゃったんだよ。だから、契約書なんて交わしてもいない」
さらさらさらっと言われ、僕は二の句も告げない。吉太の野郎……と壮大な勘違いの原因となった幼馴染を呪う。
明日学校で会ったら覚えてろよ……と呪詛を呟いたとき、ひょい、と美島くんに顔を覗き込まれた。
「俺がいなくなるかもって、寂しがってくれたんだ?」
「そ……! まあ、あー、まあ……」
考えてみればめちゃくちゃ恥ずかしい状況じゃないだろうか、これは。
動揺しつつ僕は美島くんから借りたハンカチでぐいぐいと顔を拭く。
すると、柔軟剤の香りのするハンカチの向こうから、松尾、と呼ぶ声が聞こえてきた。
「特別って……言ってくれて、すごく、うれしい」
声に導かれるように、僕は顔からハンカチを下ろす。
バスの窓から差し込んでくる夕方より少し前の黄金色の光に柔らかく照らされた、彼の赤い頬を、栗色の髪を、僕は息を止めて見つめてしまう。
やっぱりすごく、綺麗だなあ、と思った。
僕とは全然、違うな、とも。
でも、僕が美島くんを特別だと思う理由は、これじゃない。
彼の姿から、彼の手渡してくれたハンカチに僕は目を落とす。
「あの、空良、くん。ハンカチ、あり、がとう」
そろそろと言うと、ぱっと美島くんの顔が上がる。大きすぎる目がまん丸に見開かれていて、ちょっと面白い。笑いながらハンカチを差し出した僕の前で、美島くんは数秒固まっていたが、ややあってゆっくりと笑顔になった。
「くん付けは却下。やり直して」
「や、や、やり直し……⁉ 一軍の美島くんをそんないきなり呼び捨てにはなかなか……」
「一軍とか、そういうの俺、嫌いだって知ってるよね」
ああ、許してもらえそうにない。どうしよう、と僕は救いを求めるように車窓に目を走らせる。
「な、なあ。ここ、どこ? 行き先、確かめて乗った?」
「……確かめるわけないじゃん。適当」
本気で困っていると感じてくれたのか、空良くんはため息交じりに言い、僕にならって窓の外を見た。
見たこともない景色だ。本当にどこだ、と視線を彷徨わせていると、前方にきらきらと光る水面が見えた。
「え、海?」
「あー、あれは海じゃないな。池? ほら、あそこ公園だから」
くい、と肩が押される。指差された先を見ると、木々の間にあるその水面には、小鳥のようなサイズでスワンボートも見えた。
「ほんとだ。こんなとこにあんな公園あるんだ」
「降りてみる?」
空良くん……空良、が楽しそうに言う。うん、と答えると同時に、ボタンが押された。次、停まります、と機械音声が言う。
「バイトさぼって俺たち、なにしてるんだろうね」
「うーん、デート的な?」
さらっと言われて体温が上がる。ええと、と前髪をいじる僕を空良が見下ろしてきた。
「松尾、あのピン、持ってる?」
慌てて、鞄を探る。なくさないよう、鞄の内ポケットに入っていたそれを差し出すと、彼はそれで僕の前髪を手慣れた仕種で留めた。
「今日だけ、駄目?」
正直……恥ずかしい。でもなんだろう。空良の髪にも同じ真っ青なピンが刺さっているのを見たら、いいかな、と思えてきた。
こくん、と頷くと、ぱっと空良の顔に笑顔が広がる。
『菊塚公園です』
運転手さんの不機嫌そうな肉声がバス停の名前を告げる。降りたのは僕たちだけで、公園以外これといって特徴的なスポットもないのか、人声も聞こえず、バス停の周りにも木々が生い茂っている。ちょっと森みたいだ。
「これ、帰りバス、あるよね」
「大丈夫だろ。行くよ、松尾」
「……どうでもいいけど……俺も、呼んじゃったし、名前、呼んでもらってもいいんだけど」
そう言ったのは、自分だけ名前呼びすることが猛烈に恥ずかしくなったからだったが、その僕のこそばゆさがわかっているのかいないのか、うーん、と彼は顎に手を当てている。
「いや、松尾でいいや。ってか松尾がいいなあって」
「なんで」
