約束の日、学校での美島くんはいつも通りで、特別話しかけては来ないけれど、やっぱりあの独特の淡い眼差しで僕を見つめ続けていた。
 それに対し、僕もなにも言えなくて、ただ、直接視線を交わすことはなんだか照れ臭くてできなくて、いつも以上に前髪で目元を隠して過ごした。
 話したくない、とかそういうことではないのだけれど、どんな顔をしたらいいのか、本気でわからなかったからだ。
 彼が僕を見ていた二つ目の理由、顔が好きだから見ていた、がどうしても引っかかって仕方なくて。
 僕には……自信がない。小学校時代にひどいからかいを受けたこともきっかけのひとつではあるけれど、もうひとつ、僕から自信を奪った出来事がある。
 歩夢くんはお母さん似ねえ、と近所の人に言われた、と母親に伝えた直後だった。
 母は僕の顔を見つめ、悲しそうに言ったのだ。
 不細工に生んでごめんね、と。
 自分が不細工だとそのときまで思っていなかったので、あまりにも衝撃で、僕はそれ以上その話題を続けることができなくなった。
 多分、母としては、自分に似ているなんて、という謙遜もあったのだろう。今なら少し、わからなくもない。母はあんまり押しが強くない、極めて控えめな人だと思うから。
 けれど、まだ十歳になる前の僕にはそうはやっぱり思えなくて、かなり凹んだ。その後から始まったのが、学校でのからかいだ。
 顔面に自信が持てなくなったって仕方ないと思う。
 そんな僕の顔を、美島くんは好きだという。
 しかも、癇癪を起こした僕への反応から見て、冗談でも、嫌味でもないらしいことは……わかる。
 つまり、本気で彼は僕の顔をいいと思っている、ということになるが……本当にそんなこと、あるのだろうかと思ってしまう。
 だって、相手はあの美島くんなのだ。毎日毎日整った自分の顔を鏡で見続けているあの。
 好きになるだろうか。親に不細工とまで言われた僕の顔を。
 面白くて見ていたとかならわかるけれど、好き、なんて。
 意味がわからない。
 ただ、ぐるぐるしてはいるけれど、あのとき美島くんにぶつけてしまった怒りは、もう僕の中にはなかった。
 むしろ、あんなふうに怒ってくれた彼と、もう少し話してみたいな、という気持ちのほうが強くなっている。
 だから今日、バイト先で顔を合わせたら、ちゃんと目を見て話をしよう、とは思っていたのだ。
 思っていたのだが。
 僕はぽかん、として休憩室で寛ぐキューリくんを見る。
 キューリくんの頭部をぽい、と投げだし、タオルで頭を拭いていたのは、美島くんではなかった。
「あの」
 思い切って声をかけると、見事なまでのスキンヘッドのその人が、ああん? とこちらを見る。なんと、フロアマネージャーの柏木(かしわぎ)さんだった。
「今日、あの、美島、くん、は」
「休み」
 ただの倉庫バイトの僕は、柏木さんと話すことなんてまずない。なんといっても結構な人数の従業員がいるのだ。柏木さんにも不審がられてしまうかな、と思ったけれど、タオルで頭をけしけしと拭きながら柏木さんは、からっとした声で答えてくれた。
「なんか、急に入れなくなったって連絡あったんだよ。しっかし、久しぶりに入ったけど、なかなかしんどいなあ、キューリくん」
 ははは、と柏木さんが笑う。そうなんですね、と曖昧に頷くと、君さ、と柏木さんがこちらを見た。
「美島くんと同じ高校だっけ? あの子、あの顔だし、できれば着ぐるみバイトじゃなくて、案内スタッフのほうやってほしいなあって思ってるんだけどねえ。やっぱり無理かなあ」
「さあ……」
 本人に直接言ってください、とは言えない。
 惜しいねえ、ほんとほんと、と言いつつ、柏木さんはキューリくんの頭部を装着し、のしのしと去っていく。その後ろ姿を眺めながら、イケメン、やっぱり大変だなあ、とぼんやりと思った。
 と同時に……ちらと蘇ったのは、科学室で美島くんが零した言葉だった。
