「木曜日の差し入れ、今日も来ないねえ」
 靴箱の上を確かめた畑中さんが、寂しそうに肩を落とす。
「ね〜。どうしたんだろうね。毎週来てたのに。休みなのかなあ。それとも、飽きちゃったのかなあ……」
「ちょ、琴子、飽きたとか、そんな言い方……」
 呟いた永井さんの腕を、谷本さんが肘で小突く。すみません、と言いたげに頭を下げられ、僕は曖昧に笑い返す。
 飽きたかどうかは知らないが、絶対に許す気がないのは確かだ。
 あれから二週間、ほたるは僕に近づいてこなくなった。声もかけてこないし、目も合わせない。こちらが近づこうとしても、足早に逃げていく。
 完全に嫌われたと言っていいのかもしれない。
 そう思うたび、なんでだか胸が疼く。
――樹さんに食べてもらえたらなあって思ってたから。
 そっぽを向きながら、口許だけでうっすらと微笑むほたる。
――大人みたいな顔するくせに、エクレア食べてるときはほんっと子ども丸出しだよな。
 心底呆れたという声を出すくせに、細められた目元。
――樹さんと一緒にいる時間、すごく……大事に思ってるのに!
 絞り出された叫び。
 謝りたいのに、どう言っていいかもわからなくて、時間ばかりが過ぎてしまう。
 練習にも、全然身が入らない。
「今日も調子、悪いですか? 無理しないほうがいいですよ」
 宮池くんが僕を覗き込む。この子は相変わらず周りの空気に鈍感だ。なくなった木曜日の差し入れのことにも触れないし、あの日、僕がほたるを追いかけていったことにも言及してこない。
 ただ、この日は少し違った。
「部長、ちょっと訊いていいですか」
 部活終わり、着替えていたときだった。改まった声で宮池くんが声をかけてきた。
「どうかした?」
「うーんと……」
 自分で話しかけてきたくせに、言い淀んでいる。辛抱強く言葉を待っていると、ちょっと、と言って宮池くんがスマホを取り出した。
「部長って、これ、知ってます?」
 表示されていたのは、とあるSNSツールのトーク画面だった。『菊塚高校のみんな、集まれ!』とトップに文字が見える。
「これ、うちの学校の生徒同士で作ってるグループなんです。お互い招待しあってどんどん拡がってる、まあ、非公式の」
「そうなんだ。ごめん、やってないや」
 スマホは持っているが、SNSは苦手だ。いろんな情報が流れて来過ぎて、いちいち処理するのもかったるいから。
 とはいえ、もちろん使っているかもしれない宮池くんを前にしてそうは言えず、首を振るに留める。宮池くんは、ですよね、と呟いてから画面をスクロールさせた。
「ここで最近、ちょっと噂になってることがあるんです」
「噂?」
「元星名中学の狂犬が紛れ込んでいるらしい。気をつけろ」
 さらさらっと読み上げられた文言に、体が強張った。
 星名中学。
 狂犬。
「個人を特定できるものなんてないんで、誰が書いたのかもわかんないんですけどね。その後もぽろぽろそいつから書き込みがあって、狂犬っていうのが伝説のヤンキーで、めちゃくちゃ喧嘩が強くて星名中学の辺り一帯を牛耳っていたらしいとか、とにかくキレると手がつけられない要注意人物って話とかまあ、いろいろ」
「……それで?」
 宮池くんはなにが言いたいのだろう。狂犬が僕だと勘づいて、先輩が狂犬ですか? とでも訊きたいのだろうか。
 せっかく平穏に弓道部の部長を続けてこられたというのに、まさか後輩に知られてしまうとは。
 だが、ばれてしまったのなら……仕方ない。
「宮池くん、驚いただろうけど、それ……」
「部長って速水と仲いいんですよね?」
 遮られ、言葉が変な形で止まる。口を半分開けたまま、ああ、まあ、と頷く。
「地元は同じだけど」
「じゃあ、知ってますよね。この狂犬が速水だっていうの、本当ですか?」
「は?!」
 今、なんて言った?
