狂犬とハーフエクレア

 中学時代、ほたるとこんな会話をしたことがある。
「俺、学校行くの嫌になっちゃったの、自転車のせいなんですよね」
 いつも通りコンビニの前でアイスをふたりで食べているときだった。不意にほたるが言い出した。
「樹さんは自転車、乗れる?」
「乗れるけど。え、お前、乗れないの?」
 言うと、そうなんすよ、とほたるは肩をすくめた。
「自転車練習するきっかけって、自分からじゃないじゃん? 親が教えようって思うか、友だち同士で乗ろうって話になるか、まあ、そんな感じで。樹さんはどうだった?」
「俺は……」
 確か、教えてくれたのは兄だ。ふたつ年上の兄に教えられて乗れるようになった。自転車くらい乗れないと後々大変だぞ、仲間外れにされるぞ、と脅されて。
 ただ当時、出来がよすぎる兄と僕の関係は芳しくなくて、感謝の気持ちは微塵も湧いてこなかった。
 ほたるは僕の微妙な顔に気付く由もなく、淡々と語っていた。
「俺、結局誰にも教えてもらえないまま中学入って。ただ俺の家、学区の端っこで自転車じゃないと毎日きつい感じの場所で。でも俺、乗れないじゃないですか。今更、学校行くために練習するのも腹立つし。で」
 学校行かなくなっちゃった。
 とにっこり笑ったほたるに、当時の僕は爆笑した。
 お前、そんな理由で行くのやめちゃったのかよ、と。
 でも今は、あのとき笑ったことを後悔している。
 明るい口ぶりで言いながらも、ほたるはどことなく寂しそうだったから。
 ほたるにもちゃんと両親はいる。ただ、どちらも共働きで帰宅は遅い。ほたるが小学生のころからふらふらと街を徘徊していたことにも、気付いてすらいないようだった。
 そのことを……ほたるは自転車のことで言おうと思ったのかもしれない。
 そして、そんなほたるにとって、僕と過ごす時間は、僕が思う以上に大事なものであったのかもしれない。
 なのに、僕はほたるを置き去りにした。
 「狂犬」と呼ばれた過去が嫌で、それを払拭したいがためだけに、全部なかったことにしようとした。
 その僕を、ほたるは庇った。
――あんたの努力を、過去のやんちゃしてた時代のせいでいろいろ言われるの、駄目だろ。
 ほたるの声が、耳からずっと離れない。
 あの日受け取ったクッキーの味も、ずっと忘れられない。
 甘くて、優しくて。舌を包むさくり、とした感触に労りが見えて。
 食べながら、涙が止まらなかった。
 あれ以来、ほたるは完全に僕の前から姿を消した。調理部にも何度か顔を出したけれど、部活にも出ていないようだった。
 速水くんの作るお菓子、すっごく美味しいし、楽しみだったのに、と調理部の部長は言い、同調するように部員も頷いていた。
 狂犬のことを知っているのかどうかまではわからないけれど、少なくともここではほたるは大事にされていたのだと思えて、心底ほっとした。
 ただ、SNSでは相変わらず狂犬の噂はされているようで、教室でもほたるは遠巻きにされている、と宮池くんが教えてくれた。
「話しかけるんですけどね。速水自身がこう、話しかけるなオーラすごくて」
 このままではいけない。
 何度もそう思って、休憩時間のたびに教室を覗いた。しかし、ほたるを捕まえることはできなかった。
――俺はもう樹さんとは口を利かない。
