出原と箕輪が病院を訪れた日から数日経ったある日。退院の許可が下りた真崎は、少ない荷物を抱え、警察から教えてもらった自宅の住所に向かった。
 病院から最寄り駅まで五駅ほど離れ、さらに徒歩で五分。急坂を登り切ったところにある五階建てのマンションだった。
 入社当初は自宅から通っていたのは覚えていたが、半年くらい経った頃に一人暮らしを始めたらしい。
 ちなみに実家の両親に退院したことを連絡したら、こっぴどく叱られた。それに加えて会社が倒産した件も併せて伝えると、家系や周囲からの評価を大切にする父親は「恥さらしが!」と電話越しで激怒し、一方的に通話を切られてしまった。
(あの感じだと勘当に近いけど、まぁいいか)
 幼少期から父親とは折り合いが悪かったのだ。離れて清々しさまで感じる。
 今はそれよりも自分のことを思い出さなければ、と足を進める。記憶は忘れているのに、生活の基本的なことや自宅への道順を身体が覚えているのは、なんとも不思議な感覚だった。
 しっかりとした足取りで「三〇五」と表記された部屋に着くと、事前に受け取っていた鍵を差し込む。なんの障害もなく鍵がまわった。
「…………」
 ずっとここにいたような懐かしい感覚。鼓動の早い心臓を落ち着かせるために一度深呼吸をしてから、おそるおそるドアを開けた。
 近くにあった蛍光灯をつけると、そこには何とも殺風景な光景が広がっていた。しばらく使われていなかったようで、キッチンのシンクや風呂場といった水回りは綺麗に片付いており、種類別に細かく分かれたゴミ箱は、真新しいゴミ袋だけが入っているだけで中は空っぽ。寝室のベッドも綺麗に整えられ、ローテーブルには何も置かれていない。
 ソファに腰を下ろすと、心地よい弾力で沈んでいくのがわかった。白い壁紙に合わせた家具は少々こだわっていたのかもしれない。
 部屋をよく見渡せば、ブラウンのカラーボックスに詰められた小難しい教材や資料、辞書がずらりと並んでいる。初めて入ったはずなのに、どこかしっくりくる。この部屋は実際に自分が住んでいるのだと確信した。
 それと同時に、気味が悪かった。
 出原から生真面目な性格と言われていたことを踏まえると、本棚や部屋の整理がなされているのはまだ納得できるかもしれないが、それにしたって綺麗すぎる。少なくとも入院していた数週間、埃が一つも積もらないわけがない。警察が一度、この家に立ち入っているとはいえ、あまりにも整いすぎていた。
(まるで生前整理でもしていたみたいだ)
 拭いきれない違和感に項垂れる。何も思い出せない今、考えても仕方がないのはわかっているのに。
 切り替えてこれからどうするか考えていると、新しく買い替えたスマートフォンにメッセージが届いた。箕輪からだった。
『会社の件でお話があります。お手数ですが明日、会社の近くまで来ていただくことは可能でしょうか?』
 倒産に追い込んだ疑惑は、今も疑われたままだ。
 これ以上自分ができることはないので、会社の判断に任せることを伝えたのはつい先週の話。急な頭痛に襲われた後は何も話せなかったので、看護師経由で伝えてもらった。
 真崎は了承の返事を帰して、ソファに横になった。
 ゆっくりと覚えていることを頭に浮かべれば、何かわかるかもしれない。そう思って目を瞑るも、いつの間にか睡魔に襲われ、そのまま寝落ちてしまった。

 翌日の昼過ぎ、箕輪に指定された場所は、ワルトの社員がよく利用しているという駅ビルのカフェだった。店内に入ると、すでに座っていた彼女が片手をあげて真崎を呼んだ。テーブルの上に広げられたノートパソコンと資料を慌ててまとめながら、通りすがりの店員にコーヒーを注文する。真崎が到着するまで仕事をしていたらしい。
「呼び出してごめんなさい。昨日、退院したばかりでしたよね? 大丈夫でした?」
「おかげさまで。それよりも箕輪さんのほうが忙しいんじゃ……?」
「ええ。実はグループ会社にそれぞれ異動になりまして、多くの社員が引っ越し作業に追われているんです」
 なんて待遇の良い会社だろうと感心した。ただでさえ日本は働き口が少ないのに、次の勤務先まで面倒を見てくれる会社は早々無いのではないだろうか。これなら自分も次の勤務先を保証してくれるのではと、淡い期待を抱いてしまう。
(疑われている奴に、そんな待遇はないだろうけど)
「それで、お話というのは」
「……あなたの、処分について。本当は出原部長の役目なのですが、他の対応に追われていて動けないため、私からお渡しすることになりました。後ほど連絡があるかと思いますが、今はご了承ください」
 そう前置きすると、箕輪は鞄から一枚の封筒を取り出して真崎に差し出した。その瞳は不安げで、小さく震えているようにも思える。
 真崎は受け取って封筒を開く。中には『解雇通知書』と大々的に書かれた用紙が入っていた。
 目を伏せて息を小さくついた。
(やっぱりな)
 どこかで覚悟はしていた。記憶がないとはいえ、不審な動きをしている自分の行動が倒産に繋がったとなれば、たとえ無実だったとしても立ち去るべきだと。
 どれだけ成果を上げようが、疑われ、信用を失えばすべて無と化してしまう。
 ふと箕輪を見れば、悔しそうに唇を噛んでいた。もしかしたら、真崎とともに多くの仕事をこなしてきたからこその表情だったのかもしれない。
 真崎はそれを横目に、ショルダーバッグからボールペンと印鑑を取り出した。ある程度想定して持ってきたとはいえ、いざ目の前にするとくるものがある。
 必要な項目を書き込んで捺印を終えると、彼女に向けて深く頭を下げた。
「お世話になりましたと、お伝えください」
 入社して三年、営業部のエースまで昇り詰めた真崎大翔は、この日を境に無職になった。