あれから数日経つ。
経つけれど、バイトで顔を合わせた後も、美島くんから視線は注がれ続けている。
淡い眼差しにどんな感情が含まれているのか、まったくわからない。ただ、今日も変わりなく、彼はこちらを見つめてくる。
僕が秘密をぽろっと口外してしまわないか、心配なのだろうか。これまでこちらを見続けていたのも、彼のほうではバイト先で僕に気付いていて、ばらしてないよな、と不安になって探りの眼差しを向けてきていただけ、とか。
しかし、それは杞憂というものだ。彼のことを学校に密告したら、芋づる式に自分のこともばれてしまうだろうから。つまり一蓮托生とかそういうやつになるのだ。言うわけがない。もう心配しなくていいよ、と言ってあげたほうがいいのかもしれない。
昼休憩を挟んだ次の時間は科学の実験で、幸いにも僕と美島くんはそのための準備当番に当たっている。大丈夫だよ、と言ってあげる絶好の機会だ。
意気揚々と科学室の扉を開けると、美島くんはすでに来ていて、用具棚からビーカーやらロート、ガラス棒などをリストを眺めながら準備してくれていた。
「ごめん、遅くなって」
扉を閉め駆け寄ると、美島くんはうっすらと笑って首を振った。
「別に。ひとりで黙々とやるこういう作業、結構好きだから」
「そう、なんだ」
いつも人に囲まれている彼には似合わない台詞だな、と思った。曖昧に頷いて僕は美島くんの傍らからリストを見る。あと必要なものは……と目線でリストをなぞって青くなった。
ほぼ終わっている。
「ほ、本当にごめん。呑気に弁当食べ過ぎた……」
「いいって。松尾ってほんと優しいね」
また、優しい、だ。僕は困惑しつつこめかみを掻く。
「俺、優しくは、ないよ。あんまり人の気持ちとかわかんないし。吉太にも迂闊なこと言って怒らせちゃうことあるし」
「きった?」
「ああ、同じクラスの安斎吉太。幼馴染なんだ」
さらっと説明したが、美島くんからは返事がない。おや、と目を上げた僕は固まった。
美島くんのやけに澄んだ目が、僕の顔を凝視していた。
「美島くん、どうし……」
「俺の名前さ、空良っていうんだよね」
なにを言い出したんだ?
展開についていけず、落ち着きなく頷くしかできない僕に、美島くんは声の調子はそのままに続ける。
「字は違うけどさ、俺の空良って名前、松尾芭蕉の弟子の曾良からつけたんだって」
「は、あ、そう……」
「松尾、芭蕉の弟子」
松尾、にアクセントを置いて言われ、僕は目を白黒させる。いや、確かに僕の苗字は松尾だ。でもそれがなんだというのだろう。
「その……面白いね。その話だと……俺が美島くんの師匠、みたい」
「ね。だからさ」
くすっと笑い、美島くんは放り出していたリストを再び手に取り、用具棚へと向き直りつつ背中で言う。
「師匠っぽく、空良って呼んでよ」
「……は」
なんでだ? なんでそうなるんだ?
まったくわからない。これが陽キャの思考回路なのか?
混乱したまま次の言葉も見つけられない僕を尻目に、美島くんは黙々と準備を進めている。慌てて彼の隣に並ぶと、松尾、と呼ばれた。
「空良って呼んでくれないと、バイトのこと、ばらす」
「は⁉」
ビーカーを握った手が滑りそうになった。慌てて両手で持ち直したので落下は免れたが、嫌な汗が背中を伝った。
「意味が、わからないんだけど……。あの、それ、なんで」
「わかんないかなあ」
美島くんの手が僕の手に伸びてくる。え、と瞠目する僕の手からビーカーがするりと抜き取られた。
ことん、と実験台の上にビーカーが置かれる。
「それくらい呼ばれたいって思ってるってことなんだけど」
「は、あの、なんで、美島くん、が……?」
「なんでなんでうるさいなあ」
苦笑いが返される。だが、こちらとしては笑える気分じゃない。頭の中は疑問符でいっぱいだ。
しかも、なんで、を封じられてしまったらなにをどう訊いていいかわからない。視線を彷徨わせる僕の前で彼はふうっと息を吐いた。
「まあ、そんなに呼びたくないなら別にいいよ」
「え」
呼びたくないわけではない。ただ、理由がわからないと落ち着かないのだ。昔からそうだ。勉強でも疑問が残ったまま放置してはおけないタイプで、ひとつ引っかかると前になかなか進めない。