 あれは、やはり本気なのだ。
 本気で、ほたるはもうこちらを見ないつもりでいる。
 いいや、そうじゃない。彼は、完全に僕の目の前から消えようとしている。
 逃げようとする相手を捕まえることがこれほど大変だなんて思いもしなかった。結局、一週間経った今もほたると話はできていない。
 しかも今日はもう終業式だ。夏休みに入ったら、どうしたらいいのだろう。
 暗澹たる気持ちを抱え、僕は昇降口へと向かう。
 連日のむしゃくしゃを晴らそうと、弓道場で朝から弓を引いていたせいで、始業時間をすっかり過ぎてしまっていた。
 当然皆、体育館へ移動している時間で昇降口に人影はない。焦りながら上履きに履き替えていた僕だったが、かすかな笑い声が聞こえ、ふと目を上げた。声を辿って視線を向けると、靴箱を挟んだ向こう側から二人組の男子が駆け去っていくのが見えた。
 一瞬だったし、見間違いかもしれない。でも彼らのうちのひとりの手にあったものが、意識に嫌なざらつきを残した。
 彼らの手にあったのは……油性マジック。
 中途半端に踵が折れた状態だったけれど、上履きをつっかけるようにして僕は、彼らが駆けだしてきた側の靴箱へと回り込む。砂埃と靴箱特有の金臭い匂いに混じり、つん、と鼻を突いたのは……シンナー臭だった。
 臭いの元を辿り、僕は立ちすくむ。
 靴箱の中央。味も素っ気もないグレー一色の中、誰かの靴箱の扉に黒々とした文字が刻まれていた。
『狂犬。出て行け』
 名札を確かめるまでもなくわかった。これがほたるの靴箱だということが。
 ふるふると、手が震えた。
 ああ、確かに、狂犬なんて呼ばれる伝説のヤンキーが身近にいたとして、面と向かって喧嘩を売ろうとするやつもそうそういないだろう。
 過去の僕のような人種に不快な思いをさせられた人間にとって、狂犬は嫌な記憶を呼び起こす忌むべき存在なのかもしれない。
 物申したくもなるだろう。
 だが、だからといって、これは許されていいことなのか?
 見えない場所から投石をするような行為が、認められていいのか?
 しかも、ほたるは関係ない。
 彼は僕の身代わりになっただけだ。この僕の。
――あんたの努力を、過去のやんちゃしてた時代のせいでいろいろ言われるの、駄目だろ。
 そうだ。でも、これを背負うのは僕じゃなきゃいけない。
 いけないのに。
 なんでほたるは、こんなことをされてもなにも言わないんだろう。
 なんで僕は、こんなに腹が立って腹が立って仕方ないのだろう。
 なんで。
 頭の奥で、ほたるが囁く。
――あんたが怪我したりするの、嫌なんだよ。
 困ったように眉を寄せる、ほたるの顔。
 面影が過った瞬間、心の奥に沈んでいたなにかがふっと僕の前に立ち上がってきた気がした。
 ずっともやもやしていた。でも、今、わかった。
 書き殴られた文字に埋もれた「速水」と書かれたプレートに視線を当て、唇を噛む。
 なあ、ほたる。
 プレートに向かい、僕は心の内で呼びかける。
 俺だって、嫌だよ。
 ほたるが傷つくの、俺だって嫌なんだよ。
 いつも俺のことばかり考えてくれたお前が、こんなふうに傷つけられるの、絶対、嫌なんだよ。
 だって、俺はさ。
――樹さんと一緒にいる時間、すごく……大事に思ってるのに!
