「なぁ、辻紫(つじむら)言寧(ことね)って覚えてる?」
 
 冷房の効いた空き教室。机を向かい合わせて二人、スマートフォンと睨めっこをして原稿に追われている最中、僕と同じく小説家志望の宮澤(みやざわ)創也(そうや)は思い出したように顔を上げてそう言った。
 来年には受験を控えていて、周りは夏期講習や補習で張り詰めた空気を漂わせている中、僕たちはだらしなくシャツのボタンをひとつ開けて制服を着崩し、緊張感のかけらもない空気感の中にいる。そのせいか創也からの問いが妙に真剣に、そして慎重に聞こえた。
 
「いや、知らないな」
 
 それでも、目を合わせた時に見えた創也の表情から話が長くなることを予感した僕は、一言そう返して視線を原稿へ戻した。
 僕のあまりに淡白な返答に不満げな表情をしていることは確かめなくてもわかる。それに創也が意味もなくノートの端に棒人間を描き始めるのは、たいてい執筆に飽きた合図だ。退屈なんだろうな、相手にしてほしいんだろうな、そうわかっていたし、拗ねられても困るので僕はせめて最低限の反応をしようと決めた。
 
文都(ふみと)それ何作目?」
「一作目、あと一作書くつもり」
「へー、あと一作どんなの書くの? どんなヒロイン?」
「全然思いついてない、ネタがなさすぎて困ってる」
 
 僕はそう淡白に、執筆の片手間で目も合わせず答える。
 創也は完全に集中力が切れている様子で「そっかそっかがんばれぇ」と、僕に呑気な声援を送った。
 
「ネタがないなんて可哀想だなぁ、俺は書きたい話で溢れてるぜ?」
「僕は創也と違って好きで小説書いてるわけじゃないからな」
 
 締切まで残り二ヶ月。
 小説家としてのデビューがかかったコンテスト。目の前で僕を茶化す創也もまた、その応募者の一人だ。
 どんな物語にするかすら思いついていない現状から、どうにかあと一作完結させたい。確実にデビューできるような、小説家になれるような、世に出す価値があると認められるような、完璧な一作を書き上げてしまいたい。
 はやく小説家になって安心したい。
 将来のことなんて考えなくていいように小説家になりたい。
 どうせ生きていかなければいけない、それなら僕は将来に他の希望を抱かない代わりに、小説家になることで死ぬまでを保証されたい。
 わがままで浅はかだけれど、僕はそんなことを思っている。
 そう焦っている僕にとって、今は創也の長話に付き合っている余裕などなかった。
 
「なぁ文都」
「集中が切れたなら一旦廊下にでも出ればいいのに」
「辻紫言寧」
「だから、僕はそんな人知らな——」
「めっちゃ美人で、文都の理想のヒロイン像にぴったりな子なんだけど、知らないままでいい?」
 
 僕は、無意識に手を止めてしまった。
 単純すぎる自覚はある、ただ“理想のヒロイン像にぴったりな子“新作のネタに飢えている僕にとって、その言葉は誘惑だった。
 なんとなく予想はしていたけれど、創也は手を止めた僕をしてやったりという顔で見ていた。綺麗にはめられたことに悔しさを覚えながらも、僕はその誘惑に見事に釣られてしまっている。引き返すには手遅れすぎた。
 
「その人何組?」 
「そこの席」
 
 創也は大雑把に端の方を指差した。
 僕たちはエアコンの風が直接当たる教室の真ん中に座っていて、創也が指差した方向に頼っても“そこの席“の候補は六つほどある。
 
「窓際の一番端の席だよ、いつも空いてるの気づいてない?」
 
 僕の様子を察したようにそう付け加えたあと「まぁ文都はクラスメイトにすら無関心だもんなぁ」と、呆れたようにため息をついた。
 僕の席とは真反対の席で気に留めたこともなかったけれど、確かに言われてみれば不自然に空いたままの席が一つあったような気もしてきた。
 