「ごめん、あの、呼びたくないわけじゃないんだ。ただ……美島くんに訊いておかなきゃいけないことあって」
「なに?」
気だるい声で言い、彼は用具棚の扉をからり、と閉める。その彼の横顔に向かい、僕はここのところずっとあった疑問をぶつけた。
「気のせいだったらごめんだけど……美島くん、さ、俺のこと、見てない? その、俺、なんかしちゃったのかな。ああ、バイトのこと、ばらさないか心配? そんなことしないから大丈夫だよ」
「なにもしてないよ。ばらされることを心配もしてない」
「え、あの、じゃあ、俺、ちょっと臭うとかそういうことあったり、する?」
「なにそれ」
くすっと肩が揺れる。軽く首を傾けるようにして美島くんはこちらを見下ろす。
「気のせいじゃないよ。確かに見てた。ごめんね」
「あの、それ、なんで。やっぱり」
「臭うからでもないよ」
くっくっと笑い、美島くんは腕組みをする。透き通った淡い茶色の瞳がすうっと細められる。
「理由は三つあります。なんだと思う?」
「三つ?」
思った以上に多い。ええと、と僕は宙を睨む。
「バイトが一緒だったから?」
「まあ、正解。松尾、細いのに、荷物運びメインのあんな仕事選んで大丈夫かなって思って見てた。着ぐるみの中から」
付け足された、着ぐるみの中から、に僕はちょっと笑ってしまった。似合わないバイトをしているのはお互いさまだ。
「ふたつ目は?」
「自分で考えなよ」
意地悪くはぐらかされる。しかし頭をふり絞って考えても浮かんでこない。
「いつも肩にゴミがついている……とか」
「ついてないでしょうが」
面白すぎ、と言いつつ、美島くんが手を伸ばす。ああ、でもチョークの粉ついてる、と小さな声でごちた彼によって、ぱたぱたと肩がはたかれた。そのまま離れていくかと思った手が、つと僕の頭に触れ、僕は驚いた。
「髪、自分で切ってる?」
目にかかる前髪をすいと上げられ、僕は俯く。あまりまじまじと顔面は見られたくない。
「その、手、離してくれる。顔、はちょっと」
「ごめん、でも」
謝りつつ、逆接の接続詞が彼の口から飛び出す。
「俺は好き。松尾の顔」
美島くんの手は僕の髪から離れない。前髪に指先をくぐらせるようにしながら彼は僕の顔を見つめている。
「だから、この前髪、切っちゃいたいなあって思って見てた。自分で切っているんだろうから、俺が切ってもいいなら切らせてくれないかなって」
「……は」
なんで。
なんで、彼はそんなことを言うのだろう。顔が好き? 美島くんのほうがよほど綺麗な顔をしているのに? 嫌味とかマウントとかそういうことなのか?
そう思ったらだんだんいらいらしてきた。
遮二無二手を上げ、彼の手を払う。一軍男子の彼にこんなことをして、後でややこしいことになるかも、とちらっと思ったけれど、止められなかった。
顔のことには……誰であろうと触れられたくない。
「嫌味すぎ。美島くんみたいな綺麗な顔面のやつにそんなこと言われて信じると思う?」
「綺麗な顔面……。それは松尾の主観だろ。俺は別に自分の顔なんてそれほど綺麗とも思ってない。松尾のほうがよっぽど整ってると思うけど」
「は? そんなわけないよね」
自分の怒りの導火線は短いほうじゃない。けれど、このとき、僕は確かに火が点くのを感じた。
もう、随分前の話だ。僕自身ですら忘れていたそれに、無遠慮に触れる手が厭わしくてたまらなかった。
「美島くんはさ、ないんだと思うよ。顔でからかわれたこととか。でも俺にはあるの。俺の目、糸みたいだろ。細くて腫れぼったくて。小学生のころ、しょっちゅうからかわれた。そんなんで前見えるのか、とか、眩しいの? とか。細すぎてキモいとか」
子どもなんて残酷なものだ。成長した今、それはよくわかっている。でも、あのころは子どもの軽口として受け流すことなんてできなかった。
いつかはからかいはなくなるものだと今ならわかっても、あのころはただただ絶望するしかできなくて、僕は前髪を伸ばすようになった。
そして今も、できるだけ目元が覗かないように気を配っている。それを、整っている、だと?
