【ねぇこの投稿見て! 新人賞の結果が発表されたんだって! すごいことすぎて想像がつかないけど受賞して自分の物語が一冊の本になるってどんな気持ちなんだろうね……!】
 
 仮にも恋人関係になった僕たちは、こうしたメッセージでのやり取りが増えた。
 送られてきた画像には、僕や創也の投稿しているサイトとは別の場所で開催されていた新人賞受賞者の名前が並んでいる。
 
【僕にはわからない世界だけど、形として残るのはとっても素敵なことだよね】
【私ももっと上手になって、一冊くらい生きてる間にこの世に残したいなぁ。努力を詰め込んだ遺品だねっ】
【そういうこと言われちゃうと返す言葉に迷うんだけど】
 
 画面越しだろうと、言寧の笑えない冗談には容赦がない。
 言寧からは名前すらわからないゆるキャラのスタンプが送られてきた。それは現実で言寧がなにかを笑って誤魔化すことと同じ意味を表していて、たいていこれが送られたあと、僕たちのやりとりは終わる。
 受賞して自分の物語が一冊の本になる。その瞬間に抱く気持ちを知れるまで、僕はどれだけ時間がかかるのだろう。ああ、果てしなく遠く感じる。
 ベッドに身を投げて天井を見つめながら、一人漠然とそんなことを考えていた。
 メッセージアプリを閉じようとスマートフォンの画面に目をやると、僕が目を背け続けている言葉が視界の端に入ってきた。
 
 ——【文都、明日の放課後、大事な話があるんだ】
 
 *
 
 その連絡から一週間。僕は今日まで学校にも行かず、睨みつけるように原稿に向き合っていた。大事な話がなにか察してしまっていた僕は、それを確かめることが怖くて、逃げるようにそうするしかなかったから。創也には「コンテストの作業を詰めて徹夜を繰り返していたら体調を崩した」なんて苦しい言い訳をしていた。
 
「文都! なんかすっごい久しぶりな気がする、おはよ」
 
 朝、創也はいつもとなにも変わらない様子で席についた僕の右肩を小突いてきた。そして流れるように隣の空席に腰を下ろす。
 
「おはよ、さすがに三徹は身体に響いたよ」
「締め切り近いからこそ寝込んでる場合じゃないだろ? そいえば今日の三限目の移動教室なんだけど」
「あ、ごめん。その時間職員室来るように言われててさ」
 
 嘘だ、職員室になんて呼ばれていない。
 平気になったと思っていたのに、すべてを聞き入れる準備ができたと思っていたのに、そんなことはなかった。今の僕は、創也を見るといつものままでいられない。
 
「そっか。あ、放課後、ちょっとだけ時間あったりしない? 久しぶりに、文都と、執筆したくてさ」
 
 創也は嘘をつく時、不自然に言葉が途切れる。
 だから「執筆したくてさ」が単なる口実であることはすぐにわかった。
 
「放課後、大丈夫」
「ありがと、それじゃあ適当な空き教室見つけて入ろっか」
「了解」 
 
 僕は、そんなそっけない一言で誘いを受け入れた。
 これ以上逃げられないということはよくわかっていたし、なにより創也の表情が僕に「大丈夫」以外の選択肢を与えていないように感じたから。
 その会話きり、僕は放課後まで創也を避け続けた。
 移動教室へはわざと別の棟から遠回りをして向かったし、昼休みは普段誰も立ち入らない空き教室で時間が過ぎるのを待った。
 ただ、どれだけ避けていても放課後は訪れてしまう。
 来ないでほしいと思えば思うほど、今日はやけに時間の進みが早いように感じた。
 放課後。僕は「掃除が終わったら行くよ」とだけ言って、メッセージで送られてきた空き教室へ遠回りで向かった。
 速くなる鼓動を抑えながら、扉を開ける。先に来ていた創也は、エアコンの風を直接受ける席で小説を読んで僕を待っていた。
 
「誘ったけど身体きつかったら早めに帰ってもいいからな」
「それはもう大丈夫だよ」
 
 どうにか平然を装うために必死だった。そんな僕とは対照的に、創也は「そっかそっか、それならいいんだけどさ」と呑気そうに背伸びをしている。もっと張り詰めていたり、緊張感を漂わせているものだと思っていたのに、変わらずシャツのボタンはひとつ開いているし、創也は意外にもいつも通りだ。
 
「なぁ」
「ん?」
「近況報告でもしようぜ。一週間寝込んでた文都も、なにかあっただろ、きっと」
 
 向かい合わせに腰を下ろした僕へ、創也は不自然に突然そんなことを言い出した。
 これは創也の優しさだろう。本当なら今すぐにでも本題に入りたいはずなのに、タイミングを見計らってくれている。一週間空いた僕との歩幅を合わせるために、そして創也自身の心の準備をするために。それなら僕は、そのペースに従うのが筋だ。
 
「辻紫言寧と付き合うことになった」
 
 そうわかった上で僕は、わざと動揺させるようなことを言った。
 そうまでして、創也から答えを聞くまでの時間を引き伸ばしたかった。
 僕の絶望まで、遠回りさせてほしかった。そうしたらきっと心から、僕は創也に対して抱くべき感情を抱ける。
 
「え」
「ほんと」
「やっぱ好きになった?」
「んー、巻き込まれた、かな。でもうん、素敵な人だと思ってる」
 
 創也は少し前のめりになってニカッと笑ったあと「それで? ほら、もっと詳しく!」と詳細を急かした。すっかり男子高校生の悪ノリ、の雰囲気に包まれた空間で僕の遠回りは続く。
 
「趣味とか合うの? 文都、小説ばっかりじゃん」
「言寧も小説書いててさ。あとは音楽の趣味とか、意外と合いそう」
「小説、か、辻紫さんの境遇で」
「やっぱそう考えるよな。小説書いてる僕とか創也なら尚更、そこの想像は回るし」
「まぁな、でも、文都のことならそこすら魅力に感じたんだろ?」
 
