逃げようとする相手を捕まえることがこれほど大変だなんて思いもしなかった。結局、一週間経った今もほたると話はできていない。
 しかも今日はもう終業式だ。夏休みに入ったら、どうしたらいいのだろう。
 暗澹たる気持ちを抱え、僕は昇降口へと向かう。
 連日のむしゃくしゃを晴らそうと、弓道場で朝から弓を引いていたせいで、始業時間をすっかり過ぎてしまっていた。
 当然皆、体育館へ移動している時間で昇降口に人影はない。焦りながら上履きに履き替えていた僕だったが、かすかな笑い声が聞こえ、ふと目を上げた。声を辿って視線を向けると、靴箱を挟んだ向こう側から二人組の男子が駆け去っていくのが見えた。
 一瞬だったし、見間違いかもしれない。でも彼らのうちのひとりの手にあったものが、意識に嫌なざらつきを残した。
 彼らの手にあったのは……油性マジック。
 中途半端に踵が折れた状態だったけれど、上履きをつっかけるようにして僕は、彼らが駆けだしてきた側の靴箱へと回り込む。砂埃と靴箱特有の金臭い匂いに混じり、つん、と鼻を突いたのは……シンナー臭だった。
 臭いの元を辿り、僕は立ちすくむ。
 靴箱の中央。味も素っ気もないグレー一色の中、誰かの靴箱の扉に黒々とした文字が刻まれていた。
『狂犬。出て行け』
 名札を確かめるまでもなくわかった。これがほたるの靴箱だということが。
 ふるふると、手が震えた。
 ああ、確かに、狂犬なんて呼ばれる伝説のヤンキーが身近にいたとして、面と向かって喧嘩を売ろうとするやつもそうそういないだろう。
 過去の僕のような人種に不快な思いをさせられた人間にとって、狂犬は嫌な記憶を呼び起こす忌むべき存在なのかもしれない。
 物申したくもなるだろう。
 だが、だからといって、これは許されていいことなのか?
 見えない場所から投石をするような行為が、認められていいのか?
 しかも、ほたるは関係ない。
 彼は僕の身代わりになっただけだ。この僕の。
――あんたの努力を、過去のやんちゃしてた時代のせいでいろいろ言われるの、駄目だろ。
 そうだ。でも、これを背負うのは僕じゃなきゃいけない。
 いけないのに。
 なんでほたるは、こんなことをされてもなにも言わないんだろう。
 なんで僕は、こんなに腹が立って腹が立って仕方ないのだろう。
 なんで。
 頭の奥で、ほたるが囁く。
――あんたが怪我したりするの、嫌なんだよ。
 困ったように眉を寄せる、ほたるの顔。
 面影が過った瞬間、心の奥に沈んでいたなにかがふっと僕の前に立ち上がってきた気がした。
 ずっともやもやしていた。でも、今、わかった。
 書き殴られた文字に埋もれた「速水」と書かれたプレートに視線を当て、唇を噛む。
 なあ、ほたる。
 プレートに向かい、僕は心の内で呼びかける。
 俺だって、嫌だよ。
 ほたるが傷つくの、俺だって嫌なんだよ。
 いつも俺のことばかり考えてくれたお前が、こんなふうに傷つけられるの、絶対、嫌なんだよ。
 だって、俺はさ。
――樹さんと一緒にいる時間、すごく……大事に思ってるのに!
