エクレアをごちそうになって以来、ほたるは時々、部活帰りの僕を家庭科室に誘うようになった。
「え! 夏休みも部活なの。樹さん」
 各種スイーツを食べさせてもらった後に、ほたると並んで電車に揺られることにもすっかり慣れた。
「ああ、うん。八月の初めに大会があってさ。それの調整もあるし」
「大会? え、この間、県大会優勝してた……って、全国⁉」
 電車の中なのに声がでかい。僕は隣に立つほたるの脇腹を肘で突いて黙らせてから、小声で言った。
「そうだけど。まあ、全国ではそうもいかないよ。予選通過も多分無理」
「あれだけ練習してるのに?」
 納得がいかない、とその顔が言っている。思わず笑ってしまいながら、僕は肩をすくめた。
「勝ちたいけど、どっちかっていうと僕はさ、完璧な射形を見つけることが目標だから」
「しゃけい?」
「射るときの姿」
 混んだ車内では大きくアクションはできないけれど、両手で少しだけ弓を引き絞る動作をしてみせると、ほたるが細かく頷いた。
「確かに樹さんの弓持ってる恰好はかっこいいと思った」
「見たこと、あったっけ?」
 弓道場にほたるは今もお菓子を差し入れてくれているが、誰にも姿を見られぬようこっそりと靴箱の上に置いていくのは相変わらずで、部活中に彼が弓道場にいたことはない。
 ほたるはちょっと迷うように目を彷徨わせてから、投げ捨てるように言った。
「見た。中学のとき。何度か」
「え、うそ」
「だって。樹さん、突然、コンビニにも顔、出さなくなったじゃん」
 ほたるの拗ねたような口ぶりに、僕は声を失う。
 確かにそうだった。あのころ、家にも満足に帰ってこない僕のことを、両親は随分気に病んでいた。ごくごく普通の家で、特別虐げられて育ったわけでもない。しいて言うならふたつ年上の兄が優秀過ぎたことくらいだろうか。勝手にいじけて、勝手に閉じて、学校にも馴染めなくて。そんな黒雲が折り重なったような心に手を焼いていた僕を、両親は叔母の家へと連れて行った。
 叔母は、弓道の師範として教室を営んでいた。
 正直、弓道なんて意味がわからないと思った。こんな前時代的な武具、使う機会もなく、意識高い系のおすまし野郎の自意識を満足させるだけの、つまんない玩具だとすら思っていた。はっきりと叔母にそう言いさえした。
 にもかかわらず、無理やり取り組まされた弓道に僕は、はまった。
 誰かに左右されず、自分だけで、技をひたすらに磨く。その弓道独特の世界に僕は虜になった。
 弓を引けば引くほど、自分の中に立ち込めていた靄が晴れていく気がした。
 鬱屈した思いに取りつかれ、闇雲に人を傷つけてきた自分を恥じもした。
 だから、学校にはほぼ行かなかったが、叔母の家にだけは毎日通った。
 結果、これまでうろついていた街からも、ほたると並んで時間を潰していたコンビニからも、足は遠のいた。
「めちゃくちゃショックだったんだ。樹さん、来なくなっちゃって。でも樹さんと同じ中学のやつが樹さん、今、弓道してるって教えてくれて。俺、こっそり覗きに行っちゃったんだ。そんなんやめて俺とまた遊ぼうぜって言いたくて。でも」
 ほたるの目がすっと車外へと向けられる。黒く沈んだ窓ガラスの向こう、ぽつりぽつりと灯る民家の明かりが、星のように流れていく。
「見てたら、連れ戻そうなんて気、なくなっちゃったよ。だって樹さん、びっくりするくらい真剣なんだもん。あんな目、できるんだなあって思ったらなんていうか、すげえ応援したくなって」
「そう、なんだ」
 まったく気付いていなかった。ごめん、と言いかけた僕をほたるが見下ろす。そのとき、電車が大きく揺れた。少しふらついた僕の肘を、ほたるの手がくい、と掴んで支える。
「樹さん、弓道、出会えてよかったね。本当に、よかった」
 低い声に言われて、胸がぐっと押された気がした。
 と同時に、訊きたくなった。
 お前はなんで、僕と同じ高校へ通おうと思ったんだ? と。
 訊こうと思えば訊ける。けれど、あの日から引っかかっているのだ。
――付き合ってる人、いる?
 ほたるが僕に向かって投げかけた問いがずっと。
 付き合ってる人。
 ほたるはなんであんなことを訊いてきたのだろう。
 中学時代、並んで夜を明かした。コンビニでアイスを半分にして食べた。どうでもいい話をして笑って、時間が経つのをじっとふたりで待った。
 あそこにあったのだろうか。答えがなにか。
 返事を求めるように見返すと、ほたるが長い首をふっと傾げる。
「樹さん? どした?」
「……いや、なんでもない」
 首を振る僕をほたるはしばらく眺めてから、再び車窓に目を向けて言った。
「今日さ、家庭科室の冷蔵庫にプリン仕込んできたんだ。明日にはできるから、部活終わったら家庭科室来てよ、樹さん」