 僕は「そうだな、そこすら素敵だと思ってる」と頷きながら呟いた。
 創也は僕の口から恋人関連の話題が出ていることにまだ驚いていて「文都に彼女かぁ、成長したなぁ」なんて父親のようなセリフを言ってみせた。
 ただそんなその場凌ぎの話題は、そう長く続かない。
 僕に彼女ができたこと、辻紫言寧は確かに可愛いということ、病院に許可をもらって一度だけ放課後にデートをしたこと。話せることが、尽きてしまった。
 静かさに首を絞められているように息がしづらい。作業中の無音も、帰り道の沈黙でも感じたことのない息苦しさ。創也との間の無言を気まずく感じたのは、今日が初めてだ。
 
「創也の近況報告は? なんかあったんだろ?」
 
 意味もなくスマートフォンの画面を開いて、閉じて、を数回繰り返した後、僕は沈黙に耐えられずそう言った。
 創也は文字通りソワソワしていて、それが今から告げられることのすべてなのだろうなと察した。そして「実はな」という前置きのあと。
 
「……コンテスト、受賞してたんだ——書籍化、決定したって……!」
 
 僕の予感は数ミリも外れることなく当たっていた。
 創也は当たり前だけれど、見たことがないくらいに嬉しそうだった。緊張からか顔は強張っているけれど、声が全然違うのだ。
 受賞していた、までの声は震えていたけれど、書籍化が決定した、と言い終えた声は歓喜と興奮混じりに弾ませていた。
 
「まじか……! めっちゃめでたい報告じゃん!」
 
 創也の受賞はメッセージを読んだ時点で察していて、僕はそれを受け入れるために十分準備をしたつもりだった。それでも、いざ言葉にされると、心臓を抉り掴まれるような感覚に陥ってしまう。じわじわ悔しさを自覚していって、正直に喜べない自分に腹が立った。
 別に創也の受賞がまだまだ先だとも、僕の方が先に受賞するとも思っていたわけではない。それなのにどこか純粋に「嘘だろ」と、そして身勝手に、反射的に「嘘であってほしい」なんてことを思ってしまった僕がいた。
 
 ——「この受賞者プロ並みに文章上手いしなにより面白いんだよな……!」
 ——「僕も読んだよ。てかその人、他のサイトでも受賞してたよな」
 ——「やっぱその人だよな、いやぁほんと、毎度思うけどやっぱり」
 ——「「受賞者って化け物だよな」」
 
 頭をよぎったのは、そんな創也との会話だった。
 コンテストの落選を受けるたび、僕と創也は受賞者を確認しては「化け物」と呼んでいた。手を近づけることすらできない、受賞者という存在は、それほど大きくて遠いものだったから。
 でも今、隣でそう言っていた創也が化け物になった。
 手を近づけることすらできない、大きくて、遠い存在になってしまった。
 焦って、怖くて、悔しくて、同じ立ち位置にいたからこその壁を感じて、それでもめでたいことに変わりはなくて。言葉なんて出てこないのに、ただ頭の中だけがうるさく埋め尽くされていく。
 
「やっぱり一番に伝えたいのは文都だったんだ」
 
 変わった。創也の表情と声色が、この瞬間で明確に変わった。
 わずかに張り付いていた緊張感が完全に崩れた。声からは底に抑え込んでいた喜びが溢れて、目は「聞いてほしい」と叫ぶように輝いている。誰かが夢を叶えた瞬間に立ち会うということが、ここまで生々しく心を抉るものだと僕は初めて知った。
 
「いや、すごい、ほんとにすごいよ。創也、ずっと純粋に小説が好きで、小説家になりたくて書いてきただろ? それが叶うって、ほんとにすごいことだから……だから本当におめでとう」
 
 ここまでつらつらと言葉が出てくるのは、この言葉が完全な嘘ではないということだろう。だから余計に苦しいのだ、すべてが嘘ならどれだけ楽だったか。
 受賞、書籍化、夢を叶えた。
 それは本当にすごいことで、簡単に成し遂げられることじゃなくて、才能も努力も必要で、喜んで当然、祝われて当然のことなんだ。
 そんなことは僕だってわかっている。
 それでも僕は、純粋なおめでとうだけを抱くことはできなそうだった。
 
「文都にそう言ってもらえて嬉しい……この嬉しさって、たぶん受賞の連絡が来た時以上だよ」
 
 その言葉が僕には嫌味に聞こえてしまう。創也にそんな意図がないことはわかっている。僕に余裕がないだけだ。でも「受賞の連絡が来た時以上に」なんて言葉を受賞が叶わなかった僕が聞いて、素直に「それはよかった」なんて返せるわけがない。そんな少し考えればわかるようなことすら考える隙間がないほど、創也は喜びに溢れているのだろう。
 それなら今の創也なら、僕がなにを言っても都合よく解釈してくれるような気がした。皮肉や嫌味が混じっていても、そんなことはすべて押し流してくれるくらいの幸せが創也にはある。それなら、僕もなにか思ったままを言ってやりたい、皮肉や嫌味じゃなくてもいい「受賞しただけでいい気になって」とか、そういう負け惜しみのような愚痴でも情けなくてもいい、少しだけ言葉で攻撃したかった。
 無意識のうちに下に向いていた視線を戻す。目があった創也は笑いながら「文都と一緒に追いかけてきたから、伝えられて嬉しいんだ」と。ああ、そんなことを言われてしまったら、僕はもうきっとなにも本当を言えなくなってしまう。
 
「僕も、創也の夢が叶って心から嬉しいよ。自分のことみたいね」
 
 そう言い終えた僕は、泣いていた。
 嘘をついたことが自分の中で明確にわかったからだ。
 それにやっぱり、思ったままなんて言えなかった。言葉を呑み込むことは、どうやら身体に良くないらしい、数分前とは比べられないほど息が苦しかった。
 自分のことみたいに、なんて思えるわけがない。
 創也は僕にとって唯一の友人だけれど他人であることに変わりはない。コンテストなんて個々が評価される場なら尚更、僕は僕で、創也は創也だ。
 それなのに他人の成功を自分のことみたいに嬉しいと思えるなんて、それはきっと、そこまで本気じゃなかった人が言う言葉だ。それを僕は、その場しのぎで言ってしまった。
 嬉しいや悲しいとは比べものにならないほどの悔しさと羨ましさが、僕の心を蝕んでいく。そんな綯い交ぜになった感情と素直に喜べない自分自身の心の醜さに、涙が止まらなかった。
 