「どう? 覚えてない?」
「まったく」
「おっ、それならちょうどいい」
 
 なにがちょうどいいのかわからないまま、僕はただなにかを企んでいる創也の様子を伺っている。スマートフォンを取り出したかと思えば、真剣な顔で指を動かし始めた。僕が話しかけようと名前を呼ぶと「ちょっと集中してるからっ」と、遮る。
 創也が端末の画面を伏せて机に置いたと同時に、僕のメッセージアプリの通知がなる。差出人は、なぜか目の前にいる創也だった。
 
「言いたいことなら直接言えよ」
「直接言うにも必要だからわざわざ送ったんだよ」
 
 言われるがまま通知を開くとなにやら住所らしいものが書かれていた。
 学校から三駅ほど離れた場所、最近新しく商業施設がオープンして賑わっている印象の強い駅前。話の流れからして認識すら怪しかった異性、辻紫言寧の住所だろうか。
 いや、違う、だって。
 
「大学病院、って」
 
 住所が記載されたすこし下に、そう添えられていたから。
  
「そこに入院してるらしくてさ、文都に会いに行ってほしいんだよね」
 
 さも当然、かのように創也は言ってみせたけれど、僕の理解は追いつかなかった。
 辻紫言寧の見舞いに行く、いや、ありえない。
 大学病院に入院中ということは病状もよくないのだろうし、初対面の、それに異性の見舞いだ。誰が考えても、適役は僕ではないだろう。
 
「いや、僕じゃない方がいいよ。他の女子とか、それこそ創也が行けばいい」

 そうだ、僕より遥かに社交的で、学級委員長よりもクラスを任されて、信頼のある創也が——。
 
「いやぁ、それじゃあ辻紫言寧のご要望に沿えないんだよなぁ」
「辻紫言寧のご要望?」
「そう『私のことを覚えていない人を病室へ連れてきてほしい』って要望に添えなくなっちゃう」
 
 それを聞いて、僕の中の辻紫言寧にはとんでもなく気難しい人という印象がついてしまった。そして創也がもう一つの要望として異性であることと言われたと、思い出したように付け加えた。
 深く聞かなくてもわかる、確実に面倒だ。
 話を切り上げようとする僕を創也は必死に引き留めた。
 
「せめてあとちょっと話聞いてくれたりしない?」
 
 そう尋ねられたけれど、僕が頷くより先に創也の話は始まった。
 どうやら辻紫言寧には一年の頃に数ヶ月だけ不定期に登校していた時期があったらしい。それを大抵のクラスメイトは覚えていたが僕はまったく覚えておらず、その無頓着さに漬け込んで、創也は僕へ見舞いの話を持ちかけた、まとめるとそんな感じだった。そしてしまいには。
 
「とにかくまぁ、一回行くだけでいいからさ?」
 
 と、雑に話を丸め込んできた。
 創也にとっても相当な面倒なことなのだろうなと同情したくなる。
 
「そんな面倒ごとに時間を割いていい時期じゃない、コンテストの締切だって余裕があるわけじゃな——」
「病気で入院してるクラスメイトって、いい小説のネタになりそうじゃない? それに、とんでもない美人らしいよ? 逃しちゃっていいの?」
 
 創也の表情を見てわかった、僕に拒否権はないらしい。このまま断り続ける方が面倒な気さえしてきた。
 一回だけだ、一回、面識すらない異性のクラスメイトの見舞いに行って適当に挨拶をしてくればいい。改めて考えればそれだけの単純な話だ。
 それに新作のネタをもらえる機会と言われれば、僕としても悪い話ではない。
 
「わかった、行ってくるよ」
「おー、さっすが文都! 小説のこととなると話が早いなぁ」

 その茶化した口調がすこし気に障ったけれど、聞き流すことにした。
 面倒ごとが片付いて創也が静かになっているうちに、一作目の最後を書き終えるよう急ぐ。見舞いに行くなら帰りは遅くなるだろうし、下校時間のギリギリまで使って帰宅してからの作業は軽い添削だけにしたい。
 
「で、もう行かないと時間ないよ?」
 
 僕の原稿を人差し指で小突きながら、創也は水を差すように僕へそう指摘した。
 ただ、違和感があった。その表情から茶化しや悪巧みのようなものを感じないのだ。
 純粋に僕の行動に疑問を抱いているような創也へ、首を傾げてみる。
 
