プリンがあるから帰りに寄ってくれ、と昨夜ほたるは言っていた。
ほたるが作ったプリンだ。さぞかし美味いだろう。
それは楽しみではあるのだ。あるのだが、昨日、電車で会話をして以来、なにかが引っかかって集中できない。
「部長、調子悪そうですねえ」
弓道場を出て、気分転換にランニングをしていると、後ろから追いついてきた宮池くんに声をかけられた。
「そう見える?」
グラウンド脇のベンチに腰を下した僕の横に、宮池くんも座る。
「見えますね。前、部長言ってたけど、射形には心が表れてしまうっていうの、あれ、本当なんだなあと、今日の部長見て、初めてわかりました」
「初めて……」
宮池くんが弓道部に入って三か月以上になる。熱心に指導してきたのに、今になって初めてと言われるのは複雑だ。
けれど問題はもちろん、彼の成長速度がどうこうではなく、彼から見てもはっきりわかるほど、自分が的に集中できていないということだ。
そんなに思い悩むことではないのだ。昔の話をした、ほたるが応援してくれていた、それが事実のすべてだ。
にもかかわらず、妙に気にかかるのはなんでだろう。
ホイッスルの音と共にグラウンドに散っていた陸上部らしき生徒たちがさああっと集まっていく。あんなふうに音ひとつで切り換えられたらいいのに、とぼんやり思っていると、目の前にぬっとなにかが突き出された。と同時に、ふわっと人工的な甘い香りが鼻をくすぐった。
「なに?」
「残り、あげまふ」
赤いパッケージに包まれたチョコレート菓子だった。中央で折って食べられるタイプのもので、折られた半分はすでに宮池くんの口の端からぶら下がっていた。
「どしたの、これ」
「今日、同じクラスの子にもらったんですけど、忘れてて。おすそわけ。良かったらどーぞ」
「はあ……」
今日は三十度を超える暑さだ。少し溶けているのが目で見てもわかる。どうしようかな、と思ったけれど、無邪気に差し出してくる宮池くんを見ていたら断るのも憚られた。
心配してくれているようなのだから。
「ありがとう」
礼を言い、チョコレートを受け取る。頬張ると、甘ったるさで口が粘ついた。
「甘いね」
「まあ、チョコですからねえ」
のんびりと宮池くんが言う。あまりにも当たり前のことを当たり前に言うので、少し笑ってしまった。この素直さを見習って、気になることは臆せず訊けばいいのだろうか。
けれど。
――付き合ってる人、いる?
「樹さん」
脳内に過った声と、リアルの声が重なる。はっとして現実に意識を戻して振り向くと、つられたように宮池くんもそちらを見た。
視線の先に、ほたるがいた。
通学鞄を肩に負い、佇んでいる。ああ、と手を上げようとした僕を、ほたるはまじまじと見ている。
「ほたる?」
呼びかけてベンチから腰を上げたのと同時だった。ほたるの顔が歪んだ。そのままくるりと背中を向けて歩き出す。
大股で歩み去っていくほたるを、僕はぽかんとして見送った。
ほたるは表情が少ない。笑顔を見せることはあるけれど、すべての表情がどこか淡い。
ただ、そんな温度の低い表情しか見せないほたるではあっても、今過ったものがどんな感情によるものなのかは、僕にも想像がついた。
あれは、怒っている顔だ。
「部長、速水とやっぱり知り合いなんですか? え、部長? ちょっと!」
宮池くんがなにかを言っていたけれど、構わず僕は走り出した。
「ほたる! ほたるって!」
走って追いかけるが、ほたるは止まらない。早足だったはずが、いつの間にか全力で僕を突き放しにかかっている。
「おい! こら! なんなんだよ! はっきり言えって! 止まれ、この野郎!」
普段の僕なら絶対にない口の悪さで呼び止めると、肩越しに振り返ったほたるが応酬してきた。
「狂犬出てるけど! 樹さん、いいの?!」
「うるせえよ! だったら止まれってんだよ! クソが!」
「止まってやるかよ! バーカ!」
馬鹿だと。
かっとなって足を早める僕から顔を背け、ほたるが吠えた。
「俺がなんで怒ってるか、自分の胸に手当ててよく考えてみろよ!」
「は……?!」
とっさに立ち止まる。数メートル先でほたるも足を止めた。
肩を上下させ、ほたるは腰を折る。
「約束、したのに」
切れ切れの息の間に声が落ちた。
「他のやつとはしないって、約束したのに!」
――他のやつとさ、半分こは、しないでほしい。
甘さがじりりと口の中を刺す。蘇ったほたるの声に息を呑む僕を、ばっとほたるが振り返った。
「いっつもそうだよ。樹さんはいっつも俺のこと見てない。気にしてない。中学のときもそうだよ。突然、いなくなって。なかったことみたいに全部封じ込めて。でも、俺は、俺はさ!」
声が跳ね上がる。蝉の声に喧嘩を売るように、ほたるは叫んだ。
「樹さんと一緒にいる時間、すごく……大事に思ってるのに!」
ほたる、と呼びかけたかった。けれど、僕に名前を呼ばれる前に、ほたるは走り去った。もう後ろを振り向くことなく全力で。
「あいつ、相変わらず、足はや……」
どんどん遠ざかる彼を見送りながら僕は呟く。苦笑いが出るかと思った。でも、笑えなかった。
