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一年ほど前の六月、とある休日。
《島のカフェ こころのこり》の中庭では、どんよりとした曇り空の下で潮がパッチワークにいそしんでいた。
かたわらではいつものように羽美香が膝掛けをすっぽりかぶって眠っている。
潮は新しい膝掛けを作っているのだった。
「ねえ、お姉ちゃん」と、窓から茉里乃が顔を出す。「お昼何?」
「あれ、もうそんな時間?」
「十二時過ぎてるよ」
「なのにお客さん誰も来ないね」
そう嘆きつつも、潮は特に困ったような表情をするでもなく、淡々と道具を片づける。
「うちのカフェ、よくやっていけるよね」
「まかない料理がおいしいお店だからね」
まるで会話になっていないが、歳の離れたこの姉妹にとっては通常運転だ。
「で、今日は何があるの?」
「お米がないのよね」
「え、なんで?」
「注文するの忘れちゃった」と、潮はまったく悪びれる様子もなく、首を左右に傾けながら自分の肩を揉む。
「じゃ、どうするの?」
「米がないなら麦を食べればいいじゃない。小麦粉はあるから、なんでも作れるよ」
「マリーアントワネットみたいなこと言ってるのに、すごく貧乏くさい」
「工夫すれば誰でもお姫様になれるのよ」と、オペラ歌手のように潮が声を張った。
すると、膝掛けにくるまっていた羽美香が両手を突き上げた。
「ふわあ、何の話してんの?」
「お昼ご飯何にするかって」
「ん、あ、もう、そんな時間?」と、テーブルの上に膝掛けを置いて立ち上がる。「お客さんは?」
「来てたら、起こしてるわよ」
「だろうね」と、ボサボサ髪に手を突っ込んでかき回す。「あ、おねえ、新しい膝掛け、できたの?」
椅子の背もたれにかけてあったパッチワークを広げると、白地に青の模様が現れた。
端布の色の違いがきらめく波模様にも似て、海の風景に調和する膝掛けだ。
「いい感じじゃん」
「そお?」と、羽美香が使っていた膝掛けを畳みながら潮がつぶやく。「あら、なんか空模様が怪しくなってきた?」
三人が中に入るのと同時に海風が吹き上げてきて、雨が降り出した。
かなり大粒の雨で、あっという間にまわりが灰色のカーテンで覆われてしまう。
中庭には屋根が張り出しているが、真鍮製のテーブルも木製の椅子も雨に打たれて寂しげだ。
「あらま、また開店休業かもね」と、潮が窓ににじむ雨を見つめる。
「だけど、私たちもおなかが減る」と、羽美香が腕組みをしながら横に並ぶ。
「で、お姉ちゃん、何作るの?」
茉里乃の質問に、潮はエプロンをかぶりながら答えた。
「お好み焼きかな」
「いいよ、大好き。海鮮? 豚バラ?」
「うーんとね」と、厨房に入って戸棚を開けた潮がため息をつく。「ミートソースの缶詰しかないね」
「はあ?」「なにそれ?」と、二人が同時に声を上げる。
「ま、いいから」
潮は道具や材料を調理台に並べていき、ミートソースの缶詰を開けながら羽美香に指示を出す。
「あんたさ、たこ焼きプレート出してよ」
「お好み焼きならホットプレートじゃないの?」
「いいから、いいから」と、高い戸棚を指さす。
小柄というわけでもないがそれほど背の高くない潮は、あまり使わない物をしまっておく高い戸棚の道具が必要なときはいつも羽美香に取らせるのだ。
「はいよ」
調理台の上に置かれた家電製品に茉里乃が歓声を上げる。
「お姉ちゃん、うちって、たこ焼きのプレートなんかあったの?」
「前からあったけど使ったことないね」
「もったいないじゃん。どんどん使おうよ」
「今度、タコもらったらね」
「やったあ」
「でもさ」と、羽美香が横からたずねる。「今日はお好み焼きって言ってたじゃん」
「そうだよ」と、潮は手際よく調理を始める。
卵を多めに割り入れ、牛乳を加え、ほぐす程度に粗めに泡立てる。
小麦粉を入れてゆるく混ぜたら、たこ焼きプレートにナイフでそいだバターを適当に落としてすぐにタネを投入。
