思っていたよりもはやく、その一週間後は来てしまった。
 病室の扉はやっぱり無機質に真っ白で、相変わらず威圧感を覚える。それでも扉を開けた先にいるのが名前すら怪しいクラスメイトの辻紫言寧ではなく、一週間前仮にも彼女になった辻紫言寧であることに若干の安心感を覚えながら僕は病室へ入った。
 
「文都くん! まさかほんとに来てくれるとは彼氏役への気合いはじゅうぶんみたいだねぇ」
 
 彼女は開口一番に僕をからかった。もうまったくと言っていいほど、僕に対しての遠慮はないらしい。
 
「面会時間に制限もあるし、なにせ来なかったら言寧からの連絡が余計にうるさくなりそうだったからね」
「あれはコミュニケーションだよ! 一週間なにもやりとりがなくて会うのは二回目の初めましてみたいになりそうで嫌だったの!」
 
 一週間前のあの日、僕のスマートフォンに言寧の連絡先が入り込んできた。
 その時にわかったことだけれど言寧はなかなか策士だと思う。
 僕は頑なに連絡先を知ろうとしなかった。言寧はしょうもない内容を悪気なく大量に送りつけてくるタイプだと直感で察していたからだ。それに勘付いたのか、言寧は面会時間が終わるギリギリに「そういえば連絡先聞いてなかったね! もう面会時間も終わっちゃうからはやく交換だけしちゃおっか」なんて断れない状況と、時間というずらせない制限の二つで僕を挟んで連絡先交換からの逃げ場をなくしたのだ。 
 
「まぁいいけど、あの交換の迫り方はどうかと思うよ」
「そうでもしないと文都くんは連絡先すら交換してくれないと思ってさ」
「それは否定できないけど」
「安心して? ここからはそんなに必要以上の連絡はしないよ、しても一日三件くらい! この一週間はお互いに慣れるためのコミュニケーション期間だったのっ」
 
 得意げにそんなことを言いながら言寧は僕とのトーク履歴を遡って眺めていた。そして時々満面の笑みで僕に画面を向けたかと思うと、決まって。
 
「文都くんのここの返信ぎこちないねぇ」
 
 と、容赦なく僕をからかってくる。
 確かにやりとりはぎこちなかった。でも僕は異性との連絡に慣れているわけではないし、それはしかたのないことだと思う。
 
「そんなことは後でいいよ。見せたいものがあるんでしょ? はやく見せて」 
「おっ! 覚えてくれてるねぇ」
「あんな深夜に突然同じ内容が何件も送られてきたら嫌でも覚えてるよ」
「普通に送っても後回しにして見てくれなそうだったから、しかたなかったんだよー」
 
 わざとらしく唇を尖らせながらそんな言い訳をした後、言寧は小説が並べられている一つ上の段の戸棚から端がクリップで留められている紙の束を取り出した。
 
「それって」
「原稿だよ! 私が書いた小説をコピーした原稿!」
 
 なんとなく察していたけれど、やっぱりそうだった。
 言寧がまっさらな一枚目を捲ると、タイトルが真ん中に印刷された簡易的な表紙が見えた。
 
「タイトルって」
「あっ、タイトルはまだ仮でつけたようなものなの! 恥ずかしいからあんまり触れないで」
 
 と、意外にも真剣な口調で言われてしまったので僕はしかたなく目線を原稿から逸らした。
 一度クリップを外して、まっさらな一枚目とタイトルの刷られたページを抜いた原稿に再びクリップを留め、言寧は僕へ原稿を差し出した。
 
「……一章分しかないから、どんな物語か分かりづらいと思う」
 
 そう付け加えた言寧の頬は少しだけ赤らんでいて、緊張というか、恥ずかしさというか、そういうものが伝わってくる。
 
「初めて?」
「え?」
「こうやって誰かに書いた物語を読んでもらうの、初めて?」
 
 言寧はなにか言葉を返すことはせず、ただ一度静かに頷いた。
 原稿を差し出してきた時の自信満々な表情とは対照的な、緊張に支配されたように赤く熱った顔をしている。すぐ顔に出るタイプ、素直な人なのだろうなと感じた。
 でもそんな表情をされてしまうと僕まで緊張してしまう。言寧の目は僕に対する期待を含んでいるように見えたからだ。純粋な読者としてではなく、審査員に自分の原稿を渡して講評を待っているような、そんな目をしている。
 
「小説を書いてること言ったのも、文都くんが、初めてだった」
 
 頬を赤らめ、視線をを斜め下に逸らし、言葉の隙間に『……』が入るような間を空けながら、言寧は僕にそんなことを打ち明けた。その表情や声音も相待って、きっと下手な告白を受けた時よりも動揺してしまっている。
 小説を書いていることを言ったのも文都くんが初めて。それは、僕が言寧の秘密に触れたということになる。教えてもらえた嬉しさと、僕だけが知っているという妙な特別感で異常に鼓動が速くなっているのがわかる。
 
「どうして僕には教えてくれたの?」
「文都くんは私の彼氏だからねぇ、知れないことなんてないんだよ? それに病気で入院してる異性からの変な要望に答えてくれるって、きっとなにを言っても受け取ってくれるくらいには物好きだと思うから」
「それ褒めてる?」
「褒めてる褒めてる!」
 
 おどけたように、言寧はニカっとはにかみながらそう言った。そして。
 
「ね、はやく読んで? ずっと原稿渡したままなのって結構緊張するからさ」
 
 と、再び恥ずかしそうに僕を急かす。
 受け取った原稿を裏面に伏せたまま、数分が経過しようとしている。言寧は、どんな小説を書くのだろう。言寧がどれくらいの熱量で小説を書いているのかはわからないけれど、同じ書き手として、まだ世に出ていない物語を読むというのは不思議な緊張感に包まれていくものだった。目を瞑って深く息を整え、両手で原稿を掴み、ゆっくり目を開ける。緊張は沈み、僕の中で言寧の小説と向き合う準備が整った。
 
 ——『この物語は、明日消えてしまう君のために。』 辻紫言寧
 
 原稿の正面に目を向けて、最初の一文に目を通した。
 文章の癖はあったけれど、言葉は違和感なく僕の中に入ってくる。感覚的に一万字いかないくらい、二十数ページの文章量。
 最後のページの、最後の文を目で追い終える。
 原稿から視線を言寧へ向けると「どうだった?」と、聞かれているような気がした。その瞬間に言葉なんてなかったし、表情の明確な変化もなかったけれど、言寧が緊張していることと、同時に僕からの感想に期待していることはなんとなく察した。
 だから僕は。
  
