狂犬とハーフエクレア

 きりり、と耳の端で張りつめた音を立てる弦。
 白砂の向こう、僕をまっすぐに見返してくる霞的。
 傲然と顎を上げるように、的が僕に向かって笑う。

 さあ、放ってみなよ。私を射抜いてご覧。
 見ていてあげるから。

 もちろん、的はそんなことを言いはしない。ただ静かにこちらを見返すだけだ。
 だからこれは全部、僕の心の声。

 負けてたまるか、と唇を噛みしめ続けてきた僕自身が生み出した、僕の、声。

 諦めるな。
 絶対に自ら投げ捨てるな。
 背筋を伸ばして立ち続けろ。

 そうすれば、(あた)る。

 く、と指先に走る確信に押され、僕の指は弦から解き放たれる。しゅん、と鋭い音を立て、僕の横を通り過ぎていく、軌跡。
 ぱすん、と高い音を立てて的の中心へと吸い込まれていくそれを認めてから、僕は腕を下ろす。
 一連の所作を忠実にこなし、的前で振り向くと、弓道部の面々が音を立てないよう、掌を擦り合わせるようにしてささやかな拍手をしてくれていた。
水原(みずはら)部長ってやっぱり綺麗ですよねえ。射形」
「顧問、弓引けないけど、部長がいてくれれば私たちも上手くなりそうな予感……」
「お願い、部長、私たちが卒業するまでここにいて〜」
「……いや、卒業はするよ」
 軽口を言い合う部員たちに苦笑いしながら言い返したとき、一年生の宮池くんが思い出したように言った。
「部長って中学時代から弓、習われてたんでしたよね?」
「ああ、うーん、まあ。習うっていうかまあ」
 放り込まれたんです、とは言えず、僕は曖昧に笑いながら、Tシャツの袖で額の汗を拭う。
 弓道は好きだ。それだけは間違いない。
 だが、弓道に関わるきっかけとなったかつての自分のことは、思い出したくないし、語りたくもない。
 過去に触れられたくないから、自宅から遠く離れた県違いの高校に進学したのだ。
 どう言おうかな、と迷っていると、そういえば、と部員のひとり、永井さんがこちらに顔を向けてきた。
「今日も届いてましたよ、部長宛のあれ」
「え! 例のやつ?」
「そうそう」
 女子部員三人が楽しげに顔を見合わせた後、ばっと一斉にこちらを向く。
「え、届いてるってなんですか?」
 ひとりだけ事情がわかっていないらしい宮池くんに、永井さんが呆れた顔をした。
「気付いてなかったの? 四月からこっち、毎週木曜日に、弓道場の靴箱のとこにクッキーやらマフィンやらが置いてあるの! 超可愛くラッピングされたやつが!」
「……でもあれ、僕個人宛ではないよね。弓道部の皆さんで、って書いてあったこともあったし」
 やんわりと否定してみる。とたんに、眉を逆立てた女子全員から強烈な反発が返ってきた。
「いやいや、あれ、食べてほしい本命は部長でしょ〜! 部長が大会で優勝したとき『おめでとう』ってメモ入ってたし!」
「ビスケットにチョコペンで部長の似顔絵描いてあったし! しかも激似のやつ!」
「あれで自分宛じゃないなんて思うの、さすがに鈍感すぎると思います!」
「そんなのあったんですか」
 宮池くんが、すげえな、という顔でこちらを見る。なんだか猛烈に恥ずかしい。
「まあ、私たちもみんなであれ、食べちゃってるんで、さすがにどうかとは思いますけどね」
「でもほら、弓道部の皆さんでって書いてあったし。ねえ?」
「落とし物として届けても捨てられちゃうし」
「って、それ、ストーカーからなんじゃ。俺からすると、誰が作ったかわかんないもんを、先輩たちよく食べるなって思いますけどね」
 宮池くんが気味悪そうに女子たちを見る。彼女たちは再び顔を見合わせてから口々に応戦し始めた。
「そりゃ確かに最初はどうかと思ったよ? でもさあ、捨てるほうが怖くない?」
「そうそう。大体、あれは愛情がないと作れない類のやつ。むしろ捨てたら祟られそう」
「お腹も壊してないし。大丈夫大丈夫」
……大丈夫で済ませていい話なのだろうか。
 うんうん、と頷き合っている彼女たちを眺めながら、僕は腕を組む。
 正直なところ、僕としては困惑していた。誰だか知らないが、毎週毎週ひっそりと来られても対処ができない。
 はっきり言えば、うれしいというよりも……不気味だ。
 届けられるクッキーやマフィン、マカロンもあったが、どれもが驚くほど美味いこともまた問題だった。
 初めのうちは恐る恐るだったにも関わらず、いつの間にかつい美味い美味いと食べてしまうほどに、それらは美味過ぎたのだ。
 誰の手によるものかわからないのに、ちょっと楽しみになってしまうほどに。
 これが悪意ある誰かの手によるものだとしたら、弓道部全員あっさりあの世行きだろう。
 二か月経った今も異常がないところをみると、そうした悪意はないのかもしれないが、やっぱり気になる。
 あんな手の込んだものを毎週毎週届ける意図とはなんなのか。
 しかし、今は部活だ。
「ほら、話してないで練習」
 にっこりと笑って促すと、部員たちはそれぞれ、はあい、と声を上げながら的へと向き直った。
 僕が所属している菊塚高校の弓道部は、ぶっちゃけ弱小だ。部員は五人だし、女子三人、男子二人という組み合わせだから、団体戦へのエントリーも難しい。顧問の先生がいるにはいるが、弓の経験は高校時代にかじった程度らしく、中学から始めた僕のほうがまだ引ける。上を目指すなら、ここじゃないのだろう。
 けれど、僕のようにひとりで黙々と弓を引きたい人間にとって、ここは天国みたいな場所だった。
 勝負なんてどうでもいい。ただ、自分と向き合えればそれでいい。
 そんなふうだから、応援している、とか、おめでとう、とか言われてもどうにもぴんとこないのだ。
 毎週毎週、来られても。
 今日は木曜日だ。もうすでに届いているのかもしれないな、と妙な緊張感を覚えながら弓道場へと向かっていた僕は、ふと足を止めた。
 角を曲がったすぐのところに弓道場の入り口はある。その入り口の扉が、からり、と開いて閉まる音が響いた。部員のひとりかな、と思った矢先、再び扉が滑り、また閉まる。
 足を早め、僕は弓道場へと向かう。
 その僕の目線の先、弓道場の前から離れていく人影が見えた。
 背の高い、後ろ姿。
 それは、部員の誰とも違うものだった。
「待って!」
 怒鳴って追いかけると、歩み去ろうとしていた誰かの肩がひゅっと跳ねる。だから、声は届いていたはずだ。だが、その人物は呼び止める僕を振り切るように走り始めた。
「待ってって!」
 叫んでも止まらない。
「なあ、おい!」
 そこまで必死に逃げるのはなんでだ?