「なんで文都が泣くんだよ」
「泣きたくなるくらい嬉しいことなんだよ、自分のことみたいにってそういうことだから」
 
 心にもないことを僕は頭に浮かんだセリフを音読するように口から溢した。小説を書いていることが生きた瞬間を、こんな形で実感したくなかった。
 でもよかった、僕の中に生まれてしまった最低な感情で、創也を傷つけずに済んでよかった。
 その時の僕の顔は確かにちゃんと笑えていた、それだけははっきりわかった。
 こういう時は喜ばないといけないし、心の底でなにを思っていようと「おめでとう」と祝福しないといけない。それが笑顔として貼り付けられていることに僕自身安心した。
 その後も創也は悪気なく、受賞の連絡が来た時のエピソードを続けた。担当編集がついたこと、打ち合わせの日程が決まったこと、そこで刊行までのスケジュールが告げられること。僕はあげた口角を保たせながら、どうにか目から光を失わせないように必死だった。
 
「受賞の連絡ってさ、ペンネームで届くんだよ『宮澤創夜 様宛て』って。なんか認められた気がしてさ……まぁ創也と創夜って、あんま変わんないけど」
「なにそれめっちゃ嬉しいね、ペンネームで連絡かぁ……僕の知らない世界だなぁ。まぁ僕はペンネームも本名も同じだから、それこそなにも変わらないけど」
「いやでも、実感が違うんだよ! なんというか『あなたは小説家です』って言われてるみたいでさ」
「僕も届いたら、そんな気持ちになるのかなぁ……想像もつかないよ」
 
 有頂天になっている創也には、僕の心の底なんてわかるわけがないだろう。
 同じコンテストに応募して結果を残せなかった僕と受賞した創也の明確な差に悔しさが止まらない。夜通しで原稿に向き合ったり、好きでもないジャンルの本を勉強のために読み漁ったり、僕にだってやってきたことがある。それなのに、なにひとつ報われなかった。報されたのは友人でありライバルの朗報だけ。
 その揺るがない事実に、僕と夢を繋ぎ止めていた糸が切れてしまいそうな感覚を覚える。
 
「創也」
「ん?」
「夢が叶って、嬉しかった?」
「そりゃあもちろんな」
「そっか、寂しさとか迷いとかはないの? 追ってきた夢が叶っちゃって、いいんだけど、一旦目標がなくなる喪失感とか」
「んー、考えたこともなかった。それくらい幸せなことだよ」
 
 そう返ってくることくらいわかっていたのに、僕はなにを今更聞いているのだろう。創也からの答えになにを期待していたのだろう。なにもわからないけど、ただひとつ僕自身の心には敏感で、どうにか保っていた糸が切れる音だけが頭に響いた。頑張れば、書き続ければ叶う。二人で小説家になれる。誰かが見つけてくれる。そんな期待で織られた糸は、切れた断面から引き留める間もなく解けていく。
 
「そっか、教えてくれてありがと」
「なんだよ急に、素直すぎてらしくないな」
「僕が知れない感情を、創也から教えてもらえてよかった」
「知れない感情ってなんだよ」
「最後にめでたい報告が聞けたことも、幸せだったよ」

 創也は「なんだよ急に」と僕に言葉の意味を尋ねてはいるけれど、すでに僕の言葉の意図は察していて、その目からは動揺が伺える。。
 
「なぁ、最後って、なんの最後だよ」
「僕の作家人生の最後だよ。まぁ、まだ始まってすらないのかも知れないけどさ」
 
 言い終えた頃には涙も目の奥の痛さもなくなっていて、身体が強張る感覚も頬が引き攣る煩わしさもなくなっていた。
 嘘だろ、という創也の呟きに首を横に振った僕はきっと穏やかな顔をしていたと思う。創也は言葉を詰まらせながら顔をしかめていた。
 
「辞めようかなって、書くの。大した結果も出せないし、そもそも僕は小説なんて好きじゃなかった」
「違う、一緒に書いてる時の文都は確かに楽しそうにしてたよ」
「楽しかったよ、創也と書いてる時間は好きだった。でも、それだけだった。きっと、無意識にきっかけを待ってたんだよ。叶わない夢を諦めていいって思えるきっかけ、それが今日だったんだ」
 
 迷うこともなく淡々と言えてしまった。
 向かい合わせに座っている創也はなにも言えないまま固まっている。突然突き放すようなことを言って、酷だとは思う。それでも、終わらせるなら今日がよかった。そうしないと僕はまた夢を追いかけようとしてしまう。
 
「空気悪くしてごめん、でも、いつか言うことだったと思うからさ。創也のせいとか、そんなことはないからね。楽しかったのは本当のことだし」
 
 俯いていた創也と目が合う、その視線からは怒りに似たものを感じた。もういいよ、の意味を込めて一度頷いたあと、身勝手とわかっていながら、僕は席を立とうと椅子を引く。
 
「まだ話終わってないだろ」
 
 机についていた手を離させないように、創也は僕の手首を掴んだ。それほど力は強くなかったけれど、その手からは逃げられない重さを感じる。数秒静止した後、僕は促されるまま再び腰を下ろした。掴まれた手が解かれていくと同時に、創也は口を開く。
 
「急に辞めるって、そんな話ないだろ。せめて理由くらい言ってから——」
「叶うかもわからないことを追うなんて無謀すぎるって気づいちゃってさ。いいところで区切りをつけて、敷かれたレールをちゃんと踏んでいった方がいいなって」
 