「松尾さ、知ってる? 松尾芭蕉の奥の細道」
「そりゃあ、知ってるよ」
馬鹿にするな。さすがにそれくらいはわかる。
憤然とする僕に、空良は笑いながらすたすたと歩き始める。
「あれ、かなり過酷な旅だったんだって。狼が出たり、盗賊が出たり。人が通れる道がなかったり、さ。常に命の危険と隣り合わせの旅」
「うん」
「その旅を、松尾芭蕉と曾良は乗り越えたわけだよ。ふたりで」
「……うん」
「そういうの運命的じゃん? だから……俺も松尾って呼びたいかなって」
……空良はどうやらロマンチストのようだ。
またも意外な顔を見てしまって笑えてしまう。ふふふ、と声を漏らした僕に、空良は、笑うなってば、と言いつつ、スマホを出す。
かしゃり、と音がして、僕は妙な形で表情を止めてしまった。
「ちょ、写真、ちょっと……恥ずかしいから」
「ごめん。でも誰にも見せないから。だって……前髪、上げてるとこ、今日しか見られないし」
駄目? と恐る恐る言ってくる。そんなきらっきらっの目で言われると……非常に困る。
「いいけど、他の人には絶対! 見せないでほしい」
「当たり前。むしろ見せてたまるか」
微笑んで彼はスマホを仕舞う。行こ、と促され、苦笑いしながら僕は彼の背中について歩きだす。
夏の香りを抱いた風が、むき出しになったおでこを柔らかく撫でる。
まだ、風を直に浴びることには抵抗がある。でもいつか、今日みたいに前髪に守られずとも歩ける日が来たらいい。今は、そんなふうに思える。
そのときは……目の前を歩く彼に、この前髪を切ってもらえたら、すごく素敵だ。
頭の中に浮かんだ小さな思い付きに微笑みながら、僕は前髪を留める青いヘアピンをそっと撫でた。
───了────
授業が終わり、逃げ出すように教室を出たにも関わらず、校門を出たところで、背中から呼ばれた。でも僕は聞こえないふりをする。
「松尾って」
声は諦めない。それでも足を止めず、僕は通学バッグの肩紐をぎゅっと握りしめる。頼む、もう追いかけてこないでくれ、と念じたが、祈りは聞き届けられないまま、大股で迫って来る足音がして、ぐい、と肩が掴まれた。
「聞こえてるよね。なんで無視?」
美島くんが眉を寄せてこちらを見下ろしている。その彼の前髪を留めているのは、あの日の青いのピン。
俺と同じの、と笑って見せてくれた、あの。
眩しすぎる青から僕は必死に目を背ける。
「ごめん。俺、忙しくて。その、バイト……」
「俺もバイトだから。ってか、なんでさっきから俺の顔、見ないの」
美島くんの声が尖っている。学校のみんなの前でも、僕の前でも一度も出したことのない声を出し、彼はくい、と僕の腕を引く。
「ちょっと来て」
「いや、バイト、遅れちゃうし……」
「だからなに?」
ずんずんと歩きながら美島くんが言う。下校中の生徒たちがちらちらとこちらを見ているのがわかる。このままだと目立ってしまう。
「あの、ほんと、ごめん。悪いけど、腕、離して」
「いやだ」
言いつつ、美島くんは僕の腕を引いて歩道を歩き、目についたバス停でいきなり止まった。そのまま、タイミング良くなのか悪くなのか、滑り込んできたバスに乗り込む。
「え、ちょっと、これ、どこ行……」
「すみません、二人分でお願いします」
僕がおろおろしている間に、美島くんはICカードを取り出し、運転手さんに差しだす。この隙にバスから降りればよかったが、おたおたしているうちに再び美島くんに腕を掴まれ、一番後ろの座席へと連れていかれてしまった。
「あの、ねえ、美島くん。俺、本当にバイト……」
「休むって連絡入れて。どのみち、バス乗っちゃったし、間に合わないだろ」
凍った横顔のまま、美島くんはスマホでメールをしている。メール一本で休むのはどうなんだ、と思ったが、バスの中だし仕方ない。しぶしぶスマホを出し、都合が悪くなり、休みたい旨を綴って送信ボタンを押すと、どっと疲れを感じた。
