「文都くんが私を描く、ってどういうこと?」
張り付いていた緊張感が剥がれた言寧は、腑抜けた顔をしていた。目を丸くして僕を見つめながら「詳しく聞かせて」と、続きを急かしてくれる。その目の輝き方は、僕が彼氏役を引き受けた日に見た記憶とよく重なって、僕が惹かれた言寧そのものだった。
「そのまま。僕が言寧をヒロインに小説を書くってことだよ」
「えっ、だって、文都くん小説書けるの? いや失礼な意味じゃなくてね? 同世代で小説書いてる人、なかなか出会ったことないから……」
「疑う気持ちもわかるけど、僕も書けるから書くって言ってるんだよ? って言っても実感が湧かないだろうから、これを見てもらった方がきっといいのかな」
ウェブへ投稿している小説の画面を開いたまま、僕はスマートフォンを差し出した。言寧はそれを慎重に両手で包み込むように受け取ると、丸い目をより大きく見開いて、視線を画面から僕へ交互に移している。
「谷咲文都、って、本名で投稿してるの? 作品数すごいし……いつから? いつから書いてるの?」
「高校入学くらいかな、作品数が多いだけで大した結果は残せてないんだけどね」
「いやでもすごい、書き続けられるって素敵なことだよ! 今すぐにでも読みたいけど、目の前で急に読まれるのは緊張するよね……? 本名だから忘れることはないし後で読ませてもらうね!」
余命を言い渡されてから消えてしまっていた心の底からの笑顔を、言寧は僕に見せてくれた。変わらない余命三ヶ月という絶望の中でも、その瞬間の幸せを溢れるほど感じている表情。緩んだ頬や三日月の形をした目、それらもすべて僕の言葉で紡いで残していけたらどれだけ素敵なことだろう。
「この物語の一章だけ今読んでもらってもいいかな」
「え、いいの?」
「言寧がどう描かれていくか、参考資料にでも僕の小説を読んでみてほしいんだ」
今までの僕ならこんなこと言えるはずがない。お互いの原稿を確認し合う創也に読んでもらうことさえ恥ずかしさから抵抗感を抱くのに、僕は今、自ら「読んでほしい」と言えてしまっている。
それとは対照に言寧は緊張した様子で僕の小説を読み始めた。ゆっくり、細い指先で画面をスクロールしながら僕の言葉を辿ってくれている。ふっと微笑む横顔も、人物たちを撫でるような眼差しも、すべて書き起こせるように僕は記憶に閉じ込めた。
「どう、だった?」
画面を伏せて顔を上げた言寧に僕は耐え切れずそう聞いてしまった。
まだ一章だけの僕の言葉はどう受け取られただろう、言寧の描くキャラクターのように生きていただろうか。少しくらい届いているかもしれないなんて期待と、誰にも見つけてもらえずにここまで書いてしまったことからの不安とが入り混じって、息が浅くなっていくのがわかる。
「……書いてほしい」
「え」
「私のこと、書いてほしい……文都くんの言葉、私は好き。まだ一章しか読んでないし、技術とかわからないし、器用な感想も言えないけど、文都くんみたいに優しくて、柔らかくて、でもどこか影があって、そんな言葉を紡ぐ文都くんに私の残り時間を、生きてる時間を書いて残してもらえたら、すっごく幸せだって思った」
それは、今の僕がなにより欲しい言葉だった。
これはなんの巡り合わせだろう。夢を諦めきれなかった僕が、願いを諦めきれなかった言寧を描ける。その事実がふたりを繋いでくれた小説でこの世界に永遠に残せる。命は消えても、言葉は消えない。記憶がなくなっても、記録として残り続ける。それはきっと、今の僕の想像を遥かに超えてしまうくらい幸せなことだ。
「でもね、きっとこれからの私は文都くんを傷つけてばっかりになっちゃうと思うんだ」
「傷つけてばっかり?」
「私を書くっていうことは、私の近くにいてくれるってことだと思うから。どんどん弱っていっちゃう私のこと、見てたら辛くなっちゃうでしょ? それで最後には死んじゃうって、文都くんの心はそれに耐えられるかなって。私はそこが、すごく怖い」
「そんなこと……」
「そんなこと、じゃないよ。死んだ人間は、生きてる人間に手を差し伸べられないから。私が死んじゃって、文都くんがひとりになったときに幸せな記憶がたくさん頭にあってそれが思い出すたびに辛くなっちゃう記憶とか、後悔になっちゃうことが、私は嫌なの」