 創也は微かに首を捻りながらも、僕の言葉を受け取ろうとしてくれている。僕の心に揺らぎはないのに、自信がなくなって自然と視線が下へ向いてしまう。
 敷かれたレールをちゃんと踏んで、なんて言葉を僕が口にする日が来るとは思ってもいなかった。成績も普通で、これと言った特技も特性もなくて、ずっとそれがコンプレックスだったけれど、普通なら普通でいい。それなのに小説家なんてものを目指して、才能があるのかもしれないなんて可能性に踊らされて、そんなの苦しいだけなのに。
 普通でいい、今のままの成績で入学できる大学を探して、就職して、流れるままの人生でいい。寂しい気もするけれど、叶う保証のない夢を追い続けるより、よっぽど傷つかなくて済む。小説家なんて夢は、きっと地獄だ。年齢や資格に制限こそないけれど、誰でもなろうと思えるからこそ残酷なほどに実力主義な世界。
 気づいた頃にはなににもなれていない自分と、失った時間ばかりが記憶を埋めている数十年後なんて、絶望以外のなにものでもないだろう。
 僕にはもうそこまでして、夢を追う気力なんて残っていない。
 僕の頭の中でそんな騒音のような独り言が響いている間、数分の沈黙が生まれていた。まっすぐ僕を見つめる創也と、俯きがちな僕。側から見ればその構図は、説教中の父親と不貞腐れた子どものように映るだろう。
 
「追ってみればいいだろ、今、文都はまだ高校生だ。仮に卒業してから時間がかかったってバイトで食い繋いで追えるだけ追ってみればいい。受賞した俺が言ったら、綺麗事にしか聞こえないかもしれないけど、それをわかった上で話すからな。いつまで夢を追ったって、別に誰も責めたりなんかしないし、文都に限って馬鹿にされることを怖がるような性格じゃないだろ?」
 
 創也の言う通りその言葉たちは、僕にとって余裕のある勝者の綺麗事にしか聞こえなかった。夢を追った先に幸せな結末がある前提で話をするのは、その幸せを知っているか、相当視野が狭いかのどちらかだと思う。
 別にいい。いつまで追い続けるのかと咎められても、夢ばかり見て馬鹿みたいだと指を刺されてもどうでもよくて、僕はただ追った先で「なににもなれなかった」なんて結末に出会ってしまうことがなにより怖いだけなんだ。
 そして今の僕には、夢を叶えられるなんて希望は一筋も見当たらない。
 
「叶えたいって、叶ってないってことなんだよ」
「どういう意味だよ」
「書きたいは、書けてないってことで、読者の心を動かしたいって言ってるうちは、動かせてないってことなんだ」
「さっきから理屈ばっかで結局なにが言いたいのか全然わかんねぇよ」
「夢を追おうとか叶えようって思うたびに、今の情けなさに、未熟さに襲われる。僕は小説が好きなわけじゃない、書くことを楽しいだなんて思えない、そんな僕に辞めるにちょうどいい機会が来たんだ。親友が夢を叶えた、僕は隣で最初にそれを教えてもらえて笑ってるところを見れて、祝福できて、そんなのそれでいいだろ。もう十分ハッピーエンドだ」
 
 こんなこと、言う予定ではなかった。
 ただおめでとうと言えたらよかったのに、創也の前で嘆く予定なんてなかったのに。僕は、唯一の友人の特別な日を汚してしまった。
 
「俺にはそんなふうには見えないけどな」
「え」
「ここで書くのを辞めた文都が、それでいいなんて思えるわけないんだよ」
「そんなの、受賞して幸せの絶頂にいる創也にはわかんないよ」
 
 後悔しても遅かった、呑み込んだはずの言葉が意思に反して溢れてしまう。
 それでも創也は僕から目を逸さなかった。そして「嫌いだと思われても、縁を切られてもいい、だからこれだけ聞いてほしい」という前置きのあと。
 
「受賞した俺が教えてやる。ハッピーエンドっていうのはな、物語が終わった後も、誰一人置いていかずに幸せになる物語のことを言うんだよ。そんなとってつけたようなハッピーエンドは、数十年後、バッドエンドになる。少なくともこんな中途半端に、そんな理由で文都に辞められた俺は幸せにはなれるわけがない。ならこの時点でメリーバッドエンドだろ。都合のいいところで切ったらいいなんて、そんないい加減なハッピーエンドはな、後味も悪ければ、つまんねぇだけなんだよ」
 
 それは、今の僕にはなにを言っても、響かない、刺さらないと判断した創也だから言える、僕に傷を残すための言葉だった。
 嫌いになんてなれるわけがない、縁を切るなんて頭にもなかった。小説を書いていた僕を見つけて「待って! 仲間じゃん!」なんて陽気に声をかけてくれた創也は、独りだった僕を救ってくれた。そしてこんな時まで、僕を救おうとしてくる。抑え込んでなくなったはずの本心を僕の心から掘り起こしては「目を逸らすな」と突きつけてくる。
 僕はこのまま大人になっていくことが嫌で、なにも持たないまま生きていくことが怖くて、逃げるように小説家になろうとした。資格も、年齢も、経歴も関係なくて、国語の成績が平均より少しよかったこともあってすぐに手が届くと思ったから。そんな、安直な理由だった。
 それがいつの間にか、僕の唯一の希望になっていた。
 生きていたってしかたがないと絶望しても、小説家になれたら死ねなくてもいいと思えていた。生きる理由というべきか、死ねない理由というべきか、そういうものが小説家になれば手に入ると思っていた。
 未来に希望なんて見出せなかった僕はいつの間にか、小説にすべてを賭けていた。
 そして小説家になれないことが、僕にとって絶望に直結することになっていた。
 
「なぁ創也」
「ん?」
「もし小説家になれなかったら、僕はどうなると思う?」

 僕はまた、創也を困らせるようなことを聞いた。
 正しい答えも、優しい答えも求めていない。今はただ、僕より僕の核心を見つめてくれる創也からの言葉が欲しかっただけだ。
 