 気が付いたら、僕は握りしめた拳で、殴り書きされた「狂犬」を殴りつけていた。
 がしゃん、と鋭い音が無人の昇降口の空気を震わせる。
 けれどそれ以上に、体が震えることを止められなかった。
 許せなかった。
 ほたるにこんなことをするやつらを、絶対に許さないと思った。
 遠く、体育館からマイク越しの声が聞こえてくる。校長の挨拶中かもしれない。
 それを耳に収めながら、僕はふらつく足を踏みしめて体育館へ向かった。
 校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下をゆっくり、ゆっくり、踏みしめるように進む。すると、開放された体育館の扉付近にいた教師が僕に気付いて眉を顰めた。
 クラス担任の吉井先生だった。
「遅い! 早く列に並びなさい」
 小言を喰らっても、ここまで狂犬を捨ててやってきた僕ならにこやかに、申し訳ありません、と返せるはずだった。が、今日の僕はそれがどうしてもできなかった。無言で頷くので精一杯だった。
 吉井先生はそんな僕に怪訝そうな顔をしてから、ああ、そうだった、と潜めた声で早口に告げてきた。
「今日、この後、壇上に上がってもらうから」
「は? なんで」
 敬語もうまく使えなくなっている。つっけんどんに返す僕を、吉井先生はますます気味悪そうに眺める。
「弓道。全国大会出るだろ。壮行会ってことで、意気込みを語ってもらうことになってるから。その話したかったのに、今日に限って遅刻なんだからなあ」
 しっかりしてくれよ、と吉井先生の手が僕の背中を叩く。だが、僕としてはそれどころではなかった。
 意気込みなんて語っていられる心境じゃ断じてないのだ。けれど、それをこの人に言ってなんになるだろう。仕方なく頷いて、僕は自分のクラスの列へと向かう。
 道すがら、視線を滑らせ、ほたるの姿を探した。
 周りよりも抜きん出て背の高いほたるの姿は、すぐに見つけられた。
 いつも通り、感情の薄い、凪いだ横顔をしている。
 が、僕には、ほたるの周りが凍ってみえた。
 氷が軋むみたいに、心が張りつめているのが、わかった。
『続きまして、壮行会に移ります。来る八月三日全国高等学校総合体育大会におきまして、わが校の弓道部から三年の水原樹さんが個人戦にて出場することが決定いたしました。水原さんより一言、挨拶をお願いしようと思います。水原さん、檀上へお願いします』
 生徒会長が僕の名前を呼ぶ。ゆらり、と目を向けると、生徒会の役員が手招いているのが見えた。
 挨拶なんてしたい気分じゃまったくない。が、急かすようにさらに手招かれ、苦い息が漏れる。くそ、と口の中で呟き、壇上へと向かう。
 普段、滅多に上がることがないその場所からほたるの姿を探すと、こちらを見る彼と目が合った。
 背が高いからすぐわかる。
 いいや、そうではなくても、あんなにまっすぐ僕を見るのは、きっとほたるくらいだろう。
 そう思ったら、どんどん胸が苦しくなってきた。
「水原さん、お願いします」
 落ち着かなければいけない。
 舞台の袖から司会役の生徒会役員が促してくる。
 一度息を吐き、顔を上げ、スタンドマイクに向き直った僕の視界に、見覚えのある顔が飛び込んできたのはそのときだった。
 整列する生徒たちの中、おそらく、あの列は一年のどこかのクラスのものだろう。その中ほどにそいつはいた。昇降口から笑いながら走り出ていったやつのひとりが。
 前に並んだ生徒の肩を叩き、何事か囁き交わしながら体を震わせ、笑っている。
 悩みも、なにもなさそうに……笑っている。
 瞬間、かっとなった。檀上から走り下りたくなった。
 でも。
――なんも知らないやつらに、好きな人が踏みつけられるなんて、絶対許せないんだ。
――そうさせないためなら、俺はなんでもする。
「あー……」
 マイクに向かって僕は声を吐く。
 走り出したがる僕の足を壇上に縫い留めるのは……ほたるの視線だった。
 駄目だよ、樹さん、とほたるに諭されたように感じた。
「水原樹です」
 呼吸を整え、僕はマイクに声を落とす。
