「ことねちゃ……言寧ちゃん……!」
 
 何度も私を呼ぶ女性の声が、ぼんやりと聞こえる。
 
「お名前言える? 私の声聞こえるかな?」 
 
 私の肩を揺すりながら、繰り返しそう尋ねていた。
 
「言寧ちゃん、声が聞こえていたら私の手をギュッて握り返してくれるかな」
 
 その女性は、私の右手を包み込むように柔らかく握った。微かに力の入る指先を動かしてみる。
 そこからは、徐々に意識がはっきりしてきた。
 ぼやけていた視界が鮮明に映って、身体に力が入っていく感覚があって、確認のために尋ねられた名前、生年月日、主治医の名前を答えることができた。
 私は、生き延びたんだ。 
 カーテンの隙間から見える窓の外は暗くて、時計に目をやるとすでに面会時間の十八時を過ぎていた。ごめんね、ちょっと起きるのが遅くなちゃったね。
 手術成功を喜んでいる顔が早く見たい、よく頑張ったねって抱きしめてほしい、無事に一時退院を迎えて一緒にライブに行きたい、私がここまで生きたことはどんなふうに描かれているんだろう——ああ、溢れてくる、術後でまだ体力が戻っていない身体なのに、それとは対照的な生命力に溢れた未来への希望が、私の頭を埋め尽くしていく。でも、どんな望みよりも今はただ——。
 
 ——文都くんに会いたい。
 
 *
 
【ちゃんと目覚めたよ、待っててくれてありがとう】
【明日から面会許可降りたよ!】
【今週は検査が多くて病室にいないときもあるから来るとき教えてね!】
【執筆とか学校とかで忙しい? もしそうなら返信無理なくて大丈夫だからね】
【容態が安定してる時の食事に戻ったよ!】 
【今のところ検査結果に異常なし!】
【この調子なら一時退院もバッチリだね!】
【もうすぐ目が覚めて二週間が経つよ、そろそろ文都くんに会いたいなぁ】
【もしかしてスマホ壊れちゃってこの連絡届いてなかったりする?】
【三週間も会ったり話したりしてないって、さすがの私でも寂しくなっちゃうなぁ】
【ねぇ、なにかあった? 既読だけでもいいからつけてほしいな、お願い】

 目が覚めてから、私は文都くんへメッセージを送り続けた。
 本当なら毎日でも送りたかったけれど、一方的に送り続けるのは気が引けて、週に三回まで! なんてルールを作ったりしていた。
 ただ、トーク画面を開いて【送信済み】の表示が増えていくのを見るたびに、私はだんだん怖くなった。文都くんは既読が早いタイプではないし、返信もマメではないけれど、一ヶ月間既読すらつかないなんてあまりにも不自然だから。
 どうして連絡がつかないのだろう。考えていると、過去に術後で疎遠になった経験が頭をよぎった。
 中学生の頃、仲良くしていた子と手術を機に音信不通になったことがある。私が死んでしまうことが怖くて距離を置きたかったのだと卒業式の日に、その子の母親から渡された手紙で知った。でも、文都くんは違う。私を待っていると言ってくれて、それは絶対に嘘じゃない。それならどうして? やっぱりなにかあったのだろうか、わからない、怖い、会いたい。
 そして今日は私たちが待ち望んでいたことが叶った日で、それを早く教えたい。
 
【どうしても伝えたいことがあるの、電話かけてもいい?】
 
 既読も返信も待たず、私は通話開始を押した。
 出てくれるかな、それと一緒に既読もつくかな、出てほしい、せめて声が聞きたい。
 無機質に規則正しい接続音が数回鳴ったあと、それが途切れる音がした。
 
「文都く——」
『おかけになった電話番号は現在使われておりません。おかけになった電話番号は……』
 
 その音声を聞いた瞬間、端末を耳に当てていた腕の力が抜けて、私は暗くなった画面をただ見つめてしまっていた。
 おかしい、嫌な予感がする、悪い想像ばかりが頭を埋めてしまう。
 疑いたくも、考えたくもないけれど、なにかあったとしか思えない。執筆の過労で倒れてしまったか、重度な感染症にでも罹ってしまったか、それとも——ああ、文都くんがいい人なのが悪い。
 一ヶ月間既読すらつかない。
 こんな状況でも私は、文都くんから言われた「待ってる」を疑えずにいるのだから。
 必ず来る、大丈夫。
 そう自分に言い聞かせる。文都くんが来ないはずがない、そうわかっていながらも切り離せずにいる「なにかあったのかもしれない」という不安を押し潰すように、私は夏祭りで取ったアザラシを強く抱きしめていた。
 