「ずる休みとか……初めてなんだけど」
「それはよかった。記念日だね」
記念日⁉ こいつなに言ってんだ、と睨みつけたが、そこではっとした。相変わらず怒りがたゆたう瞳が僕を見つめているのに気づいたために。
「で、なに? なんで俺、松尾に無視されてんの? 俺がなにかした?」
「なにもしてないよ」
「してなくてその態度、ありえなくない? 完全に拒否ってるよね。帰りも挨拶したのに返事もしてくれなかった。昨日まで普通だったのに急になに」
「……なにもないよ」
「いい加減にしないと本気で怒るけど」
本気で、と言っている声がもう完全に怒っている。僕が身を縮めると、美島くんははあっと息を吐いてシートにだらり、と体重を預けた。
「俺、嫌なのに。松尾と話せなくなるの。すごく……。でも松尾はそうじゃない? もしかして、俺と話すの……苦痛?」
怒りの声ではなかった。途方に暮れたような、頼りない声だった。僕は思わず自分の胸元を掴む。
苦痛じゃない、と即答したかった。けれど言うのは怖すぎた。
だって、美島くんにとって僕は、特別、じゃない。
「美島くんが大事なこと、教えてくれなかったから」
必死に僕が口を動かすと、美島くんがぎろりと横目で睨んでくる。不審そうなその目に怯みつつ、僕は無理やり口角を上げる。
「俺、知らなかったんだ。美島くんが……アイドルになるって。なんで、教えてくれなかったの? そしたら俺、ちゃんとお祝いしたのに。すごいことじゃん。もっと大騒ぎしていいのに、なんにも言ってくれなくて、俺、ちょっとショックだった」
そうだ。デビューすることは美島くんの生活を変える重大事件だったはずなのだ。でもそれを、彼は僕に教えてくれなかった。
それくらい、僕は美島くんにとって特別じゃなかったということだ。
しかも……違う世界に飛び込んでいくだろう彼と僕の距離は、これからどんどん離れていくはずだ。物理的にも、精神的にも。
今よりずっと……僕らふたりの間隔は開いていく。なのに彼は、僕との別れを惜しむこともしてくれない。
あんなに、近い距離で、笑ってくれたのに。
「学校とかも、あんまり来れなく、なるのかな。でも、やっぱり鼻が高いなって思う。一瞬でも、美島くんと、仲良くできて、俺」
あれ、と思う。
声がおかしい。なんでだか目の前も霞む。おかしいおかしい、と思っている間に声がどんどん滲んでいく。
自分の声の後ろに美島くんが見える。
ポテトチップスを美味しそうに食べる美島くんが。
ヘアピンを留めてくれた美島くんが。
「頑張って、ほしいってすごく、すごく、俺、思ってて、おも、ってて、だけどあの」
だけど、なんて言っちゃ駄目なのに、だけど、が出てしまった。出てはいけない言葉のせいで次の言葉が紡げない。
「ああ、ごめん、あの、あれ……」
好きだ、と言ってくれた美島くんの顔が脳裏に浮かんだとたん、耐えられなくなった。
ぽたり、と落ちたのは、涙。
僕は自分の膝に落ちた涙にぎょっとして手の甲を目に当てる。でも、止まらない。
そうしながら僕は気づいてしまった。
だけど、の後にあった言葉に。
応援したい。
だけど、すごく……寂しい。
会えなくなるのは、遠くなってしまうのは、寂しい。
美島くんともう、科学室やバイト先で笑えなくなることがたまらなく……寂しい。
そして、もうひとつ。
……特別。
特別の意味が……僕にはずっとわからなかった。でも、本当はもう、随分前から気づいていたのかもしれない。
僕は……単なるクラスメイトに前髪を触らせたりしない。
コンプレックスの源である、この細い目を、さらすこともしない。
でも、僕は彼に許していた。髪に触ることも、この目を見ることも。
僕にとって忌むべきものでしかなかったこの細い目を、好き、と言ってくれた彼が……特別だから。
