特別教室棟を見上げると、家庭科室にはまだ明かりが見えた。誰かいるらしい。
 昇降口に回るのが面倒で、またも靴下のまま階段を駆け上がる。下校時刻を迎えた校舎は静まり返っていて、靴下履きの自分の足音さえ、鮮明に響いた。
 家庭科室があるのは最上階の一番奥。しかし、近づいても人の声は聞こえない。
 電気を点けっぱなしで帰ってしまっていたりしないよな、と不安になりつつ引き戸を開けると、中にいた人物が億劫そうに振り返った。
 黒いエプロンをしたほたるだった。
 彼はわずかに唇を開いてこちらを見つめてから、くるっと後ろを向く。そのまま何事もなかったかのように調理台を片付け始める彼に、さすがにいらっとした。
「幽霊見えたけど見えてるとばれたら祟られるみたいな顔、やめろ」
 室内へ踏み入りながら言うが、ほたるは背中を向けたままだ。手も止めない。
 本気で幽霊扱いか。
 だが、幽霊だって実力行使することもあるのだ。
 流し台でボウルを洗っている彼の横に並び、容赦なく水を止めると、ほたるの顔が歪んだ。
「そっちこそ、ガチで幽霊みたいな真似、やめろよ」
「ほー? 幽霊見えてるんだねえ、ほたるくん。それならお話しようか」
 腕組みをして睨んだ僕の横で、ほたるが長い長い息を吐く。エプロンでぞんざいに手を拭き、調理台にだらしなく体重を預けた彼は、面倒臭そうにこちらを睨んだ。
「なに。あんたと話すことないんだけど」
「こっちはあるんだよ。勝手に自己完結すんな。タコが」
「……樹さん、口、どうしたの。タイム風呂敷で口だけ過去に戻ったかなんか?」
 気だるげに言われますます苛立つ。
 放っておくと荒っぽい声が際限なく出てしまいそうだけれど、そこで僕は自分にブレーキをかける。
 僕はこいつと喧嘩したくてここに来たわけじゃない。
「まず、いくつか話したい案件がある」
「案件って。ビジネスかよ」
「うるさい。黙れ。まず、一つ目」
 ようやく耳を傾ける気になったらしいほたるにほっとしつつ、僕はがばりと頭を下げた。
「え、なに」
 戸惑ったような声が頭の上からする。だがそれに構わず、僕は頭を下げ続けた。
「謝らないと駄目って思ってた。ごめん、ほたる」
「なにが?」
「約束破って、宮池くんとチョコレートを食べた。ごめん」
「は……」
――他のやつとさ、半分こは、しないでほしい。
 正直、ほたるのこの言葉を僕はそれほど重く受け止めてはいなかった。よくわからないけれどまあいいか、と軽い気持ちで頷いてしまった。
 だが、言葉とはそんなに適当に扱っていいはずがなかったのだ。
「傷つけて、ごめん」
 ほたるは黙っている。それでも頭を下げたままでいると、ほたるの口からふううっとため息が漏れた。
「案件、他にもあんの?」
「ある」
「聞くから。頭、上げて」
 促され、そろそろと姿勢を戻すと、ほたるは困ったように僕から目を逸らす。相変わらずのだらしない立ち姿のまま彼は、で、なに、と言った。
「狂犬のこと」
 ほたるの横顔がはっきりと引き攣った。その顔を僕は視線に力を込めて見上げる。
「どうして自分が狂犬だなんて名乗った?」
「なんのことだか」
「しらばっくれるな。俺に嘘は通用しない」
「俺って。樹さん、完全に狂犬……」
「茶化すな」
 ぴしゃりと言い、僕は手を伸ばす。ぐい、と彼の腕を掴むと、手の中でほたるの腕が震えた。
「なんでそんな嘘つく? そのせいでお前、ひどいこと言われてるって聞いた。なんでそんなことする? お前は狂犬じゃない。狂犬って言われてたのは……」
「樹さんはもう、狂犬じゃないじゃん」
 ばっとこちらを向き、ほたるが吠えた。気を呑まれ言葉を途切れさせると、ほたるは片手でぐしゃりと自身の前髪を掴んだ。
「もういいだろ。狂犬の称号なんて俺に預けとけよ」
「称号って! 今となったら汚名だよ。そんなもの……」
「だったら! なおのこと、あんたが背負っちゃ駄目だろ!」
 怒鳴られ、背中を反らす。樹ははあっと息を吐き言った。掠れた声だった。
「せっかくさ、弓道頑張って、全国まで行くんだよ。毎日毎日、ひたすら弓持って……。そのあんたの努力を、過去のやんちゃしてた時代のせいでいろいろ言われるの、駄目だろ」
「ちょ、は? 待って。それ」
 全国に行くから?
 僕が?
 頭がぐるぐるする。混乱し、目を見開く僕の前で、ほたるが髪から手を解く。
「わかってよ、樹さん」
 ほたるの声が、揺れた。
「俺はさ、樹さんが頑張れなくなるの、嫌なんだよ。なんも知らないやつらに、好きな人が踏みつけられるなんて、絶対許せないんだ」
 薄い唇が苦しげに歪むのを、僕は見つめることしかできない。
「そうさせないためなら、俺はなんでもする」
 声が、出ない。
 ほたるの腕を掴んでいた手から、力が、抜ける。
 その僕を、ほたるの目がゆらり、と捉える。彼は細めた目で僕をしばらく見つめてから、ああ、そうだ、と呟き、通学鞄が置かれている棚へと向かった。
 鞄を探ってそこから出した小袋を手に戻ってきたほたるは、それを僕の前に突き出す。
「クッキー、焼いたから。あげる」
 ブリザードを連想させるほたるの見た目とはそぐわない、桜模様の紙袋に入ったそれを、僕は声もなく、瞬きすらできずに見つめる。数秒そのままでいると、手がそろそろと伸びてきた。遠慮がちな手によって、手が掴まれる。
 開かされた掌に、すとん、と紙袋が置かれた。
 袋越し、ほわりと熱が掌に伝わってくる。
 はっとして見上げた僕の前で、ほたるは薄く……笑った。
「もう、ここには来ないで。俺に関わっちゃ、駄目だ」
 言葉と共に手が引かれる。そのとたん、弾かれたように体が動いた。
「アホか! そんなことできるか!」
 掌の中の袋を両手で握り、僕は叫ぶ。だが、ほたるはこちらを見ずに言い捨てた。
「できなくても、俺はもう樹さんとは口を利かない」
「そんなの……!」
 怒鳴る僕を無視し、ほたるは再び、調理台の片付けを始めた。その間、いくら声をかけても一切返事をせず、彼がようやく口を開いたのはすべての作業が終わった後。
「帰るから出て」
だけだった。