「面会時間、十八時までだけど?」
 
 知るわけないだろ、そう思ったと同時に焦った。
 現在の時刻は十六時過ぎ、ここから駅まで走って、三駅分の電車に乗って、病院へ辿り着くのは十七時手前だろうか。とにかく確実に、急いだ方がいい。
 僕は執筆中のデータを保存して急足で教室を出る「道間違えるなよー」と、僕の背中には創也の呑気な声が刺さった。
 
  ***
  
 ——二〇二 辻紫 言寧
 
 その字面を見て、僕は突然我に返った。
 急かされるように最短の道を駆けて駅へ向かって、経由する駅のすくない電車に乗って来たけれど、僕が今から会うのは面識のない異性なのだ。
 なにから話そう、僕から名乗るべきだろうか、会釈だけして近寄るべきだろうか。
 無機質に真っ白な病室の扉から威圧感を覚えながら、僕はひどく困惑している。 
 立ち止まっていても仕方がないので中に入ると、相部屋の窓際のベッドで一人、女子高校生らしい人が本を読んでいた。サイズ感からして雑誌ではない、文庫本だ。他三つのベッドには開いたままの雑誌や、乱れたタオルケットが放置されていて、必然的に僕と辻紫言寧であろう彼女は病室で二人きりになった。
 髪が横顔にかかっていて表情は見えない。それに、よほど集中しているのか僕の存在に気づく気配はなかった。そのまま足を進めてみると小説を追っていた彼女の視線が僕へ向いた。彼女の顔が見える。
 僕はその瞬間、息を呑んでしまった。
 僕が今まで書いてきた空想のヒロインに、奇妙なほどその姿が重なった。
 黒目がちな瞳は大きく印象的で、綺麗というよりは可愛らしい雰囲気の顔立ちをしている。艶のある黒髪は胸元にかかっていて、窓から差す陽に照らされて浮かんだ輪郭の曲線が美しい。
 創也の言葉の通り、辻紫言寧は美人だった。
 
「あの、どちら様ですか」
谷咲(たにざき)文都です、クラスメイトの」
 
 それだけ言い終えると僕は黙ってしまった。そしてまた彼女も、会釈を返してすぐ小説に視線を戻してしまう。
 初対面がこんなにもぎこちないとは、すでに僕の想像を超えている。
 
「あの」
「はい」
「どうして、ここに?」
「どうしてって——」
 
 困った、なんと言えばいいのだろう。
 彼女の鋭い眼差しから僕が警戒されていることはじゅうぶん察している。確かに不審だろう、突然面識のない異性が病室を訪ねてきたら……いや、でも違くないか? それを望んだのは彼女本人のはずだ。いっそのこと、そのまま伝えてしまえばいい。
 
「“私のことを覚えていない人を病室に連れてきてほしい“って」
「あっ……」
 
 彼女は栞を挟む素振りもなく読んでいた小説を手離す。そしてなにかを思い出すと同時に、すこし恥ずかしそうに手を顔で覆って僕の方を向き直した。
 
「まさか、本当に誰かが来てくれるって思ってなくて……ごめんなさい、せっかく来てくれたのに失礼な態度で」
 
 創也の話から受けた印象はとんでもなく気難しい人、病室に入って数秒で感じた印象は冷静で淡白な人だった。ただ「ごめんなさい!」と頭を小刻みに振りながら慌てて謝り倒す姿から可愛らしいという側面を見つけた感覚になった。
 
「ちょっと陽が眩しいけど、こっち、来ませんか?」
 
 警戒心を残したまま彼女は控えめに僕をベッド横にある丸椅子へ招いてくれた。
 ぎこちない会釈を返して、俯きがちに席につく。ずっと下を向いているのも失礼な気がして目線を上げると、確かに夕陽が眩しかった。そして僕は再び彼女の美しさに目を奪われる。橙の光に照らされた横顔の輪郭は、彼女自身が光を放っているようにすら見えた。綺麗、そんな言葉でまとめきれないけれど、それ以上の言葉が見つからない。
 