短い命を背負った言寧の切実な迷いが、ふたりきりの病室に響いた。真っ白な空間に震えた声が溶け込むように消えていく。僕は一度頷いた、そのあとに首を横に振って再び不安げに僕を見つめる言寧と目を合わせる。僕の中の覚悟は、言寧の言葉を聞いてもなお、揺らぐことはなかった。
「溢れるくらい幸せな記憶の代償に後悔があるなら、僕はそれで苦しんだっていい。言寧は「生きてる時間を書いて残してもらえたらすっごく幸せだ」って言ってくれた。それならそれを果たすことが、今の僕の幸せになるんだよ」
「そんなの綺麗事だよ、文都くんの幸せと私の幸せは違う。それは、残ってる命の時間が違うなら、尚更」
「確かに綺麗事かもね。でも少なくとも今の僕は、言寧の幸せが僕の幸せだって感じてる僕の心を信じたい。それに後悔したっていい、僕の方が長く生きるなら尚更、やり直しなんていくらでも効くと思わない?」
どこかセリフのようにすら思える僕の言葉に、強がりや嘘なんてものはひとつもなかった。言寧より長く生きられる僕の人生のほんのすこしを渡して、それで言寧が幸せになれるのなら、嬉しそうに笑ってくれる時間が増えるのなら、きっと僕もそれを幸せと感じられる。ここまで来て言寧を新作のネタだなんてことは思っていない、純粋にこの人を描きたい、この人のための物語を書きたいと言寧が僕にそう思わせてくれたのだから。
「だから、僕に言寧を書かせてくれないかな」
僕はこの幸せを選ぶことになにも後悔なんてしないから言寧の人生を描かせてほしい。そんな気持ちを込めてみた。諦めの悪い告白、というよりプロポーズのように感じられる。
「私のこと、幸せで溢れた素敵な物語の中を笑って生きてるヒロインにしてね」
そう言い終えた言寧は目を潤ませながら、僕の手をいままでいちばん柔らかく握った。表面はすこし冷たかったけれど、その手からは確かな暖かさと心を感じて、僕は言寧よりすこしだけ大きな手でそっと包み返した。
「ねぇ文都くん」
「なに?」
「どうして文都くんは小説書き始めたの?」
言寧が言うに書き始めた理由からは、その人が小説に対して抱いている気持ちがわかるらしい。あまりピンとこなかったけれど、確かに好きで書き始めた創也は執筆中も読書中も楽しげで好奇心に満ちた表情をしているし、それが文章からも伝わってくる。言寧の描く生きたキャラクターたちは、言寧が夢見ている自分自身、いわゆるもうひとりの言寧のように感じられて、生きた証を残すという理由とよく重なる。それと比べたら僕の理由なんて。
「すごく情けないけど、逃げで始めたようなものなんだ」
「逃げ?」
「勉強とか得意なこととか、なにも見つけられないまま高校生になっちゃって。受験とかも億劫で、夢も就きたい職業もなくて、だから小説家になっちゃえば安泰だろうって思ったんだ。日記を書く習慣があったからその延長線で書けるって期待して」
「それじゃあたとえ動機は逃げであれ、文都くんの今の夢は小説家ってことだね? 素敵なことで、情けなくなんてないと思うけど?」
「ただ生きていくために適当な会社に就職するのと同じだよ。受験も資格勉強もしたくなくて、日本語さえ書ければできる小説家に転がり込んだってだけで」
「それなら文都くんの理由は就活で、私の理由は終活ってことになるねっ」
「それ、今の状況なら輪をかけて笑えないからね?」
ふふふ、なんて冗談混じりな笑い方は、僕がよく知る言寧の姿だった。
穏やかに収まった姿よりも、やっぱり言寧には僕をからかうくらい遠慮がなくて無邪気な方が似合う。それに僕はそんな言寧でいてほしい。砕けた空気にあやかって、言寧へ少しだけ聞き出しづらいことを聞いてしまえたらと口を開く。
「言寧、彼氏って今までできたことあったりする?」
切り出し方に迷った結果、とんでもなく不自然で違和感まみれの突然な聞き出し方になってしまった。ただ、僕が言寧をヒロインとして描くには必要な質問だったのだからしかたない。
「急だねぇ。でも文都くんからそんなことを聞いてくるってことは、知らないといけない理由があるんだろうね」