「わからない」
「まぁ、そうだよな」
「わからないけど、追いたいだけ追ったあとで小説家になれなかった文都は小説に対して未練も後悔も残らないだろうな」
 
 要するに「辞めるべきは今じゃない」と言いたいのだろう。ただ僕の中の僕は「もう諦めなよ」なんて現実的なことを囁いてくる。二人きりの教室に漂う静かすぎて重たくなった空気の中、僕は散らかった頭の中を鎮めようとする。創也も僕もなにも言えず、秒針の音だけがはっきり聞こえて時間の経過を知らせた。
 沈黙を破ったのは僕でも創也でもない、机の上に置いているスマートフォンの振動だった。反射的に二人の視線が画面へ向く、表示されていたのは言寧からの通知。 
 
【急用要請を発令します、今すぐ来て!】
 
 言寧らしくない文体から、僕は瞬時にその緊急性を理解した。僕の表情を見た創也は「なにかあったのか」と。
 
「ごめん。急だし、まだ話の続きだけど、言寧のところに行ってきてもいいかな」
 
 説明するより早いと思って、僕は言寧から送られてきたメッセージを見せながら言った。
 
「俺との話はいつだってできる。病院まで最短のバス、五分後の便があるってよ」
 
 創也に送り出された僕は空き教室を飛び出す。
 綯い交ぜになっていた感情は、言寧への心配やメッセージからの緊張感に上書きされていて、それに背中を押されるように僕は迷わず走り出した。
 バス停に近い方の校門を通り、足が絡まりそうになりながら坂を駆け下り、押しボタン式信号のボタンを連打して、発車しそうなバスの運転手に手を振って合図を送りながら僕はバスに飛び乗った。席について頭上から吹くエアコンの風で一息ついた後、言寧へ【今すぐ行くから待ってて】と返す。既読はすぐに着くのに、返信がない。その事実が僕の恐怖を余計に煽る。
 大学病院前の到着を知らせるアナウンスが鳴って、僕はバスが止まるより先に席を立った。降車して院内へ入った瞬間、僕の鼓動を緊張感と恐怖が支配しているのがわかった。
 
 ——言寧になにがあったんだろう。
 
 病気で入院中の、仮と言っても恋人に僕はなにを言われてしまうのだろう。
 心配で足がすくんで、重くなって、それでも言寧が待っていると奮い立たせて僕は病室までの階段を駆け上がった。そして相変わらず無機質な扉の前に着く。大丈夫、この先にいるのが僕の知っている辻紫言寧であることに変わりはない。そう言い聞かせながら深呼吸で荒い息を整えて、ゆっくり扉を開ける。
 
「ほんとに来てくれたんだね。もしかして走ってきてくれた? 髪が乱れてるよ、でも、それくらい必死になってきてくれてありがとう」
「彼氏役を引き受けたとき、そういう条件だったから。言寧になにかあったときは、言寧を優先する、それが僕と言寧の決まりごとでしょ?」
 
 急用要請を発令します。と言った本人とは思えないほど、言寧は柔らかい笑顔で僕を待っていた。そしてベッド横の丸椅子へ僕を手招いたあと、いつも目を細めてしまうほど眩しく夕陽が差し込む窓にかかったレースのカーテンを閉めた。明確な違いは見当たらないけれど、雰囲気が心なしかいつもより堅い。
 
「急用って、どうしたの?」
 
 なにがあったのか、不安が先走って気の利いた言葉ひとつ言えない自分が情けなくなる。様子を伺っていると、言寧はもたれていたベッドから身体を起こし、僕とまっすぐ目を合わせ、慎重に一度だけ頷いたあと「落ち着いて聞いてね」と意味深な前置きをした。
 
「別れてほしいんだ」 
「は……そんな、急に、なんで、僕なにか言寧によくないこと——」
「余命」
「え……」
「……あと、三ヶ月も持たない、って」
 
 この数秒でなにが起きたのか、僕には理解が追いつかない。
 聞き取れてしまった言葉の意味を理解しないように、頭が拒否反応を起こしている。
 
「この間の検査でね、容態が悪化してるってわかって。今書いてる物語が完結するまで生きられないから、もう彼氏役をしてもらう必要なくなちゃったんだ。だから、お別れしよ?」
「どうしてそんなこと、そんな平気な顔で言えるの?」
「恋人って言ってもさ、私と文都くんは本当の恋人じゃないし。本来の目的の物語が書けないのに、文都くんの貴重な時間を奪うなんて私にはできないよ」
 
 先の見えないところへ突き落とされたような衝撃を受ける。言寧から告げられたことは、僕が最も考えたくない可能性だったから。
 余命を言い渡されて、それがもう三ヶ月も残されていない。これからはきっと身体も弱っていくばかりで、それこそ希望なんて見出せないだろう。僕が最後に会った日から言寧はなにも変わっていなかった。極度に痩せ細ったわけでも、顔色が悪いわけでもない、僕の知っている言寧なのに、その内側に背負わされた運命と告げられた残り時間の残酷さは、僕にはとても受け入れられそうにないほど重いものだった。
 
「怖く、ないの?」
「怖くないよ、長くないってことはわかってたからね。まぁ、こんなに短いとは正直思ってなかったけどさ」
 
 そう言い終えた言寧は「人生先が読めないねぇ」と冗談混じりに茶化したようなことを言った、笑えることなんてないのに、ただただつらいはずなのに、どうして。
 幼い頃から病を患って、自分自身の死と向き合い続けた人間はこうも平気な顔を装えてしまうのだろうか。同じ年数を生きてきた僕には、到底できそうもないことだ。
 持病を抱えていることはわかっている。それなのに、いつも笑っているからか、楽しそうにしているからか、僕の頭の中で言寧と死はどうしても結び付かなかった。
 言寧の余命が残り三ヶ月なんて、受け入れられるはずがない。
 でもそれ以上に僕が受け入れられないのは、言寧が他人を巻き込んでまで叶えようとしていた夢を、願いを、こうも淡々と諦めてしまおうとしていることだった。 
  