そこへ、キャベツの千切りや刻んでおいた茹でほうれん草、つぶしたアボカドなどの余り物野菜を適当に放り込み、スプーンですくったミートソースをぼとりと落とす。
「ほら、あんたら、まん丸くしなさいよ」
「はいはい」と、二人がたこ焼きの要領で竹串を使って丸める。
「あーん、うまくいかないよう」
泣き言を言う茉里乃を横目に、羽美香はひょひょいと次々に返していく。
「えー、なんで羽美ねえはうまいの?」
「さあねえ。べつに難しくないじゃん」
「タコの生まれ変わりとか?」
「なんでやねん」
雑なツッコミであしらう羽美香に対し、茉梨乃の表情はこわばる一方だった。
二人でそれぞれ八個ずつ丸めたものの、できあがりの差はあまりにもはっきりしていた。
「隕石みたいだね」と、ため息と共に潮が正直な感想を漏らす。
形もいびつだが、中身もはみ出して大怪我でもしたような痛々しい見た目だ。
「どうせ下手ですよーだ」と、茉里乃は調理台に竹串を放り出して頬を膨らませる。
「おねえ、もういいんじゃない?」
竹串で焼け具合を確かめた羽美香がたずねると、潮がやや首をかしげた。
「もうちょっと、表面がカリカリになるまで」
三人は無言でたこ焼きプレートを見つめる。
じゅわじゅわとバターの焦げる香りが厨房に充満していく。
焦れた羽美香が文句を言う。
「ていうか、これやっぱりお好み焼きじゃなくてたこ焼きじゃん」
「違うよ」と、潮は表情を変えない。「タコは入ってないからね」
茉里乃がふんふんと香りをかぐ。
「もういいんじゃないの、お姉ちゃん」
「もうちょっと。待ちなさいって」
食欲を刺激する香りが漂うのに、三人の表情はしだいに険しくなっていく。
「ねえ、お姉ちゃん、焦げるんじゃないの?」
「だよねえ」
と、羽美香も茉里乃に賛同したときだった。
「ほら」と、潮が茉里乃に竹串を渡す。「最後もう一回ひっくり返して」
「え、あ、はいはい」
「まだやるの?」
二人とも言われるままに慌ただしく串でつついていく。
返して現れた表面はパイ生地のようにこんがり色よく焼けている。
「うわあ、おいしそう」
「おねえ、もういいんじゃないの」
じゅわっと再びバターの焦げる音がして、もう我慢できないと二人が潮に詰め寄ったところで、皿が突き出された。
「ほい、取って、取って」
「やったあ」
ひょい、ひょい、と一本釣りのように次々に皿に丸く焼き上がった料理が引き上げられていく。
「これ、ソースで食べるの?」
「違うわよ」と、潮はパルミジャーノ・レッジャーノをたっぷりとすりおろした。
ふわりとした粉チーズが湯気に煽られゆらゆらと揺れる。
「へえ、おしゃれじゃん」と、羽美香が腰に手を当ててうなずく。「見た目は完全にたこ焼きだけど」
「食べよう、食べよう」と、茉里乃がさっそく竹串を突き刺す。
「あんたねえ」と、潮が冷静にフォークとナイフを差し出す。「それだと食べにくいでしょうよ」
「だって、たこ焼きって串で食べるよね。おしゃれすぎない?」
「いいから。これはたこ焼きじゃないの」
「でも、お好み焼きでもないよね」と、羽美香は素朴な疑問をつぶやきつつ、調理台のまわりに三人分の椅子を並べた。
「じゃ、あらためて、いっただっきまーす」
「はい、召し上がれ」
三人が同時に自分の皿に取り分けた『丸く焼けた自称お好み焼き』にナイフを入れた。
ほわりと湯気が立ち、バジルの効いたトマト風味が鼻をくすぐる。
バターのおかげでパイ生地のようにサクッと仕上がった外側に対し、中はふんわりと焼けた卵ベースの生地に野菜とミートソースが詰まっている。
熱々をパクリと口に入れた羽美香が小刻みにうなずきながらつぶやく。
「ドリアを粉で固めたような、キッシュみたいな料理だけど、お好み焼きと言われればそんな感じかも。キャベツのせいかな」
「想像してたのより、おしゃれ。やっぱお姉ちゃん天才だよね」
べた褒めの茉里乃に、潮は苦笑いを浮かべる。
