視線を感じるようになったのは、二年に進級してすぐだった。
廊下側の席の中ほどにある自分の席で教科書を開いているとき、ホームルームで先生の話にぼんやりと耳を傾けているとき、あるいは昼時の浮足立った空気の中、友だち同士、声をかけ合って弁当やらパンやらを持って教室の中を行きかい始めたとき。
その視線は僕の背中に注がれる。
最初は全然、気付いていなかった。
もともと勉強もスポーツも並程度にしかできないし、発言力があるほうでもない。顔面偏差値も断じて高い方じゃない。そもそも目立つのが嫌いだから、できるだけ誰の意識にも引っかからないよう息を殺して生きてきたのだ。そんな僕がおいそれと誰かの視線に捕まるなんて、まああり得ない。
というか、これまで一度もなかった。
しかし、そのこれまで一度もなかったことが、二年になってから起きている。
僕はそろそろと視線の主を窺う。とはいえ、その主は真後ろに座っているために、体ごと振り向いて確かめることはできない。息を潜めて背中に意識を集中するだけだ。が、
「美島〜、弁当〜」
緊張する僕の耳に声が飛び込んできて、僕は思わず背中を大きく揺らしてしまった。がたり、と僕の背後で椅子が引かれる音がする。
「今、行く」
声と共に背中に注がれていた視線が解ける。俯いた僕の横を、すうっと通り過ぎていく、彼。
席から彼が離れたところで、僕はそろそろと目を上げる。ふっと息を吐いた僕はしかし、そこで再び息を止めた。
教室を出て行こうとしていた彼が、こちらを見ていた。
僕よりも二十センチは確実に背が高くて手足も長い。さらさらの髪の下から覗くシルバーのリングピアスが、涼しげな彼の面立ちを引き立てていて、ただ佇んでいるだけで、やけに絵になる。
美島空良。名前まできらきらした彼は……確実に僕とは違う世界に住む、一軍男子。
そう、そうなのだ。制服売り場のマネキンの着こなししかできない僕と同じ種類の制服を着てはいるけれど、彼は僕とは別の世界の住人のはずなのだ。
なのに、彼は今日も僕を見ていた。
感情の読めない淡い眼差しで、じっと、なにを言うでもなく。
「美島〜」
同じクラスの関口くんが廊下から彼の名を呼ぶ。とたん、ふっと彼の瞳が僕から逸れる。
「うん、今」
姿と同じく淡い声で言い、彼は教室を出て行った。
「歩夢! なあ、歩夢って!」
薫風、なんて言葉が一瞬、頭の中に浮かんでしまった僕の机に、とん、と手を突いたのは、同じクラスの安斎吉太だ。紺ブレを着崩さず、僕と似たり寄ったりの着こなしをしている吉太にほっとしつつ、僕は顔を上げる。
「ああ、ごめん。なに?」
「なにじゃなくて。昼。どしたん、ぼーっとして」
「あーいや」
言ってもいいだろうか。まあ、吉太は僕と似たようなタイプだし、僕の気持ちも理解してくれるかもしれない。
「あのさあ、ちょっと気になってることあってさあ」
なになに、と言いつつ、吉太は僕の席の前の椅子を引く。コンビニで買ってきたらしい菓子パンを広げる彼に倣い、僕もおにぎりを並べる。
僕も彼も昼ご飯は購買だったり、駅前のコンビニだったりだ。
「なんか、さ。俺、見られてるんだよね、ここんとこずっと」
「は? 見られてる? どゆこと?」
「いや〜、なんていうか……最初はさ、気のせいだと思ってたんだよ。たまたま俺の近くにいる誰かを誰かが見てて、その視線を勘違いしてんのかな〜とか。でもそれがこう、毎日、なんだよね。気が付くと見られてるっていうか……」
「ほほー」
吉太は興味深そうに頷きつつ、コロッケパンを頬張る。丸い頬をしばらく動かしてから、彼はパンを飲み込んで、で、と言った。
「誰が見てたか、わかった?」
「それが、その」
さすがに言い淀む。が、このもやもやを共に分かち合ってほしい気持ちで、僕はそろそろと名前を口にした。