「素直な言葉たちだね」 
 
 率直に、感じたままを伝えた。
 高校の空き教室。半分開けられた窓からの風でなびくカーテンがかかる席に、主人公とヒロインが二人きり。ヒロインに一目惚れした主人公と、その気持ちに気づいていないヒロイン。一章は、そこから始まる日常を切り取った風景が、描かれていることの大半だった。よく言えば平和で、悪く言えば平坦。
 ただ、その日常が僕には眩しく感じた。
 二人きりの空き教室に漂う絶妙な緊張感やそれすら包み込んでしまう柔らかい幸せを言寧は色で表していて、二人の移り行く表情は瞬間を切り取るように鮮明に書き起こされていた。言寧の言った通り物語の内容はまだわからなかったけれど、なんというか高校生の等身大を写した写真をめくり続けているような、ページをめくる度に僕はそんな感覚になった。
 
「素直、ね」
「主人公もヒロインも、物語の中を生きてるのがよくわかって——」
「一章を文都くんは、この主人公になった気持ちになれた?」
「え?」
「空き教室で向かい合って座ってるヒロインを、悶絶するほど可愛いって思えた?」
 
 僕からの答えをすでに知っているような目で、言寧はそう聞いた。
 質問というより、確認に近いような意味合いで。
 言い換えれば言寧の問いは「感情移入できたか」ということだろう。そう聞かれてしまえば、僕は……いや、言えない。
 小説を書いている僕だからわかる。書き手は読み手に、物語の中に入り込んでほしいんだ。物語をフィクションとして眺められるのではなく、自分が登場人物になったと錯覚してしまうほど物語に引きずり込まれてほしい。だから、言寧からのその質問に答えるのは正直とても心苦しい。
 
「……言寧の物語は」
「困ってる?」
「え」
「なんて言ったら私が書き手として傷つけないか、考えてくれて困ってる?」
 
 すべてを見透かされたような言葉だった。軽く首を傾げながら、言寧はなぜか柔らかく笑っている。
 言寧の言葉に頷くことも、嘘で褒めるのも違うような気がして、僕はただわかりやすく言葉を詰まらせていた。

「ね? 私の物語、パッとしないでしょ?」
 
 どうしてそんなことを平気な顔で言えてしまうのか不思議だった。
 平気な顔、というより、その表情はどこか嬉しそうにすら見えた。僕から「確かにパッとしないね」と言われるのを待っているような、そんな雰囲気を感じる。
 
「僕はこの素直な言葉がじゅうぶんに生かされた物語だと思ったよ」
 
 間を繋ぐように、原稿を返しながらそんな当たり障りのないことを言ってみた。
 
「それはどーもっ、でも感情移入できなかったのも事実でしょ?」
 
 逃げれなかった。
 逃げれなかったどころか「感情移入できなかった」なんて直接的に鋭い言葉で、聞き返されてしまった。
 今の僕と言寧の間にはベッドとその横の椅子という絶妙な距離感があるけれど、とんでもない力で手首を掴まれているような感覚だった。
 
「最初の一章だけで感情移入なんてなかなか難しいと思うよ?」 
「私が読んできた中で好印象な物語たちは冒頭から惹かれちゃうものばっかりだったよ?」
「それは、プロが書いたものだからさ」
「人の心を惹きつけるのにプロもアマチュアもきっとないよ。プロだって、アマチュアの時期があったわけだし。人の心を動かしたアマチュアがプロになるってだけの話だよ」

 自信満々に言い放たれてしまった。
 僕がなにも言い返せなかったのは、言寧の言ったことを間違いだと思えなかったからだ。
 
「ねぇ文都くん、私の物語は素直な言葉たちだったんだよね」
「僕はそう感じたよ」
「それじゃあ感想も、素直な言葉たちで返すべきだよ?」
 
 そう言われてしまったら、もう言葉を濁すことも許されないような気がした。
 言葉こそないけれど言寧の目は間違いなく僕の答えを急かしている。僕がなにを思っているのか、すべてわかっていながら「早く」と言うように。その空気感に押し負けるように、僕は硬く結んでいた口を開いた。
 
「……言寧の物語は、まだ物語じゃないと思う」
「ほう、詳しく聞かせてくれるかな?」
 
 高校生の等身大を写した写真をめくっていく、そんな感覚を僕は抱いた。
 高校生の等身大を映した映像を眺めていく、ではなかった。
 それはきっと読んだのが一章だけだったからでも、言寧の物語が未完成だからでもなくて——。
 
「主人公もヒロインも確かに物語の中で生きていたけど、生き生きしていないというか描かれている“キャラクター“でしかなくて、うまく言えないけど、もっと心を揺さぶられるなにかが欲しいと思った」
 
 頭の中で絡まっていた言葉たちは、思った以上の素直さで僕の口を伝ってくれた。
 言寧はなにを思っただろう。あまりの率直さに畏縮してしまわないだろうか、物語のすべてを否定されたと悲しんでいないだろうか、僕は声が聞こえるまで、表情を確かめるのが怖かった。
 
「そうだよ、そうなの、だよねだよね! 私もそう思うの!」
 
 机の上に置かれた原稿へと伏せていた僕の視線は反射的に、言寧の予想外の言葉へ向いた。表情は、不思議なほどに晴れている。
 
「ねぇわかった?」
 
 なんの遠慮もなく、言寧は僕の手を両手で包むように握った。
 それが一週間前、あの日の瞬間の光景と重なる。
 
「これが私が文都くんに彼氏役をお願いした理由なの!」
「満足する小説が書けないからって、あの時は話して——」
 
 僕の言葉を遮るように、言寧は首を横に振る。
 そして人差し指をまっすぐ立てて、わざとらしく、それを左右に一度揺らした。
 
「恋愛経験のない私の想像と、読んできたフィクションからの知識で書いた物語は、きっとこれが限界。それなりに読める文章は書けるけど、人の心は動かせない。感情を読んだ人の中に残せない」
「感情を残せない、か」
「そう、でも私はそんな物語のままじゃ嫌だから。主人公が泣いたら、ヒロインが笑ったら、それに釣られて泣いたり笑ったりできるような、心を持ったキャラクターが生きてる物語を描きたい」
 
 僕の中にある疑問を紐解くように言寧はそう言った。
 穏やかで静かな声色で紡がれていく言葉はどこか、言寧の叫びのようにも思えて、不思議なほど聞き入ってしまう。
 
「だから教えてほしいんだ。この前話した「実感したい」ってこういうこと」

 言い終えた言寧の視線はまっすぐ僕に向いていた。
 真剣で、力強くて、なにかを覚悟している、そんな迷いのない目。
 突拍子のない言寧の告白の勢いに押し負けるように彼氏役を引き受けてしまったけれど、僕が言寧をヒロインとして描くことも、言寧が僕とのことを物語として描くことも、中途半端に扱えることじゃないことを僕は今更痛感している。
 