「あの……もう一度、お名前、聞いてもいいですか?」
 
 彼女は気まずそうに僕の目を見て、そう尋ねる。
 見惚れすぎていた。だから僕は慌てて、
 
「谷咲、です」
「下の名前を……」
「文都です」
「そっちがいいです」
「え?」
「文都くんって、呼びたいです。私のことも言寧って呼んでほしくて」
 
 彼女は警戒心を持っていながらも距離を縮めることに抵抗がないタイプなのだろうか。僕が応えるように「言寧」と呟くと、少しだけ照れながらも嬉しそうに「はいっ」と微笑んでくれた。可愛い。
 
「それなら、敬語外しませんか」
 
 そう僕は敬語で尋ねてしまった。
 
「ふふ、そこ敬語で聞きます? でも私も、敬語が外れた方が話しやすい」 
 
 真一の字に結ばれていた唇の端が上がって、彼女の顔に柔らかい曲線が浮かぶ。
 僕の目はそれに釣られるように細くなる。和んだ、と言っていいのかわからないけれどすこしだけ張り詰めていた空気が緩んだ気がした。
 彼女は先ほど手離した小説を開いて適当なところに栞を挟んだ後、再びその小説をサイドテーブルへ置いた。
 
「それ、なに読んでるの?」
「初対面なのにいきなり本の好み聞いちゃう?」
 
 急激に自然に砕けた彼女の口調に驚いた、緊張しているのは僕だけなのかもしれない。どうにか話を切り出さなければいけないと考えもせずに尋ねてしまったけれど、言われてみれば確かにその質問はいきなりすぎるような気がした。
 彼女の持っていた小説にはブックカバーがかけられていたし、本の好みを知られたくないという人も一定数いるだろう。
 ただ、申し訳ないとは思わなかった。それは彼女のその表情と口調に緊張感がないどころか僕を茶化しているようにすら思えたからだ。
 
「嫌な気はしなかったでしょ?」
「まぁね、でも文都くんはなかなか攻めた質問をする人だなぁって」
 
 彼女はにんまりとしながら僕にお手本のような上目遣いで「本の中身を知ろうとするなんて文都くんは積極的なタイプだね?」とからかってくる。ここで「そうなのかもね」と便乗するのも「そんなことないよ」と否定するのも彼女には効かない気がして僕はあからさまに話を逸らすことにした。 
 
「それで、なに読んでるの?」
「普通の女子高校生が普通の男子高校生と恋愛して普通に青春を謳歌する物語」
「それ面白い?」
「んー、平和な気持ちにはなるよ」
 
 その言い方は皮肉めいていて、まったく物語を楽しんでいる人の言葉だとは思えなかった。不思議に思ってその一冊見つめている僕へ彼女は「ちなみに、ここに並んでる小説も全部そんな感じっ」と言って戸棚の一つを開けて見せてくれた。
 
「ちょっとみてもいい?」
「いいよ? 文都くんの好みがあるかはわからないけど」
 
 二十冊ほど並べられた文庫本のあらすじに軽く目を通すと、どれも言われた通りの恋愛小説だった。
 クラスメイト、転校生、二つ上の先輩、一つ下の後輩、たまに片方が幽霊だったり、時を超えて出会いに来たりといったイレギュラーな設定感のものもあったけれど確かに大半は普通の高校生の普通の恋愛が描かれたものばかり。
  
「これ面白い?」
「んー、さっきも言ったように平和な気持ちにはなるよ」
「読書が好きなの?」
「そういうわけじゃないんだよねぇ」
「入院生活の暇つぶしとか?」
「いやぁ、強いていうなら——勉強?」
 
 彼女は軽く首を傾げながら僕へそう答えたけれど、首を傾げたいのは僕の方だった。
 
「勉強?」
「そう、私ね小説書いてるんだ」
 
 そしてそれは突然の告白だった。
 
「趣味?」
「んー趣味というよりはシュウカツかな? あっ“終わる方“のシュウカツね」
 
 丁寧に補足される前から彼女の言う“シュウカツ“が“終活“の意味であることはすぐにわかった。
 僕が病室に入った時の冷静で淡白な印象が嘘だったかのように彼女は出会って間もない僕にそんな笑えなくて触れづらい冗談を言うのだから困る。
 