「俺、俺、さ、美島くんのこと……特別、だって思ってた、みたいで。一緒に、過ごすの、すごく楽しくて。だから、あの、応援、してるけど、でも、すごく寂しい、っていう気持ち、止められなくて。ごめん、あの」
ああ、頭がこんがらがってまともな台詞が出ない。ぐいぐいと手の甲で目を擦ると、つい、と横から手首を掴まれた。強めの力で目から手が離される。代わりにというように目の前に出されたのは、タオル地の水色のハンカチだった。端っこに白いクラゲの刺繍がされているのが見えた。
ささやかなそのクラゲの刺繍は……たまらなく美島くんに似合っていた。
「使って」
「でも」
「いいから」
低い声で言ってから美島くんは俯く。僕にハンカチを差し出したのとは逆の手が上がり、目尻を擦っている。
「あの、美島くん、俺はいいからハンカチ……」
「いい。使って。俺より松尾のほうが泣いてるし……ってかもう、どこからツッコんでいいか、本当にわかんないんだけど」
もう、と呻いてから、美島くんはぐいと拳で目を拭ってから、僕の手にハンカチを握らせて言った。
「まず、俺ね、アイドルデビューなんてしないよ? 俺がなりたいのは美容師。自分がきらきらするより、誰かをきらきらさせたいんだよ俺は。ってか、なにがどうなってそんな話になってんの?」
「……え」
驚きすぎて完全に表情が抜けた。目を見開いた僕に、美島くんは呆れた顔をする。
「言ったよね。俺、目立つのそんな好きじゃないって。顔ばっかり見られることうんざりしてるから。イメージと違うとかさんざん言われてきたし。芸能界なんてその最たる場所じゃん。確実に俺に向いてないだろ」
「だけど、見た人がいるって聞いたよ? カフェで大手事務所の社長と契約書交わしてたとかなんとか……」
美島くんはきょとんとしてから、思い出すように目を細め、次いで小刻みに頷いた。
「ああ、あれか。それ、違う。なんかうちの弟と妹、ドラマのちょい役で出ないかって話があったんだ。演技力すごいって保育園のお遊戯会で結構話題になって。双子が出る話で、ちょうどいいからって。保育園の園長とその事務所の社長が知り合いとかで一応母親と俺とで会って話聞いたけど、なんか面倒臭そうだし、断っちゃったんだよ。だから、契約書なんて交わしてもいない」
さらさらさらっと言われ、僕は二の句も告げない。吉太の野郎……と壮大な勘違いの原因となった幼馴染を呪う。
明日学校で会ったら覚えてろよ……と呪詛を呟いたとき、ひょい、と美島くんに顔を覗き込まれた。
「俺がいなくなるかもって、寂しがってくれたんだ?」
「そ……! まあ、あー、まあ……」
考えてみればめちゃくちゃ恥ずかしい状況じゃないだろうか、これは。
動揺しつつ僕は美島くんから借りたハンカチでぐいぐいと顔を拭く。
すると、柔軟剤の香りのするハンカチの向こうから、松尾、と呼ぶ声が聞こえてきた。
「特別って……言ってくれて、すごく、うれしい」
声に導かれるように、僕は顔からハンカチを下ろす。
バスの窓から差し込んでくる夕方より少し前の黄金色の光に柔らかく照らされた、彼の赤い頬を、栗色の髪を、僕は息を止めて見つめてしまう。
やっぱりすごく、綺麗だなあ、と思った。
僕とは全然、違うな、とも。
でも、僕が美島くんを特別だと思う理由は、これじゃない。
彼の姿から、彼の手渡してくれたハンカチに僕は目を落とす。
「あの、空良、くん。ハンカチ、あり、がとう」
そろそろと言うと、ぱっと美島くんの顔が上がる。大きすぎる目がまん丸に見開かれていて、ちょっと面白い。笑いながらハンカチを差し出した僕の前で、美島くんは数秒固まっていたが、ややあってゆっくりと笑顔になった。
「くん付けは却下。やり直して」
「や、や、やり直し……⁉ 一軍の美島くんをそんないきなり呼び捨てにはなかなか……」
「一軍とか、そういうの俺、嫌いだって知ってるよね」
ああ、許してもらえそうにない。どうしよう、と僕は救いを求めるように車窓に目を走らせる。
