「松尾くーん、これも運んでおいて〜」
 遠くからパート社員の袴田(はかまだ)さんが僕を呼ぶ。はーい、と返事をしつつ、僕は台車をからからと押して走る。
 数多の段ボールを詰め込んだ金属製のラックが林立し、細い道が入り組んだ倉庫内は、店舗フロアとはまた違う喧騒に満ちている。
 商品を搬入するトラックの排気音、届いた商品を検品する職員の声、店舗で買い物しているときは聞いたことのない音声が飛び交うそこを、僕は慌しく駆け抜ける。
「おつかれさまです」
「おつかれさまで、す」
 通りすぎざま社員さんに挨拶され、反射的に頭を下げつつ指定された場所に行くと、かなりの数の段ボールがあった。
 今日もまあまあの重労働だ。ふうっと息を吐き、僕は段ボールに手をかける。
 僕がバイトしているここは、駅前に新しくできたショッピングモールだ。ここのバックヤードで僕は商品の仕分けや、各店舗での陳列作業の手伝いといった細々とした作業をしている。まあ、簡単に言ったら、手が回っていないところをサポートする雑用係みたいなものだ。
 それほど難しい仕事じゃないけれど、ひっきりなしに細かい作業が降ってくるし、力仕事も多いから、バイトが終わるとくたくただ。ただ、時給はいい。
 よいしょ、と気合を入れ、段ボールを持ち上げる。崩れないように細心の注意を払いながら積み重ねていく。以前、うっかり段ボールを落として、中に入っていた果物を駄目にしてしまったことがあった。弁償させられるかと怯えたが、小言を言われただけで済んだ。とはいえ……あの時間は冷や汗ものだった。あんなのはもうごめんだ。
 しかし、それにしても重い。腕抜けたらどうしよう、と思いながら力を入れていたときだった。
 いきなり荷物が軽くなった。まさか段ボールの底が抜けた? と慌てたが、そうではなかった。見ると、僕と向かい合うように腰を落として段ボールを支えている手があった。
 その手の主は……カエル? では、なかった。
「は、え?」
 このショッピングモールのイメージキャラクターである、見た目完全にアマガエルのキューリくんだった。どうやらモチーフは河童らしいのだが、皿が小さすぎるせいか残念ながら河童とは認識されず、店に訪れる子どもたちからは「カエルくん」と呼ばれている。
 まあ、そんなキューリくんの苦境はどうでもいい。問題なのは今、僕を手伝ってくれているのがそのキューリくんの着ぐるみを着た誰かだということだ。
「あ、の、すみません。ありがとうございます」
 面食らいながら礼を言う。しかしキューリくんは無言だ。すいっと僕の手から箱を奪い、首を傾げる。どこに置くの? と言いたげだ。
「あ、その、そこの台車に……」
 キューリくんは箱を持って台車へ向かう。僕では持ち上げるのもやっとのそれを軽々と運ぶキューリくんに唖然としていると、おーい、と誰かの呼び声が聞こえた。
「出番〜」
 キューリくんがふいっと声のほうを向く。そのまま声の主の方へと歩いていってしまう。
「あの!」
 思わず呼び止めると、緑色の背中がぴくん、とする。振り返ったキューリくんに僕はぺこんと頭を下げた。
「ありがとうございました」
 キューリくんのくるんとした目が僕を見つめる。無言で顔が向けられること、数秒。
 つい、とふかふかの着ぐるみに覆われた腕が上がった。その手がひらひらと振られる。ばいばい、と言いたげに。
 そのままくるっと背中を向け、キューリくんは去っていった。
「キューリくんの中の人……いい人だな……」
 これまでキューリくんを見ても、なぜに河童……、程度しか思わなかったけれど、これからはもうちょっと愛情を持って見られそうな気がする。
 妖怪に親切にされる、ちょっと昔話みたいだ、なんて呑気に構えていたのだが、この日以来、僕はなぜかキューリくんに遭遇することが多くなった。
 荷物を大量に積んだ台車を引きずりながら必死にエレベーターのボタンを押そうとしていると、横から緑色の手が伸びてくる。
 伝票片手に階段を上っていると、後ろから肩を叩かれ、振り向くと僕が落としたと思しき伝票を持った緑色の彼がいる。
