付き合って、とかそういうことを言われたわけじゃない。
 だから好きに対して、僕はなにも答えていない。
 美島くんも答えを求める発言をまったくしなかった。ただ、当たり前みたいに、また明日学校で、と爽やかに手を振ってよこしただけだ。
 僕はこれから、どんな顔をして彼と会えばいいのだろう。
 悩みながら、洗面所で前髪をそろっと持ち上げてみる。
 相変わらず、糸みたいな目が鏡越しに睨んでくる。
 美島くんはこの目を好きと言ったけれど、僕自身は相変わらず、好きだなんて思えない。
「変な人だよなあ、美島くん」
 変で、奇特な人だ。
 だが、彼の変な部分は翌日、さらに発現した。
「松尾」
 いつも通り吉太と昼食を食べ終わってだらだらと会話していたときだった。背中をつんつんと突かれた。
「え、あ、なに? 美島くん」
 さっきまでは、いつも美島くんを囲んでいる友達たちとご飯に出て行っていて、空席だったはずだ。いつの間に戻ってきたのだろう。
 昨日の今日だし、どんな顔をしていいかわからない。どもる僕を美島くんはじいっと見つめてから、僕の耳に唇を寄せてきた。
「ちょっとさ、手伝ってほしいこと、あって」
「手伝い? え、なに?」
「来て」
 すっと美島くんが腰を上げる。少し迷ったけれど、なにやら深刻そうだ。僕は吉太に目で謝りつつ立ち上がった。吉太が、加勢に行こうか? という顔をして拳を握ってみせてくれたのがわかったが、僕は緩く首を振った。
 拳を必要とする加勢は、多分もう必要ない。
 けれども、今は別の問題がある。
「あの……今日は準備当番ないよね。手伝いってなに?」
 美島くんが僕を連れてきたのは、科学室だった。今日は授業がないのか、室内の空気はやや籠っていた。
 ここ、酸素、薄い、とそんなわけもないのに思っていると、がたり、と音を立て、美島くんが窓際の席に腰を落ち着けた。
「美島くん?」
「ごめん、嘘」
「え?」
「手伝ってほしいことなんてない。松尾と話したかっただけ」
 ぽかんとした僕から美島くんは目を逸らし、右手を閃かせ、僕を手招く。そろそろと近づくと、彼の隣の席を指し示された。座れ、ということらしい。
 なんだかますます緊張してきた。
「話だったらその、教室でも……」
「松尾、みんながいるところで俺に話しかけられるの、嫌かな、と思って」
 え、と言葉が止まった。美島くんは椅子の上で、片足を抱え込むように座り、自分の膝に顎を埋めるようにして俯いている。
「そういうの、俺、わかるほうだし。だから、あんまり今までも話しかけないようにしてた。嫌な思いさせたくないし」
 でも、と言って美島くんは膝に額を埋める。美島くん? とそろそろと顔を覗き込むと、膝に頭を押してたまま、美島くんが顔をこちらに向けてきた。
「幼馴染だから仕方ないけど、安斎とはいっぱい話してて。なんか、ちょっと、もやっちゃって」
「は……」
 吉太と話してたから? それはまさか嫉妬とかいうものなのだろうか。まさか、と思いかけた僕の耳の奥に彼の声が過る。

――そういうとこ、好きだって思った。

 好き。
 好き……。

 昨日、何度も胸の中で反芻した言葉だ。呼び起こすたびになんだかそわそわした。でも今、美島くんを前にして改めてリプレイすると、そわそわ、というのとはちょっと違う感覚を覚える。
 なんだろう。この感じ。よく、わからない。ただ……落ち着かないのは確かながら、逃げ出したいとか、いたたまれない、とか、そういう感じではないような気がする。
「あの、話くらい俺、全然するし」
「そうなんだろうけど。そうじゃなくて。うーん」
 美島くんは再び顔を伏せてしまう。昨日も学校で見せないような顔をたくさん見てしまったけれど、今日の美島くんもやっぱり違う。こんなとき、どう言ったらいいのだろう。
「ええと……」
「時間ってさ、やっぱり超えられないもの?」
 言葉を探す僕の声をすり抜けるようにして問いかけられる。固まる僕の前で、美島くんはぐらぐらと頭を膝の上で揺さぶった。焦れるみたいに。
「安斎は松尾のこと、歩夢って呼ぶし、松尾も安斎を吉太って呼ぶ。それって一緒にいた時間が長いからだろ。だから仕方ないとは思うけど、このもやもやって同じくらいの時間超えないと解消しない類のやつ? だとしたら何年? 何年で俺、安斎と同じ位置に行けるの?」
「そ……それは」
 あんぐりと口を開けたまま硬直してしまう。この質問に対し、なんと返すのが正解なのだろう。
「美島くんは……吉太と同じ位置にいきたいの?」
「うーん」
 うん、と即答するかと思いきや、返ってきたのはまたも唸り声だ。一体なんなんだ、と困惑する僕の前でゆらり、と美島くんは顔を上げた。
「俺は、松尾の特別になりたい」
 特別。
 特別って、なんだろう。僕には特別と呼べる人はいない。だからどうなるとその人が特別になるのか、よくわからない。
「名前呼んだら、特別?」
「わかんない」
 頼りない返事だ。脱力すると、だって、と美島くんが肩を落とした。
「俺だって初めてなんだよ。こういうの。だから怖い。気持ち、押しつけ過ぎて、松尾に嫌われたらってずっと怖かったし」
 美島くんの口から、怖い、なんて言葉が飛び出してきて、僕は少なからず驚いた。
 やっぱり彼はただの陽キャじゃない。僕はまた色眼鏡で彼を見てしまっていたのかもしれない。
「ごめんね」
「なんで、謝るの」
 ふっと美島くんがこちらに顔を向けてくる。僕はいつもの癖で前髪をいじりながらうなだれた。
「いや、美島くんのこと、恋愛エキスパートみたいに思ってて。好きとかそういうの、言うの慣れてる人なのかなって」
「そんなわけないだろ。恰好つけてたけど、正直、今も松尾に嫌われたらどうしようってぷるぷるしてる」
「嘘」
「ほんと」
 投げ出すように言い、美島くんは小さく息をついた。
「昨日の告白、松尾、嫌だった?」
 訊かれて少し考えた。心の中を探ってみる。嫌、は出てこなかった。
 首を振ると、美島くんはふっともう一度息を吐いてから言った。
「俺、松尾のこと、もっと知りたいんだ。だから……時々、こうやってふたりで話しても、いい?」
 こちらをじっと見つめてくる淡い茶色の瞳。その瞳がかすかに揺れている。
 まるで、怯えるみたいに。
 イケメンで……みんなの人気者だけれど、彼も僕と変わらない。
 ……美島くんも緊張しているんだ。
「いいよ」
 気が付いたら、そう答えていた。
 美島くんは僕の答えを聞くや否や、ほうっと肩から力を抜き、良かったあ、と囁き声で言った。