弓道場を出てぶらぶらと歩く。終業式が終わって時間も経っているから人影はそれほどない。そのことにほっとしながら校門に差し掛かったとき、ぐい、と横合いから腕を掴まれた。そのままその人物は、ぐいぐいと僕の腕を引いて歩いていく。
僕を連行していたのは、やっぱりほたるだった。
「なにしてくれてんの、樹さん。これじゃ全部、台無しだ」
ほたるの顔は強張っている。通りがかった数人の生徒の視線を背中で撥ねつけるようにしてほたるは歩き、駐輪場の陰でようやく僕の腕を離して小言を再開した。
「俺はいいって言ったよね。なのに、なんであんなことすんの」
「俺は嫌だから」
きっぱりと言う。僕の勢いに圧されたように、ほたるがたじろいだ。
「は? 狂犬でいたかったってこと? 意味わかんない。樹さんにはやりたいことがある。狂犬でいた時間なんて無駄だろ。だから俺が」
「無駄なんて決めつけるな。俺にとってあの時間はなきゃ駄目な時間なんだよ」
そこで僕はそっと呼吸を整える。狂犬なんて言われていたくせに、心臓がおかしな具合に緊張している。でも言わなきゃ、いけない。
「あの時間があったから、俺はお前に会えた」
ほたるの目が見開かれる。その彼の顔を見上げながら僕は今一度深呼吸をする。そうしてからそうっと声を落とす。届いてほしい、と願いながら。
「お前とコンビニにいた時間も、一緒にエクレア食べた時間も、俺は絶対なかったことにしたくない。今、こうして話している時間も」
少し、怖い、と思った。こんなことを今更自分が言っていいのか、と躊躇う気持ちもあった。
でも決めたのだ。もうほたるに甘えてばかりではいられない、と。だから僕は言う。
今、一番、言いたいことを。
「俺はさ、お前のこと、好きだなって思うんだけど。お前は、どう、思ってる?」
ああ、やっぱり駄目だ。顔を見ていられない。恥ずかしくて消えたくなる。引導を渡されるなら、光の速さで渡されたい。
などと、心中で悶えつつ返事を待つが、ほたるからの答えは返ってこない。あまりにも長く黙っているので、さすがに焦れてそろそろとほたるの様子を窺った僕は仰天した。
ほたるが片手で目元を覆い、顔を伏せていた。
「ちょっと、なに。まさか泣いて……」
「泣いてないし」
返ってきた声は完全に鼻声だ。それでも気丈に顔を上げたほたるは、振り切るように指先で目尻を払ってから、はあっと深い息を吐いた。
「樹さんってさ、馬鹿なの?」
「は⁉ なんだよ、馬鹿って。前々から思ってたけど、お前、生意気。先輩に敬意示せってば」
「いや、馬鹿でしょ。だってさ、普通わかるよな」
涙の名残りのある声で言い、ぷい、とほたるはそっぽを向く。
その頬は、これまで見たことがないほど赤かった。
「好きでもない相手のためにスイーツ作るかよ。学校だってここ選んだりしない。遠すぎるわ、偏差値高いわ。俺、どれだけ勉強したと思ってんの。頭、沸騰するかと思った」
「お……」
淀みなく言われ、今度はこちらが言葉を失う。ほたるは頬を染めたまま、ふっと目を伏せた。
「でも、樹さんは過去を消したいんだって思ったから、こっそり応援しようって思ってたんだ。なのに、狂犬丸出しで追いかけてくるし。猫かぶって過ごしてるくせに、俺のこと邪険にもしないで昔みたいに相手してくれるし。大事な人、とか、みんなの前で言っちゃう、し。大体、俺はこの間、好きって……伝えたつもりだったのに、確認してくるとことか、なんかもう」
はああ、と息を吐いてから、ほたるはそうっと目を開ける。
じっとこちらを見つめてくる目に、呼吸が止まった。
「馬鹿」
馬鹿馬鹿言うな、と言い返そうとしたが言えなかった。熱くなる頬を持て余しながら僕は横を向きつつ、ごめん、と言う。その僕の頭の上でほたるが呆れたようにまた息を吐いた。
「いいよ。そういう空気読めないとこも樹さんらしいし」
