「結局のところ、これ、ほんと誰からのプレゼントなんでしょうねえ」
今日はかりんとうだ。部活終わり、届いたかりんとうをぽりぽりと咀嚼しながら永井さんが言う。
たぬき色にこんがり揚がったかりんとうは、見るからに美味そうだ。
こんなの自分で作れるのか、と驚きながら僕もつまむ。さつまいもでできているらしいそれは、胡麻が利いていて、香ばしい味わいがくせになりそうな美味さだった。部活の後で空腹に泣く腹も、しっかり慰めてくれる。
「なんていうかこれ、店で出せるレベルじゃないですか。けどそこはかとなく手作り感も残してて。にくいなあ」
「どんな子なんだろうね。部長、心当たりないんですか?」
「あー……ない、なあ」
言えない。
いや、言ってもいいのだろう。
これを作ったのは速水ほたるだと教えてやっても問題はないのだろう。
だが、そこで躊躇する。
彼は、僕の、後輩だ。
もっとしゃちほこばった言い方をするならば……舎弟というやつになるのだろう。
弓道部で、しゃてい、と言ったら「射程」に変換されるべきだろうか。だが残念ながらそっちじゃない。「舎弟」だ。
あのころの僕は荒れていた。学校なんて当然行ってなかったし、喧嘩上等だったし、僕と同じように行き場のない数人とつるんでいきがって、人間全部を敵視して、肩を怒らせて歩いていた。腕っぷしが強かったせいもあって、気が付いたら狂犬なんてあだ名までついていた。
当時の僕はそれがかっこいいことだと思っていて、弟分のほたるにも、売られた喧嘩は受けて立て! それが漢だ! とか言っていた。
思い出すと、ちょっと、その、恥ずかしい。
しかしそのほたるとも、僕が中学三年になったところで疎遠になってしまい、三年経った今、再会してもお互い変わり過ぎていて、誰? となってもおかしくない状態なのだ。
にもかかわらず、彼はなぜか毎週菓子を作って持ってくる。
狂犬の面影を完全に失った僕に、その僕の舎弟をしていたほたるが、手作りの菓子を!
おかしすぎるだろう、この状況。
そもそも、あいつはちゃんと高校生をやれているのだろうか。樹さん、マジ学校なんて行く意味ないっすね! 喧嘩強ければ生きてける! とか真面目な顔で言っていたあいつが。
「宮池くんてさ……速水ほたるって、知ってる?」
僕の隣でかりんとうを貪り食っていた宮池くん(気味悪いとまで言っていたくせに、一度口にしてからほたるからの差し入れに夢中だ)に訊ねると、宮池くんは口をむぐむぐさせながら目だけをくりっと僕に向けてきた。
「はひゃみ? 知ってまふよ」
「宮池くん! 汚い! ちゃんと飲み込んでからしゃべる!」
宮池くんの隣に座っていた畑中さんが眉を顰める。すんません、と頭を下げ、宮池くんはぐびぐびと手持ちのペットボトルからお茶を飲み、口の中のかりんとうを流し込んだ。
「同じクラスなんで」
「どんな、感じ?」
「どんな?」
宮池くんが首を傾げる。変な訊き方をしてしまったなあ、と後悔している僕に、彼は宙を睨みながら答えてくれた。
「めちゃくちゃ無口です。あいつの声、聞いたことないってやつ、クラスに結構いるんじゃないかな」
なんということだ。そんなふうでは友達を作ることもままならないだろう。大丈夫だろうか、と不安になっている僕の耳に、でも、という宮池くんの声が滑り込んできた。
「この間、調理実習あったんです。そのとき、俺、速水と同じ班だったんですけどね。俺の班、確実に料理慣れしてない人間の集まりで『ダークマターができること必至の面子』って周りからからかわれてて。けど! できあがってみたら、他のどの班よりも美味い筑前煮ができてたんです!」
「え、それ、速水くんって子のおかげって話?」