 そうだ。穢してはならないのだろう。これまでの自分の頑張りを。
 ほたるが守ってくれた、水原樹を。
 自分自身、黒歴史だと封印し、誰にも語ってこなかった。中学時代の僕は人を傷つけたこともあったし、傷つけたその過去が恐ろしくもあったから。
 だから蓋をして、自分とだけ向き合ってきた。
 それが間違いだったとまでは言わない。自分を見つめるため、逃げるように始めた弓道だったけれど、弓は確かに僕を強くしてくれたから。
 それでも、このままでいることはやはり違う。
 今頃、気付いた。
 狂犬なんて呼ばれてしまったけれど、あの時間にだって、黒歴史と一括りにして捨てていいことばかりがあったわけじゃないということを。
 だってそうじゃないか。
 あの時間がなければ、僕は。
「この場で意気込みをとのことなのですが、まず僕から皆さんにお話したいことがあります」
 あれ? なんだか様子がおかしくない? という顔を舞台の袖で生徒会役員がしている。構わず僕は続けた。
「今、ひとつの噂が流れていますね。星名中学出身の狂犬がこの菊塚にいる、という」
 ざわり、と舞台の下、居並ぶ生徒たちがざわめく。なに、なんの話? 狂犬ってあの? と囁き合う声が耳を刺す。
 ふうっと息を吐き、僕はマイクに向かって告げた。
「噂の狂犬は、僕です」
 ざわめきが大きくなる。嘘、え、狂犬? 嘘でしょ、全然、そんなふうに見えないのに? 等々声が渦巻いている。
 内心、やっちゃったなあ、という気持ちはあった。が、不思議と落ち着いてもいた。
「僕は昔、狂犬と呼ばれるような人間でした。家に帰らないなんて当たり前だったし、学校にも行っていなかった。喧嘩も売り買いどっちもしました。それが今は弓道部の部長です。笑っちゃいますよね」
 水原くん、と壇の下から弓道部顧問の飯田先生が呼びかけてくる。丸顔の中で、小さな眼鏡がずり落ちそうだ。その彼に向かい、すみません、と目礼する。しかし、話を中断するつもりはなかった。
「黙っていれば済むことなんでしょう。今の自分は昔とは違うのだから、と。でも過去はそんな簡単に脱ぎ去れないものなんですよね。僕が人を傷つけた事実は消えない。やったことはどこまでも追いかけてくる。どれだけ真剣に弓を引こうと、ずっと」
 だから、と言ったところで、僕は声を平板に保とうとそっと呼吸を整える。
「ちゃんと自分で責任を取らなきゃと思いました。そうでなければ、僕の今を守ろうとしてくれた大事な人が傷つけられてしまうから。謂れのない陰口を叩かれ、貶められてしまうから。僕はそれがどうしたって我慢できない」
 ざわざわ、と再び人声が熱を持つ。揺れる人と人の頭の波の中、ほたるが立ち尽くしているのが見えた。
 その彼に向かって微笑みかけてから、僕はおもむろにマイクを引っ掴む。ふうっと大きく息を吸い込む。そして、怒鳴った。
「わかったか! 狂犬は俺なんだよ! お前ら、落書きする場所、間違ってんだよ! するなら俺のところにしろ! いいか、全員に言っとくぞ! 今度、俺の舎弟になめた真似してみろ。ただじゃおかねえからな!」
 瞳に力を込めて見据えると、一年の列の中ほどにいた男子生徒の顔がさあっと青くなった。
 はあ、と肩で息を吐き、僕は声のトーンを落とす。
「全力を以って、成績は残すつもりですので。以上」
 言い捨ててマイクから手を離す。やり過ぎたあ、と肩を落としつつステージを横切り、階段に足を掛ける。ざわめきは囁き声へと変わり、僕を囲む。目を伏せて歩を進める僕の耳を、そのとき、囁き以外の音が掠めた。
 それは、拍手だった。
 え、と顔を上げて、視線を彷徨わせる。
 拍手は一年の、ほたるのクラスの列から聞こえた。
「勝ってください! 部長!」
 拍手の主である宮池くんが叫ぶ。え、なになに、と宮池くんの周りの生徒たちが顔を見合わせる。ややあって、数人がつられたように手を叩き始めた。
 徐々に徐々に拍手は拡がる。大喝采というわけでは当然なかった。でも、ささやかな拍手を送ってくれる中には、弓道部の他の部員も、調理部の面々も、顧問の飯田先生もいた。
 それが無性に、沁みた。