「心を持ったキャラクター、言寧なら描けると思うよ。そのために、僕は彼氏役を引き受けたんだ」

 続きを考えるより先に、そんなことを言っていた。
 
「それじゃあ、今日することは決まりだねっ」
 
 僕が言葉の続きを探す間もなく、言寧は嬉しそうに微笑む。
 
「私たちはまだお互いのことを知らなすぎる。だから今日は質問大会をしよーっ!」
 
 数分前に漂っていた真剣さが嘘のように吹っ切れた様子で、言寧は右手を勢いよく天井に向けて突き上げた。
 一週間前と同じく病室には二人きりだったけれど、言寧の子どものように無邪気な舞い上がり方に僕は少しだけ恥ずかしくなった。
 言寧は原稿の表紙の裏面に『主人公』とだけ書いて、僕の方に向き直る。
 
「主人公のことは、直接主人公から聞いた方がきっといいでしょ?」
 
 質問大会という言葉でなんとなく察していたけれど、どうやらここからは僕のいろいろなことを言寧に教えていく時間が始まるらしい。
 今気づいたけれど、言寧は左利きだった。なにかを書きながら、書いた文字を右手で覆うように隠していく。僕が伺うように見てみると「まだ見ちゃダメだよ!」なんてニヤッとしながら止められてしまった。
 
「まずは文都くんの身長を教えて?」
「百七五センチ」
「私と十五センチ差か! カップルの理想の身長差だねぇ」
「嬉しそうだね」
「そりゃ嬉しいよ、血液型は?」
「AB型」
「納得納得、文都くん変わり者っぽい」
「それ、あんまり人に言わない方がいいと思うけど」
「まぁまぁお気になさらずっ、誕生日は?」
「七月三十日」
「えー夏生まれなの!? でも確かに、冬生まれっぽくはないしなぁ」
 
 リアクションの大半は遠慮がない、というより、もはや失礼の域に入るけれど僕はあまり気にしなかった。
 僕からの答えを言寧は原稿の裏面に書き留めていく。右手で覆われていたところには僕への質問事項が並べられていた。
 
「今までの恋愛経験は?」
「彼女どころか好きな人すらまったく」
「えー! いやいやいや嘘でしょ? まぁそっか、でも大丈夫だよ! まだまだこれから!」
 
 過剰に驚かれた後、僕はなぜか励まされた。
 
「んー、恋愛と無縁なら友人関係について聞かせてもらおう!」
「宮澤創也っていう社交的で僕とは対照的な友人が一人だけいるよ」
「一人だけ!? 文都くん、ほんとに高校生?」
「僕みたいなのに話しかける物好きがいる環境がなにより高校生の証明だよ。そいつも小説書いててさ、僕に言寧の病室へ行くように言ったのもそいつ」
 
 出すつもりはなかったけれど創也の名前を、それもフルネームで登場させてしまった。なぜか少しだけ罪悪感がある。
 言寧は僕に友達と呼べる存在が一人しかいないことにまだ驚いているのか「本当に他にはいないの? 女の子でもいいんだよ?」と、必要のない追い質問をしてくる。
 だから僕は「創也とは共通点があったから仲良くなっただけで、他の人は会話すらしないくらいだよ」と少しだけ濁して返した。
 ただ、さすがに授業中に書いていた小説の一部を読まれてしまったことが接点だとは明かせなかった。
 モヤをかけたまま、友人関係についての質問は終わりを迎える。
 それでも言寧からの質問攻めは止む気配がない。
 
「よければ、家族構成を聞いてもいい?」
「父親と、歳の離れた従兄弟と一緒に……って、さっきから質問攻めにされてるけどこれはなにかの面接?」
「だって文都くん私のこととか興味なさそうだし」
 
 確かに、そう感じられてもしかたのない態度をとっていたかもしれない。言寧をヒロインとして描くなら、僕も言寧のことを知っておく必要がある。
 ただここで変に言い返すのも不自然で、僕が小説を書いていることは言いたくなくて……。
 
「仮にも恋人として、知っておきたいと思うよ」
 
 僕は咄嗟にそんな嘘をついた。
 言寧は不思議そうに僕を見つめている、なにを不思議に思っているのかはわからなかったし、僕の嘘をどう受け取ってくれているのかもわからなかった。
 沈黙のあまり生まれた気まずさを誤魔化すために、意味もなく一度頷いてみる。今度は首を傾げられてしまった。だからもう一度頷いた、今度は「知りたいよ」という意思を込めたつもりで。
 
「百六十センチ、A型、二月二十九日生まれだよっ」
 
 僕の意思は、奇跡的に伝わったらしい。
 それにしても突然明かされた言寧のプロフィールを、僕は記憶から逃さないように急いで鞄から取り出した裏紙に書き出した。
 
「おーメモまでしてくれるなんて熱心で愛情深い彼氏だねぇ」
 
 言葉ではからかっているけれど、その声色から密かに言寧が喜んでいるのがわかった。僕と言寧の中にある興味は、まっすぐ互いに向いている。
 
「二月二十九日に生まれてくるなんて、とんでもない確率を引き当てたね」
「ほんとにね、生まれてくる日も、この身体も病気も、私はとんでもない確率を引き当て続けちゃってる」
「そういうの僕は笑えないからね?」
「治って元気になったら笑って? 結局またとんでもない確率を引き当てて治っちゃったねって」
「まぁ、それまで僕が恋人だったらね」
「だね、あくまで文都くんは私の彼氏役だもん」
 
 さらっと言われてしまったし、僕も反射的にそう言ってしまったけれど、僕たちの本当の関係はやっぱり少し寂しいものだと痛感した。
 恋人であることを強く意識しながらも、本当は二人の利害が一致しただけの関係。僕も言寧もそれ以上は望んでいないし、心の底から好意があるわけではないから悲しむことはなかったけれど、恋人にしては特殊な距離感に戸惑う気持ちは確かにあった。
 
「えっと、言寧のご家族というか、そういう……」
「文都くん質問するのが下手だねぇ、私が最初にお手本見せてあげるっ」
「どこまで踏み入っていいのかわかんないんだよ」
「どこまでだっていいよ? 知りたいことを聞けばいい。それが彼氏の特権なんだよっ。それじゃあ、私の第一印象を教えて?」
「冷静というか淡白というか、ちょっとだけ怖い印象を抱いたよ」
「えー私が怖い!? まぁ確かに、あの日は無愛想だったかもねぇ」

 気づけば再び、僕への質問攻めタイムが始まった。
 きっと悪気もなければ、質問攻めにしている意識もないのだろう、言寧は無邪気に楽しそうな表情で、思いついたままの気になることを僕へ問いかけてくる。
 