「そう! あいつすごいんですよ! 早送りかと思った。ひとりで野菜切って、ひとりで出汁取って、ひとりで煮込んで……あっと言う間に作っちゃって。聞いたらあいつ、調理部だっていうじゃないですか。サングラスかけたら見た目、完全に逃走中のハンターなのに。爆笑しちゃいましたよ」
「そう、なんだ」
本当に調理部だったのか。しかしまさかあのほたるがそこまで料理が上手かったなんて。
それはともかく、話を聞く限り、クラスでもなんとかやれているようだ。ほっとしていると、ただ、という不穏な接続詞が聞こえてきた。
「筑前煮食べたやつが『でももう少しタケノコは煮たほうが』とか言ったとたん、あいつ、キレちゃって。『料理のりの字もわかんねえくせにがたがたぬかすな、クソが』って言っちゃって。さすがに全員凍りました」
ははは、と宮池くんはなんてことない顔で笑っているが、僕のほうはそれどころではなかった。
ほたる、あいつの本質はまったく変わってない。相変わらず喧嘩っ早いままだ。心配のあまり黙り込むと、部長? と宮池くんが覗き込んできた。
「速水がどうかしたんですか? あいつもしかして、先輩になにかしました? 因縁ふっかけてきたとか」
「ないない。ないよ」
慌てて首を振る。宮池くんは、そっすか、とあっさりと頷く。必要以上に踏み込まず、ベストなラインで身を引く。宮池くんの長所だ。
問題はほたるのほうだ。そんなに短気だと、いつか揉め事を起こしてしまうのではないのか。
もう今は弟分でもないし、気にかけることもないのだが、気になる。
もやもやしながら部活を終え、皆を見送ってから弓道場の戸締りをする。着替えて外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。梅雨時のじりじりとした湿気が肌にまとわりつく。額を軽くハンカチで拭いたとき、樹さーん、と呼ぶ声が降ってきた。
見上げると、特別教室棟の一角の窓が開いていて、そこからほたるが手を振っていた。
「お前、なにしてんの」
「またお前って。もう、狂犬だなあ」
さらっと呼ばれた昔の二つ名に、僕は焦って周囲を見回す。幸いにも人影はない。ほっとしつつ、僕はほたるに向かって顔をしかめてみせた。
「なにしてるんだよ。もう下校時間過ぎてるのに」
「調理部の後片付け。ああ、そうだ。樹さん、ちょっとこっち上がってきてよ」
「はあ?」
なんで、と言いかけたが、それを待たずにほたるの顔は窓の向こうに引っ込む。勝手なやつだ、と僕はため息をつく。
しぶしぶ特別教室棟へ向かうが、昇降口は教室棟側にあるから、上履きがない。わざわざ大回りして履き替えるのも面倒くさくて、靴下のままぺたぺたと歩いて家庭科室まで行くと、そこだけ煌々と灯った蛍光灯の白い光が暗い廊下へ長く伸びていた。
「ほたる?」
がらりと引き戸を開けて顔を出すと、黒いエプロンを身に着けたほたるが振り返った。室内には彼しかいない。
「他の部員は?」
「今日俺、自主練だもん。いないよ」
さらっと言ってほたるは僕を手招く。座って、と促され、僕は調理台の横にある椅子を引いて座った。
後片付けがあらかた終わった後だったのか、調理台に乱れはない。磨き上げられたステンレスの銀色を眺めていると、ことん、と音を立ててなにかが目の前に置かれた。
白い皿の上に載っていたのは、柔らかそうな生地をチョコレートに包まれた細長い……。
「エクレア?」
「そ。上手くできたからさ」
言いながらほたるが皿を押しやる。
「部活終わりで腹、減ってるでしょ。食べてよ。樹さん」
「いや、でも、お前は? 食べた?」
見上げると、ほたるは薄い唇をちょっと持ち上げる。