言寧はそう言って僕の気持ちを汲んでくれていた。
僕が書く物語の中で言寧には、言寧が思い描くような生き方をしていてほしい。そのひとつとして、恋愛を入れ込みたかった。僕が彼氏役だったとしても、言寧には本当に彼女になった気分で隣にいてほしい。その方がずっと、生き生きしているはずだ。
「彼氏いたことあるよ、病院内で出会った同い年の子ね。まぁ付き合った二週間後に退院できちゃってそれっきりだけど」
「じゃあその人とデートとかはしたことないのかな」
知りたさが積もってしまった僕は、ほぼ答えのわかりきった質問をしてしまった。そんな短期間で、それも院内で出会った相手とデートなんて考え難い。言寧の望む恋愛シュチュエーションを聞き出そうと思っていたけれど、いくつか用意したデートプランから好みのものを選んでもらう形で聞いてみればよかった。
「あるある! それも夏祭りにねっ」
「え」
意外だった。デートの経験があることも、夏祭りに行ったことがあることも、僕の想像にない答えに意表を突かれて返す言葉を見失ってしまう。
「もしかしてショック受けちゃった? 彼氏役だったとしても元彼には嫉妬とかしちゃう?」
お手本のような上目遣を向け、人差し指で肩をちょんちょん突きながら、言寧は僕をからかった。
言われてみれば確かに、言葉を見失っている理由として多少のショックはあるのかもしれない。容姿が整っている上に社交的な言寧なら元彼の存在はまだ理解できる。ただ、デート経験があることへの意外性と、あの放課後が言寧にとっての初デートだったのかもしれないなんて期待のせいで僕の心は不要な衝撃を受けてしまった。
「まぁまぁ安心して! 夏祭りって言っても、そんな青春感はなかったけどね」
「そう、なの?」
「病院の中庭でちょっとした屋台が並ぶ催し物が毎年夏にあってね。大抵夏は体調崩しやすくて行けてなかったんだけど、その年は運良く身体が安定しててさ。だからその子と一緒に行ったの」
「そっかそっか、青春感がなくたってそれは素敵な夏の思い出だよ」
やや適当な相槌を打ってしまったことは、どうか許してほしい。このとき僕の頭は忙しかった。言寧とどうにかもう一度あの放課後のような思い出作りをしたいのだけれど、行き先も目的もわからず路頭に迷っている。
話を聞く限り、言寧にとって夏祭りはあまりいい記憶にはなっていなさそうだった。表情もどこか切なげで、それに気づいていながら、当時の記憶を掘り返すようにもう一度繰り返させるのは酷な気がする。夏祭り以外の夏らしいもの……海か。でも今の言寧の身体で暑さにさらされるのはきっとよくない。それなら涼しい屋内でいい場所——だめだ、なにも思いつかない。
放課後の屋上、神秘的な水族館、カップルが集うスキー場、小説内で使うに都合のいい案はこれまでいくつも出してきた。思いつかない時にはそのシーンを省いてきたけれど、現実はそうもいかないらしい。
何度彼女がいないことを創也にいじられても気にすら留めていなかった僕は今初めて、恋愛経験がないことを心底悔やんでいる。
「上書きしてくれない?」
無意識のうちに目を瞑って考え込んでいた僕の耳に、そんな声が響いた。
ウワガキ……上書き……恋愛においての上書きって、つまり、そういう……。
「来週末にね、ここからちょっと歩いた神社で夏祭りと花火大会があるの。私、その子と行ったときは緊張しすぎちゃってあんまり楽しめなかったの……でも文都くんとなら、変な気も遣わずに楽しめると思って……! 外出許可は先生にお願いしてみる、もし文都くんがよかったら、だけど、どうかな?」
「行きたい、行こう。味わえなかった青春感も楽しみも全部全部取り返そう」
頬を赤らめながら誘われてしまったせいで、僕はつい食い気味にそう答えてしまった。言寧は驚きながらも喜びを隠しきれない様子で僕の手を強く握った。
待ち遠しい。そして言寧には無事外出許可を勝ち取って、それまで容態が安定していてほしい。ここまでひとつの予定を心待ちにしながら、誰かの無事を願うことなんて今までの僕の人生にはなかった。
小説ですら辿ったことがないほどの青春を僕は今、僕が描くヒロインと迎えにいこうとしている。