 ちょっと休憩しようと非常階段に座っていると、横から缶コーヒーを差し出してくる緑色の手が……。
 これはもう怪談の域かもしれない。
 なんなんだ、一体、なんなんだ。
 薄気味悪い思いを覚えつつ、吹き抜けになった広場の中央で風船片手に軽快なステップを踏むキューリくんを眺める。
 今日は日曜日だ。だから親子連れも多い。キューリくんのコミカルな動きは子どもたちのツボにジャストフィットらしく、広場には楽しげな笑い声が溢れている。
 神出鬼没だし、まったく口も利かないし、着ぐるみの種類が河童だからなのか不気味さも感じてしまうけれど、こうしてみてみると、やっぱり中の人は優しい人なのかもしれない。
 そう思っている僕の目線の先で、子どもが転んだ。幼稚園児くらいだろうか。床にうつ伏せて泣き出す男の子のそばにキューリくんが駆け寄っていく。ひょい、と緑色の手が男の子を抱き起こした。
 泣き顔のままの男の子の前で、キューリくんがぴょん、と跳ねた。巨体なはずだが、振動を感じさせないような身軽な動きで踊る。そのままおどけた仕種でくるっと回り、手にした風船を男の子に差し出すと、男の子の顔にぱあっと笑みが広がった。
 カエルくん、ありがとう、と男の子が風船を受け取る。母親らしき人に手を繋がれ、笑顔で去って行く男の子に向かって、キューリくんがひらひらと手を振った。
 あの日、お礼を言った僕に振ったのと同じように。
 やっぱりいい人だ。
 ほっこりしつつ、僕は台車を押しながらバックヤードへと戻る。
 ここは老若男女、いろんな人が働いている。それほど意地悪な人もいないけれど、やっぱりいろんな人がいる。引っ込み思案な僕は思ったことをきちんと言葉にできないことも多くて、時折、周りをイライラさせてしまう。
 そんなふうだから仲のいいバイト仲間なんていなくて、いつもただ言われたことをこなすだけのロボットみたいに時間を過ごしていた。お金をもらうために来ているわけだし、別に仲がいい人間なんていなきゃいけないってわけじゃないけれど、それでもロッカールームで、「帰り、どっか寄ってかない?」「いいね」なんて会話を耳にすると、少しばかり寂しい気持ちにもなっていた。
 でも、あの人となら友達になってみたい。
 あのキューリくんとなら。
 中の人がどんな人なのか、まったく知らないのに、と自分自身に笑ってしまいながら、バックヤードを歩いていた僕の視線の先を、緑色の着ぐるみが横切った。風船を全部配り終えたのか、手ぶらだ。
 声をかけてみようか。いつもありがとうございます、とお礼を言うくらいなら、不自然ではないかもしれない。
 台車を手近なスペースに停め、僕は足を早める。キューリくんはすたすたと歩いていく。そのまま角を曲がる。
 見失わないように慌てて角を曲がった僕はそこで棒立ちになった。
 キューリくんはいた。バックヤードの端に作られた休憩所にあるパイプ椅子に、ひとり腰掛けている。
 着ぐるみの頭部分を脱ぎ去った姿で。
 着ぐるみだ。中の人がいることに驚いたりはしない。子どもだったら衝撃で泣くかもしれないが、僕はそうじゃない。そうじゃないけれど。
 視線に引かれたようにキューリくんの中の人がこちらを見る。着ぐるみの中にいたからなのか、汗で湿った髪をさらっと揺らしたその人の、睫毛に覆われた目がふっと見開かれた。
「あ」
 形のいい唇から声が漏れる。しばらく唖然としたようにこちらを見つめていた彼は、手にしたままだったキューリくんの頭部を手近な椅子に置いてから、なにを思ったのか僕を手招いた。
「休憩? 座んなよ」
「あ、いや、あの、っていうか」
 混乱しながら僕は、意味なく自分のエプロンを両手で掴む。
「みし、まくん、だよね?」
 そう言ったとたんだった。ぷっと目の前で彼が噴き出した。ぎょっとする僕の前で彼は、同じクラスの美島空良くんは、ひらっと手を振った。まだ緑色の着ぐるみに包まれた手を。
「ごめん、まさか本当に気づいてなかったとはって面白くなっちゃって」