 待てと頼んでいるのに。
 全力過ぎる走り方に、だんだんいらいらしてきた。
「待てって言ってんだろうが! この野郎!」
 怒鳴りながら手にした鞄を振りかぶる。当たると思っていなかったが、それはまっすぐに飛び、逃げる相手の背中にクリーンヒットした。
 どわっ! と奇妙な叫び声を上げてつんのめった相手に追いつき、僕はむんずとその腕を捕まえる。
 顔を確かめて、驚いた。
「は……え? あれ? ほ、たる? だよな。え、なんで、こ、こに……」
 速水(はやみ)ほたる。平仮名で、ほたると書く彼のことを、僕は知っていた。
 腕を僕に引っ掴まれたまま、彼が細く息を吐く。ゆるゆると顔が上がり、鋭い目が僕をすうっと捉えた。
「そんなことより、まずは謝ってほしいんだけど。めちゃくちゃ痛かった」
「あ、え、うん、ごめん」
 確かにいきなり鞄を投げるのはやり過ぎだった。口の中で謝ってから、僕はそろそろと相手の顔を窺う。
 髪型も変わっているし、以前より大人っぽくなってはいる。でも、あのころの面影は消えていない。
 ほたる、という柔らかな名前の響きとは対照的な、鋭い顔立ちは昔のままだ。
「命中率やばすぎ。もう」
 顔をしかめながら彼は、僕に捕まえられていないほうの手で髪を掻き上げる。
 長い指で押さえられたさらさらの髪は、白に近い金色だったあのころとは違う、アッシュブラウン。当時は、キューティクルなんていらねえ! と言わんばかりに傷み切っていたのに、今はちゃんと天使の輪がある。
「俺のこと、覚えてたんだ、(いつき)さん」
 うっすらと笑って言う彼の腕から、僕はそろそろと手を離す。
「それは、まあ……でも、あの、え? なんで、ほたるが?」
「なんでって。今年からここに通ってるから。樹さんの後輩です。俺」
「…………は?」
 いや、そういうことがないわけじゃないだろう。県違いだって通えないわけじゃない。ないが、しかし……。
 混乱している僕を面白そうに見下ろしていたほたるが、ふいと腰を屈めた。
「それにしてもひどいよな。いきなり鞄投げつけるとかさ。さすが、狂犬」
 耳元で言われ、ぎょっとする。思わず振り仰ぐと、ほたるはほんのりと笑みらしいものを浮かべながらこちらを見下ろしてきた。
 昔はちびだったくせに、なんたることか、今は頭半分以上僕より背が高い。ぎっと睨みつけるが、ほたるは動じる様子をまったくみせない。
「安心してよ。樹さんの黒歴史のことは俺、誰にも言わないから」
 黒歴史。
 頭をがつんと殴られたような衝撃を受けながら、僕は押し殺した声で訊ねる。
「……目的はなに」
「ないよ、そんなん。学力に合わせて学校選んだらここだっただけ」
 本当だろうか。疑わしい顔をすると、ひどいなあ、とほたるは肩をすくめた。
「仮に、俺が目的持ってここに来たとして、それ樹さんにとやかく言われる筋合いある? 自由意志じゃん。そんなの」
「そりゃ、そうだけど……」
「ってことで、これからよろしくです、先輩」
 んじゃ、これで、と言ってほたるは背中を向ける。が、なにを思ったのか、つとしゃがみこんだ。長い腕が僕の投げた鞄に伸びる。
「駄目ですよ、もう狂犬の水原樹じゃないんだから。出ちゃってるよ、もろもろ」
 おかしそうに言いながら、ぽんぽん、と鞄についた砂が彼によって払われた。
「はい、どうぞ」
「あ、うん、ありがとう」
 そろそろと手を伸ばして鞄を受け取ったとき、鼻先をなにかの香りが撫でた。
 彼の服に移り香していたのだろうか。漂ってきたのは……甘い、香り。
「ちょっと待って」
 じゃあ、本当にこれにて、と手を上げて去っていこうとしていた彼の通学鞄を後ろから掴むと、意表を突かれたようにほたるがたたらを踏んだ。
「毎週木曜日に弓道場にお菓子持ってきてたの、ほたる?」
 ほたるの少し吊り気味の目が見開かれる。数秒こちらを見つめてから、彼はなぜかふっと口許を綻ばせた。
「そりゃまあ、このタイミングだし、ばれるよな」
 照れ臭そうに呟いてから、彼はつい、と目を逸らす。
「食べて、くれた?」
「は……あ、うん。その、美味かった、けど」
 でもなんで、と言いかけた僕を遮るように、ほたるは息を吐く。
「よかった。捨てられても仕方ないかなとは思ってたから、うれしい」
「いや、まあ、正直どうしたらいいかわかんなかったけど。あのさ、あれ」
「ああ、違う違う」
 不意にほたるは片手を上げ、ふるふると振る。
「特別な意味とかじゃなくて。俺、調理部だから。無駄にしたくなかっただけ」
「は?! え、お前、調理部?!」
「お前呼ばわり。樹さん、出てる出てる。狂犬が出てる」
 たしなめられ、僕ははっと口を押さえる。ほたるはにやりと笑い、軽い手つきで僕の手を解いた。
「樹さん、昔から好きだったから。甘いもの」
「よく覚えてるね」
「覚えてるよ、そりゃあ。だって」
 そのとき、ざああっと風が吹いた。ほたるの唇がなにかを紡いでいる。え、と耳を寄せようとしたが、ほたるは笑みを閃かせ、身を引いた。
「また持ってくから。よかったら食べてね、樹さん」
 言って、ほたるはひらひらと手を振って去っていった。こちらの返事も聞かずに。
「結局のところ、これ、ほんと誰からのプレゼントなんでしょうねえ」
 今日はかりんとうだ。部活終わり、届いたかりんとうをぽりぽりと咀嚼しながら永井さんが言う。
 たぬき色にこんがり揚がったかりんとうは、見るからに美味そうだ。
 こんなの自分で作れるのか、と驚きながら僕もつまむ。さつまいもでできているらしいそれは、胡麻が利いていて、香ばしい味わいがくせになりそうな美味さだった。部活の後で空腹に泣く腹も、しっかり慰めてくれる。
「なんていうかこれ、店で出せるレベルじゃないですか。けどそこはかとなく手作り感も残してて。にくいなあ」
「どんな子なんだろうね。部長、心当たりないんですか?」
「あー……ない、なあ」
 言えない。
 いや、言ってもいいのだろう。
 これを作ったのは速水ほたるだと教えてやっても問題はないのだろう。
 だが、そこで躊躇する。
 彼は、僕の、後輩だ。
 もっとしゃちほこばった言い方をするならば……舎弟というやつになるのだろう。
 弓道部で、しゃてい、と言ったら「射程」に変換されるべきだろうか。だが残念ながらそっちじゃない。「舎弟」だ。
 あのころの僕は荒れていた。学校なんて当然行ってなかったし、喧嘩上等だったし、僕と同じように行き場のない数人とつるんでいきがって、人間全部を敵視して、肩を怒らせて歩いていた。腕っぷしが強かったせいもあって、気が付いたら狂犬なんてあだ名までついていた。
 当時の僕はそれがかっこいいことだと思っていて、弟分のほたるにも、売られた喧嘩は受けて立て! それが漢だ! とか言っていた。
 思い出すと、ちょっと、その、恥ずかしい。
 しかしそのほたるとも、僕が中学三年になったところで疎遠になってしまい、三年経った今、再会してもお互い変わり過ぎていて、誰? となってもおかしくない状態なのだ。
 にもかかわらず、彼はなぜか毎週菓子を作って持ってくる。
 狂犬の面影を完全に失った僕に、その僕の舎弟をしていたほたるが、手作りの菓子を!