冗談じゃない。
「ひどいだろ。でも怒れないよね。だって俺、自分でも思うことあるから。目、細すぎて似顔絵描いたら目元線で済むから楽……」
「俺は思わない」
勢いのまま怒鳴り続けていたところをずばっと遮られ、僕は言葉を呑み込む。呆気にとられている間に、美島くんの手が再び伸びてきて、前髪が容赦なく上げられた。
吐き散らすようなため息とともに漏れたのは、憤りに濡れた声。さっきまでの少し笑みを含んだ声とはまったく違う種類の感情が溢れた声だった。
「ぜんっぜん! 思わない。誰? そんなこと言ったやつ。教えてくれたら、俺が全力で文句言いにいく。ってか、ちょっと殴ってもいいかも」
苛烈過ぎる言葉の数々に、僕の中の炎がすっと消えた。人間、自分より怒っている人を見ると、怒りがしぼむというのは本当らしい。
「なぐ、るのは駄目だよ……って、なんで美島くんがそんな怒るの」
「は? 普通、怒るよね。だって」
言いかけて美島くんはふっと口を噤む。ぽいっと乱暴な手つきで髪から手が解かれ、僕は混乱した。
「だって、なに?」
「……質問してるのは俺。残りひとつ、わかった?」
ぷいっと顔を背け、美島くんはズボンのポケットに両手を突っ込む。しかしやっぱりわからない。
「ごめん、わかんないや」
「松尾ってさあ」
はああっと盛大なため息が吐かれる。ごめん、と身をすくめると、彼は、うーん、と唸った。
「俺、だめだな。やっぱ、松尾の前だといつもの顔できないや」
「ごめん、あの、意味が……」
「だから」
美島くんがこちらを向く。が、そのとき、何事か紡ごうとした彼の唇を封じるように、チャイムが鳴った。ああ、と安堵とも無念ともつかぬため息を漏らし、彼は微笑んだ。
「続きは今度話そっか。それまでに考えておいて。三つ目。ってか、俺、明日バイト入ってるけど、松尾は?」
「あ、俺も」
「じゃあ、明日、答え聞かせて」
彼がそう言ったと同時に、どやどやと廊下から足音が聞こえてきた。からり、と扉が滑る音がして無人だった部屋に声が溢れる。すうっと美島くんが僕のそばから離れていく。
いつも通りの淡い空気をまとった彼の後ろ姿をぼんやりと見送りながら、僕はそろそろと自身の前髪に手を触れた。
少しだけ、まだ、彼の手の熱がそこに残っているような気が、した。
経つけれど、バイトで顔を合わせた後も、美島くんから視線は注がれ続けている。
淡い眼差しにどんな感情が含まれているのか、まったくわからない。ただ、今日も変わりなく、彼はこちらを見つめてくる。
僕が秘密をぽろっと口外してしまわないか、心配なのだろうか。これまでこちらを見続けていたのも、彼のほうではバイト先で僕に気付いていて、ばらしてないよな、と不安になって探りの眼差しを向けてきていただけ、とか。
しかし、それは杞憂というものだ。彼のことを学校に密告したら、芋づる式に自分のこともばれてしまうだろうから。つまり一蓮托生とかそういうやつになるのだ。言うわけがない。もう心配しなくていいよ、と言ってあげたほうがいいのかもしれない。
昼休憩を挟んだ次の時間は科学の実験で、幸いにも僕と美島くんはそのための準備当番に当たっている。大丈夫だよ、と言ってあげる絶好の機会だ。
意気揚々と科学室の扉を開けると、美島くんはすでに来ていて、用具棚からビーカーやらロート、ガラス棒などをリストを眺めながら準備してくれていた。
「ごめん、遅くなって」
扉を閉め駆け寄ると、美島くんはうっすらと笑って首を振った。
「別に。ひとりで黙々とやるこういう作業、結構好きだから」
「そう、なんだ」
いつも人に囲まれている彼には似合わない台詞だな、と思った。曖昧に頷いて僕は美島くんの傍らからリストを見る。あと必要なものは……と目線でリストをなぞって青くなった。
ほぼ終わっている。
「ほ、本当にごめん。呑気に弁当食べ過ぎた……」
「いいって。松尾ってほんと優しいね」
また、優しい、だ。僕は困惑しつつこめかみを掻く。
「俺、優しくは、ないよ。あんまり人の気持ちとかわかんないし。吉太にも迂闊なこと言って怒らせちゃうことあるし」
「きった?」
「ああ、同じクラスの安斎吉太。幼馴染なんだ」
さらっと説明したが、美島くんからは返事がない。おや、と目を上げた僕は固まった。
美島くんのやけに澄んだ目が、僕の顔を凝視していた。
「美島くん、どうし……」
「俺の名前さ、空良っていうんだよね」
なにを言い出したんだ?