「俺はいいんだって。作ってる間に味見とかいろいろしてるから。ってか」
つい、と皿がさらにこちらへと押される。
「樹さんに食べてもらえたらなあって思ってたから」
「は……え?」
言葉が口の中の微妙な位置で止まる。ぽかんとした僕に向かい、ほたるはうっすらと笑う。
「好きじゃん。樹さん、エクレア。中学のとき、コンビニで一緒に買って食べてたよな。俺たち、あんまり金なかったし、半分こしてた」
言われて一気にあのころの空気が鼻先に蘇った気がした。
別に自分もほたるも家庭が複雑とか、そういうことじゃない。ただ、なにかが違うとずっと感じていた。学校で普通に笑って、当たり障りなく過ごすには、自分たちは醒めすぎていた。気が合わない同級生から距離を置き、街に居場所を求めてさすらって、なんとなく気が合ったほたると、ときどき一緒に過ごした。行ける場所なんて大してなくて、コンビニの前でたむろしてコーヒーを飲んだり、おにぎりを食べたりしてだらだらと時間を重ねた。
そんなとき、確かに自分たちはエクレアを食べた。他にもあんまんやみたらし団子、シュークリームやフルーツサンドなど、甘いものを分け合っていた。
「半分、食べる?」
あのころが懐かしくてそう言うと、ほたるは軽く目を見張ってから、ふるりと首を振った。
「いいよ、ひとりで食べて」
「そ、か」
変な提案をしてしまった。こそばゆさを覚えながらつやつやと滑らかなエクレアに手を伸ばす。見た目よりしっかりした生地で、持ち上げても崩れない。
「俺、最近知ったんだけどさ、エクレアってフランス語で『稲妻』って意味なんだってさ。稲妻のように早く食べないと零れるからって」
そう言われたとたん、ぽたり、とクリームが皿に落ちた。う、と呻く僕のことを、ほたるはくっくっと笑いながら、僕の横の椅子を引いて腰を下ろした。
「美味い?」
「美味いよ。お前、すごいんだね。こんなの作れちゃうんだから」
稲妻のように早く食べることなんてできるのだろうか。四苦八苦してしまったけれど、苦労が苦労だと思わないくらい、ほたるの作ったエクレアは美味い。
生地は市販のものより少し硬いが、その分、さっくりしていて歯ざわりがいい。中のクリームもカスタードと生クリームが絶妙なバランスで収まっている。生地を覆うチョコレートは少し苦味があって、クリームの甘さをいい具合に引き立てている。
すごいなあ、ともう一度呟いたとき、つい、と頬になにかが触れた。
目を上げると、ほたるが困ったような顔をしながらティッシュを僕の頬に押しつけていた。
「樹さん、顔、チョコついてる」
「ああ、ごめん」
やっぱりこれを稲妻のように食べるなんて不可能に近い。照れながらティッシュで口許を拭うと、違う、とほたるに呆れた顔をされた。
「そこじゃない」
「は? え、ここ?」
「違うって。もう」
ため息と共にティッシュが奪われる。目元近くをぐいぐいと拭かれ、つい苦笑いが漏れた。
「そんなとこ汚れてる?」
「汚れてる。普通ここまで汚さないって。まったくさあ。樹さんって大人みたいな顔するくせに、エクレア食べてるときはほんっと子ども丸出しだよな」
「悪かったな」
さすがに照れ臭い。顔を背けると、ほたるは軽いため息をついてから声の調子を変えた。
「樹さんって家も引っ越したの?」
「あ、いや。家は変わってない」
「そっか」
頷いてほたるは立ち上がる。ばたばたと戸締りをする彼を目で追っていると、ふいっとほたるが振り向いた。
「だったら最寄り駅、同じだよな。一緒に帰ろ」
「いいよ」
僕の住む街はここから電車で四十分以上かかる。ほたるも同じ場所から通ってきているのか、と驚きつつ頷く。