 おかしすぎるだろう、この状況。
 そもそも、あいつはちゃんと高校生をやれているのだろうか。樹さん、マジ学校なんて行く意味ないっすね! 喧嘩強ければ生きてける! とか真面目な顔で言っていたあいつが。
「宮池くんてさ……速水ほたるって、知ってる?」
 僕の隣でかりんとうを貪り食っていた宮池くん(気味悪いとまで言っていたくせに、一度口にしてからほたるからの差し入れに夢中だ)に訊ねると、宮池くんは口をむぐむぐさせながら目だけをくりっと僕に向けてきた。
「はひゃみ? 知ってまふよ」
「宮池くん! 汚い! ちゃんと飲み込んでからしゃべる!」
 宮池くんの隣に座っていた畑中さんが眉を顰める。すんません、と頭を下げ、宮池くんはぐびぐびと手持ちのペットボトルからお茶を飲み、口の中のかりんとうを流し込んだ。
「同じクラスなんで」
「どんな、感じ?」
「どんな?」
 宮池くんが首を傾げる。変な訊き方をしてしまったなあ、と後悔している僕に、彼は宙を睨みながら答えてくれた。
「めちゃくちゃ無口です。あいつの声、聞いたことないってやつ、クラスに結構いるんじゃないかな」
 なんということだ。そんなふうでは友達を作ることもままならないだろう。大丈夫だろうか、と不安になっている僕の耳に、でも、という宮池くんの声が滑り込んできた。
「この間、調理実習あったんです。そのとき、俺、速水と同じ班だったんですけどね。俺の班、確実に料理慣れしてない人間の集まりで『ダークマターができること必至の面子(メンツ)』って周りからからかわれてて。けど! できあがってみたら、他のどの班よりも美味い筑前煮ができてたんです!」
「え、それ、速水くんって子のおかげって話?」
「そう! あいつすごいんですよ! 早送りかと思った。ひとりで野菜切って、ひとりで出汁取って、ひとりで煮込んで……あっと言う間に作っちゃって。聞いたらあいつ、調理部だっていうじゃないですか。サングラスかけたら見た目、完全に逃走中のハンターなのに。爆笑しちゃいましたよ」
「そう、なんだ」
 本当に調理部だったのか。しかしまさかあのほたるがそこまで料理が上手かったなんて。
 それはともかく、話を聞く限り、クラスでもなんとかやれているようだ。ほっとしていると、ただ、という不穏な接続詞が聞こえてきた。
「筑前煮食べたやつが『でももう少しタケノコは煮たほうが』とか言ったとたん、あいつ、キレちゃって。『料理のりの字もわかんねえくせにがたがたぬかすな、クソが』って言っちゃって。さすがに全員凍りました」
 ははは、と宮池くんはなんてことない顔で笑っているが、僕のほうはそれどころではなかった。
 ほたる、あいつの本質はまったく変わってない。相変わらず喧嘩っ早いままだ。心配のあまり黙り込むと、部長? と宮池くんが覗き込んできた。
「速水がどうかしたんですか? あいつもしかして、先輩になにかしました? 因縁ふっかけてきたとか」
「ないない。ないよ」
 慌てて首を振る。宮池くんは、そっすか、とあっさりと頷く。必要以上に踏み込まず、ベストなラインで身を引く。宮池くんの長所だ。
 問題はほたるのほうだ。そんなに短気だと、いつか揉め事を起こしてしまうのではないのか。
 もう今は弟分でもないし、気にかけることもないのだが、気になる。
 もやもやしながら部活を終え、皆を見送ってから弓道場の戸締りをする。着替えて外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。梅雨時のじりじりとした湿気が肌にまとわりつく。額を軽くハンカチで拭いたとき、樹さーん、と呼ぶ声が降ってきた。
 見上げると、特別教室棟の一角の窓が開いていて、そこからほたるが手を振っていた。
「お前、なにしてんの」
「またお前って。もう、狂犬だなあ」
 さらっと呼ばれた昔の二つ名に、僕は焦って周囲を見回す。幸いにも人影はない。ほっとしつつ、僕はほたるに向かって顔をしかめてみせた。
「なにしてるんだよ。もう下校時間過ぎてるのに」
「調理部の後片付け。ああ、そうだ。樹さん、ちょっとこっち上がってきてよ」
「はあ?」
 なんで、と言いかけたが、それを待たずにほたるの顔は窓の向こうに引っ込む。勝手なやつだ、と僕はため息をつく。
 しぶしぶ特別教室棟へ向かうが、昇降口は教室棟側にあるから、上履きがない。わざわざ大回りして履き替えるのも面倒くさくて、靴下のままぺたぺたと歩いて家庭科室まで行くと、そこだけ煌々と灯った蛍光灯の白い光が暗い廊下へ長く伸びていた。
「ほたる?」
 がらりと引き戸を開けて顔を出すと、黒いエプロンを身に着けたほたるが振り返った。室内には彼しかいない。
「他の部員は?」
「今日俺、自主練だもん。いないよ」
 さらっと言ってほたるは僕を手招く。座って、と促され、僕は調理台の横にある椅子を引いて座った。
 後片付けがあらかた終わった後だったのか、調理台に乱れはない。磨き上げられたステンレスの銀色を眺めていると、ことん、と音を立ててなにかが目の前に置かれた。
 白い皿の上に載っていたのは、柔らかそうな生地をチョコレートに包まれた細長い……。
「エクレア?」
「そ。上手くできたからさ」
 言いながらほたるが皿を押しやる。
「部活終わりで腹、減ってるでしょ。食べてよ。樹さん」
「いや、でも、お前は? 食べた?」
 見上げると、ほたるは薄い唇をちょっと持ち上げる。
「俺はいいんだって。作ってる間に味見とかいろいろしてるから。ってか」
 つい、と皿がさらにこちらへと押される。
「樹さんに食べてもらえたらなあって思ってたから」
「は……え?」
 言葉が口の中の微妙な位置で止まる。ぽかんとした僕に向かい、ほたるはうっすらと笑う。
「好きじゃん。樹さん、エクレア。中学のとき、コンビニで一緒に買って食べてたよな。俺たち、あんまり金なかったし、半分こしてた」
 言われて一気にあのころの空気が鼻先に蘇った気がした。
 別に自分もほたるも家庭が複雑とか、そういうことじゃない。ただ、なにかが違うとずっと感じていた。学校で普通に笑って、当たり障りなく過ごすには、自分たちは醒めすぎていた。気が合わない同級生から距離を置き、街に居場所を求めてさすらって、なんとなく気が合ったほたると、ときどき一緒に過ごした。行ける場所なんて大してなくて、コンビニの前でたむろしてコーヒーを飲んだり、おにぎりを食べたりしてだらだらと時間を重ねた。
 そんなとき、確かに自分たちはエクレアを食べた。他にもあんまんやみたらし団子、シュークリームやフルーツサンドなど、甘いものを分け合っていた。
「半分、食べる?」
 あのころが懐かしくてそう言うと、ほたるは軽く目を見張ってから、ふるりと首を振った。