「いや、あの、それは言い過ぎだろ……ってか、そこじゃなくて」
へどもどする僕にほたるが怪訝そうに首を傾げる。その彼の前で僕は目を閉じる。
「俺、ちゃんと言わなかったから。中学のとき、お前にさ、弓道やるから会えなくなるって。すごくひどいことしたと思う。なのになんで、お前、こんな俺のこと」
「自転車」
遮られ、僕は言葉を止める。え、と目を開けると、ほたるは前髪をいじりながら駐輪場の自転車を見ていた。
「俺、あのころ、自転車乗れなくてさ。そしたら樹さんが、俺が教えてやるよ、って笑って教えてくれただろ」
「え、あ……うん」
確かにそうだ。自転車のせいで学校へ行くのをやめてしまったと言うほたるを笑った後、僕はほたると公園で自転車の練習をした。
「あれ、俺、すごくうれしかったんだ。何度失敗しても、頑張れ頑張れって言ってくれた。こけても起こしてくれてさ。それがずっと忘れられなくて。だから、頑張ってる樹さんを俺だって応援したいって思ったんだ。その……樹さんに自転車の乗り方教えてもらったおかげで、俺も学校、行くようになったし」
「そ、か」
単なる気まぐれだったのだ。ほたるはつらい顔も苦しい顔も見せなかったけれど、寂しそうに見えて。笑わせてやりたくて。ただ、それだけで。
でもそれをほたるは大事な思い出のように語る。目を細めて。
なんだかもう、本当にどうしていいかわからない。
「困ったことあったら……言えよ。自転車みたいに教えてやる、から」
照れ隠しでそう言うと、ほたるは一瞬、気を呑まれたような顔をしてから笑った。
いつもの淡い微笑ではない、温かい顔で。
その顔を見て思い出す。
乗れたよ、樹さん、と笑った彼の顔は、今、目の前で咲いたこの顔と確かに同じものだった。
目頭を熱くした僕に、柔らかい声が訊いた。
「樹さんさ、エクレア以外だと甘いもの、なにが好き?」
「え、エクレア以外? なんで?」
「だって、大会の会場で食べるにはあれ、食べにくいだろ。袴、べとべとになっちゃうよ」
ふざけた口調で言われ、僕は顔を赤らめる。その僕の腕をそうっとほたるが掴んだ。
「応援、行きたいけど、俺も行っていい?」
駄目だと言うと思っているのか、この野郎は。
憤然とほたるの手を振りほどく。ふっと目を見張る彼の手を逆にぐいと掴んだ僕は、赤い顔で言い放った。
「かっこいいところ、見せてやるから、来い」
「おお、言った。そうだよな。全校生徒の前で宣言しちゃったもんな。やるしかないよな」
言われて青ざめた。ああああ、と呻いた僕に、ほたるはくつくつと笑ってから問いを繰り返す。
「で、エクレア以外だったら、なに食べたい?」
「……マカロン」
うなだれながら答えると、マカロン、と繰り返し、ほたるはますます笑った。
「狂犬らしくなさすぎてウケる」
「うるさい。好きなんだからいいだろ」
「うん」
切り返す僕にほたるの優しい返事が寄り添う。見上げると、今度はほたるのほうが照れ臭そうに目を逸らした。
「美味しいって言ってもらえるよう頑張って作るから。樹さん、絶対勝って」
「……任せとけ」
そっと微笑み返すと、ほたるは恥じらうように前髪を掻き上げた。掴まれたままだった手がきゅっと強く握られる。
「帰ろ。樹さん」
くい、と手が引かれる。その力に引っ張られて僕は歩き出す。
蝉が鳴く。空へ届けと言わんばかりに。その声を吸いこんで輝く青空を瞳に映す。
昔からこの色が苦手だった。なんとなく正しすぎる色に思えたから。でも、今年はそう思わないでいられそうな気がする。
こいつのおかげで。
そっと繋いだ手に力を込めると、こちらに背中を向けていたほたるの耳が赤くなったのがわかった。
その赤にこちらも赤面を誘われながら、僕は小さく拳を握った。
勝ってみせる、見てろよ、と、僕らの上に広がる青に向かって誓う。