「いつから書いてるの?」
「中学生くらいかなぁ、まぁ満足できる物語を書けたことはないんだけどね」
「そっか、終わっちゃう前に書けるといいね」
 
 さすがに「終わっちゃう前に」は失礼の度を超えているような気がしたけれど、これ以上小説の話を聞きたくないと思った僕は考えるより先に口に出してしまった。
 終われないから書いている僕にとって、言い換えるなら、当分死ねないから書いている僕にとって、彼女が小説を書いている理由はどこか羨ましく映ってしまったから。
 ただ僕が言ったこと自体はひどい。面倒ごとにならないように最低限の謝罪はしておいた方が……。
 
「ねぇ、文都くん今の本気で言ってる?」
 
 罪悪感から俯いていた僕は彼女にそう言われた後、顔を上げるのが怖かった。
 怒っているだろうなと覚悟していたからだ。
 ただずっと俯いているわけにもいかず、僕は目を細めながら顔を上げた。陽が眩しくてよかった、なんてことで怖さを誤魔化していた。
 ただ「本気で言ってる?」と尋ねた彼女の表情は不思議だった。怒りを抑えている様子もなければ、傷ついているようにも見えない。驚いたように目を丸くさせながらただまっすぐ僕を見つめている。
 窓からより一層強く差し込む夕陽の橙と彼女の眼差しが僕を静止させた。
 
「ねぇ本当? 本当に思ってくれてる?」
 
 その言葉に違和感を覚える。彼女の言う「本当?」や「本気」は“終わっちゃう前に“ではなく“書けるといいね“に向けられているような気がしたから。
 
「いや、書けるといいなとは、本当に……」
「それじゃあさっ」
 
 彼女は衝動に突き出されたように、もたれていたベッドの背から身体を起こした。
 そしてなんの遠慮もなく僕の手を両手で包むように握る。不思議なほど表情はほぐれていて、瞳は三日月型の曲線を描くように細くなって。
 
「私の彼氏になって」
 
 彼女の迷いのなさから言い間違いなんてことはないだろうし、二人きりの静かな病室内にいながら聞き間違いということもない。
 彼女は確かに「私の彼氏になって」と言ったのだ。それこそ「本気で言ってる?」と尋ねたくなってしまうようなことを。
 
「文都くんに恋人がいなければの話だけどね?」
 
 急足で付け足してくれたけれど、問題はもちろんそこではない。なにも言えないまま固まる僕を彼女は不思議そうに見つめている。不思議そうに見つめたいのは僕だ。混乱している、聞きたいことが溢れてなにから聞けばいいかわからないというのが僕の答えだった。
 
「文都くん今恋人は?」 
「いないけど」
「けど? 好きな人はいる、とか?」
「いやそういうわけでもないけど」
「そっかそっかそれならちょうどいい!」
 
 僕は本日二度目の理由のわからないちょうどいいを向けられた。
 彼女の表情は、もうニコニコなんて可愛らしいものではなく、企みに満ちたような、そして僕に「逃がさない」とでも言うようなどこか圧のあるニヤニヤになっていた。
 
「“条件付きで“私の彼氏になってほしいの! もっと言うなら“辻紫言寧の彼氏役“をしてほしい!」
 
 そんな物語のようなセリフを僕が生きているこの人生で言われるとは、まさか思ってもいなかった。
 
「どうして」
「いろんな少女漫画とか恋愛小説を読んできたけど、満足いく小説が書けなくてさ。誰かを好きになるってこういう気持ちなんだ! って実感したいの!」
 
 普通の高校生の普通の恋愛小説が勉強。とは、どうやらこの話に繋がるらしかった。
 
「入退院の繰り返しで青春とか恋愛とか無縁だったし、でも書くには必要だってわかったから」
「その条件ってなに?」
 
 彼女の言葉を遮って、僕はそんなことを尋ねていた。
 乗り気だったわけではない、ただ彼女がなにを考えているのか知りたかったのだ。仮の恋人が欲しい理由はなんとなくわかった。恋人ごっこをして物語の解像度を上げたい、まとめるとそんなところだろう。
 ただ僕が知りたいのは、どこまで僕を本当の恋人らしく扱うつもりでいるのか、そこだった。
 