――ひとりで黙々とやるこういう作業、結構好きだから。
 あれは僕を安心させようとして言ってくれたのかと思っていたけれど、実は違うのかもしれない。本気で、美島くんは目立つのが嫌いなのかも。
 まあ、その辺りを訊きたくても、美島くんはいない。約束もなくなったと考えていいだろう。
「三つ目の理由を聞かせてって言ったの、そっちなのに」
 いろいろ思い悩んで損した。
 ぽつり、と呟いてから僕はふっと口許を押さえる。
 拗ねたように少し、唇が尖ってしまっていたような。
 変な感じだ。
 妙にすかすかとした気持ちで作業に当たったせいで、その日、僕は社員さんに小言をたくさんもらってしまった。なんとかその日の作業を終え、いつも以上にくたくたになって職員通用口を出たのは、夜の八時。
「松尾!」
 ふらふらしながら駅へと向かおうとする僕を呼び止める声が聞こえ、僕はのっそりと振り返った。
 職員出口の傍らに備え付けられた、街灯の下からこちらを見ている人がいる。目を凝らして驚いた。
 美島くんだった。
 走ってきたのか、肩を波打たせて立っている。
「美島くん? 今日、お休みなんじゃ……」
「そう、だけど。だって、約束、したから」
 腰を折りながらぜいぜいと呼吸を整える合間に声がする。随分苦しそうだ。僕は思わず美島くんの肩に手を伸ばし、ぽんぽん、と叩いてしまった。
「いいよ、そんな無理して話さなくて。まず息、整えて……」
「あー、うん、ごめん」
 美島くんの肩が大きく上下する。しばらくそうしてから、彼はぱっと顔を上げた後、勢いよく頭を下げた。
「ごめん、俺から言ったのに、バイト、出られなくなっちゃって」
「あ、ううん。柏木さんがキューリくんに入ってて、びっくりしたけど……」
 ぼそぼそと言うと、ごめん、と下げた頭の向こうから声が返ってくる。その僕らの横を、職員が不審そうな顔をしながら通り過ぎていく。
「あ、の、いいから。頭上げて。なんかその、俺が美島くんにカツアゲしてるとか、そんな感じに見えちゃいそうだし」
「見えないよ」
 くすっと笑い、美島くんは頭を上げる。落ちかかってきた前髪をさらっと流し、美島くんは言葉を重ねた。
「見えない。松尾はそういうことするタイプには見えないし、そもそもそういうタイプじゃない」
 あまりにきっぱり言われて返事ができなかった。黙り込む僕の前で美島くんは後ろ頭を掻く。
「しかし、そっかあ。柏木さんが入ってくれたんだ。悪いことしちゃったな」
「……美島くんには着ぐるみじゃなくて、案内スタッフやってほしいのに、とか言ってたよ」
「ああ、それか。嫌だよ。俺、そういうの苦手だし」
 吐き捨ててから、美島くんはスマホをポケットから出し、ちらっと時間を確かめた。
「松尾、少し時間ある? 歩きながら話、いい?」
「あ、うん、いいよ」
 躊躇いながらも頷くと、美島くんはぱあっと笑顔になった。
 こんな笑顔、やっぱり学校では見たことがない。
 驚きつつ彼の後ろについて歩く僕に、美島くんは、ごめんな、とまた謝った。
「今日、本当はバイト行けるはずだったんだ。でも急に母親の仕事が残業になって、弟と妹、保育園に迎えに行かないといけなくなったからさ」
「そうなんだ」
 そんなに歳が離れた弟妹がいたのか。それなら突然バイトを休むことだって仕方ない。
 約束したのに、とかもやもやしてしまった自分が、急に恥ずかしくなってきた。
「なんか……その、こっちこそごめん」
「は? なに?」
 怪訝そうに美島くんが振り返る。僕は前髪を引っ張って目元を隠しつつ呟いた。
「美島くん、陽キャだし、毎日、友だちと遊んでばっかりいるんだろうなとか勝手に思ってた。イケメンだし、苦労もないだろうなとか。でも、それって勝手な思い込みだよね。バイトだってしてるし、弟さんや妹さんの迎えにだって行くし。顔だけで判断して楽そうとか思って。そういうの、俺、嫌いなはずなのに、同じことしてた」