「美島くん」
「み……!」
一音を叫んでから、吉太ははっとしたように口を押さえ、僕に顔を寄せて続きを発音した。
「みしまって、美島空良?」
「そう」
「は? え、なんで? お前、なんかやったの?」
「なんもやってないよ。席が前なだけ。ねえ、俺、もしかしてちょっとこう、臭うとかある?」
「はあ?」
吉太はきょとんとしてから丸い鼻をひくひくさせた。
「なんも臭わないけど。は? なんでそんなん言うの」
「いや〜、なんか臭うとかそういうことでもない限り、美島くんがあんなにこっち見て来ることってないんじゃと……」
「お前、それはさすがに考えすぎ……。ってか、気のせいじゃね? だってあの美島だよな? バレンタイン、机の中にチョコ入んなくて、ロッカーも靴箱もぱんぱんだったとか、告白の順番を巡って血の雨が降り、結局、美島はみんなの美島、とか女子同士で協定ができたって伝説を持つ、あの美島だよな?」
「……美島くんってそんなすごいの」
知らなかった。一年までは別のクラスだったし、かっこいい人がいるなあ、くらいにしか思っていなかった。
「すごいなんてもんじゃないって。スカウトとかも結構受けてるって聞くぞ」
「すかうと」
僕の人生では多分、まずお目にかかれないイベントだ。やっぱりちょっとこう、次元が違う。しかしその別次元の彼がなんだってこんなに見てくるのか。
考えられるのはやっぱり……。
「なんかしたんだよね、多分……」
「まあ、人ってさ、気付いてないところでやらかしてることあるからなあ」
吉太がさらっと傷口に塩を塗り込んでくる。
恨めしげに睨むと、ごめんごめん、と幼馴染の彼は僕の肩をぽくぽくと叩いた。
「大丈夫、なんかあったら一緒に戦ってやるから。ちゃんと相談しろよ」
まあ、パンチングマシーン、小学生に負けた程度の実力だけどな、と肩をすくめる彼に力なく笑いながら、ありがとう、と礼を言い、僕はおにぎりを口に運んだ。
廊下側の席の中ほどにある自分の席で教科書を開いているとき、ホームルームで先生の話にぼんやりと耳を傾けているとき、あるいは昼時の浮足立った空気の中、友だち同士、声をかけ合って弁当やらパンやらを持って教室の中を行きかい始めたとき。
その視線は僕の背中に注がれる。
最初は全然、気付いていなかった。
もともと勉強もスポーツも並程度にしかできないし、発言力があるほうでもない。顔面偏差値も断じて高い方じゃない。そもそも目立つのが嫌いだから、できるだけ誰の意識にも引っかからないよう息を殺して生きてきたのだ。そんな僕がおいそれと誰かの視線に捕まるなんて、まああり得ない。
というか、これまで一度もなかった。
しかし、そのこれまで一度もなかったことが、二年になってから起きている。
僕はそろそろと視線の主を窺う。とはいえ、その主は真後ろに座っているために、体ごと振り向いて確かめることはできない。息を潜めて背中に意識を集中するだけだ。が、
「美島〜、弁当〜」
緊張する僕の耳に声が飛び込んできて、僕は思わず背中を大きく揺らしてしまった。がたり、と僕の背後で椅子が引かれる音がする。
「今、行く」
声と共に背中に注がれていた視線が解ける。俯いた僕の横を、すうっと通り過ぎていく、彼。
席から彼が離れたところで、僕はそろそろと目を上げる。ふっと息を吐いた僕はしかし、そこで再び息を止めた。
教室を出て行こうとしていた彼が、こちらを見ていた。
僕よりも二十センチは確実に背が高くて手足も長い。さらさらの髪の下から覗くシルバーのリングピアスが、涼しげな彼の面立ちを引き立てていて、ただ佇んでいるだけで、やけに絵になる。
美島空良。名前まできらきらした彼は……確実に僕とは違う世界に住む、一軍男子。
そう、そうなのだ。制服売り場のマネキンの着こなししかできない僕と同じ種類の制服を着てはいるけれど、彼は僕とは別の世界の住人のはずなのだ。