お前のせいだと言わんばかりに降ってくる蝉の声が、痛かった。
ほたるが作ったプリンだ。さぞかし美味いだろう。
それは楽しみではあるのだ。あるのだが、昨日、電車で会話をして以来、なにかが引っかかって集中できない。
「部長、調子悪そうですねえ」
弓道場を出て、気分転換にランニングをしていると、後ろから追いついてきた宮池くんに声をかけられた。
「そう見える?」
グラウンド脇のベンチに腰を下した僕の横に、宮池くんも座る。
「見えますね。前、部長言ってたけど、射形には心が表れてしまうっていうの、あれ、本当なんだなあと、今日の部長見て、初めてわかりました」
「初めて……」
宮池くんが弓道部に入って三か月以上になる。熱心に指導してきたのに、今になって初めてと言われるのは複雑だ。
けれど問題はもちろん、彼の成長速度がどうこうではなく、彼から見てもはっきりわかるほど、自分が的に集中できていないということだ。
そんなに思い悩むことではないのだ。昔の話をした、ほたるが応援してくれていた、それが事実のすべてだ。
にもかかわらず、妙に気にかかるのはなんでだろう。
ホイッスルの音と共にグラウンドに散っていた陸上部らしき生徒たちがさああっと集まっていく。あんなふうに音ひとつで切り換えられたらいいのに、とぼんやり思っていると、目の前にぬっとなにかが突き出された。と同時に、ふわっと人工的な甘い香りが鼻をくすぐった。
「なに?」
「残り、あげまふ」
赤いパッケージに包まれたチョコレート菓子だった。中央で折って食べられるタイプのもので、折られた半分はすでに宮池くんの口の端からぶら下がっていた。
「どしたの、これ」
「今日、同じクラスの子にもらったんですけど、忘れてて。おすそわけ。良かったらどーぞ」
「はあ……」
今日は三十度を超える暑さだ。少し溶けているのが目で見てもわかる。どうしようかな、と思ったけれど、無邪気に差し出してくる宮池くんを見ていたら断るのも憚られた。
心配してくれているようなのだから。
「ありがとう」
礼を言い、チョコレートを受け取る。頬張ると、甘ったるさで口が粘ついた。
「甘いね」
「まあ、チョコですからねえ」
のんびりと宮池くんが言う。あまりにも当たり前のことを当たり前に言うので、少し笑ってしまった。この素直さを見習って、気になることは臆せず訊けばいいのだろうか。
けれど。
――付き合ってる人、いる?
「樹さん」
脳内に過った声と、リアルの声が重なる。はっとして現実に意識を戻して振り向くと、つられたように宮池くんもそちらを見た。
視線の先に、ほたるがいた。
通学鞄を肩に負い、佇んでいる。ああ、と手を上げようとした僕を、ほたるはまじまじと見ている。
「ほたる?」
呼びかけてベンチから腰を上げたのと同時だった。ほたるの顔が歪んだ。そのままくるりと背中を向けて歩き出す。
大股で歩み去っていくほたるを、僕はぽかんとして見送った。
ほたるは表情が少ない。笑顔を見せることはあるけれど、すべての表情がどこか淡い。
ただ、そんな温度の低い表情しか見せないほたるではあっても、今過ったものがどんな感情によるものなのかは、僕にも想像がついた。
あれは、怒っている顔だ。
「部長、速水とやっぱり知り合いなんですか? え、部長? ちょっと!」
宮池くんがなにかを言っていたけれど、構わず僕は走り出した。
「ほたる! ほたるって!」
走って追いかけるが、ほたるは止まらない。早足だったはずが、いつの間にか全力で僕を突き放しにかかっている。
「おい! こら! なんなんだよ! はっきり言えって! 止まれ、この野郎!」
普段の僕なら絶対にない口の悪さで呼び止めると、肩越しに振り返ったほたるが応酬してきた。
「狂犬出てるけど! 樹さん、いいの?!」
「うるせえよ! だったら止まれってんだよ! クソが!」
「止まってやるかよ! バーカ!」
馬鹿だと。
かっとなって足を早める僕から顔を背け、ほたるが吠えた。
「俺がなんで怒ってるか、自分の胸に手当ててよく考えてみろよ!」
「は……?!」
とっさに立ち止まる。数メートル先でほたるも足を止めた。
肩を上下させ、ほたるは腰を折る。
「約束、したのに」
切れ切れの息の間に声が落ちた。
「他のやつとはしないって、約束したのに!」
――他のやつとさ、半分こは、しないでほしい。
甘さがじりりと口の中を刺す。蘇ったほたるの声に息を呑む僕を、ばっとほたるが振り返った。
「いっつもそうだよ。樹さんはいっつも俺のこと見てない。気にしてない。中学のときもそうだよ。突然、いなくなって。なかったことみたいに全部封じ込めて。でも、俺は、俺はさ!」
声が跳ね上がる。蝉の声に喧嘩を売るように、ほたるは叫んだ。
「樹さんと一緒にいる時間、すごく……大事に思ってるのに!」
ほたる、と呼びかけたかった。けれど、僕に名前を呼ばれる前に、ほたるは走り去った。もう後ろを振り向くことなく全力で。
「あいつ、相変わらず、足はや……」
どんどん遠ざかる彼を見送りながら僕は呟く。苦笑いが出るかと思った。でも、笑えなかった。
お前のせいだと言わんばかりに降ってくる蝉の声が、痛かった。