戸締りを終えたほたると共に廊下に出ると、床の冷たさが靴下越しにじんと沁みた。もうすぐ夏が来るのに、夜の学校は冷えている。
そそくさと歩き始めたとき、ちょい待ち、と腕を引かれた。
「これ、履けよ」
ぽいぽい、とほたるが上履きを脱いで僕の前に置く。は? と首を傾げた僕に、ほたるは苦い顔をしてみせた。
「あんたさあ、ずぼらにも程があるよ。画鋲とか落ちてたらどうすんだよ。怪我するだろ」
「それはほたるも同じだろ。いいよ。下まですぐだし」
「いいから履けってば。俺が呼んだせいで、樹さんが怪我したら嫌なんだよ」
ほたるは頑固だ。それは中学時代もそうだった。多分、いくら固辞したところでほたるは聞かないだろうし、僕が履こうが履くまいが、お構いなしにどんどん歩いていってしまうだろう。
「じゃあ、わかった。半分こにしよう」
はあ? とほたるが目を眇める。僕は片方を履き、片方をほたるの前にちょい、と蹴り返した。
「ありがと。片方だけでもあると違う」
笑って歩き出す。昔は僕のほうが背も高く、足のサイズも大きかった覚えがあるけれど、今は普通に歩いても靴の踵部分が笑ってしまうくらい、ほたるのほうが足が大きい。
ちょっと悔しいな、と思いつつ、数歩進む。
が、なぜかほたるがついてこない。どうした? と振り向いた僕の前で、ほたるは困惑したように足元を眺めている。
「ほたる?」
「樹さん、さ」
僕の呼びかけとほたるが僕の名前を呼ぶ声が重なった。なに? と問うと、ゆるゆるとほたるの顔が上がった。やけにまっすぐな目がこちらに向けられる。
「付き合ってる人、いる?」
絶句した。
ほたるが僕にしてくるとは思えない質問だったことに、面食らったから。
でも、それ以上に、あまりにも真剣すぎるほたるの顔を見たら、言葉が出なくなってしまった。
一度、小さく息を吸い込む。そうして、そっと吐く。
「ええと、いないけど。なに?」
「じゃあ、好きな人は?」
「……いない、けど」
そう僕が言うや否や、ほたるが顔を俯けた。僕よりも広い肩が吐息によって大きく波打つのがわかった。
「……そっかあ」
「ほたる?」
呼びかけるが、姿勢は変わらない。かぽかぽ、と音を立てながら彼の前に戻ると、ようやくほたるは顔を上げた。
「そしたら、さ。俺、お願いがある。樹さんに」
「お願い?」
随分可愛い言い方だ。くすっと笑ってしまった僕に、ほたるはちょっとむっとした顔をしてからぼそぼそと言った。
「他のやつとさ、半分こは、しないでほしい」
「はあ? え、なに? どういうこと?」
「昔からさ、俺とは半分こしてきたじゃん。エクレアもシュークリームもあんまんも……今は靴も、さ」
「ああ」
頷く僕の前でほたるは呼吸を整える。大きな手がきゅっと鞄の肩ひもを握りしめているのが見えた。
「これからも、なにかを半分にするときは、俺としてほしい」
「ええっと……」
どういう意味なのだろう。ほたるが説明してくれるのを待ったが、彼はそれ以上口を開かない。ただ、挑むように僕を見つめてくるばかりだ。
「まあ、いいよ」
一体なんなんだ、と思いつつも頷いたとたんだった。
ぱっとほたるの顔に笑みが広がった。眩しいくらい鮮やかなその笑みは、再会してから一度も見たことがないもので、度肝を抜かれた。
こいつのこんな顔を見たのは、いつ以来だろう。
思い出そうとしたけれど、わからなかった。
「遅くなっちゃったな。樹さん、行こ。急がないと電車、乗り遅れる」
けれど、笑顔は一瞬で、元通りの淡々とした表情に戻ったほたるが僕を急かす。
遠ざかっていく背中を見ながら僕は思う。
こいつ、さっきみたいな顔、もっとすればいいのにな、と。