 唖然とした僕を宮池くんは凝視したまま黙っている。どうやら冗談で言ったわけではなさそうだった。
「それ、え、なんで、そんな」
「最初、星名中学なんて、この辺りじゃ聞いたこともない名前だし、どこだよってなってたんですよ。けど、伝説のなんて名前のつくヤンキーなんてどんなやつなのか興味あるってだんだん盛り上がってきちゃって。こう、言い方悪いですけど、懸賞首探すみたいなノリで。そしたら」
 言いつつ、宮池くんはするするとスマホを操作する。ずいと突き出された画面を見て僕は固まった。
『狂犬は俺だ。文句があるやつは俺のところまで来い。全員相手してやる。一年A組速水ほたる』
「これ……」
「本人の書き込みかどうかまではこれだけだとわかんないです。けど、直接、速水に訊いたやつが何人かいたらしいです。本当に狂犬はお前かって。そしたらあいつ、『そうだ。でもこれ以上がたがた抜かしたら、その鼻へし折るけどいいか』ってすごんだとかなんとか」
 あいつはなにを言っているのだ。
 額を押さえた僕の顔を、宮池くんが探るように見つめている気配を感じる。
 その彼に向かい、僕は低い声で訊ねた。
「それで? 君はなにを知りたいの。真実をみんなに言って回って、情報通でも気取りたいの」
 自分でもこれほど冷たい声が出るとは思っていなかった。内心驚きながらも出てしまった声は止められない。宮池くんもさぞや驚いただろうが、取り繕う気はまるで起きなかった。
「知って君はなにをするの?」
「先輩と同じです」
 すぱっと言われ、張りつめていた怒りの糸がわずかに緩む。え、と目を上げると、宮池くんはスマホをつらつらと眺めていた。
「速水、この件で今、結構叩かれてるんです。裏で」
 言いつつ、宮池くんは再びぐい、と僕の前にスマホを突き出した。
『狂犬とか呼ばれていい気になってるとこ、ウケる』
『時代錯誤も甚だしいってこういうやつに言うんじゃね? オワコン』
『うち進学校じゃん。こういうのいるのってどうなの? 価値下がる』
『事件起こす前にどうにかしてもらったほうがいいですよね、せんせー!』
 そこまで読んで、見る気が失せた。片手でスマホを押し戻すと、宮池くんは画面を一瞥した後、スマホを鞄に滑り込ませ、ため息をついた。
「俺、別に速水と仲がいいわけでもないし、お節介なのはわかってるんです。でもこういうのは気分悪い。みんなで寄ってたかって陰で叩くのは、あまりにも卑怯です」
 きっぱりとした口調に少し驚いた。普段の彼はおっとりとしていて、あまりはっきりものを言うタイプではなかったから。
 僕の驚きをよそに、宮池くんは苦い顔で、でも、と続けた。
「速水も悪いと思うんです。挑発的な態度を取って周りを刺激するのはよくない。別に過去がどうとか、俺はどうでもいいけど、そういう態度取っちゃってるのは今だから。もともと速水って友達少ないし、こんなことになったらますます孤立してしまう。そういうの、なんか俺、嫌なんです」
「宮池くんて……」
 ぽろっと言葉が落ちる。え? とこちらを見た彼に、僕は思わず笑いかけてしまった。
「いい子だね」
「……馬鹿にしてるんですか」
「あ、いや、そういうことではないけど、なんか」
 うれしい、と言いかけて口を噤み、気を取り直すように咳払いする。
「で、その話、僕にしたのはなんで?」
「速水、学校だと完全にシールド作っててまったく相手にしてくれないから。部長、速水の知り合いっぽいし、少しは話聞くかな〜って。すみません、勝手なことを」
「いや、むしろ、話してくれて助かった」
 言いつつ、僕は鞄を手に取る。からり、と更衣室の引き戸を開け、宮池くんを振り返る。
「ほたるのとこ行ってくるから。悪いけど今日、戸締り頼める?」
「お願いします」
 こくん、と頷く宮池くんに微笑んで扉を閉めると、僕は走り出した。
 あそこにいてくれるといいな、と思いつつ。