「休みの日はなにしてる?」
「昼過ぎまで寝てるかな、気まぐれだよ」
「それって楽しいの? せっかくの休みなんだよ? 無気力な人だねぇ、まぁいいけど。んーじゃあ、もし明日死ぬとしたらなにする?」
「急すぎるね」
「死は誰にだって突然訪れるものだよ?」
「そうじゃなくて言寧のその質問が」
「まぁ確かに、でも文都くんには恋愛観を聞くより死生観を聞いた方が答えてくれそうだったから」
「僕に恋愛観は語れないけど……だとしてもその理由はどうかと思うよ」
「それで、明日死ぬとしたらなにする?」
「特別なことはしないよ。きっといつも通りに過ごして死ぬ瞬間を実感しないように早めにベッドに入ると思う」
「そっかそっか、やっぱり死ぬのは怖い?」
「それは、僕もよくわからないかな」
 
 言寧には不思議そうな表情をされてしまったし、あまりにも曖昧な答え方をしてしまったけれど、この質問に対して、嘘はつかない方がいいような気がした。
 死ぬのが怖い、もしかしたら僕もどこかでそう思っているのかもしれない。
 でもだからと言って、生きていたいと思えている実感はなかった。
 
「そっかそっか、まぁそんなこと生きてる私たちが考えたってわかるはずないよね」
 
 重くなりかけた空気を言寧は掬い上げるように元に戻してくれた。
 そして再びボールペンを左手に握って「ちょっと待ってね」と、僕からの答えを一言すらこぼさない勢いで書き留めていく。覆われていた右手がなくなったところをバレないように覗いてみた。
【休みの日は昼過ぎまで寝てる、無気力な印象、退屈を好むのかもしれない。内向的な性格?】【明日死ぬとしても特別なことはしない、ただ死ぬ瞬間を実感しないように早めにベッドに入る。現実主義、未来に夢を抱かないタイプなのかもしれない】【恋愛経験なし。確かに、それは言動というか人に無頓着な雰囲気と解釈一致】
 つらつらと、そんな僕の情報が書き並べられている。
 
「それじゃあ思いつく限り最後の質問です! そしてこれは重大です」
「重大、なんですか?」
「どうして私の彼氏役を引き受けてくれたんですか?」
 
 言えない。僕が小説を書いていることはそこまで隠すことではないけれど、まさかそのネタにするためなんて失礼なことは口が裂けても言えない。誤魔化したい、ここへ来た理由を聞かれたのならまだ「友人に頼まれて」とでも適当な言い訳ができるけれど、彼氏役を引き受けたことに関しては完全に僕の意思だ。誤魔化し方に困る。
 
「まぁ、断る理由もないかなって」
「ふーん、素直じゃないねぇ。まぁ私は素直なので、文都くんの答えを詮索せずに受け取ることとしましょう」
 
 半ば不服そうだったけれど、その場を逃げ切れてよかったと安心する。
 最後の質問と言っていたけれど、言寧の最後は信用できない。このままの流れで思いついた質問をされてしまっては、また僕にとって圧倒的不利な質問が飛んできてしまうかもしれない。それなら、慣れないけれど僕の方からも。
 
「僕からも、聞いていい?」
「なんでもどーぞっ!」
「言寧が思う長所と短所は?」
「その質問こそ面接っぽいけどいいの?」
「いいよ、僕は今日割り切って面接官になることにしたんだ」 
「よくわかんないけどまぁいっか、長所は感情がすーぐ顔に出るところかな」
「短所は?」
「短所はなんだろう、話を誤魔化しちゃうところとか?」
 
 そう答えながら「堅苦しい面接は好きじゃないよー」と、言寧は数秒前に言った短所全開の態度をとった。
 
「趣味は?」
「小説とか少女漫画を読むことだね」
「それじゃあ得意なことは小説を書くこと?」
「得意なことは妄想だよ、書くのはあんまり得意じゃないし慣れてもないからね」
 
 そこからいくつか、僕からのぎこちない質問攻めタイムが始まった。
 恋愛経験がないことは聞いていたから代わりに好きなタイプと理想のデートプランを聞いたり、チャームポイント、箸休めとして最近で一番聞いた曲を教えてもらったりもした。
 言寧は「身長が百八十五センチの塩顔で、私だけに優しくて、料理が上手で気持ちのままに甘やかしてくれる人が好きかな」なんて、時々現実離れした答えを言い出したりもした。
 そしてある程度空気が和んできた頃、僕が言寧への質問攻めに耐性がついてきた頃、言寧と仮の恋人として、そして言寧をヒロインとして描く上で必要不可欠な質問をすることを決意した。
 
「どうして、小説を書こうと思ったの?」
 
 そんなに慎重になる必要のないことなのかもしれない。ただ、相手が言寧となると無神経に踏み込んではいけないような気がした。病気で入院している人間が小説を書くなんて、なにか特別な意味があるはずだ。それもきっと、幸せな理由ではないだろう。
 言寧は少しだけ迷った後「言ってもいいけど、重く捉えるのは禁止ね?」と約束の意味を込めて立てられた小指を僕へ突き出した。僕は頷いて、小指を交わらせる。言寧は安心したように笑ったあと。
 
「私が生きた証を、生きてた時間を、残したいと思ったの」
 
 そう、教えてくれた。
 詳しくは聞いていないけれど持病で入院しているという前提を考えてしまうと、それらしい理由だなと理解できてしまう僕を情けなく思った。
 その一言で理解できてしまうのなら、どうしてわざわざ聞いたのだろうと、浅はかさにも申し訳なくなった。生きた証、生きた時間。それは死が迫っているから「残したい」と思うものだ。言寧が小説を書く理由を言葉にされた瞬間、僕はその残酷さに胸が締め付けられた。
 
「ねぇ文都くん」
「なに?」
「私の生まれてからの話、聞いてもらってもいい?」
 
 そう言寧の方から言われてしまっては、頷くしかない。
 それに言寧をヒロインとして描く中で生きてきた背景を知る必要があって、それを言寧から打ち明けてくれるのはありがたい。
 正直聞きこぼさないように、忘れないように、その場で言寧からの話を書き留めたいけれどさすがに怪しまれてしまいそうだったので、僕はそっとスマートフォンに内蔵されているボイスレコーダーを起動した。
 