「いいよ、ひとりで食べて」
「そ、か」
 変な提案をしてしまった。こそばゆさを覚えながらつやつやと滑らかなエクレアに手を伸ばす。見た目よりしっかりした生地で、持ち上げても崩れない。
「俺、最近知ったんだけどさ、エクレアってフランス語で『稲妻』って意味なんだってさ。稲妻のように早く食べないと零れるからって」
 そう言われたとたん、ぽたり、とクリームが皿に落ちた。う、と呻く僕のことを、ほたるはくっくっと笑いながら、僕の横の椅子を引いて腰を下ろした。
「美味い?」
「美味いよ。お前、すごいんだね。こんなの作れちゃうんだから」
 稲妻のように早く食べることなんてできるのだろうか。四苦八苦してしまったけれど、苦労が苦労だと思わないくらい、ほたるの作ったエクレアは美味い。
 生地は市販のものより少し硬いが、その分、さっくりしていて歯ざわりがいい。中のクリームもカスタードと生クリームが絶妙なバランスで収まっている。生地を覆うチョコレートは少し苦味があって、クリームの甘さをいい具合に引き立てている。
 すごいなあ、ともう一度呟いたとき、つい、と頬になにかが触れた。
 目を上げると、ほたるが困ったような顔をしながらティッシュを僕の頬に押しつけていた。
「樹さん、顔、チョコついてる」
「ああ、ごめん」
 やっぱりこれを稲妻のように食べるなんて不可能に近い。照れながらティッシュで口許を拭うと、違う、とほたるに呆れた顔をされた。
「そこじゃない」
「は? え、ここ?」
「違うって。もう」
 ため息と共にティッシュが奪われる。目元近くをぐいぐいと拭かれ、つい苦笑いが漏れた。
「そんなとこ汚れてる?」
「汚れてる。普通ここまで汚さないって。まったくさあ。樹さんって大人みたいな顔するくせに、エクレア食べてるときはほんっと子ども丸出しだよな」
「悪かったな」
 さすがに照れ臭い。顔を背けると、ほたるは軽いため息をついてから声の調子を変えた。
「樹さんって家も引っ越したの?」
「あ、いや。家は変わってない」
「そっか」
 頷いてほたるは立ち上がる。ばたばたと戸締りをする彼を目で追っていると、ふいっとほたるが振り向いた。
「だったら最寄り駅、同じだよな。一緒に帰ろ」
「いいよ」
 僕の住む街はここから電車で四十分以上かかる。ほたるも同じ場所から通ってきているのか、と驚きつつ頷く。
 戸締りを終えたほたると共に廊下に出ると、床の冷たさが靴下越しにじんと沁みた。もうすぐ夏が来るのに、夜の学校は冷えている。
 そそくさと歩き始めたとき、ちょい待ち、と腕を引かれた。
「これ、履けよ」
 ぽいぽい、とほたるが上履きを脱いで僕の前に置く。は? と首を傾げた僕に、ほたるは苦い顔をしてみせた。
「あんたさあ、ずぼらにも程があるよ。画鋲とか落ちてたらどうすんだよ。怪我するだろ」
「それはほたるも同じだろ。いいよ。下まですぐだし」
「いいから履けってば。俺が呼んだせいで、樹さんが怪我したら嫌なんだよ」
 ほたるは頑固だ。それは中学時代もそうだった。多分、いくら固辞したところでほたるは聞かないだろうし、僕が履こうが履くまいが、お構いなしにどんどん歩いていってしまうだろう。
「じゃあ、わかった。半分こにしよう」
 はあ? とほたるが目を眇める。僕は片方を履き、片方をほたるの前にちょい、と蹴り返した。
「ありがと。片方だけでもあると違う」
 笑って歩き出す。昔は僕のほうが背も高く、足のサイズも大きかった覚えがあるけれど、今は普通に歩いても靴の踵部分が笑ってしまうくらい、ほたるのほうが足が大きい。
 ちょっと悔しいな、と思いつつ、数歩進む。
 が、なぜかほたるがついてこない。どうした? と振り向いた僕の前で、ほたるは困惑したように足元を眺めている。
「ほたる?」
「樹さん、さ」
 僕の呼びかけとほたるが僕の名前を呼ぶ声が重なった。なに? と問うと、ゆるゆるとほたるの顔が上がった。やけにまっすぐな目がこちらに向けられる。
「付き合ってる人、いる?」
 絶句した。
 ほたるが僕にしてくるとは思えない質問だったことに、面食らったから。
 でも、それ以上に、あまりにも真剣すぎるほたるの顔を見たら、言葉が出なくなってしまった。
 一度、小さく息を吸い込む。そうして、そっと吐く。
「ええと、いないけど。なに?」
「じゃあ、好きな人は?」
「……いない、けど」
 そう僕が言うや否や、ほたるが顔を俯けた。僕よりも広い肩が吐息によって大きく波打つのがわかった。
「……そっかあ」
「ほたる?」
 呼びかけるが、姿勢は変わらない。かぽかぽ、と音を立てながら彼の前に戻ると、ようやくほたるは顔を上げた。
「そしたら、さ。俺、お願いがある。樹さんに」
「お願い?」
 随分可愛い言い方だ。くすっと笑ってしまった僕に、ほたるはちょっとむっとした顔をしてからぼそぼそと言った。
「他のやつとさ、半分こは、しないでほしい」
「はあ? え、なに? どういうこと?」
「昔からさ、俺とは半分こしてきたじゃん。エクレアもシュークリームもあんまんも……今は靴も、さ」
「ああ」
 頷く僕の前でほたるは呼吸を整える。大きな手がきゅっと鞄の肩ひもを握りしめているのが見えた。
「これからも、なにかを半分にするときは、俺としてほしい」
「ええっと……」
 どういう意味なのだろう。ほたるが説明してくれるのを待ったが、彼はそれ以上口を開かない。ただ、挑むように僕を見つめてくるばかりだ。
「まあ、いいよ」
 一体なんなんだ、と思いつつも頷いたとたんだった。
 ぱっとほたるの顔に笑みが広がった。眩しいくらい鮮やかなその笑みは、再会してから一度も見たことがないもので、度肝を抜かれた。
 こいつのこんな顔を見たのは、いつ以来だろう。
 思い出そうとしたけれど、わからなかった。
「遅くなっちゃったな。樹さん、行こ。急がないと電車、乗り遅れる」
 けれど、笑顔は一瞬で、元通りの淡々とした表情に戻ったほたるが僕を急かす。
 遠ざかっていく背中を見ながら僕は思う。
 こいつ、さっきみたいな顔、もっとすればいいのにな、と。
 僕の足元ではほたるの上履きだけが、かぽかぽ、と笑っている。
 エクレアをごちそうになって以来、ほたるは時々、部活帰りの僕を家庭科室に誘うようになった。
「え! 夏休みも部活なの。樹さん」
 各種スイーツを食べさせてもらった後に、ほたると並んで電車に揺られることにもすっかり慣れた。
「ああ、うん。八月の初めに大会があってさ。それの調整もあるし」
「大会? え、この間、県大会優勝してた……って、全国⁉」
 電車の中なのに声がでかい。僕は隣に立つほたるの脇腹を肘で突いて黙らせてから、小声で言った。