 ごめん、ともう一度言う。美島くんは黙って僕の謝罪を聞いてくれていたけれど、ややあって前方をすいと指差した。
「そこ、座らない?」
 彼の指の先を辿ると小さな児童公園があった。頷く僕にほっとしたような笑顔を見せ、美島くんはブランコの横にあるベンチに座る。彼の隣に僕も腰を下ろすと、横合いからひょい、と缶が差し出された。
 新発売のキャラメルコーヒーだった。
「こういうの、松尾、飲む? 俺は結構好きだけど」
「うん。好き」
 実は自販機で見てからずっと気になっていたのだ。目を輝かせると、美島くんはほっとしたように目を和ませた。
「じゃあ、あげる。約束破ったお詫び」
「大げさだって」
「お詫びが駄目なら、学校あったのにバイト休まず行った松尾にご褒美ってことで」
 どうぞ、と押しやられた缶をそろそろと受け取る。五月の終わりで少しずつ空気は熱気を孕み始めてはいるけれど、夜は少し冷える。じんわりと温かい缶が有難かった。
 本当に、ご褒美みたいだ、と思った。
 そうっと缶を両手に持つと、温もりに押されるように、知らず口許に笑みが浮かんでしまった。
「どした?」
 美島くんが首を傾げる。あ、いや、と僕はごまかすように首を振り、もらった缶を開ける。
 疲れた体に沁みそうな、甘い香りがふわりと漂った。
「そういえば、美島くんはバイト、なんでしようと思ったの」
 甘いコーヒーにほっこりしつつ訊ねると、美島くんはちょっと笑って、逆に水を向けてきた。
「松尾は?」
「俺?……まあ、学費かな。一応進学しようと思ってるけど、うち、親ひとりだし」
 聞き返されて少し迷ったが答えることにした。学校で禁止されてもいるから吉太にも言っていなかったけれど、美島くんなら全部知られているし問題ない。
――ふたりだけの秘密だね。
 タイミングよく美島くんの声が耳に蘇ってきて、勝手に赤くなる。ぺちぺちと頬を叩いていると、虫、いた? と心配そうに訊かれた。
「大丈夫。で、あの……美島くんは……」
「俺もね、同じ。うちも母子家庭だからさ、しかも下に弟と妹いるし。しかもしかも! あいつら双子なんだよ。双子ってさ、全部二倍金かかるから、母さんもあっぷあっぷしてて。一応、俺、専門行くつもりだから、ちょっとは足しになったらなって。あそこ、バイト代いいからね」
「専門? 大学なのかと思ってた」
「俺は美容師になりたいから」
 美容師。
 意外だった。勝手に四年制大学を受験するのだと思っていた。
「手に職かあ。それもいいかなあ」
「そう。いずれは自分の店持てたらなあって。まあ、先のことはわからないけどさ。ただね」
 ふっと声のトーンが下がる。と同時に、美島くんの手がすっと僕の額に伸びた。とっさに腰を引いたけれど、間に合わなかった。
 美島くんの長い指によって、僕の前髪は囚われていた。
 あの、と言いかけた僕を遮り、再び明るさを取り戻した声で美島くんが言う。
「この松尾の前髪! 猛烈に切りたくて切りたくてたまらなかったんだよね。絶対、俺ならいい感じに切れる自信あるから」
 さらっと指の腹で持ち上げた髪を、それこそ本物の美容師みたいな目でしげしげと見る。その目を見ていたら少し身体の強張りが解けてきた。前髪越し、美島くんを見上げ、僕は恐る恐る訊ねてみた。
「……まだ美容師じゃないから、駄目だよ」
「ないけど。弟と妹の髪は俺が切ってるから。腕は確か」
 本当だろうか。疑わしい顔をすると、失敬な、と美島くんが唇を曲げる。またも学校ではまずしない顔だった。
 美島くんという人は、こんなにも表情豊かな人だったのか。
 まじまじと彼の顔を見つめていると、不意に目が合った。とたん、すっと彼の顔から笑みが消えた。さらっと僕の髪から指が離れる。
「松尾、わかった? 俺が松尾のことずっと見てた最後の理由」
「あ、ええと」
 問われ、僕はあたふたする。バイトが同じだから、前髪を切りたいと思ったから……あと、あと、なんだろう?