「三歳の時に病気だってわかったの。あっ、詳しい病名は言わないよ? 文都くんがもし帰って調べてくれたりでもしたらきっとどんな病気でも心配しちゃうと思うからね」
 
 内緒、の意味を込めてか言寧は人差し指を口元で立てた。
 今から始まるのはそう楽しい話ではないのに、不思議なくらいに深刻な雰囲気がない。
 
「そこから入退院を繰り返してて、病状が悪化したのは中学二年生になってすぐの頃、そこからは学校にも通いづらくなって、治療法も変わって、それでも悪化は止まらなくて高校一年生の夏くらい……ちょうど去年の今頃かな、病院から出られない身体になっちゃったんだ」
 
 三歳から今までを、言寧はとんでもなく端的にまとめた。
 入退院を繰り返して、病状が悪化して、入院生活を続けている。僕が「心配」なんて言葉で片付けてしまえない状況の中に言寧はいる。
 ただヒロインとして描くに、それはよくある話にとどまってしまいそうな気がした。最低な感想だと思う、それを見透かしたように言寧は「まだ続きがあるんだ」と言って僕の意識を引き戻した。
 
「ここから先の話は、私が小説を書き始めた理由について」
 
 それは僕が、一番知りたいことだった。
 生きた証と時間を残したい、その核心に触れる前の緊張感は会った瞬間と似ている。
 言寧は戸棚に収められた文庫本の隙間から、茶封筒を取り出す。それを傾けると中からは一枚の写真が机の上に乗った。
 
「これ、私のお母さん。綺麗な人でしょ? まぁ私が小学生の頃の写真だから今よりずっと若いっていうのもあると思うけどね」
 
 淡い桃色の桜が舞う中、入学式の立て看板前で無邪気に笑う少女と、その背丈に合わせるように膝を曲げて微笑む母親。シャッターを切っているのは父親だろうか。そんな見えないところさえ想像させてしまうほど、写真に映った言寧とその母親は幸せな親子像そのもののように見えた。
 
「綺麗だね。言寧もお母さんも幸せそうで微笑ましいよ」
「そうだね、幸せだった。この写真が最後の幸せだった」
「最後の幸せ?」
「お母さんと最後にちゃんと話したの、小学校の入学式が最後なんだ」
 
 僕は言葉を失った。
 目の前に置かれた写真と、言寧からの告白にはあまりにもギャップがありすぎた。
 
「お母さん、何歳(いくつ)に見える?」
「わからないけど、この写真だと二十代とか、すごく若く見える」
「文都くんはきっと器用にお世辞を言えるタイプじゃないから本当にそう見えるんだろうね。そう、正解。この写真の時お母さんは二十六歳だった」

 当時の年齢から言寧を産んだ年齢を考えても、やっぱりかなり若かった。

「私を産んだ時、二十歳とか」
「若くしてお母さんになったんだね」
「私の病気がわかるまで、お母さんの中には理想の家族があったからね」
 
 言寧から放たれるその言葉は妙に重たい。
 私の病気がわかるまで、そして、理想の家族があった、もっと言うならそれは。
 
「私の病気がわかったから、崩しちゃった理想の家族があるってこと。伝わる?」
 
 僕の中の嫌な予想が当たってしまった。
 
「二十五歳までに子供が三人欲しい。お母さん自身が若いうちにみんな成人して、家族五人が元気なうちに、旅行とか楽しいことをいっぱいする」
「それが、お母さんの理想の家族?」
「そう、そしてお父さんの理想の家族でもあった」
 
 そう言い残された僕は言葉を失ったままだった。そのせいで沈黙が生まれる。
 ただその沈黙は、きっと言寧が意図的に生み出した沈黙だった。
 机に置かれた写真を言寧は指先で掬い上げるように掴む。静かに、動かずに、じっと見つめていた。僕には紛れもない幸せが映っているように見えたその写真は、言寧にはどう見えるのだろう。
 
「お母さんは手続きとか、主治医との最低限のやりとりをし続けてくれてる。お父さんは、治療費を稼ぐために家を離れて働いてくれてるの」
「そう、なんだ」
「いい人たちだと思う、家族の理想を壊した子どもを生かそうと頑張ってくれてるんだから。でも二人は、いつも私の病気しか見てくれない。私の病気と、それにかかるお金しか、見てくれない、それは少し悲しい」
 
 言寧は言い終えてすぐ「わがままだよね」なんて笑いながら重くなった空気を振り払おうとしたけれど、僕は笑い返さなかった。
 病気という誰も責められないもので親と疎遠になってしまったんだ。本当なら悲しいの前に少しをつける強がりすらいらないことなのに。
 
「それにいつ死んじゃうかわからない私が死んだら、二人には「辻紫言寧が死んだ」って事実しか知らされないの。友達も恋人もいなくて、家族とも疎遠で。そんな私がどんな生き方をして、どんな人間だったかを知る人間はいない。それってね、生きてきた時間が消えるってことなんだよ。それはとっても悲しいことだと思わない?」
 
 言寧の言う少しは強がりではななくもっと悲しいことがあることへの予告だった。
 そして付け加えるように「生かしてもらえてるだけで、とっても嬉しいことなんだけどね」と言う。少なくとも僕は、生きていることが当たり前すぎて、そこに嬉しさなんて感じない。きっとそれは大抵の人間がそうだろう。
 なのに言寧は違う。
 同い年の女の子が、僕が当たり前に見過ごしているようなことへ搾り出すように嬉しさを見出しているなんて、あっていいわけがないと思った。
 言寧がとっても嬉しいと言うその表情が、僕にはとっても寂しく見える。
 
「だから私は、私の言葉でこの世界に辻紫言寧を残すことにしたの」
 
 言寧の表情は、晴れていた。繕っているわけではない、きっと心から晴れている。
 差し込んでくる光にも負けないほどの眩しさで「いいでしょ」とでも言うように笑っている。
 
「私は普通の小学生にも中学生にもなれなくて、高校生にもきっとなれない。だから生み出すキャラクターには私にとって夢みたいな生き方をしてもらうの」
「夢みたいな生き方?」
「学校に通って、友達がいて、誰かを好きになって、付き合ったり振られたりして、家に帰ったら家族が待ってて……そうやって笑ってる生き方。ちょっとも寂しくない生き方」
 
 言寧は目を輝かせながら、そんな夢を語る。
 
「辛くなったりしないの?」
「え?」
「こう生きたいって思いながら、現実ではその夢から遠い生き方をしてるって、押しつぶされそうになること、ないの?」
 
 無神経だった、ただそれでも知りたかった。
 どうしてそんなに迷いもなく夢を語れるのか、僕には不思議だったから。
 言寧は僕と同じ年数しか生きていないはずなのに、僕とはまるで考え方が違う。死を受け入れた人間はここまで強くなってしまうのだろうか。僕はそれが寂しかった。
 