「小説家、夢だったんじゃないの?」
「病気を抱えてる以上、諦めないといけないことっていろいろあるからさ。その願いも、きっと諦めないといけないことのひとつだったんだよ」
「そんなとってつけたような」
「……とってつけたなんて酷いなぁ。彼氏だったなら、もうちょっと優しく慰めてくれたっていいのに」   
 
 言寧は「だからもういいんだ」と力なく呟くように言って僕を宥める。僕から外れた言寧の視線は文庫本が並べられた戸棚へと向けられた。作者順に整列された背表紙を人差し指でなぞるように一度触れたあと、言寧は再び僕と目を合わせた。
 
「ねぇ、文都くん。私が読んでた小説いらない? もう持っててもしかたがないからさ」
「そんなの、もらえるわけないよ」
「まぁそうだよね。私が死んじゃったら遺品になっちゃうわけだし、元カノの形見なんて気味悪いって言うか、そんな捨てづらいもの未来の彼女さんに失礼だね」
 
 戸棚をそっと閉めるその指先からは、名残惜しやが悲しみがこぼれ落ちているように感じてしまう。横顔から見える真一の字に結ばれた唇には力が入っていて、寂しさを噛み殺しているように見えた。
 そんな姿を目にした僕が、もらえるわけがない。今ここで僕が言寧から小説を受け取ってしまうことは、言寧が夢を諦める理由を増やしてしまうことになるんだ。夢を叶えるために唯一巻き込んだ人間から、遠回しにでも「諦めていいよ」と言われてしまったら、本当にそこで言寧の夢は終わってしまう。
 
 ——「だから私は、私の言葉でこの世界に辻紫言寧を残すことにしたの」
 
 小説を書き始めた理由を教えてくれたとき、言寧は晴々しい表情でそんな希望を語っていた。僕はそのときの言寧の表情と、揺るがない信念のこもった声音に魅せられていた。夢を叶えるのはこういう人間なんだろう、だからどうか報われてほしい。素直にそう思えてしまうほどに。
 わからない。自らの余命を告げられた言寧がなにを考えて諦めることを受け入れたのか、平然を装っている内側でなにを思っているのか、僕にはわからないけれど、ここで諦めさせるわけにはいかない。それは小説家になることでも、長く生きることでもなくて。
 
「いつ死ぬかわからないから残したい。って言ってたのは、もういいの?」
 
 この世界に、言寧が生きていた証と時間を残すことを、諦めさせるわけにはいかないんだ。
 この際、形なんて拘らない。小説を辞めた先で、写真でも映像でも言寧が残したい形を選ぶのなら、僕は無理に引き留めない。でも今の言寧からは、言寧を残す行為自体を諦めようとしているのが痛いほど伝わってくる。それに気づいてしまった以上、見過ごすことはできなかった。
 
「それは、私はまだ生きれるってどこかで期待してて、心に余裕があったから言えた希望なんだよね。ほんとに死を目の前にするとさ、案外そうも思わなくて」
「ご両親には? 辻紫言寧がどんな生き方で、どんな人間だったか。知られないまま死んでいくなんてあまりにも酷だよ」
「いいの。病気で死んだ娘を忘れる親なんていないだろうし、今更どんな生き方をしてきたかなんて、あの人たちは興味ないよ。手術の資料すら読まずに病室に忘れていくくらいだよ? 私の書いた小説なんて渡したときには、プロローグすら読んでくれないかも」
 
 余裕すら感じさせてしまう微笑みを浮かべて、言寧は僕の言葉をかわしていく。決して受け取ってはくれない。僕がなにも言えずに固まっていると「そんなに深刻に考えてるのは文都くんだけなんだよ? 私はもう受け入れられちゃってるからさぁ」なんて、困惑している僕を安心させるための綺麗な嘘をついた。その嘘を信じてしまえばどれだけ楽だろう、そう揺らいでしまうほど言寧の表情や声音の嘘はよくできていた。
 ただ、仮にも彼氏になってしまった僕は、最後にその嘘を剥がさなければいけないという使命感を勝手に抱いていた。良好な家族関係、普通の学生生活、健康な身体。これ以上言寧に、大切なものを失ってほしくない。
 
「他にしたいこととかないの? 死ぬまでにしたいことリストとかさ、言寧のことなら作ってそうじゃん、そういうベタなの」
「そりゃああったよ? 昔読んだ童話の聖地ヨーロッパの街並みを生で観たいとか、友達と食べ歩きで食い倒れたいなぁとか、でも身体も弱くなっちゃう一方だからねぇ」
「言寧の中でそれはもう、叶わないものなの?」
「叶わないものだね」
「寂しくないの?」
「寂しくない、でもちょっと悲しいかな」
 
 それからいくつか僕が問い掛けても、言寧は声色のひとつすら変えずに答え続けた。笑っている瞳には生気なんて宿っていない。その様子に動揺が隠せない僕と、異様なほどに冷静な言寧。もう、どちらが余命を宣告されたのかも怪しくなってしまうほどの温度差だ。
 
「すべてを諦めて終わるなんて、そんな酷い終わり方で本当にいいの?」
「いいんだよ。未練とかいろいろ言うけどさ、死んだ後に意思なんてないんだし。死んだらそこで全部終わり、それなら生きてるうちに、私の意思で諦めた方がよっぽどいい選択だと思わない?」
「三ヶ月だろ? それなら完結も無理な話じゃない、言われた時間より長く生きる可能性だって」
「文都くん、絶望的な状況にいる人に希望を与えようとするのは命取りなんだよ?」
 
 僕の言葉を遮って、言寧の言葉は僕を刺した。
 迷いも光もなく「それ以上なにも言わないで」と訴えかけられているような目で僕を見つめている。反射的に言葉を呑み込んでしまいそうになる、でも、ここで話を終わらせるわけにはいかない。それならなにを言うべきだろう。「諦めるな」なんて押し付けでも「つらいよね」なんて今更な同情でもない。気の利いた言葉も、言寧が求めている言葉も僕にはわからない、わかろうとしたって意味がない。だから僕は取り繕わずに、僕の思ったままを伝えることしかできないんだ。それはとても悔しいけれど、それすら臆して口を噤む僕には、なりたくない。
 