「そうだけど。まあ、全国ではそうもいかないよ。予選通過も多分無理」
「あれだけ練習してるのに?」
 納得がいかない、とその顔が言っている。思わず笑ってしまいながら、僕は肩をすくめた。
「勝ちたいけど、どっちかっていうと僕はさ、完璧な射形を見つけることが目標だから」
「しゃけい?」
「射るときの姿」
 混んだ車内では大きくアクションはできないけれど、両手で少しだけ弓を引き絞る動作をしてみせると、ほたるが細かく頷いた。
「確かに樹さんの弓持ってる恰好はかっこいいと思った」
「見たこと、あったっけ?」
 弓道場にほたるは今もお菓子を差し入れてくれているが、誰にも姿を見られぬようこっそりと靴箱の上に置いていくのは相変わらずで、部活中に彼が弓道場にいたことはない。
 ほたるはちょっと迷うように目を彷徨わせてから、投げ捨てるように言った。
「見た。中学のとき。何度か」
「え、うそ」
「だって。樹さん、突然、コンビニにも顔、出さなくなったじゃん」
 ほたるの拗ねたような口ぶりに、僕は声を失う。
 確かにそうだった。あのころ、家にも満足に帰ってこない僕のことを、両親は随分気に病んでいた。ごくごく普通の家で、特別虐げられて育ったわけでもない。しいて言うならふたつ年上の兄が優秀過ぎたことくらいだろうか。勝手にいじけて、勝手に閉じて、学校にも馴染めなくて。そんな黒雲が折り重なったような心に手を焼いていた僕を、両親は叔母の家へと連れて行った。
 叔母は、弓道の師範として教室を営んでいた。
 正直、弓道なんて意味がわからないと思った。こんな前時代的な武具、使う機会もなく、意識高い系のおすまし野郎の自意識を満足させるだけの、つまんない玩具だとすら思っていた。はっきりと叔母にそう言いさえした。
 にもかかわらず、無理やり取り組まされた弓道に僕は、はまった。
 誰かに左右されず、自分だけで、技をひたすらに磨く。その弓道独特の世界に僕は虜になった。
 弓を引けば引くほど、自分の中に立ち込めていた靄が晴れていく気がした。
 鬱屈した思いに取りつかれ、闇雲に人を傷つけてきた自分を恥じもした。
 だから、学校にはほぼ行かなかったが、叔母の家にだけは毎日通った。
 結果、これまでうろついていた街からも、ほたると並んで時間を潰していたコンビニからも、足は遠のいた。
「めちゃくちゃショックだったんだ。樹さん、来なくなっちゃって。でも樹さんと同じ中学のやつが樹さん、今、弓道してるって教えてくれて。俺、こっそり覗きに行っちゃったんだ。そんなんやめて俺とまた遊ぼうぜって言いたくて。でも」
 ほたるの目がすっと車外へと向けられる。黒く沈んだ窓ガラスの向こう、ぽつりぽつりと灯る民家の明かりが、星のように流れていく。
「見てたら、連れ戻そうなんて気、なくなっちゃったよ。だって樹さん、びっくりするくらい真剣なんだもん。あんな目、できるんだなあって思ったらなんていうか、すげえ応援したくなって」
「そう、なんだ」
 まったく気付いていなかった。ごめん、と言いかけた僕をほたるが見下ろす。そのとき、電車が大きく揺れた。少しふらついた僕の肘を、ほたるの手がくい、と掴んで支える。
「樹さん、弓道、出会えてよかったね。本当に、よかった」
 低い声に言われて、胸がぐっと押された気がした。
 と同時に、訊きたくなった。
 お前はなんで、僕と同じ高校へ通おうと思ったんだ? と。
 訊こうと思えば訊ける。けれど、あの日から引っかかっているのだ。
――付き合ってる人、いる?
 ほたるが僕に向かって投げかけた問いがずっと。
 付き合ってる人。
 ほたるはなんであんなことを訊いてきたのだろう。
 中学時代、並んで夜を明かした。コンビニでアイスを半分にして食べた。どうでもいい話をして笑って、時間が経つのをじっとふたりで待った。
 あそこにあったのだろうか。答えがなにか。
 返事を求めるように見返すと、ほたるが長い首をふっと傾げる。
「樹さん? どした?」
「……いや、なんでもない」
 首を振る僕をほたるはしばらく眺めてから、再び車窓に目を向けて言った。
「今日さ、家庭科室の冷蔵庫にプリン仕込んできたんだ。明日にはできるから、部活終わったら家庭科室来てよ、樹さん」
 プリンがあるから帰りに寄ってくれ、と昨夜ほたるは言っていた。
 ほたるが作ったプリンだ。さぞかし美味いだろう。
 それは楽しみではあるのだ。あるのだが、昨日、電車で会話をして以来、なにかが引っかかって集中できない。
「部長、調子悪そうですねえ」
 弓道場を出て、気分転換にランニングをしていると、後ろから追いついてきた宮池くんに声をかけられた。
「そう見える?」
 グラウンド脇のベンチに腰を下した僕の横に、宮池くんも座る。
「見えますね。前、部長言ってたけど、射形には心が表れてしまうっていうの、あれ、本当なんだなあと、今日の部長見て、初めてわかりました」
「初めて……」
 宮池くんが弓道部に入って三か月以上になる。熱心に指導してきたのに、今になって初めてと言われるのは複雑だ。
 けれど問題はもちろん、彼の成長速度がどうこうではなく、彼から見てもはっきりわかるほど、自分が的に集中できていないということだ。
 そんなに思い悩むことではないのだ。昔の話をした、ほたるが応援してくれていた、それが事実のすべてだ。
 にもかかわらず、妙に気にかかるのはなんでだろう。
 ホイッスルの音と共にグラウンドに散っていた陸上部らしき生徒たちがさああっと集まっていく。あんなふうに音ひとつで切り換えられたらいいのに、とぼんやり思っていると、目の前にぬっとなにかが突き出された。と同時に、ふわっと人工的な甘い香りが鼻をくすぐった。
「なに?」
「残り、あげまふ」
 赤いパッケージに包まれたチョコレート菓子だった。中央で折って食べられるタイプのもので、折られた半分はすでに宮池くんの口の端からぶら下がっていた。
「どしたの、これ」
「今日、同じクラスの子にもらったんですけど、忘れてて。おすそわけ。良かったらどーぞ」
「はあ……」
 今日は三十度を超える暑さだ。少し溶けているのが目で見てもわかる。どうしようかな、と思ったけれど、無邪気に差し出してくる宮池くんを見ていたら断るのも憚られた。
 心配してくれているようなのだから。
「ありがとう」
 礼を言い、チョコレートを受け取る。頬張ると、甘ったるさで口が粘ついた。
「甘いね」
「まあ、チョコですからねえ」
 のんびりと宮池くんが言う。あまりにも当たり前のことを当たり前に言うので、少し笑ってしまった。この素直さを見習って、気になることは臆せず訊けばいいのだろうか。
 けれど。
――付き合ってる人、いる?