展開についていけず、落ち着きなく頷くしかできない僕に、美島くんは声の調子はそのままに続ける。
「字は違うけどさ、俺の空良って名前、松尾芭蕉の弟子の曾良からつけたんだって」
「は、あ、そう……」
「松尾、芭蕉の弟子」
松尾、にアクセントを置いて言われ、僕は目を白黒させる。いや、確かに僕の苗字は松尾だ。でもそれがなんだというのだろう。
「その……面白いね。その話だと……俺が美島くんの師匠、みたい」
「ね。だからさ」
くすっと笑い、美島くんは放り出していたリストを再び手に取り、用具棚へと向き直りつつ背中で言う。
「師匠っぽく、空良って呼んでよ」
「……は」
なんでだ? なんでそうなるんだ?
まったくわからない。これが陽キャの思考回路なのか?
混乱したまま次の言葉も見つけられない僕を尻目に、美島くんは黙々と準備を進めている。慌てて彼の隣に並ぶと、松尾、と呼ばれた。
「空良って呼んでくれないと、バイトのこと、ばらす」
「は⁉」
ビーカーを握った手が滑りそうになった。慌てて両手で持ち直したので落下は免れたが、嫌な汗が背中を伝った。
「意味が、わからないんだけど……。あの、それ、なんで」
「わかんないかなあ」
美島くんの手が僕の手に伸びてくる。え、と瞠目する僕の手からビーカーがするりと抜き取られた。
ことん、と実験台の上にビーカーが置かれる。
「それくらい呼ばれたいって思ってるってことなんだけど」
「は、あの、なんで、美島くん、が……?」
「なんでなんでうるさいなあ」
苦笑いが返される。だが、こちらとしては笑える気分じゃない。頭の中は疑問符でいっぱいだ。
しかも、なんで、を封じられてしまったらなにをどう訊いていいかわからない。視線を彷徨わせる僕の前で彼はふうっと息を吐いた。
「まあ、そんなに呼びたくないなら別にいいよ」
「え」
呼びたくないわけではない。ただ、理由がわからないと落ち着かないのだ。昔からそうだ。勉強でも疑問が残ったまま放置してはおけないタイプで、ひとつ引っかかると前になかなか進めない。
「ごめん、あの、呼びたくないわけじゃないんだ。ただ……美島くんに訊いておかなきゃいけないことあって」
「なに?」
気だるい声で言い、彼は用具棚の扉をからり、と閉める。その彼の横顔に向かい、僕はここのところずっとあった疑問をぶつけた。
「気のせいだったらごめんだけど……美島くん、さ、俺のこと、見てない? その、俺、なんかしちゃったのかな。ああ、バイトのこと、ばらさないか心配? そんなことしないから大丈夫だよ」
「なにもしてないよ。ばらされることを心配もしてない」
「え、あの、じゃあ、俺、ちょっと臭うとかそういうことあったり、する?」
「なにそれ」
くすっと肩が揺れる。軽く首を傾けるようにして美島くんはこちらを見下ろす。
「気のせいじゃないよ。確かに見てた。ごめんね」
「あの、それ、なんで。やっぱり」
「臭うからでもないよ」
くっくっと笑い、美島くんは腕組みをする。透き通った淡い茶色の瞳がすうっと細められる。
「理由は三つあります。なんだと思う?」
「三つ?」
思った以上に多い。ええと、と僕は宙を睨む。
「バイトが一緒だったから?」
「まあ、正解。松尾、細いのに、荷物運びメインのあんな仕事選んで大丈夫かなって思って見てた。着ぐるみの中から」
付け足された、着ぐるみの中から、に僕はちょっと笑ってしまった。似合わないバイトをしているのはお互いさまだ。
「ふたつ目は?」
「自分で考えなよ」
意地悪くはぐらかされる。しかし頭をふり絞って考えても浮かんでこない。
「いつも肩にゴミがついている……とか」
「ついてないでしょうが」
面白すぎ、と言いつつ、美島くんが手を伸ばす。ああ、でもチョークの粉ついてる、と小さな声でごちた彼によって、ぱたぱたと肩がはたかれた。そのまま離れていくかと思った手が、つと僕の頭に触れ、僕は驚いた。
「髪、自分で切ってる?」
目にかかる前髪をすいと上げられ、僕は俯く。あまりまじまじと顔面は見られたくない。
「その、手、離してくれる。顔、はちょっと」
「ごめん、でも」
謝りつつ、逆接の接続詞が彼の口から飛び出す。
「俺は好き。松尾の顔」
美島くんの手は僕の髪から離れない。前髪に指先をくぐらせるようにしながら彼は僕の顔を見つめている。
「だから、この前髪、切っちゃいたいなあって思って見てた。自分で切っているんだろうから、俺が切ってもいいなら切らせてくれないかなって」
「……は」
なんで。
なんで、彼はそんなことを言うのだろう。顔が好き? 美島くんのほうがよほど綺麗な顔をしているのに? 嫌味とかマウントとかそういうことなのか?