「僕にできることだったら、なんだってするから。だから……なんでも言ってよ」
 
 溢れた言葉は、励ましにしても情けなくて、寄り添いとしては無責任で、言葉だけなら誰にでも言えてしまうような、そんなことだった。
 
「それなら……」
 
 言寧は一瞬手を顎に添えて考えたあと、閃いたように目を見開き、少し力の抜けた笑顔で僕に向かって。
 
「……それなら、私の病気、文都くんが治してくれる? 難しかったら、健康な身体に生まれ直したいって気持ちもあるから殺してくれてもいいよ?」
 
 僕は、ほんの少し期待していた。
 力の抜けた笑顔を見た時、やっと本心に近い気持ちで向き合ってくれるかもしれないと安心している僕がいた。言寧から言われた僕にできることを受け入れて、できる限りを彼氏役としてまっとうしようと覚悟を決めている最中だったのに。
 それなのに言寧は、僕に少しも期待なんてしていなかった。
 病気を治して、それが難しいなら殺して。なんて、遠回しに「もうできることはない」と言われているようなものだ。
 
「そんなことできるわけない。って思った?」
「そんなの当たり前だろ」
「それなら諦めて手を引くしかないね、でも、ここまで言葉を尽くしてくれてありがとう。一瞬でも心の底から夢が叶うかもって希望を抱けたこと、死んでも忘れないくらい幸せだったよ」
 
 希望を抱けた、幸せだった。言寧の口から過去形ばかりが並べられていく。生命線を自ら断ち切っていくような、言寧のそんなを僕は姿見たくなかった。病気で身体の自由が効かなくなっていくことも、その変化に心が擦り減ってしまうのもしかたない。ただ、言寧は言寧のまま生きていてほしい。出会ってたった一ヶ月だけれど、言寧の無邪気な楽しみ方に、未来への夢の抱き方に、病気の影なんて感じさせないほどの明るさに、僕は惹かれていたんだ。
 
「なにかを諦めたまま死んでいく言寧なんて見たくない」
「見なくていいんだよ、もう文都くんは私の彼氏役をする必要もなくなるんだし」
「そういう問題じゃなくて……言寧がどんな想いで小説を書き始めて、夢を見続けてたか僕に教えてくれただろ? それを知って、知らないところで知らないうちに死んでるなんて、僕は嫌なんだよ」
 
 つい、声を荒げてしまった。言寧の手はその突然さに怯えるように震えている。それでも僕の言葉は止まらずに溢れてくる。このまま話を続けたら、僕の言葉の少しくらい言寧に届くかもしれない。届かずとも、拒絶ばかりの言寧に一瞬でも聞く耳を持ってもらえるかもしれない。そう僕はまた期待してしまっている。
 
「勝手に巻き込んで、言寧の夢が叶ってほしいって僕まで無意識のうちに本気にさせて、死ぬから別れて、なんてそんな話ないだろ? ってか、それでいいのかよ……! 言寧の小説は確かにまだ拙くて、プロになるには足りない要素だってある、でも、でも言寧の小説に紡がれてる言葉は生きてた。それって書くことに本気だったり、それが生きる糧になってたからじゃないの? 僕の勘違い? どれだけ優秀な医者か知らないけど、そんな突然言われた三ヶ月、なんでそこまで信じるんだよ……! 三ヶ月後に死ぬから今から全部諦めますって、そんなの、今死んでんのと変わんないって……言寧は自分の最後が、それでいいの?」
 
 言い切った。今の僕の言葉、小説にしたらどれくらいのページを埋めるだろう。それくらいには長くて、普段の僕とは結びつかないくらい暑苦しい言葉たちだった。言寧にはどう届いただろう、僕はただまっすぐ見つめて返ってくる言葉を待つ。
 
「いいよ」
「……え」
「死んでるのと変わらなくたっていい、私はもう、ここでいい」
 
 返ってきたのは、僕の期待になんてかすりもしない、絶望を詰め込んだ答えだった。言寧は気味が悪いほど穏やかな表情をしていて、受け入れられずに固まっている僕がおかしいのかとすら思ってしまいそうになる。
 
「文都くん」 
「……なに」
「わからないと思うから、もうわかろうとしなくていいよ」
「それ、どういう意味?」
「生き続ける文都くんにはもうすぐ死ぬ私の気持ちなんてわからないだろうから、私を生かそうとするのは、もう諦めてって言ってるの」
 
 繋ぎ止めていた手を振り解かれたような感覚と、その淡々とした口調が僕の心を突き刺した。初対面で感じた冷淡さとは比べ物にならないくらい、今の言寧が纏う空気は冷たい。もう、無理かもしれない、無理だ。余命三ヶ月の人の気持ちなんて僕にわかるはずがない、それも一ヶ月前に出会った異性だ。なにを期待していたんだろう、どうしてそこまで必死に言葉を紡ごうとしたのだろう。そう僕の中でなにかが崩れた。
 
「そうだよ、僕にはわかるわけがない。だからわかろうって思ってたのに、たかが仮の恋人にそんなこと少しでも考えた僕が馬鹿だった」
 
 気持ちが届かない悔しさと、僕が惹かれた言寧から今の言寧が遠かっていく寂しさとで僕はそんな言葉を吐いてしまった。当然のように空気は凍って、言寧はなにも言えなくなって俯いている。それでもすぐ僕の方を向き直って。
 
「呼び出しておいて申し訳ないけど、もう帰ってもらってもいいかな。こんな感じのお別れでごめんね」
 
 なんて、また平然とした態度で言われてしまった。
 僕はなにも言い返せず、言寧の表情も確かめないまま逃げるように病室を出た。廊下を歩く足は早足になっていくのに、罪悪感とやるせなさからその足は重くなっていく。十八時まで三十分ほど時間がある、引き返すこともできたけれど僕は帰ることにした。
 