僕の足元ではほたるの上履きだけが、かぽかぽ、と笑っている。
今日はかりんとうだ。部活終わり、届いたかりんとうをぽりぽりと咀嚼しながら永井さんが言う。
たぬき色にこんがり揚がったかりんとうは、見るからに美味そうだ。
こんなの自分で作れるのか、と驚きながら僕もつまむ。さつまいもでできているらしいそれは、胡麻が利いていて、香ばしい味わいがくせになりそうな美味さだった。部活の後で空腹に泣く腹も、しっかり慰めてくれる。
「なんていうかこれ、店で出せるレベルじゃないですか。けどそこはかとなく手作り感も残してて。にくいなあ」
「どんな子なんだろうね。部長、心当たりないんですか?」
「あー……ない、なあ」
言えない。
いや、言ってもいいのだろう。
これを作ったのは速水ほたるだと教えてやっても問題はないのだろう。
だが、そこで躊躇する。
彼は、僕の、後輩だ。
もっとしゃちほこばった言い方をするならば……舎弟というやつになるのだろう。
弓道部で、しゃてい、と言ったら「射程」に変換されるべきだろうか。だが残念ながらそっちじゃない。「舎弟」だ。
あのころの僕は荒れていた。学校なんて当然行ってなかったし、喧嘩上等だったし、僕と同じように行き場のない数人とつるんでいきがって、人間全部を敵視して、肩を怒らせて歩いていた。腕っぷしが強かったせいもあって、気が付いたら狂犬なんてあだ名までついていた。
当時の僕はそれがかっこいいことだと思っていて、弟分のほたるにも、売られた喧嘩は受けて立て! それが漢だ! とか言っていた。
思い出すと、ちょっと、その、恥ずかしい。
しかしそのほたるとも、僕が中学三年になったところで疎遠になってしまい、三年経った今、再会してもお互い変わり過ぎていて、誰? となってもおかしくない状態なのだ。
にもかかわらず、彼はなぜか毎週菓子を作って持ってくる。
狂犬の面影を完全に失った僕に、その僕の舎弟をしていたほたるが、手作りの菓子を!
おかしすぎるだろう、この状況。
そもそも、あいつはちゃんと高校生をやれているのだろうか。樹さん、マジ学校なんて行く意味ないっすね! 喧嘩強ければ生きてける! とか真面目な顔で言っていたあいつが。
「宮池くんてさ……速水ほたるって、知ってる?」
僕の隣でかりんとうを貪り食っていた宮池くん(気味悪いとまで言っていたくせに、一度口にしてからほたるからの差し入れに夢中だ)に訊ねると、宮池くんは口をむぐむぐさせながら目だけをくりっと僕に向けてきた。
「はひゃみ? 知ってまふよ」
「宮池くん! 汚い! ちゃんと飲み込んでからしゃべる!」
宮池くんの隣に座っていた畑中さんが眉を顰める。すんません、と頭を下げ、宮池くんはぐびぐびと手持ちのペットボトルからお茶を飲み、口の中のかりんとうを流し込んだ。
「同じクラスなんで」
「どんな、感じ?」
「どんな?」
宮池くんが首を傾げる。変な訊き方をしてしまったなあ、と後悔している僕に、彼は宙を睨みながら答えてくれた。
「めちゃくちゃ無口です。あいつの声、聞いたことないってやつ、クラスに結構いるんじゃないかな」
なんということだ。そんなふうでは友達を作ることもままならないだろう。大丈夫だろうか、と不安になっている僕の耳に、でも、という宮池くんの声が滑り込んできた。
「この間、調理実習あったんです。そのとき、俺、速水と同じ班だったんですけどね。俺の班、確実に料理慣れしてない人間の集まりで『ダークマターができること必至の面子』って周りからからかわれてて。けど! できあがってみたら、他のどの班よりも美味い筑前煮ができてたんです!」
「え、それ、速水くんって子のおかげって話?」