 気が付いたら、僕は握りしめた拳で、殴り書きされた「狂犬」を殴りつけていた。
 がしゃん、と鋭い音が無人の昇降口の空気を震わせる。
 けれどそれ以上に、体が震えることを止められなかった。
 許せなかった。
 ほたるにこんなことをするやつらを、絶対に許さないと思った。
 遠く、体育館からマイク越しの声が聞こえてくる。校長の挨拶中かもしれない。
 それを耳に収めながら、僕はふらつく足を踏みしめて体育館へ向かった。
 校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下をゆっくり、ゆっくり、踏みしめるように進む。すると、開放された体育館の扉付近にいた教師が僕に気付いて眉を顰めた。
 クラス担任の吉井先生だった。
「遅い! 早く列に並びなさい」
 小言を喰らっても、ここまで狂犬を捨ててやってきた僕ならにこやかに、申し訳ありません、と返せるはずだった。が、今日の僕はそれがどうしてもできなかった。無言で頷くので精一杯だった。
 吉井先生はそんな僕に怪訝そうな顔をしてから、ああ、そうだった、と潜めた声で早口に告げてきた。
「今日、この後、壇上に上がってもらうから」
「は? なんで」
 敬語もうまく使えなくなっている。つっけんどんに返す僕を、吉井先生はますます気味悪そうに眺める。
「弓道。全国大会出るだろ。壮行会ってことで、意気込みを語ってもらうことになってるから。その話したかったのに、今日に限って遅刻なんだからなあ」
 しっかりしてくれよ、と吉井先生の手が僕の背中を叩く。だが、僕としてはそれどころではなかった。
 意気込みなんて語っていられる心境じゃ断じてないのだ。けれど、それをこの人に言ってなんになるだろう。仕方なく頷いて、僕は自分のクラスの列へと向かう。
 道すがら、視線を滑らせ、ほたるの姿を探した。
 周りよりも抜きん出て背の高いほたるの姿は、すぐに見つけられた。
 いつも通り、感情の薄い、凪いだ横顔をしている。
 が、僕には、ほたるの周りが凍ってみえた。
 氷が軋むみたいに、心が張りつめているのが、わかった。
『続きまして、壮行会に移ります。来る八月三日全国高等学校総合体育大会におきまして、わが校の弓道部から三年の水原樹さんが個人戦にて出場することが決定いたしました。水原さんより一言、挨拶をお願いしようと思います。水原さん、檀上へお願いします』
 生徒会長が僕の名前を呼ぶ。ゆらり、と目を向けると、生徒会の役員が手招いているのが見えた。
 挨拶なんてしたい気分じゃまったくない。が、急かすようにさらに手招かれ、苦い息が漏れる。くそ、と口の中で呟き、壇上へと向かう。
 普段、滅多に上がることがないその場所からほたるの姿を探すと、こちらを見る彼と目が合った。
 背が高いからすぐわかる。
 いいや、そうではなくても、あんなにまっすぐ僕を見るのは、きっとほたるくらいだろう。
 そう思ったら、どんどん胸が苦しくなってきた。
「水原さん、お願いします」
 落ち着かなければいけない。
 舞台の袖から司会役の生徒会役員が促してくる。
 一度息を吐き、顔を上げ、スタンドマイクに向き直った僕の視界に、見覚えのある顔が飛び込んできたのはそのときだった。
 整列する生徒たちの中、おそらく、あの列は一年のどこかのクラスのものだろう。その中ほどにそいつはいた。昇降口から笑いながら走り出ていったやつのひとりが。
 前に並んだ生徒の肩を叩き、何事か囁き交わしながら体を震わせ、笑っている。
 悩みも、なにもなさそうに……笑っている。
 瞬間、かっとなった。檀上から走り下りたくなった。
 でも。
――なんも知らないやつらに、好きな人が踏みつけられるなんて、絶対許せないんだ。
――そうさせないためなら、俺はなんでもする。
「あー……」
 マイクに向かって僕は声を吐く。