「それならまずひとつ! 一緒にいる時、連絡する時は、恋人であることを強く意識することっ」
 
 恋人であることを強く意識、か、まぁ理解はできる。
 
「ふたつ! 文都くんは恋愛小説を読まないことっ」
「それはどうして?」
「自然体でいてほしいからだよ。文都くん「恋愛なんて無縁です」って感じだし、へんに恋愛小説で予習されてもリアリティに欠けちゃうでしょ?」
 
 さらっととんでもなく失礼で不名誉なことを言われたような気がしたけれど、聞かなかったことにした。
 恋愛小説を読むどころか書いてしまっている僕は「なるほど」なんて当たり障りのない相槌を打ったけれど、仮に僕が彼氏役をするとなった時、正直彼女の条件に沿えるか複雑だった。それに条件を満たさなければこのよくわからない彼女からの頼みを断る正当な理由ができる。だから。
 
「もし僕が、素で恋愛小説みたいなロマンチックな思考の持ち主だったらどうする?」
「んー程度によるけど……文都くんはきっとそんなにロマンチックじゃないからそこは心配しなくて大丈夫っ」
 
 迷う間もなく、彼女は僕からの質問に答えを出した。
 そして今度はあからさまに失礼で不名誉なことを言われてしまった。
 ということで、僕にその心配はないらしい。僕は恥ずかしくなって次の条件を急かす。
 
「みっつ! 文都くんが青春を謳歌することっ」
「僕が?」
「本当に好きな人ができたら私の彼氏役は辞めていいし、私からの急用要請以外ならお友達との時間を優先していい![#「!」は縦中横]」
「それってあまりにも僕に都合が良すぎない?」
「充実してる人の方がキャラクターとして書いてて映えるものなんだよ? だから文都くんにはそうであってほしいの」
 
 それなら、彼氏役は僕じゃない方がいい。
 条件を言い終えた彼女はすでに僕が恋人になることが決定したかのように喜んだ様子で、それがなんだかとても申し訳なかった。
 
「言寧」
「なに?」
「明日、いや、今週中に他にいい人を探して連れてくるよ」
 
 そう言うしかなかった。
 他に僕が声をかけて連れてこれる人なんて創也くらいしかいないけれど、僕がここで彼氏役になるより幾分マシだと思う。
 そもそも僕が彼女と会うのはこの一回きりだと思っていたし、それ以上は望んでいない。彼女だって、彼氏役を僕にこだわる理由はない。それなら僕はここで身を引いた方が——。
 
「どうして?」
「僕じゃ務まらないよ」
「務めてよ」
「僕の性格と人生経験では無理だよ」
「だからツトめて?」
「だから、僕じゃ務まらな——」
「あっ、今の“ツトめて“は“努力の方“ね?」
 
 一瞬、彼女がなにを言っているのかわからなかった。
 
「私の彼氏役が務まるように努めて?」
 
 そう言われてやっと、僕の頭に彼女の言葉が変換された。
 
「小説書いてるからねぇこのへんの頭は切れるんだぁ」
 
 得意げに彼女は僕に笑って見せた。もう冷静さや淡白さはかけらもない、僕には今の彼女がイタズラ好きな子どもにしか見えなくなっている。
 断ったはずなのに、恐ろしいほど、奇妙なほど、僕は彼女に操られてしまっている。

「どうして僕なの?」
「私のことを覚えてなかったからかな」
 
 自分から尋ねておいて「やっぱりそこか」と率直に思った。
 そうなるとこれは辻紫言寧を覚えていなかった罰ゲームなのかもしれない。聞こえは良くないけれど、きっとそういうことだろう。
 
「それは反省してるよ。だから違う方法で詫びさせてほしい」
「詫び?」
「謝らせてほしいってこと。だって、要はこれ罰ゲームでしょ?」
「罰ゲームで彼氏役ってもはや処刑だね、罪重すぎだよ」
「でもそういうことでしょ?」
「逆だね」
「逆?」
「これは、私からの表彰だよ」
 