「……まだお昼の二時なんだ」
 
 文都くんを待っている日中は、大袈裟ではなく異様に長く感じる。
 気を紛らわすために眠ろうとしてみても別室から聞こえてくる見舞客の「こんにちは」という声で反射的に目が覚めてしまって寝付けない。
 あと何日、そんな日が続くのだろう。「待ってるよ」と言ってくれた文都くんのことを、私は何日待てばいいのだろう。お願い、早くきて、どこにいるの、私は早くあなたに会いたい。
 
「辻紫さん、お見舞いの方がいらっしゃってますよ」

 アザラシに顔を埋めていた私の耳に、看護師の朗らかな声が響いた。
 聞き間違いではない、確かに「辻紫さん」と名前を呼ばれた。
 私への見舞い客なんて、心当たりは一人しかいない。文都くんに違いない。
 看護師に連れて来られていたことなんてなかったから、そこは違和感だけれど、術後に病室が変わったことを考えるとその違和感の理由にも納得できる。
 来てくれた、やっぱり大丈夫だった、なにも心配する必要なんてなかったんだ。
 
「はい! どうぞーっ」
 
 看護師が会釈をして去っていく。
 病室への扉が引かれる音を聞いて、心配や不安が住み着いていた私の心は軽くなった。やっと会える、やっと私の口から無事に生き延びたことや、一時退院が決まったことを言え——。
 
「連絡もなく突然すみません。初めまして、宮澤創也といいます」
 
 病室を訪れたのは、文都くんより背が高くてがっしりとした、いかにも高校生らしい見た目の異性。
 私の期待は、一瞬にして崩れた。
 
「え……」
 
 そして私は彼の名前を、どこかで聞いた記憶がある。
 
「驚かせちゃいましたよね、突然知らない人がお見舞いなんて。えっと、僕は」
「文都くんの、お友達……ですよね?」
 
 彼は静かに頷き、私が促すままベッド横の丸椅子へ律儀に会釈をしたあと腰をおろした。微笑んでくれている顔の引き攣り方からは緊張が伝わってきて、そのせいか挙動もどこかぎこちない。
 
「えっと、どういったご用件で……」
「今日は、伝えなくちゃいけないことと、渡すものがあって来たんです」

 そう言い終えた彼からは、なにか深刻そうな雰囲気を感じた。小刻みに震えている手や、不自然に深く吸って吐いてを繰り返している姿がなにを表しているのか、私には見当もつかなかった。ただ空気感が不穏なことだけは察していて、このままだと私までその空気に呑み込まれてしまいそうな予感さえした。
 
「……言いづらいことですか?」
「え」
「今から私に言うこと、そんなに言いづらいことですか?」
 
 無意識に強くなってしまった私の口調に彼は驚いていて、それに申し訳なさを感じていながらも目を逸らさずに彼からの答えを待った。
 
「いや、その……はい、そうですね」
「それなら私は大丈夫なので、不安がらずに教えてください」
 
 私は数秒後、この言葉を口にしたことを心底悔やむ。
 大丈夫なので、と断言した私の様子を伺いながら、彼は口を開いた。
 彼の唇は動いている、声だって聞こえている、それなのに私の頭はその言葉の意味を理解することを拒んだ。彼が言っていることは嘘に違いない、そう思い込むことに必死で返す言葉を探している余裕なんてあるわけがなかった。
 底の見えない真っ暗な箱の中に予告もなく突き落とされたような、あえて言葉にするならそんな感覚に陥ってしまう。
 
 ——「文都が……交通事故で亡くなりました」
 
 涙を堪えながら震えている彼の声を聞いて、私は返す言葉を失ってしまった。
 文都くんが死んだ? もうここには来ない? 会えない? 一時退院の約束はどこにいったの? 嫌だ、受け入れたくない、信じたくない、信じられるわけがない——彼の言っていることが嘘だと、無理矢理にでも言い聞かせようとしている私がいた。
 