 走り出したがる僕の足を壇上に縫い留めるのは……ほたるの視線だった。
 駄目だよ、樹さん、とほたるに諭されたように感じた。
「水原樹です」
 呼吸を整え、僕はマイクに声を落とす。
 そうだ。穢してはならないのだろう。これまでの自分の頑張りを。
 ほたるが守ってくれた、水原樹を。
 自分自身、黒歴史だと封印し、誰にも語ってこなかった。中学時代の僕は人を傷つけたこともあったし、傷つけたその過去が恐ろしくもあったから。
 だから蓋をして、自分とだけ向き合ってきた。
 それが間違いだったとまでは言わない。自分を見つめるため、逃げるように始めた弓道だったけれど、弓は確かに僕を強くしてくれたから。
 それでも、このままでいることはやはり違う。
 今頃、気付いた。
 狂犬なんて呼ばれてしまったけれど、あの時間にだって、黒歴史と一括りにして捨てていいことばかりがあったわけじゃないということを。
 だってそうじゃないか。
 あの時間がなければ、僕は。
「この場で意気込みをとのことなのですが、まず僕から皆さんにお話したいことがあります」
 あれ? なんだか様子がおかしくない? という顔を舞台の袖で生徒会役員がしている。構わず僕は続けた。
「今、ひとつの噂が流れていますね。星名中学出身の狂犬がこの菊塚にいる、という」
 ざわり、と舞台の下、居並ぶ生徒たちがざわめく。なに、なんの話? 狂犬ってあの? と囁き合う声が耳を刺す。
 ふうっと息を吐き、僕はマイクに向かって告げた。
「噂の狂犬は、僕です」
 ざわめきが大きくなる。嘘、え、狂犬? 嘘でしょ、全然、そんなふうに見えないのに? 等々声が渦巻いている。
 内心、やっちゃったなあ、という気持ちはあった。が、不思議と落ち着いてもいた。
「僕は昔、狂犬と呼ばれるような人間でした。家に帰らないなんて当たり前だったし、学校にも行っていなかった。喧嘩も売り買いどっちもしました。それが今は弓道部の部長です。笑っちゃいますよね」
 水原くん、と壇の下から弓道部顧問の飯田先生が呼びかけてくる。丸顔の中で、小さな眼鏡がずり落ちそうだ。その彼に向かい、すみません、と目礼する。しかし、話を中断するつもりはなかった。
「黙っていれば済むことなんでしょう。今の自分は昔とは違うのだから、と。でも過去はそんな簡単に脱ぎ去れないものなんですよね。僕が人を傷つけた事実は消えない。やったことはどこまでも追いかけてくる。どれだけ真剣に弓を引こうと、ずっと」
 だから、と言ったところで、僕は声を平板に保とうとそっと呼吸を整える。
「ちゃんと自分で責任を取らなきゃと思いました。そうでなければ、僕の今を守ろうとしてくれた大事な人が傷つけられてしまうから。謂れのない陰口を叩かれ、貶められてしまうから。僕はそれがどうしたって我慢できない」
 ざわざわ、と再び人声が熱を持つ。揺れる人と人の頭の波の中、ほたるが立ち尽くしているのが見えた。
 その彼に向かって微笑みかけてから、僕はおもむろにマイクを引っ掴む。ふうっと大きく息を吸い込む。そして、怒鳴った。
「わかったか! 狂犬は俺なんだよ! お前ら、落書きする場所、間違ってんだよ! するなら俺のところにしろ! いいか、全員に言っとくぞ! 今度、俺の舎弟になめた真似してみろ。ただじゃおかねえからな!」
 瞳に力を込めて見据えると、一年の列の中ほどにいた男子生徒の顔がさあっと青くなった。
 はあ、と肩で息を吐き、僕は声のトーンを落とす。
「全力を以って、成績は残すつもりですので。以上」
 言い捨ててマイクから手を離す。やり過ぎたあ、と肩を落としつつステージを横切り、階段に足を掛ける。ざわめきは囁き声へと変わり、僕を囲む。目を伏せて歩を進める僕の耳を、そのとき、囁き以外の音が掠めた。
 それは、拍手だった。
 え、と顔を上げて、視線を彷徨わせる。
 拍手は一年の、ほたるのクラスの列から聞こえた。
「勝ってください! 部長!」