「なるよ、当たり前に辛くなる」
「それならどうして」
「それでも残したいの。それに、変わっていく瞬間を私自身が忘れたくない」
「変わっていく瞬間?」
「キャラクターは私の鏡だから、いいことがあった時は楽観的な子が、悲しいことがあった時は悲観的な子が生まれてく。私が物語を書けばその時の夢とか考え方も残るでしょ? それってなにより生きた証だと思わない?」
 
 言寧が小説を書く理由は、好きで書いている創也とも、死ねないから書いている僕とも違う。もっと夢があって、残酷で、揺らがないものだった。
 
「生きるって、変わっていくことだからね。ちゃんと残しておかないと」
 
 そう言い終えると、言寧は写真を茶封筒へ入れそっと戸棚へ戻した。
 僕はここへ来る時、そして彼氏役を引き受ける時も、言寧を新作のヒロインとして描くという目的があった。それは、単にネタが尽きていたから。
 そんな理由で僕がまっすぐ生きている言寧を描くことは、とても失礼な気がした。
 こうして隠れてボイスレコーダーを起動していることも、誠実ではない。
 だからせめてもお詫びとして。
 
「残しに行こうか、記憶に」
「どういう意味?」
「高校生らしい放課後、一緒に過ごしてみない?」
 
 僕は言寧を二人きりでの外出に誘った。いわゆるデートだ。
 緊張した、そんな僕の鼓動を加速させたのは言寧の照れて赤くなった顔だった。
 そして言寧は無邪気に「先生にお願いしてみる! ちょっとでも病院の外に出てもいいってなったら連れて行ってほしい!」そう前のめりになって、僕の手を包むように力強く握った。
 ドキドキした。今更緊張しているわけでも、恥ずかしがっているわけでもないのに僕の鼓動はうるさかった。
 その日言寧は僕が病室から出る時、少しだけ名残惜しそうに手を振った。
 そして「絶対ね!」と満面の笑みで小指を突き出してみせた。
 
 ***
 
 翌週、言寧は無事に半日の外出許可を勝ち取った。
 その日は授業が午前で終わる日だったこともあって担任に「言寧を放課後に連れてきたい」と掛け合ってみたけれど、定期テストの関係で放課後の校舎内には立ち入れないと申し訳なさそうな顔で断られてしまった。物語ならきっと入れたのに、そんなことを思いながら僕は言寧を迎え行くため大学病院行きのバスに乗っている。
 午後二時、病室の前に着く。白い扉の威圧感には無意識のうちに慣れていた。
 
「言寧、準備できてる?」
「文都くん! もっちろんだよー久しぶりに制服着てみたんだけどどう? 似合ってる?」
 
 くるりと一周回って、言寧は僕に制服姿を見せてくれた。
 華奢な身体にセーラー服がよく似合っていて、スカートは女子高校生らしく膝上まで短く折られている。ただ普段緩い私服や病衣を着ている言寧が病室で制服を着ていることには拭いきれない違和感があって、それは妙に似合うコスプレ姿を見ている感覚だった。
 
「似合ってるよ」
「違うでしょ?」

 なにが違うのか、まったくわからない。
 似合ってる? と聞かれたら、似合ってると答えるだろう。それに嘘をついたわけではない。僕はその理由を尋ねるように小さく首を傾げてみせた。
 
「文都くんは私の彼氏でしょ?」
 
 そう言うことか。
 薄々感じてはいたけれど確信した、言寧はかなりあざといタイプだ。それも素で。
 
「すごく、可愛いよ」
「ありがとっ、嬉しい」
 
 ふふふ、と満足げに笑いながら言寧は短くなったスカートの裾をつまんでひらひらさせた。
 時計を見ると、乗る予定のバスまで残り二分であることに気づく。言寧は僕の手を引いて「急ご! これ朝ならギリ遅刻だよ!」と、なんだか楽しそうに焦っていた。駆け込むようにバスに乗った僕たちは後ろ側の席に着いた。
 
「文都くんこれ、私にもしなにかあったらこの番号に電話してもらってもいいかな」
 
 渡された紙には言寧の主治医に直接繋がる番号が記されていた。いつみても笑っているから意識から外れてしまうけれど、言寧は半日の外出すら許可が必要なほどの病を患っている。
 
「文都くんなにしてるの?」
「番号、登録しておこうと思って。なにかあった時すぐに動けた方がきっといいからね。安心して、今日が終わったらちゃんと消すよ」
 
 病室を出る前に荷物を確認する時、言寧は少し不安そうな顔をしていた。番号の書いた紙を手渡す時は申し訳なさそうな顔をした。だから僕はそれを少しでも拭えるように動いてみた。この数時間くらいはなににも囚われずに楽しんでほしい。
 
「努めてくれてますねぇ」
「仮にも彼氏ですからね」
 
 茶化されるのは気恥ずかしかったけれど、言寧が笑ってくれたなら僕はそれでいいと思えた。
 
 *
 
 午後三時、学校から一番近くにあるカラオケボックスを訪れた。
 
「うわぁぁすごっ! これぞ放課後! って感じの雰囲気だ!」
 
 言寧は壁に沿って置かれているソファに勢いよく鞄を置いた後、机の周りを一周するように狭い室内を小走りで一周した。立ち止まったかと思えば今度は照明の調節スイッチを捻って「明るくなったりぃ、暗くなったりぃ」と、無邪気に目を輝かせている。
 
「カラオケ自体初めて?」
「初めて! 文都くんも初めて?」
「いや、僕は何度か」
 
 嫌になるほど社交的な創也に、何度か連れてこられたことがある。
 
「ふーん、文都くんは遊び慣れてるってことかぁ私が初めてじゃないんだねっ」
「そうからかわないでもらえるかな」
「まぁ文都くんのことだし誰かに連れてこられたとかなんだろうねぇ、合ってる?」
「名推理だよ、基本一人が好きだから誘われて行くのも稀だけどね」
「真実はいつも一つ! 文都くんはいつも一人! ってことだねっ」
 
 ニコニコしながら、言寧はまだ音楽すら鳴っていないのに身体を左右に揺らしている。それくらい、わかりやすく上機嫌だった。
 言寧にとって高校生の放課後の舞台は空き教室か、ファミレスか、カラオケの三択だったらしい。その中で校舎内に入れないこと、ファミレスでの食事は病院での夕食に影響が出てしまうことから消去法でカラオケに来たのだ。
 