「……なんなんですか」
「え」
「そんなこと、信じられるわけないじゃないですか……突然きて文都が死んだって、そんなの二つ返事で『そうなんですね』なんて、受け入れられると思います……?」
「それは……でも本当に、僕もなんて言えばいいか……」
「言葉なんて要らないんです……!なにを聞いても、信じようなんて思えないので」
 
 俯いたまま、冷たく突き放すような言い方をしてしまった。
 彼はなにも悪くないのに、彼だって大切な友人を亡くして酷く心を痛めているはずなのに。様子を伺いたくて視線だけを彼の方に向けてみた。目の下には濃いクマがあって、心なしか頬もこけているようで、それだけでも憔悴しているのがよくわかる。
 
「ごめんなさい、取り乱しました」
「いえ、俺の方こそ突然そんな、すみません」
「……詳しく聞かせていただけますか、宮澤さんのお話できる限りで」
 
 文都くんが事故に遭ったのは、手術当日の朝だったのだそう。
 大学病院前行きのバスへ向かおうと道路を横断している途中、大型のトラックに撥ねられて即死だった、と。その一部始終を彼は通話越しに聞いていたらしい。
 
「朝、ですか? 手術が終わるのは夕方って伝えていたはずで、それこそ学校は……」
「目が覚めてすぐに隣にいたい、って。その日は張り切って学校も休んでたんです」
「もし、夕方に来てくれていれば死なずに済んだのに……『来るのは夕方の約束だよ』って、言っておけばよかった……」
「たとえ辻紫さんがそう釘を刺していたとしても、文都は聞かずに朝から病院に行ってましたよ。僕にはわかります」 
「え……?」
「文都は、なにより大事な人のことを最優先で生きてるやつなんです。自分の気持ちを抑え込んででも笑ってくれたり、一緒に喜んでくれたり……不器用なくせに、困るくらい優しいから……」

 彼の目から涙がこぼれ落ちた「すみません」と慌てて目元を拭っているけれど、抑えようとすればするほど溢れてきてしまっている。
 文都くんの葬儀やお通夜はすでに終わっていて、遺骨は自宅へ帰っているらしい。交通事故だったことから生徒への注意喚起も込めて、事故の翌日、文都くんの訃報は全校朝会にて生徒へ報されたとのこと。谷咲文都のいない世界を受け入れてしまっている現実に、私はどうしようもない喪失感を抱いた。
 
「私、どうして手術、成功なんてしたんでしょうね」
「……え」
「ずっと『もうすぐ死ぬ』って覚悟して生きてきたんです。だから友達もいなくて、このままひとりならいつ死んでもいい、早死くらいがちょうどいいって思ってて……でも、文都くんに出会ってから私、初めて『この人と生きたい』って思えて、だから手術だって頑張れたのに、それすら失った私に、生きてる意味、あるのかなって思っちゃって」
 
 初対面の彼に向かって、私はなにを言っているのだろう。自分でも呆れてしまうけれど、今言葉を呑み込んでしまったら、私は私自身の感情に溺れて息ができなくなってしまいそうだった。
 私は、ただ生きたいわけではない。ただ寿命を延ばしたかったわけじゃない。私は。、文都くんと一緒に生きるために寿命を延ばしたかったから。そこに文都くんがいないのなら、私が生き延びた意味がない。
 私は俯いたまま、握りしめてできたシーツのシワを見つめることしかできなかった。空気が重たいことは察している、彼の啜り泣く声だけが病室には響いている。これ以上沈黙を続かせるわけにはいかない、なにか言わなければ彼を困らせてしまう、でも今の私にはそんな気を配っている余裕なんてない。駄目だ、今日はもう帰ってもらおう。
 
「変なこと言ってすみません、今日はもう——」
「……意味なんて、あるわけないじゃないですか」

 私の言葉を遮るように、彼は語気を強めてそう言った。
 慰めでも励ましでもない、現実を真っ直ぐに突きつけるような言葉を、予告もなく刺してきた。彼の目はまだ赤く潤んでいて、これ以上涙が溢れてしまわないように精一杯目を開いている。
 