 拍手の主である宮池くんが叫ぶ。え、なになに、と宮池くんの周りの生徒たちが顔を見合わせる。ややあって、数人がつられたように手を叩き始めた。
 徐々に徐々に拍手は拡がる。大喝采というわけでは当然なかった。でも、ささやかな拍手を送ってくれる中には、弓道部の他の部員も、調理部の面々も、顧問の飯田先生もいた。
 それが無性に、沁みた。
「まったく、やらかしてくれるねえ」
 壮行会が終わった後、僕は弓道部顧問の飯田先生に呼び出され、こってり絞られた。場所は普段なら先生が滅多に来ない、弓道場だった。
「伝説のヤンキーは僕ですって檀上で告白って。漫画かよって思わずのけぞったよ。ああいうことはもうちょっと早く教えておいてもらいたかった」
「いや、あ、はい。すみません。ただ、その……入部当時は卒業まで隠し通すつもりでいたので……」
「それをまあ、センセーショナルに発表しちゃったね」
 ははは、と飯田先生が笑う。その先生の前で僕は左手で右手首をぐっと掴む。
 自分の勝手な思いで、飯田先生にも迷惑がかかってしまうかもしれない。今頃その可能性に気付き、目の前が暗くなっていた。
「わかっては、います。あんな啖呵を切りましたが、こういう人間ですし、全国へ行くこともできなくなるかもしれませんね」
「なんで?」
 飯田先生がきょとんとした顔をする。
「そんな規定あったっけ? 大体、君が狂犬である証拠は? いや、そもそも狂犬って。君に似合わな過ぎ」
 丸い肩を揺らして飯田先生が笑う。笑いごとだろうか、と僕は顔をしかめる。けれどもあまりにもおかしそうに笑われるので、だんだんこちらまで頬が緩んできてしまった。
 飯田先生にはこんなところがある。飄々としていてつかみどころがない。
 ひとしきり笑ってから、先生は顔を上げた。
「狂犬がどうとかはともかくさ、僕はね、感動しちゃったんだよ。君のスピーチ」
「感動、ですか?」
「だってそうだろ。君があそこで自分が狂犬、ああ、だめだ、やっぱり狂犬って言うと笑っちゃう……ごめん。ともかく、狂犬だって言い出したのって、誰かを守りたいなあって思ったからなんだろ」
 さらっと、守りたい、と言われて頬が熱くなった。
 そんな大層なものではない。ただ許せなかった。それだけなのだ。美化されても困る。
「狂犬の血が騒いだとか、そんなレベルの話です」
「君は僕を笑い死にさせたいのか」
 ああ、苦しい、と言って飯田先生は眼鏡を外して目元を拭った後、ふっと真顔になった。
「弓道はさ、ひとりで閉じてひとりで進んでいく孤独な武道だよね。でもさ、弓ってもともとは命をかけて戦うための武器としてあったんだよね」
「そう、ですね」
 頷く僕の前で飯田先生は、ふうっと眼鏡に息を吹きかけてこしこしとハンカチで拭く。
「もちろん当時もさ、弓は自分のために使われただろうと思うよ。けれど……誰かを守りたい、そんな思いを抱いて弓を構えた人だって絶対にいたはずだよね」
 汚れがなくなったか確認するように、飯田先生は眼鏡をかざす。眼鏡のレンズ越し、先生の目が僕を見つめた。
「君にとっても弓ってそういうものなのかもしれないなあ、って思ったらすごく胸が熱くなった」
 水原くん、と顔に眼鏡を戻しながら先生が僕を呼ぶ。
「僕は、君は素敵だと思ったよ。いろいろ言う人もいる。でもそれを跳ね返すくらい、今の力を見せてやりなさい。君ならできるよ」
 じりり、と瞼が熱を帯びる。思わず唇を噛みしめる僕に気付かぬふうに、飯田先生は弓道場を見回した。
「君を見てたら僕もまた引きたくなってきたな。水原くんさ、教えてくれる? もう結構忘れちゃっててさ」
「僕で、よければ」
 なんとかそう返すと、飯田先生はにこりと笑って、練習、頑張らないとな、と丸い声で言った。
 弓道場を出てぶらぶらと歩く。終業式が終わって時間も経っているから人影はそれほどない。そのことにほっとしながら校門に差し掛かったとき、ぐい、と横合いから腕を掴まれた。そのままその人物は、ぐいぐいと僕の腕を引いて歩いていく。