「私ね文都くんと歌いたい曲があるの! 入れていい?」
 
 僕が答えを言い終えるより先に言寧は曲をデンモクに入れ終えていて、あとは【予約】を押すだけだった。曲名は言寧の手で覆うように隠されていて見えない。
 
「せっかく来たから歌うのは賛成だけど、知らない曲だったら」
「知らない曲だったらなんとなくで! 次一緒に来た時のために曲名だけでも覚えていって!」

 ここでも言寧は有無を言わせなかった。
 入れられた曲は偶然にも、いつかに創也から誘われて参加したクラス打ち上げでカップルがデュエットしていた曲で、僕は覚えている限りを言われた通りなんとなくで歌い終えた。
 その後も言寧は止まることなく曲を選んでは自分で歌ったり、僕を誘ったり、たまに「これ絶対文都くんの声に合うと思う!」そんなことを言ってマイクを手に握らせてきたりした。意外にも音楽の趣味は似ていてそれにちょっと嬉しくなったり、好きなアーティストのライブ限定歌詞を完璧に歌い上げられた時にはかなりテンションが上がったりした。

「いやぁ意外と趣味が合いますねぇ」

 言寧はニコニコしながら僕を見つめる、僕の口角も自然と上がっていたと思う。
 創也に彼女がいた頃、放課後に彼女とカラオケに行った話を聞く度に「あんな密室で歌うだけなんて気まずいだけだろう」と思っていたけれど、今ならそれを幸せそうに話す創也の気持ちがよくわかる気がした。それに「歌ってる彼女の姿は格段に可愛いぞ」の意味も。
 マイクを持っていない方の手でリズムを取っていたり、音程バーに合わせて無意識に顔が上下に動いているのは、可愛らしさを感じる瞬間だった。
 予約している二時間まで、残り十分。
 一緒に歌った曲、途中で止めた曲、ライブ映像だけを観た曲。履歴にはすでに僕と言寧が歌った曲たちが二十数曲並んでいる。
 どうやら言寧には締めの一曲に歌いたいものがあるらしく、僕は中途半端に残ったメロンソーダを飲みながらその曲が流れるのを待っていた。
  
「言寧なに探してるの?」
「ジュウハチバン、探してるんだけど……ここのカラオケはないのかなぁ」
「ジュウハチバン? アーティストの名前とか歌詞の一部とかわかる?」
「いやぁよくわからないんだけどさ、みんなカラオケに行ったら歌うらしいんだよね。この間読んだ小説のヒロインも歌ってた……その歌だと上手く歌えるんだって」
 
 そんな魔法のような歌があるのか、と僕の頭に無数のハテナが浮かんでいる。
 でも言寧いわく、それは確かにあるらしい。
 ジュウハチバン、は曲名だろうか。アーティストも歌詞の一部もわからないけれど小説に書いてあるくらいの共通認識で上手く歌える曲……。
 まさかそんなことはないだろうけど、僕の中に一つ、言寧が考えていることの心当たりが浮かんだ。
 
「もしかしてコレのこと?」
 
 言寧とのメッセージ画面を開いて、僕はそこに【十八番】と打ち込んで見せた。
 
「ん? そうそう!」
 
 ダメもとで聞いた見たけれど、僕のまさかは当たっていたらしい。
 言寧は【十八番(オハコ)】を【十八番(ジュウハチバン)】と読んでいた。高校生らしくない素直すぎる間違え方に笑いを堪えている僕を、言寧が不思議そうに見つめて首を傾げている。
 そして「十八番は、自分の得意な曲のことを言うんだよ」と教えると、世界の謎が一つ解けたかのように閃いた顔をして。
 
「だからみんな歌ったり上手だったりするの!?」
 
 と、今度は言寧が少し恥ずかしがりながら笑っていた。
 そんなことをしているうちに退室の五分前を知らせる電話が鳴り、僕と言寧は楽しげな雰囲気を纏ったままカラオケを後にした。 
 
 *
 
 校舎内に入れないことを知った言寧は、それでもバスに乗りたがった。入学から数ヶ月間、病院からの送迎で登校していた言寧にとって高校生になったらバスで通学することは一つの夢だったらしい。だから僕たちはせめても高校の敷地内を歩くことにした。
 バスのアナウンスが最寄り駅に到着したことを告げている。揺れが止まるのを待って、僕たちはバスを降りた。
 
「一年とちょっとぶりだなぁ、あの窓一年生の教室だよね」
「入学早々に一枚割れて新しくなったんだっけ」
 
 年季の入った校舎の中で一枚、異様に綺麗な反射を見せる四階の教室の窓を指さして僕たちはそんな思い出話をした。年度始めの大掃除で窓に止まった蜂を逃がそうとほうきで叩いて割れた窓。僕がここまで鮮明に覚えているのは、その割った当本人が他でもない創也だったからだ。
 
「あれ蜜蜂だったっけ? それであんなにびっくりするって小学生みたいだね」
 
 言寧は僕以上に鮮明に思い出しては大袈裟なくらいケタケタ笑った。
 そこからなぞるように二年生の教室を指差して、部活動生のいる野球場、テニスコート、演劇部が発声練習をしている中庭横を通って、敷地内を一周した。
 
「懐かしいはずなのに、初めてみる場所ばっかり」
「入学してからの数ヶ月は通ってたんだっけ」
「まぁその頃には容態も悪化してて通えても週に二回くらいだったけどね。それにしても文都くん、ほんとに私がこの学校にいたこと覚えてないんだね?」
「僕もその時期は特に休みがちだったから登校日がすれ違ったりしてたのかもね」
「環境が変わると体調も崩しやすいからね、文都くんも大変だったね」
「いや?」
「え?」
「僕のはただのサボりだよ」
 
 言寧は呆れたようにあからさまなため息を吐いた後、僕の肩を小突いた。
 そしてすかさず「確かに文都くんの欠席理由にはサボりがピッタリだね」なんて不名誉な納得のしかたをされてしまった。
 
「でも窓ガラスの話を知ってるってことは大掃除の日はいたんでしょ? 私たち少なくとも一回は会ってるんだね」
「そうみたいだね、人に無関心すぎて言寧のことは十数人いる女子の一人としか認識してなかったよ」
「それが今は彼氏役だねっ。十数人いる女子の一人、なんかじゃないねっ」
「ここまで強引に巻き込まれたら認識せざるを得ないでしょ」
「文都くんのことを惹き込んじゃうくらい私は魅力的な女だったってことだねっ」

 言寧は相変わらず有無を言わせい。
 僕が口を開こうとすると、ただ一言。
 
「ね?」
 
 頷く、以外の選択肢が消え去った。
 僕の言った「そうだね」に抑揚なんてなかったのに、言寧は校門へ向かう砂利の一本道をスキップ混じりに駆け出した。その足取りは宙を舞っている踊り子のように華麗で、ゆらゆらと上下に揺れているスカートの裾すら楽しげな雰囲気を纏っていた。 僕の鼓動がわかりやすく跳ねている。
 いくら容姿の綺麗な同級生が相手でも誰かの姿にこれほど目を奪われたことなんてない。だからこれは言寧の容姿が整っているからでも、初めてみる制服姿に改めて見惚れているわけでもない。
 言寧の姿に僕の心が引っ張られるのだ。
 