「俺だって……俺だって、文都がいなくなったのに、すぐいつも通りに戻る教室で立ち直ったフリするのキツイです。文都とは友達だったけど、それ以上に仲間で、嬉しいことばっかりじゃなかったけど一緒に切磋琢磨してくのが、俺の生きがいだったから……性格的に知り合いも多いけど、俺を生かしてくれてるって感じたのは文都だけだったから……辻紫さんの気持ち、全部はわからないし、恋人を亡くしたつらさなんて計り知れないけど、わかる部分があるってことを前提で言いますよ」
 
 感情を剥き出しにしたようなその言葉たちは、敬語が使われていながらも容赦なく、混乱して真っ白な私の頭に飛び込んできた。一呼吸おいたあと、彼は前のめりになって再び口を開く。
 
「誰かといたいっていう気持ちは、生きる理由になることはあっても、生きる意味になることはないんです。そうじゃないと、失った時に残された人、が生きていけなくなっちゃうから」

 私が幼いせいか、彼の言っていることが今の私にはどうも腑に落ちなかった。彼の言葉が胡散臭いとか、綺麗事だなんてことは思わない。『この人といたいから生きる』と『この人がいないと生きられない』は違う、それが彼の言う理由と意味の違いだろう。言っていることは理解できるし、間違っているとも思えない。
 でも私は、そう割り切ってしまうことを寂しく感じてしまうのだ。
 この人といたい。それは、立派な生きる意味になる。
 病室で孤独だった私だからわかる。どれだけつらい治療も、耳が痛くなるような病状の説明も文都くんがいれば受け入れることができて、立ち向かえた。
 私は、余命三ヶ月なんて絶望的な状況の中、最後の手術を希望した。
 「文都くんがいた“から“希望した」のではなく。
 「文都くんとの未来の“ために“手術を希望した」のだ。
 それくらい文都くんとの未来は、私にとっての生きる意味だった。
 意味を失った私はどう生きていくか路頭に迷う。
 理由と意味だなんて理屈で整理できるほど、私は強くない。
 
「私は、そんなふうに思えないです」
「……」
「宮澤さんの言うことが正しかったとしても、私にとって文都くんとのことは生きる意味だったから、それに……それが間違いだとは思いたくないんです」
 
 困らせてしまう頭では分かっていながら、私の言葉は止まらなかった。
 彼は言葉を詰まらせながら、なにかを考え込んでいる。その姿に、申し訳なさが積もっていく。初対面と言っても、彼は文都くんにとって大切な友達だ。覚悟を決めて文都くんのことを伝えにきてくれたのに私はそれを嘘だと跳ね返して、尽くしてくれた言葉に「そうは思えない」と反発して、私は迷惑しかかけていない。
 そんな私に構うことなく、彼は鞄からなにかを取り出しそれを私に差し出した。
 
「受け取ってもらえますか」
 
 それは、透明なジップロックにそれぞれ入れられた二つのUSBだった。
 
「文都が、辻紫さんに届けたかったものです」
 
 その言葉に背中を押されるように私はその二つを両手で受け取り、片方を取り出してパソコンに差し込んだ。データが重いせいか、読み込むのに時間がかかって、その待ち時間の数十秒が私の緊張を余計に掻き立てていく。
 
「……これって」
 
 映し出された文章のいちばん上には『プロローグ』と記されていて、追っていくと『言寧』そして『文都』の字が、私の目に飛び込んできた。
 確かめるまでもない、これは、文都くんが私をヒロインとして描いた二人の物語だ。やっと、この目で文都くんから見た私を読むことができる、不器用で口下手な文都くんの本心を知ることができる、二人で感じた幸せを言葉として受け取ることができる。 それなのに、それなのに私は涙で視界が歪んで、プロローグのその先へ進めない。それは作者である文都くんが亡くなっているからではなくて——。
 
