「……もうやだ、別れる」
「は……? え? 仁湖? 今なんて……」
「だから、あんたとは別れるって言ってんの」

 穏やかな休日の昼下がり。カップルや女の子同士のお客さんが多いお洒落なカフェの一角で、わたしたちのテーブルだけは、店の雰囲気に似つかわしくない険悪な空気が流れていた。
 というか主に、わたしが不機嫌オーラを垂れ流していた。

 言い訳をさせてもらうなら、ここまでは順調だったのだ。せっかくのデートだからと着飾って、映画にカフェなんて定番のデートコースについて回って、にこにこ可愛い彼女を演じていた。けれども、こればかりはしかたない。

「いやいや、急に何怒ってんだよ。……あ、もしかしてこのプラスチックの板? クリームで汚したから? ごめんって。ちょっとふざけただけじゃん。つうか、こんなの拭けば綺麗に……」
「反省の色がこのレモン水より薄い……! というかね、皿に物を入れられるのももちろん有り得ないけど……推しのアクスタをふざけて倒されて汚されて、それでへらへら笑ってられるようなオタク居ないんだわ!」

 料理と並べて写真を撮ろうとした推しのアクリルスタンドを、彼氏がふざけてパンケーキに添えられたクリームの山にぶっさしやがったのだ。
 映えだろう、なんて、衛生的にも倫理的にも有り得ない。そして何より、わたしの大切なものと知りながら軽んじるその行動に苛立った。
 それでもわたしの様子に対し口先だけの謝罪で悪びれない彼に、遂にはキレた。

 険悪な空気はさらにヒートアップし、ついに大声の言い合いにまで発展してしまうと、先程まで和やかな様子でお茶していた他の客たちの視線もちらちらとこちらに集まってくる。

「ちょ、おい……仁湖、みんなに見られてるから……つうかまじでそんな怒んなって、悪かったから!」

 それでも今さら吐いた唾を飲み込むなんて出来ないわたしは、他のお客さんの気分を害することに内心頭を下げながらも、そのまま一気にかたをつけることにした。

「うるさい。……推しとか関係なく、相手の好きなもの尊重出来ない人と付き合うとか、普通に無理」
「いや、尊重って……待ってよ、俺、おまえの趣味尊重してたよな? 推しの話してても文句言わなかったし、部屋にそいつのグッズ飾ってても否定しなかったし」
「そうだね、だから受け入れられてんのかなって油断した。推しのアクスタをお洒落スイーツと撮りたいなんて、あんたの前で取り出したのもわたしの落ち度……」
「じゃあ、お互い様ってことで……」

 彼がわたしの機嫌を取ろうと言葉を重ねる度、どんどんわたしの中でこれまで我慢していたものが膨れ上がる。

「……でも、文句言わなかったって何? わたしが楽しそうにする世界一好きなものの話、押し付けたり布教した訳でもないのにあんた的には文句の対象だったの? というか部屋にグッズ飾ってても否定しなかった? は? わたしの部屋だけど!? 普通に好きにする権利あるでしょ。何目線!?」
「あ、いや、それは……」
「わたしは別にさ、雑に扱われても仕方ないよ。地味で可愛くもないし、アラサーのくせに恋愛経験値低いし、めんどくさい彼女な自覚はあった。でも、わたしの推しを……春夜くんを否定するのは、万死に値する! 命だけは許してやるから、もう二度とわたしの前に現れないで!」

 こうして、わたし『秋宮仁湖(あきみやにこ)』は二十九歳にして、人生初の彼氏を振った。
 これまで我慢してきたものが水の泡となった瞬間だ。後悔していないと言えば嘘になるが、あのまま推しを侮辱されるよりましだ。

 年齢が年齢だけに、これを逃したらもう次はないという危機感が漠然とあった。だからこれまで、彼と居て感じてきた違和感や嫌な気持ちを、いろいろと我慢してきたのだ。

「……。汚してごめんね、春夜くん」

 彼が店を出ていって、わたしはお騒がせした周囲に頭を下げた後、汚れてしまった推しのアクリルスタンドを丁寧に拭く。
 いろんな感情が溢れてきて、涙が滲んだ。
 別に、彼のことが好きで仕方ないとか、そういうのじゃなかった。それでもなんとなく、これが最初で最後の結婚のチャンスだと思っていた。

 個人的には結婚に興味がないし、こだわりが強く他人との共同生活に向いているとも思えなかった。
 子供も特に欲しくはなかったけれど、結婚して親に孫の顔を見せてあげるのが親孝行だと思っていたから、そこは申し訳ないと後悔する。

「……はあ」

 この歳になると、親戚や世間からの結婚の圧が強い。「ご結婚は?」なんて初対面で聞かれることも多いし、していないと人間的に欠陥があるように扱われることもしばしばだ。
 そんな見えない偏見に疲れて、無理をしようとした結果だ。わたしにはやはり、向いていない。

 この先一生独り身だとして、将来の漠然とした不安はあるけれど、好きなものを否定されるよりは、結婚や子育てなんかの一般的な人生のレールから外れる覚悟の方がいい気がした。
 自分の心の支えである大切なものを害されるよりは、ひとりでそれを守り抜く方が安心だった。彼と別れた今、わたしは肩の荷が降りた気分だったのだ。

「ふふ、ひとりじゃないか。わたしには、春夜くんが居るもんね……!」

 わたしは幼い頃から割とオープンなオタクで、家族もわたしがそうなのは知っているし、部屋中推しのぬいぐるみやアクリルスタンドなんかのグッズで溢れていた。

 別に推奨はしないけど否定もしないというスタンスで、興味はなくても語れば相槌くらいは打ってくれるし、ぬいぐるみをリビングに置き忘れたら家族がソファーに座らせておいてくれるくらいには生活に馴染んでいて、誰もわたしの好きなものを蔑ろにはしなかった。

 そんな恵まれた環境でぬくぬくと自分の好きを貫いてきたわたしはどうしたって、今さらそれを否定されることだけは許せなかったのだ。


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