そう思ったらだんだんいらいらしてきた。
遮二無二手を上げ、彼の手を払う。一軍男子の彼にこんなことをして、後でややこしいことになるかも、とちらっと思ったけれど、止められなかった。
顔のことには……誰であろうと触れられたくない。
「嫌味すぎ。美島くんみたいな綺麗な顔面のやつにそんなこと言われて信じると思う?」
「綺麗な顔面……。それは松尾の主観だろ。俺は別に自分の顔なんてそれほど綺麗とも思ってない。松尾のほうがよっぽど整ってると思うけど」
「は? そんなわけないよね」
自分の怒りの導火線は短いほうじゃない。けれど、このとき、僕は確かに火が点くのを感じた。
もう、随分前の話だ。僕自身ですら忘れていたそれに、無遠慮に触れる手が厭わしくてたまらなかった。
「美島くんはさ、ないんだと思うよ。顔でからかわれたこととか。でも俺にはあるの。俺の目、糸みたいだろ。細くて腫れぼったくて。小学生のころ、しょっちゅうからかわれた。そんなんで前見えるのか、とか、眩しいの? とか。細すぎてキモいとか」
子どもなんて残酷なものだ。成長した今、それはよくわかっている。でも、あのころは子どもの軽口として受け流すことなんてできなかった。
いつかはからかいはなくなるものだと今ならわかっても、あのころはただただ絶望するしかできなくて、僕は前髪を伸ばすようになった。
そして今も、できるだけ目元が覗かないように気を配っている。それを、整っている、だと?
冗談じゃない。
「ひどいだろ。でも怒れないよね。だって俺、自分でも思うことあるから。目、細すぎて似顔絵描いたら目元線で済むから楽……」
「俺は思わない」
勢いのまま怒鳴り続けていたところをずばっと遮られ、僕は言葉を呑み込む。呆気にとられている間に、美島くんの手が再び伸びてきて、前髪が容赦なく上げられた。
吐き散らすようなため息とともに漏れたのは、憤りに濡れた声。さっきまでの少し笑みを含んだ声とはまったく違う種類の感情が溢れた声だった。
「ぜんっぜん! 思わない。誰? そんなこと言ったやつ。教えてくれたら、俺が全力で文句言いにいく。ってか、ちょっと殴ってもいいかも」
苛烈過ぎる言葉の数々に、僕の中の炎がすっと消えた。人間、自分より怒っている人を見ると、怒りがしぼむというのは本当らしい。
「なぐ、るのは駄目だよ……って、なんで美島くんがそんな怒るの」
「は? 普通、怒るよね。だって」
言いかけて美島くんはふっと口を噤む。ぽいっと乱暴な手つきで髪から手が解かれ、僕は混乱した。
「だって、なに?」
「……質問してるのは俺。残りひとつ、わかった?」
ぷいっと顔を背け、美島くんはズボンのポケットに両手を突っ込む。しかしやっぱりわからない。
「ごめん、わかんないや」
「松尾ってさあ」
はああっと盛大なため息が吐かれる。ごめん、と身をすくめると、彼は、うーん、と唸った。
「俺、だめだな。やっぱ、松尾の前だといつもの顔できないや」
「ごめん、あの、意味が……」
「だから」
美島くんがこちらを向く。が、そのとき、何事か紡ごうとした彼の唇を封じるように、チャイムが鳴った。ああ、と安堵とも無念ともつかぬため息を漏らし、彼は微笑んだ。
「続きは今度話そっか。それまでに考えておいて。三つ目。ってか、俺、明日バイト入ってるけど、松尾は?」
「あ、俺も」
「じゃあ、明日、答え聞かせて」
彼がそう言ったと同時に、どやどやと廊下から足音が聞こえてきた。からり、と扉が滑る音がして無人だった部屋に声が溢れる。すうっと美島くんが僕のそばから離れていく。
いつも通りの淡い空気をまとった彼の後ろ姿をぼんやりと見送りながら、僕はそろそろと自身の前髪に手を触れた。
少しだけ、まだ、彼の手の熱がそこに残っているような気が、した。