「樹さん」
 脳内に過った声と、リアルの声が重なる。はっとして現実に意識を戻して振り向くと、つられたように宮池くんもそちらを見た。
 視線の先に、ほたるがいた。
 通学鞄を肩に負い、佇んでいる。ああ、と手を上げようとした僕を、ほたるはまじまじと見ている。
「ほたる?」
 呼びかけてベンチから腰を上げたのと同時だった。ほたるの顔が歪んだ。そのままくるりと背中を向けて歩き出す。
 大股で歩み去っていくほたるを、僕はぽかんとして見送った。
 ほたるは表情が少ない。笑顔を見せることはあるけれど、すべての表情がどこか淡い。
 ただ、そんな温度の低い表情しか見せないほたるではあっても、今過ったものがどんな感情によるものなのかは、僕にも想像がついた。
 あれは、怒っている顔だ。
「部長、速水とやっぱり知り合いなんですか? え、部長? ちょっと!」
 宮池くんがなにかを言っていたけれど、構わず僕は走り出した。
「ほたる! ほたるって!」
 走って追いかけるが、ほたるは止まらない。早足だったはずが、いつの間にか全力で僕を突き放しにかかっている。
「おい! こら! なんなんだよ! はっきり言えって! 止まれ、この野郎!」
 普段の僕なら絶対にない口の悪さで呼び止めると、肩越しに振り返ったほたるが応酬してきた。
「狂犬出てるけど! 樹さん、いいの?!」
「うるせえよ! だったら止まれってんだよ! クソが!」
「止まってやるかよ! バーカ!」
 馬鹿だと。
 かっとなって足を早める僕から顔を背け、ほたるが吠えた。
「俺がなんで怒ってるか、自分の胸に手当ててよく考えてみろよ!」
「は……?!」
 とっさに立ち止まる。数メートル先でほたるも足を止めた。
 肩を上下させ、ほたるは腰を折る。
「約束、したのに」
 切れ切れの息の間に声が落ちた。
「他のやつとはしないって、約束したのに!」
――他のやつとさ、半分こは、しないでほしい。
 甘さがじりりと口の中を刺す。蘇ったほたるの声に息を呑む僕を、ばっとほたるが振り返った。
「いっつもそうだよ。樹さんはいっつも俺のこと見てない。気にしてない。中学のときもそうだよ。突然、いなくなって。なかったことみたいに全部封じ込めて。でも、俺は、俺はさ!」
 声が跳ね上がる。蝉の声に喧嘩を売るように、ほたるは叫んだ。
「樹さんと一緒にいる時間、すごく……大事に思ってるのに!」
 ほたる、と呼びかけたかった。けれど、僕に名前を呼ばれる前に、ほたるは走り去った。もう後ろを振り向くことなく全力で。
「あいつ、相変わらず、足はや……」
 どんどん遠ざかる彼を見送りながら僕は呟く。苦笑いが出るかと思った。でも、笑えなかった。
 お前のせいだと言わんばかりに降ってくる蝉の声が、痛かった。
「木曜日の差し入れ、今日も来ないねえ」
 靴箱の上を確かめた畑中さんが、寂しそうに肩を落とす。
「ね〜。どうしたんだろうね。毎週来てたのに。休みなのかなあ。それとも、飽きちゃったのかなあ……」
「ちょ、琴子、飽きたとか、そんな言い方……」
 呟いた永井さんの腕を、谷本さんが肘で小突く。すみません、と言いたげに頭を下げられ、僕は曖昧に笑い返す。
 飽きたかどうかは知らないが、絶対に許す気がないのは確かだ。
 あれから二週間、ほたるは僕に近づいてこなくなった。声もかけてこないし、目も合わせない。こちらが近づこうとしても、足早に逃げていく。
 完全に嫌われたと言っていいのかもしれない。
 そう思うたび、なんでだか胸が疼く。
――樹さんに食べてもらえたらなあって思ってたから。
 そっぽを向きながら、口許だけでうっすらと微笑むほたる。
――大人みたいな顔するくせに、エクレア食べてるときはほんっと子ども丸出しだよな。
 心底呆れたという声を出すくせに、細められた目元。
――樹さんと一緒にいる時間、すごく……大事に思ってるのに!
 絞り出された叫び。
 謝りたいのに、どう言っていいかもわからなくて、時間ばかりが過ぎてしまう。
 練習にも、全然身が入らない。
「今日も調子、悪いですか? 無理しないほうがいいですよ」
 宮池くんが僕を覗き込む。この子は相変わらず周りの空気に鈍感だ。なくなった木曜日の差し入れのことにも触れないし、あの日、僕がほたるを追いかけていったことにも言及してこない。
 ただ、この日は少し違った。
「部長、ちょっと訊いていいですか」
 部活終わり、着替えていたときだった。改まった声で宮池くんが声をかけてきた。
「どうかした?」
「うーんと……」
 自分で話しかけてきたくせに、言い淀んでいる。辛抱強く言葉を待っていると、ちょっと、と言って宮池くんがスマホを取り出した。
「部長って、これ、知ってます?」
 表示されていたのは、とあるSNSツールのトーク画面だった。『菊塚高校のみんな、集まれ!』とトップに文字が見える。
「これ、うちの学校の生徒同士で作ってるグループなんです。お互い招待しあってどんどん拡がってる、まあ、非公式の」
「そうなんだ。ごめん、やってないや」
 スマホは持っているが、SNSは苦手だ。いろんな情報が流れて来過ぎて、いちいち処理するのもかったるいから。
 とはいえ、もちろん使っているかもしれない宮池くんを前にしてそうは言えず、首を振るに留める。宮池くんは、ですよね、と呟いてから画面をスクロールさせた。
「ここで最近、ちょっと噂になってることがあるんです」
「噂?」
「元星名中学の狂犬が紛れ込んでいるらしい。気をつけろ」
 さらさらっと読み上げられた文言に、体が強張った。
 星名中学。
 狂犬。
「個人を特定できるものなんてないんで、誰が書いたのかもわかんないんですけどね。その後もぽろぽろそいつから書き込みがあって、狂犬っていうのが伝説のヤンキーで、めちゃくちゃ喧嘩が強くて星名中学の辺り一帯を牛耳っていたらしいとか、とにかくキレると手がつけられない要注意人物って話とかまあ、いろいろ」
「……それで?」
 宮池くんはなにが言いたいのだろう。狂犬が僕だと勘づいて、先輩が狂犬ですか? とでも訊きたいのだろうか。
 せっかく平穏に弓道部の部長を続けてこられたというのに、まさか後輩に知られてしまうとは。
 だが、ばれてしまったのなら……仕方ない。
「宮池くん、驚いただろうけど、それ……」
「部長って速水と仲いいんですよね?」
 遮られ、言葉が変な形で止まる。口を半分開けたまま、ああ、まあ、と頷く。
「地元は同じだけど」
「じゃあ、知ってますよね。この狂犬が速水だっていうの、本当ですか?」
「は?!」
 今、なんて言った?