 ただ実は、ぼんやりと思うことはあるのだ。あるけれど、それは……あり得ない。
「ごめん、わか、らない」
「本当に? 可能性、一個も思いつかない?」
 美島くんのやたら澄んだ目が僕の目の奥を覗き込んでくる。心の表に一瞬浮かび上がった可能性も掬い取られてしまうような、そんなまっすぐな視線を退けたくて、僕は目を伏せる。
「ごめん、あの、まさかなあ、という可能性が浮かんでいるにはいるんだけど、言ったらさすがに勘違い野郎だなあというやつで……」
「いいよ、言って」
「でも」
「言って」
 ぐいっと声が僕の背中を押す。僕は目を瞑ったまま、息を細く吸い、吐く息と共に言葉を吐きだした。
「美島くんが、俺を好きで、だから見て、くる、とか……なんて、あり得ないよね。ごめん、忘れて……」
「……忘れない」
 きっぱりと言い切られ、僕はとっさに目を開けてしまう。直後、息を呑んだ。
 ほんのりと頬を染め、俯いた美島くんが目の前にいた。
「だって、正解だから」
 照れたように囁いてから、美島くんはぼそぼそと続けた。
「でも、ごめん。松尾に答えさせるみたいな、回りくどい伝え方しちゃって。本当はちゃんと言いたかったんだ。でも……松尾、俺みたいなタイプ、苦手なんだろうなって思ってて。言えなくて……ごめん」
「え、あ、いや、謝ること、ないけど、でもあの……なんで俺……」
 そうだ。やっぱりそこなのだ。
 多分、美島くんは僕が思うよりずっと陽キャらしくない陽キャなのだろう。目立つことも好きじゃなさそうだし、弟や妹の面倒もしっかり見る、優しい人なんだと思う。
 でも美島くんはやっぱり僕より数倍輝いて見える人で……しかも、僕と美島くんの接点なんて、バイト先が同じなことと、学校での席が前後ろなことだけだ。
 好きになる要素なんてどこにも見当たらない。
 当惑している僕の前で、美島くんは逡巡していたが、ややあってふっと顔を上げ一言、目、と言った。
「目? え、目?」
「松尾ってさ、あそこでのバイト、去年もしてたよね」
 確かにしていた。頷く僕に、美島くんは低い声で言う。
「俺も去年からいた。そのときはキューリくんではなくて……青果コーナーのフルーツカットとか、そういうのやってて。で……そのときさ、フロアから倉庫に小さい女の子が迷い込んできちゃったことあったんだ。記憶ない?」
「ああ、うん」
 確かになんとなく覚えがある。迷子らしい少女は泣いて泣いて、泣きまくっていた。しかし、倉庫内は雑然としていて女の子に気付く人間もいなかった。
「そのときさ、通りがかった松尾が女の子にぱあっと駆け寄って声かけてて。その子、ずっと泣いてたけど、松尾がそばに膝をついてさ、笑いかけながら話しているうちに泣き止んだんだ。俺、それ、たまたま見てて。で」
 そこで美島くんは言葉を切る。思い出すように遠くを見ていた彼の口許がふっと綻んだ。
「それまでは、松尾のこと、前髪ずるずる伸ばしてて暗いな、って思っちゃってた。けどあのとき、見えたんだ。女の子をなだめてる松尾の、細めた優しそうな目。それ見てたら、なんか感動しちゃって。俺、弟と妹いるけど、あんなふうに鮮やかに泣き止ませられないし。優しさセンサーみたいなものが子どもにはあって、松尾の優しさがあの子にはわかったから泣き止んだのかな、って思えてさ」
「優しさセンサーって。それなら、美島くんだってあるよ。キューリくんやってたとき、子ども泣き止ませてたじゃん」
 照れて茶化そうとしたが、美島くんは首を振る。
「あれはキューリくんの着ぐるみのおかげ。俺だけじゃ無理。でも松尾には優しさがある。学校で見てて、思ったんだ。松尾っていつも、教室でも廊下でも、困ってる人いるとすうって寄ってって、さりげなく手差し出してるよね」
「ごめん、あの、恥ずかしいから、もうやめて」
 あんまり褒められ慣れていないから、どうにも座り心地が悪い。片手を上げて制止したけれど、美島くんは聞いてはくれなかった。
「そういうとこ、好きだって思った。だから……松尾のこと、見てた。ずっと」
 好き。
 何色かもわからなかった眼差しに、好き、という色がついていたことがわかったとたん、なんだかどうしていいかわからなくなった。普段できていた呼吸の仕方も判然としなくなって、少し苦しい。
 当惑する僕に、美島くんは静かな声で言葉を継ぐ。
「バイト先で、松尾が俺に気付いてくれたときもすごくうれしくて。ついふたりだけの秘密なんて言っちゃって。俺、恥ずかしいなあって後で照れたけど、なんかさ、どうしても思っちゃうんだよね」
 言いながらつい、と美島くんが手を伸ばす。整った指先は、まだ混乱の中にいる僕の前髪に再び触れていた。
「この前髪、切りたいなあって。松尾は自分の目、嫌いかもしれないけど、俺、もっと見たくて。笑ってるとこ、もっと」
 とくん、と胸の奥で心音が高くなった。なんだ? と動揺している僕の髪からするっと美島くんの指が解ける。
 と同時に、僕を食い入るように見ていた瞳が、ふっと閉ざされた。
「あーあ、言わないでいようってずっと我慢してたのにな。ついに言っちゃった」
 そう言って美島くんは困ったように、口許だけでほんのり笑った。