 ◆
 
『生きるって、変わっていくことだからね。ちゃんと残しておかないと』
 
 余命わずかと宣告された君は、僕にそう教えてくれた。
 夜空を彩る花火のように、短い命の中で僕の日々を彩ってくれた君は眩しくて、気づいた頃には惹かれていて。
 気持ちのまま素直に移り行く表情、通話越しの弾んだ声、手を握った時の暖かさや柔らかさ、そんな君が生きている瞬間を僕は小説として、この世界に残すと決めた。
 それが小説家という僕の夢と、生きた証を残すという君の願いを叶える形だったから。
 君の命が終わるその日まで、僕はすべての時間を費やしてでも君を描こう。だって君は——
 
 ——僕にとっての希望そのものなのだから。
   
 ◆
   
 物語が、そんな告白から始まっているせいだ。
 目の淵で堪えていた涙が手の甲に落ちてくるのを感じる、慌てて顔を伏せて目元を抑えていると視界の端からティッシュを差し出す彼の手が見えた。
 
「涙を拭いて、文都が辻紫さんに見せたかったものがまだあるんです」
 
 精一杯頷きながら、私は目元を覆うように抑えた。止まれ、止まってくれ、そう何度も言い聞かせているのに涙が止まることはなく、私はそのまま顔を上げた。「見せてください」と告げると彼からは深い相槌が返ってきて。
 
「このサイト、開いてもらってもいいですか」
 
 促されるまま彼のスマートフォンの画面を押すと、カラフルなサイトが現れた。見てみるとそれは、以前文都くんが見せてくれた小説投稿サイトのトップページだった。
 
「次はここの【新人小説大賞 受賞者発表ページ】を押してください」
 
 震えて思うように定まらない指先に意識を集中させて、言われた場所に触れる。回転している読み込み中の表示に緊張を煽られながら、文都くんが私に見せたかったものをひたすらに待っている。回転が止まる、真っ白な画面の後に表示されていたのは——。
 
 ——【新人大賞 『この物語は、ヒロインとして生きた君のために』辻咲 言都】
 
 辻咲 言都。
 大々的に表示されたその名前は、初めて目にするものだった。
 それなのにどこか親近感のあるような、初めてと言うには違和感が残るような、そんな名前。
 
「ツジサキ、コト、これって、もしかして……」
「辻咲言都。ペンネームで活動してる作家の正体を明かすなんてタブーかもしれないけど、辻紫さんが察してる通りですよ」
 
 微笑みながら、彼は遠回りに答えてくれた。
 親近感のあるその名前は、私と文都くんの名前の字が半分ずつ織り交ぜられたもの。作者の正体は他でもない、谷咲文都。
 サイトをスクロールしていくと、審査員からの講評が記載されていることに気づく。彼へ視線を向けると「文都もきっと誇らしげに辻紫さんに見せたがると思いますよ」と、意思を汲み取るように勧めてくれた。
 
 ◆
 
 審査員講評
 余命わずかのヒロインと、その姿を描く主人公の物語は我々審査員の心を強く掴み、揺れ動かし、離してくれませんでした。
 キャラクターをキャラクターとして終わらせず、命が吹き込まれた人間として生かされているところは、本作最大の魅力と言えるでしょう。
 特出したキャラクター性から、構成力やストーリー性の拙さは『十七歳の等身大』として審査員の胸を強く打つものとして働きました。
 本作は、新人小説大賞史上初の未完結での最優秀賞受賞作品となります。
 今後完結した『この物語は、ヒロインとして生きた君のために』を読めること、そそして書籍として世に残せること、心より楽しみにしております。
 
 ◆
 
「未完結……それに、書籍って……」
「文都が、辻紫さんを描いた物語で小説家になった。ってことです」
 
 聞いた瞬間、どうにか抑え込んでいた感情が、こぼれ落ちていくように崩れていった。涙は溢れて止まらないまま、呼吸すらまともにできずにいる。
 小説家になりたい、文都くんの夢が叶ったのに。生きた証を残したい、私の願いも叶ったのに。隣にいて、会いにきて、一緒に笑いたかったよ。受賞した時の気持ち、聞かせてよ。「受賞したよ!」って私に報せるのは文都くんの役目だよ? それを知った瞬間の私の表情を、文都くんの感情を、ふたりの会話を、全部書き残して物語にしてよ……そんな願っても叶わないことばかりが、私の頭の中を駆け巡っている。
 