 僕を連行していたのは、やっぱりほたるだった。
「なにしてくれてんの、樹さん。これじゃ全部、台無しだ」
 ほたるの顔は強張っている。通りがかった数人の生徒の視線を背中で撥ねつけるようにしてほたるは歩き、駐輪場の陰でようやく僕の腕を離して小言を再開した。
「俺はいいって言ったよね。なのに、なんであんなことすんの」
「俺は嫌だから」
 きっぱりと言う。僕の勢いに圧されたように、ほたるがたじろいだ。
「は? 狂犬でいたかったってこと? 意味わかんない。樹さんにはやりたいことがある。狂犬でいた時間なんて無駄だろ。だから俺が」
「無駄なんて決めつけるな。俺にとってあの時間はなきゃ駄目な時間なんだよ」
 そこで僕はそっと呼吸を整える。狂犬なんて言われていたくせに、心臓がおかしな具合に緊張している。でも言わなきゃ、いけない。
「あの時間があったから、俺はお前に会えた」
 ほたるの目が見開かれる。その彼の顔を見上げながら僕は今一度深呼吸をする。そうしてからそうっと声を落とす。届いてほしい、と願いながら。
「お前とコンビニにいた時間も、一緒にエクレア食べた時間も、俺は絶対なかったことにしたくない。今、こうして話している時間も」
 少し、怖い、と思った。こんなことを今更自分が言っていいのか、と躊躇う気持ちもあった。
 でも決めたのだ。もうほたるに甘えてばかりではいられない、と。だから僕は言う。
 今、一番、言いたいことを。
「俺はさ、お前のこと、好きだなって思うんだけど。お前は、どう、思ってる?」
 ああ、やっぱり駄目だ。顔を見ていられない。恥ずかしくて消えたくなる。引導を渡されるなら、光の速さで渡されたい。
 などと、心中で悶えつつ返事を待つが、ほたるからの答えは返ってこない。あまりにも長く黙っているので、さすがに焦れてそろそろとほたるの様子を窺った僕は仰天した。
 ほたるが片手で目元を覆い、顔を伏せていた。
「ちょっと、なに。まさか泣いて……」
「泣いてないし」
 返ってきた声は完全に鼻声だ。それでも気丈に顔を上げたほたるは、振り切るように指先で目尻を払ってから、はあっと深い息を吐いた。
「樹さんってさ、馬鹿なの?」
「は⁉ なんだよ、馬鹿って。前々から思ってたけど、お前、生意気。先輩に敬意示せってば」
「いや、馬鹿でしょ。だってさ、普通わかるよな」
 涙の名残りのある声で言い、ぷい、とほたるはそっぽを向く。
 その頬は、これまで見たことがないほど赤かった。
「好きでもない相手のためにスイーツ作るかよ。学校だってここ選んだりしない。遠すぎるわ、偏差値高いわ。俺、どれだけ勉強したと思ってんの。頭、沸騰するかと思った」
「お……」
 淀みなく言われ、今度はこちらが言葉を失う。ほたるは頬を染めたまま、ふっと目を伏せた。
「でも、樹さんは過去を消したいんだって思ったから、こっそり応援しようって思ってたんだ。なのに、狂犬丸出しで追いかけてくるし。猫かぶって過ごしてるくせに、俺のこと邪険にもしないで昔みたいに相手してくれるし。大事な人、とか、みんなの前で言っちゃう、し。大体、俺はこの間、好きって……伝えたつもりだったのに、確認してくるとことか、なんかもう」
 はああ、と息を吐いてから、ほたるはそうっと目を開ける。
 じっとこちらを見つめてくる目に、呼吸が止まった。
「馬鹿」
 馬鹿馬鹿言うな、と言い返そうとしたが言えなかった。熱くなる頬を持て余しながら僕は横を向きつつ、ごめん、と言う。その僕の頭の上でほたるが呆れたようにまた息を吐いた。
「いいよ。そういう空気読めないとこも樹さんらしいし」
「いや、あの、それは言い過ぎだろ……ってか、そこじゃなくて」
 へどもどする僕にほたるが怪訝そうに首を傾げる。その彼の前で僕は目を閉じる。
