「遅くなっちゃってごめんね、やっと会いにこれたよ」
 
 翌年、七月三十日。
 谷咲文都の十八度目の誕生日、そして。
 
「ちゃんと退院できたよ」
 
 高校一年の頃から続いていた入院生活が終わりを迎えた日。
 今、私は文都くんの家を訪れていて、仏壇の前に正座している。視線の先に置かれた遺影には、生前の文都くんそのままの、今にも「言寧」と優しく名前を呼んでくれそうな笑顔が映っている。
 私は遺影から目を逸さなかった。
 それくらいには文都くんのいない世界を受け入れ始めている。
 
「待ってるって言ってのに、どこよりも遠い場所にいっちゃうなんて本当に困った人だよねぇ」
 
 マッチに火を着け、線香の先に灯す。煙がまっすぐ昇っていくのを見届けて私は静かに手を合わせた。そしてゆっくり、瞑った目を開ける。再び目が合った文都くんに笑いかけてみた。
 
「新人賞も、お誕生日もおめでとう。伝えるのが遅くなっちゃってごめんね。私は文都くんに支えてもらってばっかりだったけど、あの日からちょっとは頼り甲斐のある子になったと思うんだぁ」
 
 文都くんの受賞を知ってすぐに、私は一時退院のうちの一日を使って新人賞を開催したサイトの運営をしている出版社を訪ねた。そこで「辻紫言寧です」と名乗ったあとに「もしかしてあのヒロインの……!」なんて会話を編集部の人と交わしたことは生涯忘れないだろう。そして文都くんが亡くなっていること、受賞作が二人の実話であること、生前の文都くんの書き置きから出版の意思があることを伝えてきたのだ。
 
「文都くんの作品を最終選考まで残してくれた編集部の人、すっごい泣いてたの。若くて優しくて頼れるお姉さん! って感じの人だよ。未完結作品の受賞ってだけでも異例なのに、作者がいないなんて、本来なら出版は難しいんだけど、どうにか話を通してくれて『絶対この世界に残しましょう』『形にしましょう』ってちゃんと二人の気持ちを汲んでくれる人に出会えたよ」
 
 担当編集者と週に一度の打ち合わせを繰り返しながら、刊行作業は進んでいった。
 文都くんの言葉を最大限残しながら補足をし、エピソードを濃くしたい部分は私の記憶を元に文章を書き加えていった。彼女は私の惚気話も積極的に聴いてくれて、それを亡くなった恋人との思い出話、ではなく純粋な恋話として受け取ったくれた。話す度に「青春ー!」と素でオーバーなリアクションをしてくれる。彼女の繕わない反応や明るさは、文都くんの死を今ほど受け入れきれずにいた当時の私の心を和ませてくれた。そんな彼女は今も、担当編集者として、心の拠り所として、私を支えてくれている。
 
「あっという間だったなぁ、文都くんとも一緒に本になる過程を楽しみたかったな」
 
 小さなUSBに込められていた文章が、紙原稿として刷られ、編集者やライター、様々な刊行作業に携わる人たちからの言葉が書き込まれ、書影や帯が付き、全員の命が吹き込まれて一冊の小説へと生まれ変わっていった。
 生きるって変わることだからね、をここでも体感するとは。思わず感動してしまうそうになる。
 
「あっ、そうそう。宮澤さんがね、クラスの女の子をお見舞いに連れてきてくれたんだ。夏休みが明ける来月からは体調を見ながら登校できるようになりそうだよ」
 
 退院へ向けての検査や日常生活に慣れるための本格的なリハビリを終えた私は、病室からではあるもののホームルームや学校行事に参加したり、放課後に高校へ行き担任の先生と体調や授業ペースについての話し合いをしたり、実質の休学状態から復学を目指すために動き始めている。私は文都くんが想像してたより遥かに元気になったよ! つい、そう自慢したくなる。
 
「だから安心して私のことみててね。文都くんに希望をもらった私は、この先、なにがあっても大丈夫! って思って待ってて?」 
 
 未来を生き始める助走を繰り返す毎日の中で、そう言えるくらいの私になった。
 だけど。
 
「文都くんがいなくて寂しいって気持ちもちゃんと大事にしまってあるから。そこも、安心しててね」
 
 すべてを割り切れたわけじゃないことも事実で、いまだに「もう一度会えたら」を願って眠りにつく夜もある。
 でも、きっとそれでいい。会いたくなったら、報告したい幸せを掴めたら、生きていく路頭に迷ったら、二人の想い出に浸りたくなったら、またここに来ればいい。
 文都くんは私の記憶の中で、言葉の中で、永遠に生き続けている。それだけは、私がどれだけ生きても変わらない事実なのだから。
 
「今年の二月に刊行されたんだけど、どうしても直接届けたかったんだ。もう八月になっちゃうね。文都くんと私の二人の物語、ちゃんと本になったよ」
 
 私は一冊の小説を、両手でそっと遺影の前に置いた。
 
『この物語は、ヒロインとして生きた君のために。』辻咲言都
 
 何度読み返しても素敵なタイトル。
 こんなにも素敵な小説のヒロインになれたことは、私の人生で文都くんと出会えたことと並ぶくらい幸せなこと。
 
「発売日、二月二十九日だったんだ。閏日、私たちは本当に奇跡ばっかりだね」
 
 奇跡ばっかり、とんでもない確率ばっかり。
 文都くんが病室へ来てくれたことも。
 彼氏役を引き受けてくれたことも。
 私が文都くんを好きになって、文都くんも私を好きになったことも。
 だから、本当に。
 
「出会ってくれて、ありがとう」
 
 心から。
 
「好きになってくれてありがとう」
 
 最後にここでもう一度。
 
「ヒロインにしてくれて、ありがとう」
 
 難しい言葉や洒落た表現なんていくつも知っているはずなのに、こんなときに溢れてくるのは、そんな心のままの五文字だった。
 
「一緒に書こうって言ってくれたエピローグ、ちゃんも書けたよ。次こそは一緒に、って私ずっと想い続けるから、私が隣に会いにいく何十年先まで小説の書き方忘れちゃダメだからね?」
 
 何度も消しては書いてを繰り返したエピローグ。
 そこには、小説家、辻咲言都への憧れと愛と記憶を込めて。 
 
 ◆
 
『いつかの後悔を恐れるよりも、今の幸せを逃したくないって思えたんだ』
 
 さよならも言わずにこの世を去った君は、私にそう言葉を遺していった。
 夜空を彩る花火のように短い命の中で、私の日々を彩ってくれた君は眩しくて、気付いたことには惹かれていて。
 常に優しさが含まれた表情、強がる時に震える声、抱きしめた時の暖かさや安心感、そんな君が生きていた瞬間を私は小説として、この世界に残し続けると決めた。
 それが君の夢と、私の願いが叶った瞬間を色褪せさせない形だったから。
 私の命が終わるその日まで、すべての時間を費やしてでも君を描こう。だって君は——
 
 ——私がこれからを生きていくための希望なのだから。
 
 
 辻咲言都