 唖然とした僕を宮池くんは凝視したまま黙っている。どうやら冗談で言ったわけではなさそうだった。
「それ、え、なんで、そんな」
「最初、星名中学なんて、この辺りじゃ聞いたこともない名前だし、どこだよってなってたんですよ。けど、伝説のなんて名前のつくヤンキーなんてどんなやつなのか興味あるってだんだん盛り上がってきちゃって。こう、言い方悪いですけど、懸賞首探すみたいなノリで。そしたら」
 言いつつ、宮池くんはするするとスマホを操作する。ずいと突き出された画面を見て僕は固まった。
『狂犬は俺だ。文句があるやつは俺のところまで来い。全員相手してやる。一年A組速水ほたる』
「これ……」
「本人の書き込みかどうかまではこれだけだとわかんないです。けど、直接、速水に訊いたやつが何人かいたらしいです。本当に狂犬はお前かって。そしたらあいつ、『そうだ。でもこれ以上がたがた抜かしたら、その鼻へし折るけどいいか』ってすごんだとかなんとか」
 あいつはなにを言っているのだ。
 額を押さえた僕の顔を、宮池くんが探るように見つめている気配を感じる。
 その彼に向かい、僕は低い声で訊ねた。
「それで? 君はなにを知りたいの。真実をみんなに言って回って、情報通でも気取りたいの」
 自分でもこれほど冷たい声が出るとは思っていなかった。内心驚きながらも出てしまった声は止められない。宮池くんもさぞや驚いただろうが、取り繕う気はまるで起きなかった。
「知って君はなにをするの?」
「先輩と同じです」
 すぱっと言われ、張りつめていた怒りの糸がわずかに緩む。え、と目を上げると、宮池くんはスマホをつらつらと眺めていた。
「速水、この件で今、結構叩かれてるんです。裏で」
 言いつつ、宮池くんは再びぐい、と僕の前にスマホを突き出した。
『狂犬とか呼ばれていい気になってるとこ、ウケる』
『時代錯誤も甚だしいってこういうやつに言うんじゃね? オワコン』
『うち進学校じゃん。こういうのいるのってどうなの? 価値下がる』
『事件起こす前にどうにかしてもらったほうがいいですよね、せんせー!』
 そこまで読んで、見る気が失せた。片手でスマホを押し戻すと、宮池くんは画面を一瞥した後、スマホを鞄に滑り込ませ、ため息をついた。
「俺、別に速水と仲がいいわけでもないし、お節介なのはわかってるんです。でもこういうのは気分悪い。みんなで寄ってたかって陰で叩くのは、あまりにも卑怯です」
 きっぱりとした口調に少し驚いた。普段の彼はおっとりとしていて、あまりはっきりものを言うタイプではなかったから。
 僕の驚きをよそに、宮池くんは苦い顔で、でも、と続けた。
「速水も悪いと思うんです。挑発的な態度を取って周りを刺激するのはよくない。別に過去がどうとか、俺はどうでもいいけど、そういう態度取っちゃってるのは今だから。もともと速水って友達少ないし、こんなことになったらますます孤立してしまう。そういうの、なんか俺、嫌なんです」
「宮池くんて……」
 ぽろっと言葉が落ちる。え? とこちらを見た彼に、僕は思わず笑いかけてしまった。
「いい子だね」
「……馬鹿にしてるんですか」
「あ、いや、そういうことではないけど、なんか」
 うれしい、と言いかけて口を噤み、気を取り直すように咳払いする。
「で、その話、僕にしたのはなんで?」
「速水、学校だと完全にシールド作っててまったく相手にしてくれないから。部長、速水の知り合いっぽいし、少しは話聞くかな〜って。すみません、勝手なことを」
「いや、むしろ、話してくれて助かった」
 言いつつ、僕は鞄を手に取る。からり、と更衣室の引き戸を開け、宮池くんを振り返る。
「ほたるのとこ行ってくるから。悪いけど今日、戸締り頼める?」
「お願いします」
 こくん、と頷く宮池くんに微笑んで扉を閉めると、僕は走り出した。
 あそこにいてくれるといいな、と思いつつ。
 特別教室棟を見上げると、家庭科室にはまだ明かりが見えた。誰かいるらしい。
 昇降口に回るのが面倒で、またも靴下のまま階段を駆け上がる。下校時刻を迎えた校舎は静まり返っていて、靴下履きの自分の足音さえ、鮮明に響いた。
 家庭科室があるのは最上階の一番奥。しかし、近づいても人の声は聞こえない。
 電気を点けっぱなしで帰ってしまっていたりしないよな、と不安になりつつ引き戸を開けると、中にいた人物が億劫そうに振り返った。
 黒いエプロンをしたほたるだった。
 彼はわずかに唇を開いてこちらを見つめてから、くるっと後ろを向く。そのまま何事もなかったかのように調理台を片付け始める彼に、さすがにいらっとした。
「幽霊見えたけど見えてるとばれたら祟られるみたいな顔、やめろ」
 室内へ踏み入りながら言うが、ほたるは背中を向けたままだ。手も止めない。
 本気で幽霊扱いか。
 だが、幽霊だって実力行使することもあるのだ。
 流し台でボウルを洗っている彼の横に並び、容赦なく水を止めると、ほたるの顔が歪んだ。
「そっちこそ、ガチで幽霊みたいな真似、やめろよ」
「ほー? 幽霊見えてるんだねえ、ほたるくん。それならお話しようか」
 腕組みをして睨んだ僕の横で、ほたるが長い長い息を吐く。エプロンでぞんざいに手を拭き、調理台にだらしなく体重を預けた彼は、面倒臭そうにこちらを睨んだ。
「なに。あんたと話すことないんだけど」
「こっちはあるんだよ。勝手に自己完結すんな。タコが」
「……樹さん、口、どうしたの。タイム風呂敷で口だけ過去に戻ったかなんか?」
 気だるげに言われますます苛立つ。
 放っておくと荒っぽい声が際限なく出てしまいそうだけれど、そこで僕は自分にブレーキをかける。
 僕はこいつと喧嘩したくてここに来たわけじゃない。
「まず、いくつか話したい案件がある」
「案件って。ビジネスかよ」
「うるさい。黙れ。まず、一つ目」
 ようやく耳を傾ける気になったらしいほたるにほっとしつつ、僕はがばりと頭を下げた。
「え、なに」
 戸惑ったような声が頭の上からする。だがそれに構わず、僕は頭を下げ続けた。
「謝らないと駄目って思ってた。ごめん、ほたる」
「なにが?」
「約束破って、宮池くんとチョコレートを食べた。ごめん」
「は……」
――他のやつとさ、半分こは、しないでほしい。
 正直、ほたるのこの言葉を僕はそれほど重く受け止めてはいなかった。よくわからないけれどまあいいか、と軽い気持ちで頷いてしまった。
 だが、言葉とはそんなに適当に扱っていいはずがなかったのだ。
「傷つけて、ごめん」
 ほたるは黙っている。それでも頭を下げたままでいると、ほたるの口からふううっとため息が漏れた。
「案件、他にもあんの?」
「ある」
「聞くから。頭、上げて」
 促され、そろそろと姿勢を戻すと、ほたるは困ったように僕から目を逸らす。相変わらずのだらしない立ち姿のまま彼は、で、なに、と言った。
「狂犬のこと」
 ほたるの横顔がはっきりと引き攣った。その顔を僕は視線に力を込めて見上げる。
「どうして自分が狂犬だなんて名乗った?」
「なんのことだか」
「しらばっくれるな。俺に嘘は通用しない」
「俺って。樹さん、完全に狂犬……」
「茶化すな」
 ぴしゃりと言い、僕は手を伸ばす。ぐい、と彼の腕を掴むと、手の中でほたるの腕が震えた。
「なんでそんな嘘つく? そのせいでお前、ひどいこと言われてるって聞いた。なんでそんなことする? お前は狂犬じゃない。狂犬って言われてたのは……」
「樹さんはもう、狂犬じゃないじゃん」
 ばっとこちらを向き、ほたるが吠えた。気を呑まれ言葉を途切れさせると、ほたるは片手でぐしゃりと自身の前髪を掴んだ。
「もういいだろ。狂犬の称号なんて俺に預けとけよ」
「称号って! 今となったら汚名だよ。そんなもの……」
「だったら! なおのこと、あんたが背負っちゃ駄目だろ!」
 怒鳴られ、背中を反らす。樹ははあっと息を吐き言った。掠れた声だった。
「せっかくさ、弓道頑張って、全国まで行くんだよ。毎日毎日、ひたすら弓持って……。そのあんたの努力を、過去のやんちゃしてた時代のせいでいろいろ言われるの、駄目だろ」
「ちょ、は? 待って。それ」
 全国に行くから?