「な、なあ。ここ、どこ? 行き先、確かめて乗った?」
「……確かめるわけないじゃん。適当」
本気で困っていると感じてくれたのか、空良くんはため息交じりに言い、僕にならって窓の外を見た。
見たこともない景色だ。本当にどこだ、と視線を彷徨わせていると、前方にきらきらと光る水面が見えた。
「え、海?」
「あー、あれは海じゃないな。池? ほら、あそこ公園だから」
くい、と肩が押される。指差された先を見ると、木々の間にあるその水面には、小鳥のようなサイズでスワンボートも見えた。
「ほんとだ。こんなとこにあんな公園あるんだ」
「降りてみる?」
空良くん……空良、が楽しそうに言う。うん、と答えると同時に、ボタンが押された。次、停まります、と機械音声が言う。
「バイトさぼって俺たち、なにしてるんだろうね」
「うーん、デート的な?」
さらっと言われて体温が上がる。ええと、と前髪をいじる僕を空良が見下ろしてきた。
「松尾、あのピン、持ってる?」
慌てて、鞄を探る。なくさないよう、鞄の内ポケットに入っていたそれを差し出すと、彼はそれで僕の前髪を手慣れた仕種で留めた。
「今日だけ、駄目?」
正直……恥ずかしい。でもなんだろう。空良の髪にも同じ真っ青なピンが刺さっているのを見たら、いいかな、と思えてきた。
こくん、と頷くと、ぱっと空良の顔に笑顔が広がる。
『菊塚公園です』
運転手さんの不機嫌そうな肉声がバス停の名前を告げる。降りたのは僕たちだけで、公園以外これといって特徴的なスポットもないのか、人声も聞こえず、バス停の周りにも木々が生い茂っている。ちょっと森みたいだ。
「これ、帰りバス、あるよね」
「大丈夫だろ。行くよ、松尾」
「……どうでもいいけど……俺も、呼んじゃったし、名前、呼んでもらってもいいんだけど」
そう言ったのは、自分だけ名前呼びすることが猛烈に恥ずかしくなったからだったが、その僕のこそばゆさがわかっているのかいないのか、うーん、と彼は顎に手を当てている。
「いや、松尾でいいや。ってか松尾がいいなあって」
「なんで」
「松尾さ、知ってる? 松尾芭蕉の奥の細道」
「そりゃあ、知ってるよ」
馬鹿にするな。さすがにそれくらいはわかる。
憤然とする僕に、空良は笑いながらすたすたと歩き始める。
「あれ、かなり過酷な旅だったんだって。狼が出たり、盗賊が出たり。人が通れる道がなかったり、さ。常に命の危険と隣り合わせの旅」
「うん」
「その旅を、松尾芭蕉と曾良は乗り越えたわけだよ。ふたりで」
「……うん」
「そういうの運命的じゃん? だから……俺も松尾って呼びたいかなって」
……空良はどうやらロマンチストのようだ。
またも意外な顔を見てしまって笑えてしまう。ふふふ、と声を漏らした僕に、空良は、笑うなってば、と言いつつ、スマホを出す。
かしゃり、と音がして、僕は妙な形で表情を止めてしまった。
「ちょ、写真、ちょっと……恥ずかしいから」
「ごめん。でも誰にも見せないから。だって……前髪、上げてるとこ、今日しか見られないし」
駄目? と恐る恐る言ってくる。そんなきらっきらっの目で言われると……非常に困る。
「いいけど、他の人には絶対! 見せないでほしい」
「当たり前。むしろ見せてたまるか」
微笑んで彼はスマホを仕舞う。行こ、と促され、苦笑いしながら僕は彼の背中について歩きだす。
夏の香りを抱いた風が、むき出しになったおでこを柔らかく撫でる。
まだ、風を直に浴びることには抵抗がある。でもいつか、今日みたいに前髪に守られずとも歩ける日が来たらいい。今は、そんなふうに思える。
そのときは……目の前を歩く彼に、この前髪を切ってもらえたら、すごく素敵だ。
頭の中に浮かんだ小さな思い付きに微笑みながら、僕は前髪を留める青いヘアピンをそっと撫でた。
───了────