「そう! あいつすごいんですよ! 早送りかと思った。ひとりで野菜切って、ひとりで出汁取って、ひとりで煮込んで……あっと言う間に作っちゃって。聞いたらあいつ、調理部だっていうじゃないですか。サングラスかけたら見た目、完全に逃走中のハンターなのに。爆笑しちゃいましたよ」
「そう、なんだ」
本当に調理部だったのか。しかしまさかあのほたるがそこまで料理が上手かったなんて。
それはともかく、話を聞く限り、クラスでもなんとかやれているようだ。ほっとしていると、ただ、という不穏な接続詞が聞こえてきた。
「筑前煮食べたやつが『でももう少しタケノコは煮たほうが』とか言ったとたん、あいつ、キレちゃって。『料理のりの字もわかんねえくせにがたがたぬかすな、クソが』って言っちゃって。さすがに全員凍りました」
ははは、と宮池くんはなんてことない顔で笑っているが、僕のほうはそれどころではなかった。
ほたる、あいつの本質はまったく変わってない。相変わらず喧嘩っ早いままだ。心配のあまり黙り込むと、部長? と宮池くんが覗き込んできた。
「速水がどうかしたんですか? あいつもしかして、先輩になにかしました? 因縁ふっかけてきたとか」
「ないない。ないよ」
慌てて首を振る。宮池くんは、そっすか、とあっさりと頷く。必要以上に踏み込まず、ベストなラインで身を引く。宮池くんの長所だ。
問題はほたるのほうだ。そんなに短気だと、いつか揉め事を起こしてしまうのではないのか。
もう今は弟分でもないし、気にかけることもないのだが、気になる。
もやもやしながら部活を終え、皆を見送ってから弓道場の戸締りをする。着替えて外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。梅雨時のじりじりとした湿気が肌にまとわりつく。額を軽くハンカチで拭いたとき、樹さーん、と呼ぶ声が降ってきた。
見上げると、特別教室棟の一角の窓が開いていて、そこからほたるが手を振っていた。
「お前、なにしてんの」
「またお前って。もう、狂犬だなあ」
さらっと呼ばれた昔の二つ名に、僕は焦って周囲を見回す。幸いにも人影はない。ほっとしつつ、僕はほたるに向かって顔をしかめてみせた。
「なにしてるんだよ。もう下校時間過ぎてるのに」
「調理部の後片付け。ああ、そうだ。樹さん、ちょっとこっち上がってきてよ」
「はあ?」
なんで、と言いかけたが、それを待たずにほたるの顔は窓の向こうに引っ込む。勝手なやつだ、と僕はため息をつく。
しぶしぶ特別教室棟へ向かうが、昇降口は教室棟側にあるから、上履きがない。わざわざ大回りして履き替えるのも面倒くさくて、靴下のままぺたぺたと歩いて家庭科室まで行くと、そこだけ煌々と灯った蛍光灯の白い光が暗い廊下へ長く伸びていた。
「ほたる?」
がらりと引き戸を開けて顔を出すと、黒いエプロンを身に着けたほたるが振り返った。室内には彼しかいない。
「他の部員は?」
「今日俺、自主練だもん。いないよ」
さらっと言ってほたるは僕を手招く。座って、と促され、僕は調理台の横にある椅子を引いて座った。
後片付けがあらかた終わった後だったのか、調理台に乱れはない。磨き上げられたステンレスの銀色を眺めていると、ことん、と音を立ててなにかが目の前に置かれた。
白い皿の上に載っていたのは、柔らかそうな生地をチョコレートに包まれた細長い……。
「エクレア?」
「そ。上手くできたからさ」
言いながらほたるが皿を押しやる。
「部活終わりで腹、減ってるでしょ。食べてよ。樹さん」
「いや、でも、お前は? 食べた?」
見上げると、ほたるは薄い唇をちょっと持ち上げる。