 彼女はまたしてもよくわからないことを得意げな顔で言ってみせた。
 とりあえず話だけは聞こうと、僕は流されるまま頷く。
 どうやら彼女は、なにも知らないまっさらな状態の人との出会いを望んでいたらしい。まだ不定期にでも登校できていた頃、持病を抱えているということもあり、浮いているクラスメイトだった彼女を覚えていないというのは、かなり他人に無関心な証拠だ、と。確かに、そこは僕も認める。
 
「恋人ってさ、飾らなくていい、気を張らなくていい人が理想だと思うんだよね」
「急に恋愛観の話?」
「まぁ聞いてて? 話はちゃーんと繋がるから。だから他人に無関心で、過剰に干渉しないでいてくれて、詮索もされない相手ってさ、恋人として理想だと思うんだよね」
 
 話は確かに繋がったけれど、その理由はどこか寂しいような気がした。
 本来ならもっと顔が好みとか、一緒にいる時間が楽しいとか、憧れの人だったとか、そうやって恋人を選ぶはずなのに。
 
「だから僕なの?」
「そう! それに文都くん、病室に来てから一回も身体のこと聞かなかったでしょ?」
「それは僕が配慮に欠けてるだけだと思うよ?」
「それくらいがいいんだよっ」
 
 と、器用に丸め込まれてしまった。
 正直なにが表彰なのかはっきりとは教えられなかったけれど、なんとなくわかる。僕が彼女を覚えていなかった礼として青春を与える、とでも言うのだろう。
 
「で、表彰ってなに?」
「私が文都くんに青春と可愛い彼女を贈呈するの。学校に行けてた時は容姿もちやほやされる要因だったからねぇ、病弱な美人って、なんかアニメみたいじゃない?」
「それ自分で言う?」
「言ってネタにしないと私がつまんないのっ」
 
 青春と、可愛い彼女。
 病弱な美人、ヒロインだ。
 僕は彼女を覚えていなかったことで、新作のヒロインと出会うことができるらしかった。
 満足のいく物語を書くために恋愛経験を求めている彼女は僕に彼氏役を任せる。
 新作の案に飢えている僕は彼女をヒロインとした小説を書ける。
 寂しい言い方になってしまうけれど、僕と彼女の間で綺麗に利害が一致した。
 
「私からの表彰と条件、受け取ってくれる?」

 迷った、でも、答えはきっと頭にひとつしかない。
 
「努めようと思うよ」
 
 告白の答えにしては微妙すぎるけれど、彼氏役を引き受けるにしては最適な答えだと思った。それにまだ彼女に言っていないけれど、僕も彼女をヒロインに新作を書く予定でいる。それなら、ここでの答えは小説として映えるもの、物語の中でインパクトのあるものがよかった。
 そして、どうやらこの答えは正解だったらしい。
 僕を見つめている彼女の目が輝いている。
 強引なヒロインに巻き込まれて人生を変えられてしまう展開は物語によくあって、その度に「そんな上手い話あるかよ」と思っていたけれど、実感した、それは確かにあった。
 巻き込まれるというか、操られている感覚というか、本当に不思議なほどすべてが彼女に吸い寄せられていった。
 
「それなら一週間後またここに来て! それまでに彼氏役のこと忘れちゃうとかなしだよーっ」
 
 十八時、面会時間の終了を知らせにきた看護師が病室へ入ったところで僕は彼女のそばを離れた。
 彼女はすでに恋人役が馴染んでいるのか、僕に親しげに、愛嬌全開の笑顔で手を振った。僕はまだぎこちなさを拭い切れないまま控えめに手を振り返す。
 彼氏役、という言葉を耳にした看護師からの怪しい視線を感じたけれど気にせず足を進めた。僕は彼氏ではない、彼氏役だ。
 帰ったら一作目を書き上げる前に二作目の構成を練ろう。彼女がヒロインだから設定は病弱な美人になるか。物語だったらその時点で結末は決まってしまう気がするけれど。