「辻紫さん」
「……はい」
「文都が見せたかったもの、まだ一つ残ってますよ」
 
 もう一つのUSBを手渡され顔を上げると、彼はまっすぐ私を見つめて「ゆっくりでいいですから」と。
 無意識のうちに再び俯いてしまった私は歯を食いしばりながら、手に力を入れて、壊れてしまいそうななにかを保っていた。息が浅くなっていく私を気遣って、彼は窓を開けてくれた。呼吸を整えようと瞼をそっと閉じると、夕方の風が私の頬を撫でた。その感覚が夏祭りの日の風と似ていて、耳を澄ませば文都くんの声が聞こえるのかもしれない、そんな期待をしては、悲しくなってを繰り返している。
 文都くんはもういない。
 それを理解している頭と、理解したがらない心が私の中で綯い交ぜになっている。
 
「辻紫さん」
「すみません、こんな……でも、今は……」
「文都が遺したものを受け取れるのは、この世界で辻紫さんしかいないんです」
「え……」
「事故死だった文都は、当たり前ですけど死への準備なんてしてなくて。最期の言葉も、曖昧で、俺や文都の家族に遺されたものは、文都との記憶だけなんです。でも、文都は、辻紫さんが未来を生きるための準備をしていたから、だから文都が最期に遺したものを受け取れるのは、辻紫さんに与えられた特別なんです」
「そんなこと、言われても……」
「わかってます、だから、すぐになんてことは言わないです。でも、みてあげてください。これは俺からのお願いで、俺のおせっかいです」
 
 そうとだけ言い残して、彼は会釈をして病室をあとにした。
 一人残された私は、文都くんが遺していったUSBと向かい合わせになっている。
 冷たくなった袖で涙を拭って、深く息を吸ったあと、私は手渡されたもう一つのUSBを差し込む。
 
「——っ」
 
 駄目だ、本当に文都くんはどこまでもその優しさで私の心を抉ってくる。
 文都くんは最期まで私の恋人で、最期まで小説家だった。
 ずるいよ、あんなに不器用だったのに。
 たくさん笑わせてくれた文都くんのせいで、楽しい記憶ばっかりを作ってくれたせいで、涙が止まらない。
 私だって、まだまだ伝えたいことがあったのに。
 手術が終わったら、ちゃんと伝えたかったのに。
 会いたい。
 好きだよ。
 大好き。
 戻ってきて。
 私の命を半分上げられる手術とか、この世界にはないのかな。
 あったら受けてよ、今度は私が待ってるから。
 私は生きたい。
 ずっと生きたい。
 百年、一千年、もっともっと、生きたい。
 文都くんと一緒に、生きていたいのに。
 こんな言葉を遺して、どうして置いていっちゃったの?
 そしてその言葉たちは、どうしてこんなにも素敵なの?
 
 ◆
 
 あとがき
 
 このあとがきは、ヒロインとして生きた言寧のために。
 
 僕は、言寧のことが好きだよ。
 突然すぎるかもしれないけど、大事なことは最初に伝えたいタイプなんだ。
 僕は十七年生きてきた言寧のたった二ヶ月しか知らないけど、それでも惹かれちゃうくらい、言寧は素敵な人でね。

 大人びて強がりな言寧の無邪気な姿が好きで
 電話に出る時の『もっしもーし!』って飛び跳ねてくるような声が好きで
 制服とか浴衣姿をくるって一周回って見せてくれるのが可愛くて
 平気なフリは装えるのに心の底はすっごく素直で
 一緒にいると僕まで吸い寄せられるように楽しくなれて
 言寧の語る未来は眩しいことばっかりで
 
 そんな書ききれないくらいの素敵さが言寧にはあって、それを隣で感じられた僕はとんでもなく幸せだったよ。
 言寧を好きになれたこと、これだけで僕の人生に意味があるって思えるんだ。
 だから、言寧の余命が三ヶ月だって報されたとき、僕は内心怖くてしかたなかった。余命わずかのヒロインが亡くなる、なんて小説ではよくある話だし、実際僕も書いたことがあるけど、本当に、自分の大好きな人を亡くすことを僕の心は受け入れられそうになくてね。
 僕は言寧が思っている以上に、言寧が死ぬのが怖かった。
 無責任なことは言いたくないし、こんなことを言ったら言寧は怒るかもしれないけど、そのつらさや痛みを僕が代われたらって何度も思ったよ。
 