なのに、彼は今日も僕を見ていた。
感情の読めない淡い眼差しで、じっと、なにを言うでもなく。
「美島〜」
同じクラスの関口くんが廊下から彼の名を呼ぶ。とたん、ふっと彼の瞳が僕から逸れる。
「うん、今」
姿と同じく淡い声で言い、彼は教室を出て行った。
「歩夢! なあ、歩夢って!」
薫風、なんて言葉が一瞬、頭の中に浮かんでしまった僕の机に、とん、と手を突いたのは、同じクラスの安斎吉太だ。紺ブレを着崩さず、僕と似たり寄ったりの着こなしをしている吉太にほっとしつつ、僕は顔を上げる。
「ああ、ごめん。なに?」
「なにじゃなくて。昼。どしたん、ぼーっとして」
「あーいや」
言ってもいいだろうか。まあ、吉太は僕と似たようなタイプだし、僕の気持ちも理解してくれるかもしれない。
「あのさあ、ちょっと気になってることあってさあ」
なになに、と言いつつ、吉太は僕の席の前の椅子を引く。コンビニで買ってきたらしい菓子パンを広げる彼に倣い、僕もおにぎりを並べる。
僕も彼も昼ご飯は購買だったり、駅前のコンビニだったりだ。
「なんか、さ。俺、見られてるんだよね、ここんとこずっと」
「は? 見られてる? どゆこと?」
「いや〜、なんていうか……最初はさ、気のせいだと思ってたんだよ。たまたま俺の近くにいる誰かを誰かが見てて、その視線を勘違いしてんのかな〜とか。でもそれがこう、毎日、なんだよね。気が付くと見られてるっていうか……」
「ほほー」
吉太は興味深そうに頷きつつ、コロッケパンを頬張る。丸い頬をしばらく動かしてから、彼はパンを飲み込んで、で、と言った。
「誰が見てたか、わかった?」
「それが、その」
さすがに言い淀む。が、このもやもやを共に分かち合ってほしい気持ちで、僕はそろそろと名前を口にした。
「美島くん」
「み……!」
一音を叫んでから、吉太ははっとしたように口を押さえ、僕に顔を寄せて続きを発音した。
「みしまって、美島空良?」
「そう」
「は? え、なんで? お前、なんかやったの?」
「なんもやってないよ。席が前なだけ。ねえ、俺、もしかしてちょっとこう、臭うとかある?」
「はあ?」
吉太はきょとんとしてから丸い鼻をひくひくさせた。
「なんも臭わないけど。は? なんでそんなん言うの」
「いや〜、なんか臭うとかそういうことでもない限り、美島くんがあんなにこっち見て来ることってないんじゃと……」
「お前、それはさすがに考えすぎ……。ってか、気のせいじゃね? だってあの美島だよな? バレンタイン、机の中にチョコ入んなくて、ロッカーも靴箱もぱんぱんだったとか、告白の順番を巡って血の雨が降り、結局、美島はみんなの美島、とか女子同士で協定ができたって伝説を持つ、あの美島だよな?」
「……美島くんってそんなすごいの」
知らなかった。一年までは別のクラスだったし、かっこいい人がいるなあ、くらいにしか思っていなかった。
「すごいなんてもんじゃないって。スカウトとかも結構受けてるって聞くぞ」
「すかうと」
僕の人生では多分、まずお目にかかれないイベントだ。やっぱりちょっとこう、次元が違う。しかしその別次元の彼がなんだってこんなに見てくるのか。
考えられるのはやっぱり……。
「なんかしたんだよね、多分……」
「まあ、人ってさ、気付いてないところでやらかしてることあるからなあ」
吉太がさらっと傷口に塩を塗り込んでくる。
恨めしげに睨むと、ごめんごめん、と幼馴染の彼は僕の肩をぽくぽくと叩いた。
「大丈夫、なんかあったら一緒に戦ってやるから。ちゃんと相談しろよ」
まあ、パンチングマシーン、小学生に負けた程度の実力だけどな、と肩をすくめる彼に力なく笑いながら、ありがとう、と礼を言い、僕はおにぎりを口に運んだ。