「俺はいいんだって。作ってる間に味見とかいろいろしてるから。ってか」
つい、と皿がさらにこちらへと押される。
「樹さんに食べてもらえたらなあって思ってたから」
「は……え?」
言葉が口の中の微妙な位置で止まる。ぽかんとした僕に向かい、ほたるはうっすらと笑う。
「好きじゃん。樹さん、エクレア。中学のとき、コンビニで一緒に買って食べてたよな。俺たち、あんまり金なかったし、半分こしてた」
言われて一気にあのころの空気が鼻先に蘇った気がした。
別に自分もほたるも家庭が複雑とか、そういうことじゃない。ただ、なにかが違うとずっと感じていた。学校で普通に笑って、当たり障りなく過ごすには、自分たちは醒めすぎていた。気が合わない同級生から距離を置き、街に居場所を求めてさすらって、なんとなく気が合ったほたると、ときどき一緒に過ごした。行ける場所なんて大してなくて、コンビニの前でたむろしてコーヒーを飲んだり、おにぎりを食べたりしてだらだらと時間を重ねた。
そんなとき、確かに自分たちはエクレアを食べた。他にもあんまんやみたらし団子、シュークリームやフルーツサンドなど、甘いものを分け合っていた。
「半分、食べる?」
あのころが懐かしくてそう言うと、ほたるは軽く目を見張ってから、ふるりと首を振った。
「いいよ、ひとりで食べて」
「そ、か」
変な提案をしてしまった。こそばゆさを覚えながらつやつやと滑らかなエクレアに手を伸ばす。見た目よりしっかりした生地で、持ち上げても崩れない。
「俺、最近知ったんだけどさ、エクレアってフランス語で『稲妻』って意味なんだってさ。稲妻のように早く食べないと零れるからって」
そう言われたとたん、ぽたり、とクリームが皿に落ちた。う、と呻く僕のことを、ほたるはくっくっと笑いながら、僕の横の椅子を引いて腰を下ろした。
「美味い?」
「美味いよ。お前、すごいんだね。こんなの作れちゃうんだから」
稲妻のように早く食べることなんてできるのだろうか。四苦八苦してしまったけれど、苦労が苦労だと思わないくらい、ほたるの作ったエクレアは美味い。
生地は市販のものより少し硬いが、その分、さっくりしていて歯ざわりがいい。中のクリームもカスタードと生クリームが絶妙なバランスで収まっている。生地を覆うチョコレートは少し苦味があって、クリームの甘さをいい具合に引き立てている。
すごいなあ、ともう一度呟いたとき、つい、と頬になにかが触れた。
目を上げると、ほたるが困ったような顔をしながらティッシュを僕の頬に押しつけていた。
「樹さん、顔、チョコついてる」
「ああ、ごめん」
やっぱりこれを稲妻のように食べるなんて不可能に近い。照れながらティッシュで口許を拭うと、違う、とほたるに呆れた顔をされた。
「そこじゃない」
「は? え、ここ?」
「違うって。もう」
ため息と共にティッシュが奪われる。目元近くをぐいぐいと拭かれ、つい苦笑いが漏れた。
「そんなとこ汚れてる?」
「汚れてる。普通ここまで汚さないって。まったくさあ。樹さんって大人みたいな顔するくせに、エクレア食べてるときはほんっと子ども丸出しだよな」
「悪かったな」
さすがに照れ臭い。顔を背けると、ほたるは軽いため息をついてから声の調子を変えた。
「樹さんって家も引っ越したの?」
「あ、いや。家は変わってない」
「そっか」
頷いてほたるは立ち上がる。ばたばたと戸締りをする彼を目で追っていると、ふいっとほたるが振り向いた。
「だったら最寄り駅、同じだよな。一緒に帰ろ」
「いいよ」
僕の住む街はここから電車で四十分以上かかる。ほたるも同じ場所から通ってきているのか、と驚きつつ頷く。