 *
 
 帰宅して、雪崩れ込むようにベッドへ身を預けた僕は後悔に押しつぶされてしまいそうだった。近くにいるのにしてあげられることがない自分が情けなくて、僕は「たかが仮の恋人に」なんて言葉で言寧を傷つけた。ただでさえ余命を言い渡されて弱っているところを抉ってしまった。
 身体を起こしてスマートフォンを手に取る、無意識に震えてしまう指を抑えながら言寧とのトーク画面を開き、文字を打ち込んだ。
 
【今日はごめん。もう一度ちゃんと話がしたい、この間借りてた学生証も返してないし、だから明日、病室に行くことを許してほしい】
 
 言寧からの【既読】を待つように僕は【送信済み】の表示を見つめ続けた。大抵一分もせずにつくはずが十分経っても、三十分経ってもつかない。嫌な予感がして、僕は端末自体の通知を切って眠った。待っている時間の恐怖を感じることなく、起きてすぐに返信が来ていることに期待していたのだ。
 ただ、翌朝もその翌日も言寧からの返信はない。
 連絡先すら消されてしまったか。でもしかたない、僕はそれほど酷いことを言寧に言ってしまったのだから。でも叶うことならもっと長く同じ時間を過ごしていたかったし、楽しいままで終わりたかった。せめて、許されなくても謝りたかった。
 後ろめたい気持ちを抱えたまま、言寧と離れて三回目の放課後を迎えた。最近は毎日病室を訪れていたからか、空いた三日間に寂しさすら感じる。
 バス待ちの暇つぶしであるイヤホンからは、言寧とカラオケでデュエットした曲が流れてきた。浸って、あのたった数時間の思い出に溺れてしまいそうになる。あと数秒でサビにはいる。この曲はサビを盛り上げるために奥で響いているピアノが神秘的だと、二人で語り合っていた。だめだ、思い出してしまう、聞いてしまったら会えない時間をより寂しく感じてしま——音が、止まった、というより、一瞬不自然に小さくなった。僕はなにもしていない。不思議に思ってポケットから端末を取り出すと【辻紫言寧から一件の新着メッセージ】という通知が届いている。
 
【返信遅くなってごめんね。私もちゃんと話したい】
 
 僕の心が救われた。
 不覚にも気持ちが届いたなんて都合のいいことを考えては安心してしまう。二台続けてバスが停車する。僕は迷わず、大学病院行きのバスに乗り込んだ。
 
 *
 
 扉を開けた先で、言寧は少しだけ強張った顔をしながらそれでも小さく手を振って僕を迎え入れてくれた。その穏やかな雰囲気は言寧らしくないけれど、ただもう一度会えたことが僕はたまらなく嬉しかった。
 
「この前は、酷いこと言ってごめん。許してほしいとかじゃなくて、ただ傷つけちゃったこと本当に悪いって思ってて」
「いいの、私こそごめんね。連絡もずっと返せてないままで」
「そんなの言寧が謝ることじゃない。嫌なことを言われた相手からの連絡なんて、見るまでに整理する時間が必要だろうし」
「あのね、文都くんそれは違うの」
「違うって、なにが」
「連絡が返せなかったの、怒ってたとか嫌だったとかじゃなくてね」
 
 言寧は一度言葉を区切ると右腕の病衣の袖をめくって僕の前に差し出した。その光景に僕は唖然としてしまう。なにを返すのが正解か、言葉を失ってしまった。小さく丸い無数の内出血と、テープらしきものでかぶれて赤くなった痕、それらが言寧の白く細い腕に浮かんでいた。
 
「……これ、どうしたの」
「文都くんが来てくれた日の夜に体調が悪くなっちゃって、簡易的な検査をしたら数値がよくなくてさ。三日間採血とかいろいろ検査したり、食事が難しかったから点滴してもらったり……それで、なにも返せてなかったの」
 
 それがどういうことか、僕には容易く理解できてしまう。
 
「それって」
「そう、私の命、きっと三ヶ月すら持ってくれないんだ」
 
 検査結果が出てないから正確にはわからないけどね、なんて空気を和ごますように付け加えてくれたけれど、そんな言葉では霞ませることすらできないほど言寧の残酷は影の濃いものだった。
 言寧の表情からわかる。もう小説なんて諦めると口にするのも辞めてしまっているのだろう。
 
「だから、文都くんとは本当に今日でお別れにしよ。私を人生のほぼ最後に楽しませてくれて嬉しかったよ」
 
 そんな言葉で、僕の手すら離そうとしてくる。
 この間とは違う。今の言寧は拒絶から手を離そうとしているわけじゃない。いつかくる別れから僕を傷つけないため、そして言寧自身の心を守るための優しい防衛反応なんだ。でも嫌だ、僕は手を離した先で、言寧が幸せになれると思えない。
 このまま病室で、誰にも心のうちなんて知られないまま数ヶ月を待って死んでいく。そんなの、報われないにもほどがある。幼い頃から病気と闘ってきた。そんな運任せな事実だけを理由に、弱いはずの女の子が強がらなくちゃいけなくて、最期まで嘘をついて、本当のことなんて誰にも知られずに、怖いともつらいとも泣き喚けずに、なかったフリをして夢を諦めて、希望を捨てて、そんなこと、あっていいわけがない。
 それなら僕が、言寧を救うしかない。
 僕が、幸せに、笑顔にするしかない。
 だから、僕が手を離すなんてことは絶対にしたくない。
 
 ——「生きるって、変わっていくことだからね。ちゃんと残しておかないと」
 
 僕は言寧にそう教えられた、そしてそれを信じている。
 僕は変わりたい、そして言寧を変えたい。
 余命を変える力を持ち合わせていない僕でも、生き方くらい変えられる。
 どう生きていくか。その選択に命の残りなんて関係ない。
 言寧が生きた時間を言寧自身が残せないのなら、誰よりも隣にいられる僕が残せばいい。そこに恋人も、仮も関係ない。
 僕が、辻紫言寧が生きていた証を、生きている間に、この世界に残してみせる。
 
「僕が、ヒロインとして言寧を描くよ」