雲ひとつない青空は、大きな腕で僕らを包むようにして、笑顔で広がり続けていた。
―――了―――
僕を連行していたのは、やっぱりほたるだった。
「なにしてくれてんの、樹さん。これじゃ全部、台無しだ」
ほたるの顔は強張っている。通りがかった数人の生徒の視線を背中で撥ねつけるようにしてほたるは歩き、駐輪場の陰でようやく僕の腕を離して小言を再開した。
「俺はいいって言ったよね。なのに、なんであんなことすんの」
「俺は嫌だから」
きっぱりと言う。僕の勢いに圧されたように、ほたるがたじろいだ。
「は? 狂犬でいたかったってこと? 意味わかんない。樹さんにはやりたいことがある。狂犬でいた時間なんて無駄だろ。だから俺が」
「無駄なんて決めつけるな。俺にとってあの時間はなきゃ駄目な時間なんだよ」
そこで僕はそっと呼吸を整える。狂犬なんて言われていたくせに、心臓がおかしな具合に緊張している。でも言わなきゃ、いけない。
「あの時間があったから、俺はお前に会えた」
ほたるの目が見開かれる。その彼の顔を見上げながら僕は今一度深呼吸をする。そうしてからそうっと声を落とす。届いてほしい、と願いながら。
「お前とコンビニにいた時間も、一緒にエクレア食べた時間も、俺は絶対なかったことにしたくない。今、こうして話している時間も」
少し、怖い、と思った。こんなことを今更自分が言っていいのか、と躊躇う気持ちもあった。
でも決めたのだ。もうほたるに甘えてばかりではいられない、と。だから僕は言う。
今、一番、言いたいことを。
「俺はさ、お前のこと、好きだなって思うんだけど。お前は、どう、思ってる?」
ああ、やっぱり駄目だ。顔を見ていられない。恥ずかしくて消えたくなる。引導を渡されるなら、光の速さで渡されたい。
などと、心中で悶えつつ返事を待つが、ほたるからの答えは返ってこない。あまりにも長く黙っているので、さすがに焦れてそろそろとほたるの様子を窺った僕は仰天した。
ほたるが片手で目元を覆い、顔を伏せていた。
「ちょっと、なに。まさか泣いて……」
「泣いてないし」
返ってきた声は完全に鼻声だ。それでも気丈に顔を上げたほたるは、振り切るように指先で目尻を払ってから、はあっと深い息を吐いた。
「樹さんってさ、馬鹿なの?」
「は⁉ なんだよ、馬鹿って。前々から思ってたけど、お前、生意気。先輩に敬意示せってば」
「いや、馬鹿でしょ。だってさ、普通わかるよな」
涙の名残りのある声で言い、ぷい、とほたるはそっぽを向く。
その頬は、これまで見たことがないほど赤かった。
「好きでもない相手のためにスイーツ作るかよ。学校だってここ選んだりしない。遠すぎるわ、偏差値高いわ。俺、どれだけ勉強したと思ってんの。頭、沸騰するかと思った」
「お……」
淀みなく言われ、今度はこちらが言葉を失う。ほたるは頬を染めたまま、ふっと目を伏せた。
「でも、樹さんは過去を消したいんだって思ったから、こっそり応援しようって思ってたんだ。なのに、狂犬丸出しで追いかけてくるし。猫かぶって過ごしてるくせに、俺のこと邪険にもしないで昔みたいに相手してくれるし。大事な人、とか、みんなの前で言っちゃう、し。大体、俺はこの間、好きって……伝えたつもりだったのに、確認してくるとことか、なんかもう」
はああ、と息を吐いてから、ほたるはそうっと目を開ける。
じっとこちらを見つめてくる目に、呼吸が止まった。
「馬鹿」
馬鹿馬鹿言うな、と言い返そうとしたが言えなかった。熱くなる頬を持て余しながら僕は横を向きつつ、ごめん、と言う。その僕の頭の上でほたるが呆れたようにまた息を吐いた。
「いいよ。そういう空気読めないとこも樹さんらしいし」
「いや、あの、それは言い過ぎだろ……ってか、そこじゃなくて」