 言寧を描くって言ったこと、僕にとってはプロポーズくらいおおきなことだったんだよね。
 身体も心も、僕の想像を遥かに超えるつらさを抱えた言寧の隣で、その姿を描き続けることは、僕のこれまでの人生から掻き集めても足りないくらいの覚悟が必要だったんだ。
 寄り添い方の正解も知らなければ、励ますべきか慰めるべきかの判断も難しくて、僕がいることで言寧を傷つけてしまうかもしれない、そうしたら隣にいたことを後悔するときがくるかもしれないって思ったこともあってね。
 いままでの僕なら、逃げるように言寧から離れていたと思う。
 文都くんは優しい、なんて言ってくれるけど、僕は言寧に隠してるだけで、臆病で、卑屈で、素敵な言寧から「優しい」って言われるくらい出来た人間じゃないんだ。
 小説だって、そんなに胸を張れるものじゃないよ。
 友人が受賞して、自分の才能の無さを突きつけられては夢を諦めようとしたこともあったくらい惨めだったりね。
 でもそんな僕を変えてくれたのは、他でもない言寧だったね。
 傷つかないように、面倒なことにならないように、消極的で、夢を抱くことすら億劫で、死んでいないだけのような僕が、夢に気づいて、初めて人を好きになって、失いたくないって願って、言葉通りの『ずっと』を望んで未来を語って、そんな今を残そうと必死になって。
 後悔するときが来るかもしれない、から、後悔するときがきてもいい、になった。
 いつかの後悔を恐れるよりも、今の幸せを逃したくないって思えたんだ。
 生きることは変わること、言寧の言った通りだったね。
 言寧のおかげで、僕は今を生きたいと思えたよ。
 僕を変えてくれてありがとう。
 
 0.000684%
 突然だけどこれ、なんの確率か知ってる?
 これは、閏日、二月二十九日に生まれてくる確率なんだ。
 言寧は「生まれてくる日も、この身体も病気も、私はとんでもない確率を引き当て続けちゃってるね」なんて笑えない茶化し方をしてたけど、最後までその通りだったね。
 余命三ヶ月を言い渡されたあとに、言寧は手術という名の奇跡を与えられた。
 僕はそのとき、言寧の命は生きるために選ばれた命なんだって確信したんだ。
 だからこの先の未来、なにがあっても大丈夫だよ。
 隣にいる僕が保証する。
 どんなに悲しいことがあっても、つらいことがあっても、僕が大丈夫にする。
 そうやって、一緒に生きていこう。
 手術が成功したら、言寧は僕と同じくらいの人生を生きられる可能性だってある。僕はそう信じたい。言寧にも、信じていてほしい。
 まずは一時退院を無事に迎えて一緒にライブを観に行こう。
 ご両親と会えたらその話も聞きたいな、言寧の喜んでる顔が見たいんだ。
 学校にも通えるかな、隣の席に言寧がいたら僕は授業どころじゃなさそうだね。
 そして卒業式も一緒に迎えよう。
 大人になったらお酒の味も知れちゃうね、健康が大事だから量は程々にだけど。
 言寧は早生まれだから車の免許は僕が先かなぁ。
 ね? 言寧は大丈夫、頭を抱えちゃうくらい幸せなことばっかりだよ。
 
 その幸せのひとつめとして、僕から提案があるんだ。
 言寧をヒロインに描いた『この物語は、ヒロインとして生きた君のために。』のエピローグを一緒に書いてくれないかな。
 やっぱりこの物語は僕だけの言葉じゃなくて、二人の言葉で残していたいんだ。
 手術が終わって、体調も身の回りのことも落ち着いたら書き始めよう。
 そして僕たちの一作目を、一緒に、隣で、完結させよう。
 
 最後に
 辻咲言都、ってなかなか素敵な名前だと思わない?
 辻紫言寧と、谷咲文都を一文字ずつ織り交ぜてみたんだ。
 この物語は二人のものだから、二人の人生の一部を交わらせたような物語だから、
 これからもこの名前で数えきれないくらいの物語を創り出していきたいよ。
 だから言寧、これからもずっと——
 
 ——僕のヒロインでいてください。