「面白い……」
 陽キャ代表の美島くんに面白いなんて言われるような部分が僕にあるわけがない。顔を引き攣らせる僕に美島くんは、座りなよ、とさらに促す。
 そろそろと彼の隣に腰を下ろすと、美島くんがぽつんと言った。
「よかった。俺の名前、覚えててくれて」
「え、いや、それは、覚えてるよ。同じクラスだし、そもそも美島くんは……」
 人気者だし、と言いかけた僕の前で、ふっと美島くんの顔から笑みが消えた。
「ストップ。そういうのいいや」
「そういうの?」
「人気者とか、憧れの的とか、そういうの。言おうとしたんじゃないの?」
 まさにそうだ。美島くんは気だるげに息を吐くと、ぎこぎことパイプ椅子を鳴らしながらこちらを眺めた。
「正直……そういうの面倒だから。そもそもさ、それ言われて俺はどんな顔するのが正解なの? ありがとう? それとも、いやいや、そんなことは? 別にどう思われてもいいけど、その俺の反応でまたいろいろ言われるわけだろ。面倒の無限ループなんだよ」
 人気者らしい贅沢な悩みだ。若干鼻についたが、言われて少し思い当たるところがあった。
 学校で、美島くんは皆に囲まれている。彼がひとりでいるところを僕はほぼ見たことがないし、男子も女子も隙あらば彼と話したがっている空気をありありと感じる。
 同じクラスになってからは彼を囲む皆の熱量に圧倒されていた。でも、そんなふうに皆に取り囲まれながらも、美島くんはあまりうれしそうに見えなかった。
 笑顔を見せることはある。けれど、それはモナリザみたいなささやかな笑みで、心から楽しくて大笑いしているところを、同じクラスなのにまだ一度も見たことがないことに僕は気づいた。
「ごめん。あの、嫌な気持ちにさせて」
 僕と彼は違う人間だ。だからこそ悩みも違う。それは当然なのに、鼻につくなんて思ってしまった。申し訳ない気持ちで頭を下げた僕の耳に、ふふ、と小さな笑い声が響いた。
 そろそろと顔を上げた僕を迎えたのは、楽しげに笑う美島くんの姿だった。
 学校で見せるのとはまったく違う顔で彼は笑っていた。
「なんだかなあ。ほんと優しいね、松尾って」
 優しい。
 面と向かって優しいなんて言われたことがなくて僕はたじろぐ。ええと、と前髪を引っ張っていると、美島くんが唐突に顔を近づけてきた。
「その優しい松尾にお願いがある」
「は? お願い? え、なに?」
 首を傾げる僕をじいっと美島くんが見つめてくる。美島くんとは友達じゃない。同じクラスで、席が前後なだけ。だから、こんな距離で見られたことなんてない。戦いて背を反らす僕の目を、美島くんは数秒覗き込んでから囁いた。
「うちの学校、バイト禁止なんだよ」
 え、え? きょとんとする僕に、美島くんはふっと笑い、元通り椅子の背もたれに体重を預ける。
「いや、だからさ、バイト、駄目じゃん。君も俺も、見つかったらまあ、まずいだろ」
「あー、うん。それは、まあ……」
「だから、ここで俺に会ったことは誰にも言わないで。俺も黙ってるから」
 なんだ、そういうことか。ほっとしつつ、僕はゆるゆると頷いた。
「わかった。むしろこっちも黙っててくれたら有難いよ」
 そうだ。学校にばれたら厄介なことになるから、裏方で働けるバイトとしてここで働いているのだ。美島くんからの提案に否があろうはずがない。
 美島くんくらい顔面に恵まれた人が着ぐるみでバイトなんておかしいと思っていたけれど、彼も学校に知られるのを恐れてのことだったのだろう。彼の顔は目立ち過ぎる。目立たないように気を付けたとしても多分、無理だ。
 大変だなあ、イケメンも、と同情めいた眼差しを向けた僕を美島くんはにこにこして見ている。
 やけに機嫌が良さそうだ。そうっと微笑み返した僕の耳に、柔らかい声が落ちた。
「ふたりだけの秘密だね」
 ふたりだけの、秘密?
 いやいや、言う相手を間違えてないだろうか。そんなパンチラインを僕なんかに使ってどうするんだ。
 そうだね、と頷いたものの、なんだかこそばゆくて、イケメンってやっぱりすごいなあ、と妙に感心してしまった。