中学時代、ほたるとこんな会話をしたことがある。
「俺、学校行くの嫌になっちゃったの、自転車のせいなんですよね」
 いつも通りコンビニの前でアイスをふたりで食べているときだった。不意にほたるが言い出した。
「樹さんは自転車、乗れる?」
「乗れるけど。え、お前、乗れないの?」
 言うと、そうなんすよ、とほたるは肩をすくめた。
「自転車練習するきっかけって、自分からじゃないじゃん? 親が教えようって思うか、友だち同士で乗ろうって話になるか、まあ、そんな感じで。樹さんはどうだった?」
「俺は……」
 確か、教えてくれたのは兄だ。ふたつ年上の兄に教えられて乗れるようになった。自転車くらい乗れないと後々大変だぞ、仲間外れにされるぞ、と脅されて。
 ただ当時、出来がよすぎる兄と僕の関係は芳しくなくて、感謝の気持ちは微塵も湧いてこなかった。
 ほたるは僕の微妙な顔に気付く由もなく、淡々と語っていた。
「俺、結局誰にも教えてもらえないまま中学入って。ただ俺の家、学区の端っこで自転車じゃないと毎日きつい感じの場所で。でも俺、乗れないじゃないですか。今更、学校行くために練習するのも腹立つし。で」
 学校行かなくなっちゃった。
 とにっこり笑ったほたるに、当時の僕は爆笑した。
 お前、そんな理由で行くのやめちゃったのかよ、と。
 でも今は、あのとき笑ったことを後悔している。
 明るい口ぶりで言いながらも、ほたるはどことなく寂しそうだったから。
 ほたるにもちゃんと両親はいる。ただ、どちらも共働きで帰宅は遅い。ほたるが小学生のころからふらふらと街を徘徊していたことにも、気付いてすらいないようだった。
 そのことを……ほたるは自転車のことで言おうと思ったのかもしれない。
 そして、そんなほたるにとって、僕と過ごす時間は、僕が思う以上に大事なものであったのかもしれない。
 なのに、僕はほたるを置き去りにした。
 「狂犬」と呼ばれた過去が嫌で、それを払拭したいがためだけに、全部なかったことにしようとした。
 その僕を、ほたるは庇った。
――あんたの努力を、過去のやんちゃしてた時代のせいでいろいろ言われるの、駄目だろ。
 ほたるの声が、耳からずっと離れない。
 あの日受け取ったクッキーの味も、ずっと忘れられない。
 甘くて、優しくて。舌を包むさくり、とした感触に労りが見えて。
 食べながら、涙が止まらなかった。
 あれ以来、ほたるは完全に僕の前から姿を消した。調理部にも何度か顔を出したけれど、部活にも出ていないようだった。
 速水くんの作るお菓子、すっごく美味しいし、楽しみだったのに、と調理部の部長は言い、同調するように部員も頷いていた。
 狂犬のことを知っているのかどうかまではわからないけれど、少なくともここではほたるは大事にされていたのだと思えて、心底ほっとした。
 ただ、SNSでは相変わらず狂犬の噂はされているようで、教室でもほたるは遠巻きにされている、と宮池くんが教えてくれた。
「話しかけるんですけどね。速水自身がこう、話しかけるなオーラすごくて」
 このままではいけない。
 何度もそう思って、休憩時間のたびに教室を覗いた。しかし、ほたるを捕まえることはできなかった。
――俺はもう樹さんとは口を利かない。
 あれは、やはり本気なのだ。
 本気で、ほたるはもうこちらを見ないつもりでいる。
 いいや、そうじゃない。彼は、完全に僕の目の前から消えようとしている。