「俺、ちゃんと言わなかったから。中学のとき、お前にさ、弓道やるから会えなくなるって。すごくひどいことしたと思う。なのになんで、お前、こんな俺のこと」
「自転車」
 遮られ、僕は言葉を止める。え、と目を開けると、ほたるは前髪をいじりながら駐輪場の自転車を見ていた。
「俺、あのころ、自転車乗れなくてさ。そしたら樹さんが、俺が教えてやるよ、って笑って教えてくれただろ」
「え、あ……うん」
 確かにそうだ。自転車のせいで学校へ行くのをやめてしまったと言うほたるを笑った後、僕はほたると公園で自転車の練習をした。
「あれ、俺、すごくうれしかったんだ。何度失敗しても、頑張れ頑張れって言ってくれた。こけても起こしてくれてさ。それがずっと忘れられなくて。だから、頑張ってる樹さんを俺だって応援したいって思ったんだ。その……樹さんに自転車の乗り方教えてもらったおかげで、俺も学校、行くようになったし」
「そ、か」
 単なる気まぐれだったのだ。ほたるはつらい顔も苦しい顔も見せなかったけれど、寂しそうに見えて。笑わせてやりたくて。ただ、それだけで。
 でもそれをほたるは大事な思い出のように語る。目を細めて。
 なんだかもう、本当にどうしていいかわからない。
「困ったことあったら……言えよ。自転車みたいに教えてやる、から」
 照れ隠しでそう言うと、ほたるは一瞬、気を呑まれたような顔をしてから笑った。
 いつもの淡い微笑ではない、温かい顔で。
 その顔を見て思い出す。
 乗れたよ、樹さん、と笑った彼の顔は、今、目の前で咲いたこの顔と確かに同じものだった。
 目頭を熱くした僕に、柔らかい声が訊いた。
「樹さんさ、エクレア以外だと甘いもの、なにが好き?」
「え、エクレア以外? なんで?」
「だって、大会の会場で食べるにはあれ、食べにくいだろ。袴、べとべとになっちゃうよ」
 ふざけた口調で言われ、僕は顔を赤らめる。その僕の腕をそうっとほたるが掴んだ。
「応援、行きたいけど、俺も行っていい?」
 駄目だと言うと思っているのか、この野郎は。
 憤然とほたるの手を振りほどく。ふっと目を見張る彼の手を逆にぐいと掴んだ僕は、赤い顔で言い放った。
「かっこいいところ、見せてやるから、来い」
「おお、言った。そうだよな。全校生徒の前で宣言しちゃったもんな。やるしかないよな」
 言われて青ざめた。ああああ、と呻いた僕に、ほたるはくつくつと笑ってから問いを繰り返す。
「で、エクレア以外だったら、なに食べたい?」
「……マカロン」
 うなだれながら答えると、マカロン、と繰り返し、ほたるはますます笑った。
「狂犬らしくなさすぎてウケる」
「うるさい。好きなんだからいいだろ」
「うん」
 切り返す僕にほたるの優しい返事が寄り添う。見上げると、今度はほたるのほうが照れ臭そうに目を逸らした。
「美味しいって言ってもらえるよう頑張って作るから。樹さん、絶対勝って」
「……任せとけ」
 そっと微笑み返すと、ほたるは恥じらうように前髪を掻き上げた。掴まれたままだった手がきゅっと強く握られる。
「帰ろ。樹さん」
 くい、と手が引かれる。その力に引っ張られて僕は歩き出す。
 蝉が鳴く。空へ届けと言わんばかりに。その声を吸いこんで輝く青空を瞳に映す。
 昔からこの色が苦手だった。なんとなく正しすぎる色に思えたから。でも、今年はそう思わないでいられそうな気がする。
 こいつのおかげで。
 そっと繋いだ手に力を込めると、こちらに背中を向けていたほたるの耳が赤くなったのがわかった。
 その赤にこちらも赤面を誘われながら、僕は小さく拳を握った。
 勝ってみせる、見てろよ、と、僕らの上に広がる青に向かって誓う。
 雲ひとつない青空は、大きな腕で僕らを包むようにして、笑顔で広がり続けていた。


―――了―――

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