「文都くーん!」
 
 校門の外側。十数メートル先から、言寧が大きく手を振りながら僕の名前を呼ぶ。

「私といる時間、楽しいー?」
 
 言寧はそんなことを尋ねた。
 もちろん、ただ僕の答えは決まっている。迷う間もない。
 
「楽しいよ、言寧との時間、僕はすごく楽しい」
 
 不自然だ。
 走ればすぐの距離の相手と、大袈裟に叫んで気持ちを確かめ合っている。
 ただそんな不自然な演出が、今の僕たちには楽しくてしかたなかった。
 
「違うよ!」
「え」
「僕“は“じゃない! 僕“も”なの! だって私もすっごく楽しいから!」
 
 それが、僕の心が引っ張られた理由だった。
 心が通っているように、気づいたら同じ気持ちになっている。そして言寧はそれを表情で、声色で、そして言葉で、恥じらいもなく教えてくれる。
 なんて素敵な人なのだろうと僕は今更気づかされた。
  
 *
 
「高校生の放課後ってこんなにあっという間なんだねぇ、これをまさに青春とかエモいって言うのかな」
「僕からしても未知だけど、きっとそうなのかもしれないね」
 
 病院へ向かう帰りのバスに揺られている。
 行きのバスより経由する駅の多い路線を選んだ僕たちは、少しでも長く、その青春やエモいを感じようとしているのかもしれない。
 そしてこの帰りのバスで、僕は言寧から「お願いしたいことがある」と予告されているのだが——。
 
「お願いしたいこと、ってなに?」
「おっ、自分から聞いちゃう? 欲しがりだねぇ」
 
 言寧は必ず、僕のことをからかう。
 それも可愛げのあるからかいかたをするのがずるい。
 抵抗しても言寧には効かないので、僕はおとなしく「欲しがりも悪くないでしょ?」と開き直ってみた。
 
「悪くない悪くない! どちらかというと私好み!」
 
 帰りのバスはしんみりした空気になってしまうかと思っていたけれど、その心配も要らなさそうで僕は安心した。
 言寧は「はいっ」と弾んだ声で呟いたあと、両手を合わせてなにかをねだるように僕に手のひらを見せてきた。
 
「お互いの学生証見せ合いっこしよっ」
 
 僕に向けられた手は「だから文都くんの学生証見せて!」の手だ。
 顔写真の載った学生証を人に見せるなんて正直抵抗しかないけれど「早くしないと病院ついちゃうよ?」なんて言われてしまっては、見せるしかない。
 通学用の定期が入ったパスケースの裏から学生証を取り出す、顔写真には自分でも驚くほど無愛想な僕が写っていた。それはもう写真を撮る直前に絶望的に痛い悪口を言われたのかを疑ってしまうほど無愛想な。
 
「これ、写りが悪いから顔写真についてはあんまり触れないで」
「ほうほう。とんでも無愛想だねぇ、でも、うん、別にそんな酷い顔じゃないよ?」
「それ、全っ然フォローになってないからね?」
 
 言寧は口元に手を添えて笑いながら、僕の学生証をじっと見ていた。その隣に自分の学生証を並べて見比べるように。理由はわからないけれど、それを見ている言寧は切なさのある喜び方をしているように見える。
 
「なんで学生証見たかったの?」
「私たち、同じ学校の生徒なんだよ? 知ってた?」
「それは知って——」
「じゃあ、私がここの高校の生徒だって、覚えてた?」
 
 わかりやすく、口をこもらせてしまった。
 言寧の揺らがない眼差しに射止められたように、僕はなにも言えないまま固まってしまう。
 
「そういうことっ、同じ学校に通ってるって実感してみたかったんだよねぇ。ほら、こうやって制服着てみてもさ私が着るとコスプレみたいでしょ?」
 
 その言寧の言葉は僕の中に妙に刺さった。それに。
 
「制服のリボンの色、去年のままなのって」
「治療の関係で学校での撮影に行けなくて、写真屋さんにも行けてなくてね。生徒情報だけ更新してもらって、写真は去年のをそのまま移行してもらったんだ」
 
 途端に、現実に引き戻されてしまった気がした。
 初めて病室を訪れた時は病気で入院しているクラスメイトという認識だけだった。
 ただ、よく笑う姿を見て、数時間普通の高校生の放課後を過ごして、僕なんかよりはるかに愉快な言寧が病気だという意識を僕は無意識のうちに霞ませてしまっていた。 病院へ着いてしまうのが無性に寂しくなって、怖くなった。 
 
「言寧の学生証、借りてもいい?」
 
 だから僕も、同じようにそう実感したくなった。
 言寧も同じ学校に通っている高校生で、当たり前のように同じ制服を着ていて、同じ学生証を持っている。不思議だった。恋人と言っても仮の相手にここまで心を揺さぶられているのが、僕自身不思議でたまらなかった。
 
「ね? 一年生の頃の私も結構可愛いでしょ?」
 
 言寧は茶化すようにそんなことを言ってくれる。
 僕が黙り込んで学生証を見つめていたからだろう。だからお礼に。
 
「可愛いよ、とってもね」

 言寧の頬が赤く熱って、それを冷ますように両手で顔を仰いでいる。ただその表情は恥ずかしがりながらも嬉しそうで、とても愛らしかった。しばらく見つめていると「そんなに見ちゃダメっ」と。その頃には僕の頬も自然と緩んでいたと思う。
 病院前のバス停に到着したアナウンスが鳴る。
 緊張感を漂わせたまま降車し、エントランスで言寧へ手を振った。
 
「放課後デート、私も楽しかった!」
 
 まだ僕はなにも言っていないのに、言寧はそう言う。
 僕は肯定の意味を込めて言寧の姿が見えなくなるまで手を振るのをやめないことにした。
 他の患者や看護師の視線を集めてしまっていたけれど、その恥ずかしさにも勝る幸せを僕は今感じている。この数時間の思い出に早くも想いを馳せながら、その余韻に浸って、今日は僕から言寧にメッセージを送ろうとスマートフォンのアプリを起動する。
 
「ん?」
 
 通知を切っていた間に珍しい相手からの不在着信とメッセージが残されている。
 創也だ。
 普段学校や小説関連での連絡はしあうけれど【不在着信】というのが妙に違和感だった。それも三件、立て続けに。
 
「っ——」
 
 油断していた。
 この一言で、僕はほぼすべてを察してしまう。
 幸せの余韻を容赦無く掻っ攫うように、その言葉は僕の目に、頭に、飛び込んできた。
 
 ——【文都、明日の放課後、大事な話があるんだ】