張り付いていた緊張感が剥がれた言寧は、腑抜けた顔をしていた。目を丸くして僕を見つめながら「詳しく聞かせて」と、続きを急かしてくれる。その目の輝き方は、僕が彼氏役を引き受けた日に見た記憶とよく重なって、僕が惹かれた言寧そのものだった。
「そのまま。僕が言寧をヒロインに小説を書くってことだよ」
「えっ、だって、文都くん小説書けるの? いや失礼な意味じゃなくてね? 同世代で小説書いてる人、なかなか出会ったことないから……」
「疑う気持ちもわかるけど、僕も書けるから書くって言ってるんだよ? って言っても実感が湧かないだろうから、これを見てもらった方がきっといいのかな」
ウェブへ投稿している小説の画面を開いたまま、僕はスマートフォンを差し出した。言寧はそれを慎重に両手で包み込むように受け取ると、丸い目をより大きく見開いて、視線を画面から僕へ交互に移している。
「谷咲文都、って、本名で投稿してるの? 作品数すごいし……いつから? いつから書いてるの?」
「高校入学くらいかな、作品数が多いだけで大した結果は残せてないんだけどね」
「いやでもすごい、書き続けられるって素敵なことだよ! 今すぐにでも読みたいけど、目の前で急に読まれるのは緊張するよね……? 本名だから忘れることはないし後で読ませてもらうね!」
余命を言い渡されてから消えてしまっていた心の底からの笑顔を、言寧は僕に見せてくれた。変わらない余命三ヶ月という絶望の中でも、その瞬間の幸せを溢れるほど感じている表情。緩んだ頬や三日月の形をした目、それらもすべて僕の言葉で紡いで残していけたらどれだけ素敵なことだろう。
「この物語の一章だけ今読んでもらってもいいかな」
「え、いいの?」
「言寧がどう描かれていくか、参考資料にでも僕の小説を読んでみてほしいんだ」
今までの僕ならこんなこと言えるはずがない。お互いの原稿を確認し合う創也に読んでもらうことさえ恥ずかしさから抵抗感を抱くのに、僕は今、自ら「読んでほしい」と言えてしまっている。
それとは対照に言寧は緊張した様子で僕の小説を読み始めた。ゆっくり、細い指先で画面をスクロールしながら僕の言葉を辿ってくれている。ふっと微笑む横顔も、人物たちを撫でるような眼差しも、すべて書き起こせるように僕は記憶に閉じ込めた。
「どう、だった?」
画面を伏せて顔を上げた言寧に僕は耐え切れずそう聞いてしまった。
まだ一章だけの僕の言葉はどう受け取られただろう、言寧の描くキャラクターのように生きていただろうか。少しくらい届いているかもしれないなんて期待と、誰にも見つけてもらえずにここまで書いてしまったことからの不安とが入り混じって、息が浅くなっていくのがわかる。
「……書いてほしい」
「え」
「私のこと、書いてほしい……文都くんの言葉、私は好き。まだ一章しか読んでないし、技術とかわからないし、器用な感想も言えないけど、文都くんみたいに優しくて、柔らかくて、でもどこか影があって、そんな言葉を紡ぐ文都くんに私の残り時間を、生きてる時間を書いて残してもらえたら、すっごく幸せだって思った」
それは、今の僕がなにより欲しい言葉だった。
これはなんの巡り合わせだろう。夢を諦めきれなかった僕が、願いを諦めきれなかった言寧を描ける。その事実がふたりを繋いでくれた小説でこの世界に永遠に残せる。命は消えても、言葉は消えない。記憶がなくなっても、記録として残り続ける。それはきっと、今の僕の想像を遥かに超えてしまうくらい幸せなことだ。
「でもね、きっとこれからの私は文都くんを傷つけてばっかりになっちゃうと思うんだ」
「傷つけてばっかり?」
「私を書くっていうことは、私の近くにいてくれるってことだと思うから。どんどん弱っていっちゃう私のこと、見てたら辛くなっちゃうでしょ? それで最後には死んじゃうって、文都くんの心はそれに耐えられるかなって。私はそこが、すごく怖い」
「そんなこと……」
「そんなこと、じゃないよ。死んだ人間は、生きてる人間に手を差し伸べられないから。私が死んじゃって、文都くんがひとりになったときに幸せな記憶がたくさん頭にあってそれが思い出すたびに辛くなっちゃう記憶とか、後悔になっちゃうことが、私は嫌なの」