へどもどする僕にほたるが怪訝そうに首を傾げる。その彼の前で僕は目を閉じる。
「俺、ちゃんと言わなかったから。中学のとき、お前にさ、弓道やるから会えなくなるって。すごくひどいことしたと思う。なのになんで、お前、こんな俺のこと」
「自転車」
遮られ、僕は言葉を止める。え、と目を開けると、ほたるは前髪をいじりながら駐輪場の自転車を見ていた。
「俺、あのころ、自転車乗れなくてさ。そしたら樹さんが、俺が教えてやるよ、って笑って教えてくれただろ」
「え、あ……うん」
確かにそうだ。自転車のせいで学校へ行くのをやめてしまったと言うほたるを笑った後、僕はほたると公園で自転車の練習をした。
「あれ、俺、すごくうれしかったんだ。何度失敗しても、頑張れ頑張れって言ってくれた。こけても起こしてくれてさ。それがずっと忘れられなくて。だから、頑張ってる樹さんを俺だって応援したいって思ったんだ。その……樹さんに自転車の乗り方教えてもらったおかげで、俺も学校、行くようになったし」
「そ、か」
単なる気まぐれだったのだ。ほたるはつらい顔も苦しい顔も見せなかったけれど、寂しそうに見えて。笑わせてやりたくて。ただ、それだけで。
でもそれをほたるは大事な思い出のように語る。目を細めて。
なんだかもう、本当にどうしていいかわからない。
「困ったことあったら……言えよ。自転車みたいに教えてやる、から」
照れ隠しでそう言うと、ほたるは一瞬、気を呑まれたような顔をしてから笑った。
いつもの淡い微笑ではない、温かい顔で。
その顔を見て思い出す。
乗れたよ、樹さん、と笑った彼の顔は、今、目の前で咲いたこの顔と確かに同じものだった。
目頭を熱くした僕に、柔らかい声が訊いた。
「樹さんさ、エクレア以外だと甘いもの、なにが好き?」
「え、エクレア以外? なんで?」
「だって、大会の会場で食べるにはあれ、食べにくいだろ。袴、べとべとになっちゃうよ」
ふざけた口調で言われ、僕は顔を赤らめる。その僕の腕をそうっとほたるが掴んだ。
「応援、行きたいけど、俺も行っていい?」
駄目だと言うと思っているのか、この野郎は。
憤然とほたるの手を振りほどく。ふっと目を見張る彼の手を逆にぐいと掴んだ僕は、赤い顔で言い放った。
「かっこいいところ、見せてやるから、来い」
「おお、言った。そうだよな。全校生徒の前で宣言しちゃったもんな。やるしかないよな」
言われて青ざめた。ああああ、と呻いた僕に、ほたるはくつくつと笑ってから問いを繰り返す。
「で、エクレア以外だったら、なに食べたい?」
「……マカロン」
うなだれながら答えると、マカロン、と繰り返し、ほたるはますます笑った。
「狂犬らしくなさすぎてウケる」
「うるさい。好きなんだからいいだろ」
「うん」
切り返す僕にほたるの優しい返事が寄り添う。見上げると、今度はほたるのほうが照れ臭そうに目を逸らした。
「美味しいって言ってもらえるよう頑張って作るから。樹さん、絶対勝って」
「……任せとけ」
そっと微笑み返すと、ほたるは恥じらうように前髪を掻き上げた。掴まれたままだった手がきゅっと強く握られる。
「帰ろ。樹さん」
くい、と手が引かれる。その力に引っ張られて僕は歩き出す。
蝉が鳴く。空へ届けと言わんばかりに。その声を吸いこんで輝く青空を瞳に映す。
昔からこの色が苦手だった。なんとなく正しすぎる色に思えたから。でも、今年はそう思わないでいられそうな気がする。
こいつのおかげで。
そっと繋いだ手に力を込めると、こちらに背中を向けていたほたるの耳が赤くなったのがわかった。
その赤にこちらも赤面を誘われながら、僕は小さく拳を握った。
勝ってみせる、見てろよ、と、僕らの上に広がる青に向かって誓う。
雲ひとつない青空は、大きな腕で僕らを包むようにして、笑顔で広がり続けていた。
―――了―――