 僕が?
 頭がぐるぐるする。混乱し、目を見開く僕の前で、ほたるが髪から手を解く。
「わかってよ、樹さん」
 ほたるの声が、揺れた。
「俺はさ、樹さんが頑張れなくなるの、嫌なんだよ。なんも知らないやつらに、好きな人が踏みつけられるなんて、絶対許せないんだ」
 薄い唇が苦しげに歪むのを、僕は見つめることしかできない。
「そうさせないためなら、俺はなんでもする」
 声が、出ない。
 ほたるの腕を掴んでいた手から、力が、抜ける。
 その僕を、ほたるの目がゆらり、と捉える。彼は細めた目で僕をしばらく見つめてから、ああ、そうだ、と呟き、通学鞄が置かれている棚へと向かった。
 鞄を探ってそこから出した小袋を手に戻ってきたほたるは、それを僕の前に突き出す。
「クッキー、焼いたから。あげる」
 ブリザードを連想させるほたるの見た目とはそぐわない、桜模様の紙袋に入ったそれを、僕は声もなく、瞬きすらできずに見つめる。数秒そのままでいると、手がそろそろと伸びてきた。遠慮がちな手によって、手が掴まれる。
 開かされた掌に、すとん、と紙袋が置かれた。
 袋越し、ほわりと熱が掌に伝わってくる。
 はっとして見上げた僕の前で、ほたるは薄く……笑った。
「もう、ここには来ないで。俺に関わっちゃ、駄目だ」
 言葉と共に手が引かれる。そのとたん、弾かれたように体が動いた。
「アホか! そんなことできるか!」
 掌の中の袋を両手で握り、僕は叫ぶ。だが、ほたるはこちらを見ずに言い捨てた。
「できなくても、俺はもう樹さんとは口を利かない」
「そんなの……!」
 怒鳴る僕を無視し、ほたるは再び、調理台の片付けを始めた。その間、いくら声をかけても一切返事をせず、彼がようやく口を開いたのはすべての作業が終わった後。
「帰るから出て」
だけだった。
 中学時代、ほたるとこんな会話をしたことがある。
「俺、学校行くの嫌になっちゃったの、自転車のせいなんですよね」
 いつも通りコンビニの前でアイスをふたりで食べているときだった。不意にほたるが言い出した。
「樹さんは自転車、乗れる?」
「乗れるけど。え、お前、乗れないの?」
 言うと、そうなんすよ、とほたるは肩をすくめた。
「自転車練習するきっかけって、自分からじゃないじゃん? 親が教えようって思うか、友だち同士で乗ろうって話になるか、まあ、そんな感じで。樹さんはどうだった?」
「俺は……」
 確か、教えてくれたのは兄だ。ふたつ年上の兄に教えられて乗れるようになった。自転車くらい乗れないと後々大変だぞ、仲間外れにされるぞ、と脅されて。
 ただ当時、出来がよすぎる兄と僕の関係は芳しくなくて、感謝の気持ちは微塵も湧いてこなかった。
 ほたるは僕の微妙な顔に気付く由もなく、淡々と語っていた。
「俺、結局誰にも教えてもらえないまま中学入って。ただ俺の家、学区の端っこで自転車じゃないと毎日きつい感じの場所で。でも俺、乗れないじゃないですか。今更、学校行くために練習するのも腹立つし。で」
 学校行かなくなっちゃった。
 とにっこり笑ったほたるに、当時の僕は爆笑した。
 お前、そんな理由で行くのやめちゃったのかよ、と。
 でも今は、あのとき笑ったことを後悔している。
 明るい口ぶりで言いながらも、ほたるはどことなく寂しそうだったから。
 ほたるにもちゃんと両親はいる。ただ、どちらも共働きで帰宅は遅い。ほたるが小学生のころからふらふらと街を徘徊していたことにも、気付いてすらいないようだった。
 そのことを……ほたるは自転車のことで言おうと思ったのかもしれない。
 そして、そんなほたるにとって、僕と過ごす時間は、僕が思う以上に大事なものであったのかもしれない。
 なのに、僕はほたるを置き去りにした。
 「狂犬」と呼ばれた過去が嫌で、それを払拭したいがためだけに、全部なかったことにしようとした。
 その僕を、ほたるは庇った。
――あんたの努力を、過去のやんちゃしてた時代のせいでいろいろ言われるの、駄目だろ。
 ほたるの声が、耳からずっと離れない。
 あの日受け取ったクッキーの味も、ずっと忘れられない。
 甘くて、優しくて。舌を包むさくり、とした感触に労りが見えて。
 食べながら、涙が止まらなかった。
 あれ以来、ほたるは完全に僕の前から姿を消した。調理部にも何度か顔を出したけれど、部活にも出ていないようだった。
 速水くんの作るお菓子、すっごく美味しいし、楽しみだったのに、と調理部の部長は言い、同調するように部員も頷いていた。
 狂犬のことを知っているのかどうかまではわからないけれど、少なくともここではほたるは大事にされていたのだと思えて、心底ほっとした。
 ただ、SNSでは相変わらず狂犬の噂はされているようで、教室でもほたるは遠巻きにされている、と宮池くんが教えてくれた。
「話しかけるんですけどね。速水自身がこう、話しかけるなオーラすごくて」
 このままではいけない。
 何度もそう思って、休憩時間のたびに教室を覗いた。しかし、ほたるを捕まえることはできなかった。
――俺はもう樹さんとは口を利かない。
 あれは、やはり本気なのだ。
 本気で、ほたるはもうこちらを見ないつもりでいる。
 いいや、そうじゃない。彼は、完全に僕の目の前から消えようとしている。