短い命を背負った言寧の切実な迷いが、ふたりきりの病室に響いた。真っ白な空間に震えた声が溶け込むように消えていく。僕は一度頷いた、そのあとに首を横に振って再び不安げに僕を見つめる言寧と目を合わせる。僕の中の覚悟は、言寧の言葉を聞いてもなお、揺らぐことはなかった。
「溢れるくらい幸せな記憶の代償に後悔があるなら、僕はそれで苦しんだっていい。言寧は「生きてる時間を書いて残してもらえたらすっごく幸せだ」って言ってくれた。それならそれを果たすことが、今の僕の幸せになるんだよ」
「そんなの綺麗事だよ、文都くんの幸せと私の幸せは違う。それは、残ってる命の時間が違うなら、尚更」
「確かに綺麗事かもね。でも少なくとも今の僕は、言寧の幸せが僕の幸せだって感じてる僕の心を信じたい。それに後悔したっていい、僕の方が長く生きるなら尚更、やり直しなんていくらでも効くと思わない?」
どこかセリフのようにすら思える僕の言葉に、強がりや嘘なんてものはひとつもなかった。言寧より長く生きられる僕の人生のほんのすこしを渡して、それで言寧が幸せになれるのなら、嬉しそうに笑ってくれる時間が増えるのなら、きっと僕もそれを幸せと感じられる。ここまで来て言寧を新作のネタだなんてことは思っていない、純粋にこの人を描きたい、この人のための物語を書きたいと言寧が僕にそう思わせてくれたのだから。
「だから、僕に言寧を書かせてくれないかな」
僕はこの幸せを選ぶことになにも後悔なんてしないから言寧の人生を描かせてほしい。そんな気持ちを込めてみた。諦めの悪い告白、というよりプロポーズのように感じられる。
「私のこと、幸せで溢れた素敵な物語の中を笑って生きてるヒロインにしてね」
そう言い終えた言寧は目を潤ませながら、僕の手をいままでいちばん柔らかく握った。表面はすこし冷たかったけれど、その手からは確かな暖かさと心を感じて、僕は言寧よりすこしだけ大きな手でそっと包み返した。
「ねぇ文都くん」
「なに?」
「どうして文都くんは小説書き始めたの?」
言寧が言うに書き始めた理由からは、その人が小説に対して抱いている気持ちがわかるらしい。あまりピンとこなかったけれど、確かに好きで書き始めた創也は執筆中も読書中も楽しげで好奇心に満ちた表情をしているし、それが文章からも伝わってくる。言寧の描く生きたキャラクターたちは、言寧が夢見ている自分自身、いわゆるもうひとりの言寧のように感じられて、生きた証を残すという理由とよく重なる。それと比べたら僕の理由なんて。
「すごく情けないけど、逃げで始めたようなものなんだ」
「逃げ?」
「勉強とか得意なこととか、なにも見つけられないまま高校生になっちゃって。受験とかも億劫で、夢も就きたい職業もなくて、だから小説家になっちゃえば安泰だろうって思ったんだ。日記を書く習慣があったからその延長線で書けるって期待して」
「それじゃあたとえ動機は逃げであれ、文都くんの今の夢は小説家ってことだね? 素敵なことで、情けなくなんてないと思うけど?」
「ただ生きていくために適当な会社に就職するのと同じだよ。受験も資格勉強もしたくなくて、日本語さえ書ければできる小説家に転がり込んだってだけで」
「それなら文都くんの理由は就活で、私の理由は終活ってことになるねっ」
「それ、今の状況なら輪をかけて笑えないからね?」
ふふふ、なんて冗談混じりな笑い方は、僕がよく知る言寧の姿だった。
穏やかに収まった姿よりも、やっぱり言寧には僕をからかうくらい遠慮がなくて無邪気な方が似合う。それに僕はそんな言寧でいてほしい。砕けた空気にあやかって、言寧へ少しだけ聞き出しづらいことを聞いてしまえたらと口を開く。
「言寧、彼氏って今までできたことあったりする?」
切り出し方に迷った結果、とんでもなく不自然で違和感まみれの突然な聞き出し方になってしまった。ただ、僕が言寧をヒロインとして描くには必要な質問だったのだからしかたない。
「急だねぇ。でも文都くんからそんなことを聞いてくるってことは、知らないといけない理由があるんだろうね」