戸締りを終えたほたると共に廊下に出ると、床の冷たさが靴下越しにじんと沁みた。もうすぐ夏が来るのに、夜の学校は冷えている。
そそくさと歩き始めたとき、ちょい待ち、と腕を引かれた。
「これ、履けよ」
ぽいぽい、とほたるが上履きを脱いで僕の前に置く。は? と首を傾げた僕に、ほたるは苦い顔をしてみせた。
「あんたさあ、ずぼらにも程があるよ。画鋲とか落ちてたらどうすんだよ。怪我するだろ」
「それはほたるも同じだろ。いいよ。下まですぐだし」
「いいから履けってば。俺が呼んだせいで、樹さんが怪我したら嫌なんだよ」
ほたるは頑固だ。それは中学時代もそうだった。多分、いくら固辞したところでほたるは聞かないだろうし、僕が履こうが履くまいが、お構いなしにどんどん歩いていってしまうだろう。
「じゃあ、わかった。半分こにしよう」
はあ? とほたるが目を眇める。僕は片方を履き、片方をほたるの前にちょい、と蹴り返した。
「ありがと。片方だけでもあると違う」
笑って歩き出す。昔は僕のほうが背も高く、足のサイズも大きかった覚えがあるけれど、今は普通に歩いても靴の踵部分が笑ってしまうくらい、ほたるのほうが足が大きい。
ちょっと悔しいな、と思いつつ、数歩進む。
が、なぜかほたるがついてこない。どうした? と振り向いた僕の前で、ほたるは困惑したように足元を眺めている。
「ほたる?」
「樹さん、さ」
僕の呼びかけとほたるが僕の名前を呼ぶ声が重なった。なに? と問うと、ゆるゆるとほたるの顔が上がった。やけにまっすぐな目がこちらに向けられる。
「付き合ってる人、いる?」
絶句した。
ほたるが僕にしてくるとは思えない質問だったことに、面食らったから。
でも、それ以上に、あまりにも真剣すぎるほたるの顔を見たら、言葉が出なくなってしまった。
一度、小さく息を吸い込む。そうして、そっと吐く。
「ええと、いないけど。なに?」
「じゃあ、好きな人は?」
「……いない、けど」
そう僕が言うや否や、ほたるが顔を俯けた。僕よりも広い肩が吐息によって大きく波打つのがわかった。
「……そっかあ」
「ほたる?」
呼びかけるが、姿勢は変わらない。かぽかぽ、と音を立てながら彼の前に戻ると、ようやくほたるは顔を上げた。
「そしたら、さ。俺、お願いがある。樹さんに」
「お願い?」
随分可愛い言い方だ。くすっと笑ってしまった僕に、ほたるはちょっとむっとした顔をしてからぼそぼそと言った。
「他のやつとさ、半分こは、しないでほしい」
「はあ? え、なに? どういうこと?」
「昔からさ、俺とは半分こしてきたじゃん。エクレアもシュークリームもあんまんも……今は靴も、さ」
「ああ」
頷く僕の前でほたるは呼吸を整える。大きな手がきゅっと鞄の肩ひもを握りしめているのが見えた。
「これからも、なにかを半分にするときは、俺としてほしい」
「ええっと……」
どういう意味なのだろう。ほたるが説明してくれるのを待ったが、彼はそれ以上口を開かない。ただ、挑むように僕を見つめてくるばかりだ。
「まあ、いいよ」
一体なんなんだ、と思いつつも頷いたとたんだった。
ぱっとほたるの顔に笑みが広がった。眩しいくらい鮮やかなその笑みは、再会してから一度も見たことがないもので、度肝を抜かれた。
こいつのこんな顔を見たのは、いつ以来だろう。
思い出そうとしたけれど、わからなかった。
「遅くなっちゃったな。樹さん、行こ。急がないと電車、乗り遅れる」
けれど、笑顔は一瞬で、元通りの淡々とした表情に戻ったほたるが僕を急かす。
遠ざかっていく背中を見ながら僕は思う。
こいつ、さっきみたいな顔、もっとすればいいのにな、と。
僕の足元ではほたるの上履きだけが、かぽかぽ、と笑っている。