言寧はそう言って僕の気持ちを汲んでくれていた。
僕が書く物語の中で言寧には、言寧が思い描くような生き方をしていてほしい。そのひとつとして、恋愛を入れ込みたかった。僕が彼氏役だったとしても、言寧には本当に彼女になった気分で隣にいてほしい。その方がずっと、生き生きしているはずだ。
「彼氏いたことあるよ、病院内で出会った同い年の子ね。まぁ付き合った二週間後に退院できちゃってそれっきりだけど」
「じゃあその人とデートとかはしたことないのかな」
知りたさが積もってしまった僕は、ほぼ答えのわかりきった質問をしてしまった。そんな短期間で、それも院内で出会った相手とデートなんて考え難い。言寧の望む恋愛シュチュエーションを聞き出そうと思っていたけれど、いくつか用意したデートプランから好みのものを選んでもらう形で聞いてみればよかった。
「あるある! それも夏祭りにねっ」
「え」
意外だった。デートの経験があることも、夏祭りに行ったことがあることも、僕の想像にない答えに意表を突かれて返す言葉を見失ってしまう。
「もしかしてショック受けちゃった? 彼氏役だったとしても元彼には嫉妬とかしちゃう?」
お手本のような上目遣を向け、人差し指で肩をちょんちょん突きながら、言寧は僕をからかった。
言われてみれば確かに、言葉を見失っている理由として多少のショックはあるのかもしれない。容姿が整っている上に社交的な言寧なら元彼の存在はまだ理解できる。ただ、デート経験があることへの意外性と、あの放課後が言寧にとっての初デートだったのかもしれないなんて期待のせいで僕の心は不要な衝撃を受けてしまった。
「まぁまぁ安心して! 夏祭りって言っても、そんな青春感はなかったけどね」
「そう、なの?」
「病院の中庭でちょっとした屋台が並ぶ催し物が毎年夏にあってね。大抵夏は体調崩しやすくて行けてなかったんだけど、その年は運良く身体が安定しててさ。だからその子と一緒に行ったの」
「そっかそっか、青春感がなくたってそれは素敵な夏の思い出だよ」
やや適当な相槌を打ってしまったことは、どうか許してほしい。このとき僕の頭は忙しかった。言寧とどうにかもう一度あの放課後のような思い出作りをしたいのだけれど、行き先も目的もわからず路頭に迷っている。
話を聞く限り、言寧にとって夏祭りはあまりいい記憶にはなっていなさそうだった。表情もどこか切なげで、それに気づいていながら、当時の記憶を掘り返すようにもう一度繰り返させるのは酷な気がする。夏祭り以外の夏らしいもの……海か。でも今の言寧の身体で暑さにさらされるのはきっとよくない。それなら涼しい屋内でいい場所——だめだ、なにも思いつかない。
放課後の屋上、神秘的な水族館、カップルが集うスキー場、小説内で使うに都合のいい案はこれまでいくつも出してきた。思いつかない時にはそのシーンを省いてきたけれど、現実はそうもいかないらしい。
何度彼女がいないことを創也にいじられても気にすら留めていなかった僕は今初めて、恋愛経験がないことを心底悔やんでいる。
「上書きしてくれない?」
無意識のうちに目を瞑って考え込んでいた僕の耳に、そんな声が響いた。
ウワガキ……上書き……恋愛においての上書きって、つまり、そういう……。
「来週末にね、ここからちょっと歩いた神社で夏祭りと花火大会があるの。私、その子と行ったときは緊張しすぎちゃってあんまり楽しめなかったの……でも文都くんとなら、変な気も遣わずに楽しめると思って……! 外出許可は先生にお願いしてみる、もし文都くんがよかったら、だけど、どうかな?」
「行きたい、行こう。味わえなかった青春感も楽しみも全部全部取り返そう」
頬を赤らめながら誘われてしまったせいで、僕はつい食い気味にそう答えてしまった。言寧は驚きながらも喜びを隠しきれない様子で僕の手を強く握った。
待ち遠しい。そして言寧には無事外出許可を勝ち取って、それまで容態が安定していてほしい。ここまでひとつの予定を心待ちにしながら、誰かの無事を願うことなんて今までの僕の人生にはなかった。
小説ですら辿ったことがないほどの青春を僕は今、僕が描くヒロインと迎えにいこうとしている。