「だけどあたし、余り物でないと料理できないのよね」
レシピを覚えられない潮は同じ料理を作れない。
だから、カフェのメニューはその日によってまったく違う。
ノートなどにメモをすれば良いではないかと言われても、分量も味付けもなんでもその場の思いつきだから、作るそばから忘れてしまうのだ。
《島のカフェ こころのこり》は、一度食べに来て、『心の凝り』がほぐれるほどおいしかったからと再び来訪した客をガッカリさせて、『心残り』を与えるカフェでもあるのだ。
「お姉ちゃん、よく商売やってるよね」と、茉里乃がからかう。
「あたしも自分でそう思うもん」
「だけど、たこ焼きがオシャレ料理になるんだから天才だよね」
「だから、たこ焼きじゃないってば。タコ入ってないでしょ」
大笑いの二人を横目に、羽美香だけは真顔だ。
「あんただまされてるわよ。最初から一口サイズのキッシュにするって言われてたら、そういうものだと思って普通に食べてたでしょ。お好み焼きだって言われてて、意外なものができあがったからオシャレだって惑わされてるだけよ」
「あ、そうか」と、口に入れかけていた茉里乃が一瞬手を止める。「狸に化かされてるようなものか」
「誰が狸よ」と、潮がキッと睨む。
「でも、本当においしいよ、お姉ちゃん」
「はいはい。分かってますよ」
「ま、実際おいしいよね」と、羽美香のまとめ方はいつも強引だ。
おいしいものの前では細かい理屈は霞んで消える。
三人は次々にミートソース味の丸く焼けた何かをハフハフと口に入れていた。
ちょうど一回目に作った分を食べ終わった時だった。
玄関の方で雨の音が大きくなった。
「あら、お客さんかな?」
潮が立つと、茉里乃を残して羽美香も後についていく。
玄関扉が細く開けられていて、一人の女性客が店の中をのぞき込んでいた。
のどかな島ではまず見かけない就活生風パンツスーツで、髪はバレッタできっちりとまとめている。
こんなときにわざわざ保険の勧誘にでも来たのかと、二人はあからさまにガッカリした表情で出迎えた。
お客さんの脚に体をこすりつけながら、扉の隙間からポムが滑り込んでくる。
「あら、ポムがお招きしたの?」
猫は返事をしない。
その代わり、困惑気味に客がたずねた。
「あのう、ここ、食事できますか?」
どうやらやっぱり客らしい。
「できますよ」と、潮が頬を引き上げて笑みを浮かべた。「あるものしかないですけど」
「あるものって、何ですか」
「小麦粉と、ミートソース」
料理を期待していたのに材料を言われて困惑した客が顔を引っ込めて帰ろうとする。
「おねえ、言い方」と、羽美香が慌てて扉を押さえて引き留める。「いらっしゃいませ。本日のお料理は、『野菜とのハーモニーを楽しむボローニャ風一口キッシュ』です」
「わあ、おいしそうですね」と、背筋の伸びた羽美香の凜々しい姿を見て客の頬が緩む。
「どうぞ中へ。お席にご案内いたします。傘はこちらへどうぞ」
使い古しのビニール傘が三本立てかけてある傘立てを勧めると、客が首を振った。
「傘持ってないんですよ」
「土砂降りじゃありませんでした?」
「はい、丘を越えたあたりで急に降られちゃって」と、鞠のような髪に手をやる。「でも、そんなに濡れなかったみたいです」
「それは良かったですね」
「この前クリーニングに出した時に、雨のシーズンだから防水加工をしておくといいっておすすめされてお願いしておいたのが役に立ったみたいです」
足元でポムがゆらゆらと尻尾を振っている。
「猫又のおかげかも」と、潮がつぶやく。
「え、この子妖怪なんですか?」
「いえ、こっちの話です」と、羽美香が潮を背中で押しのける。「おねえも変なこと言わないの」
「べつに変なこと言ってないわよ」と、潮が背伸びして羽美香の肩越しに顔を出す。「この子、自分のことを猫又だと思ってるんだもん」
足元で猫がフミャーゴと牙を見せる。
「はいはい、もういいから」と、羽美香は客を強引に中へ招いた。「どうぞ、こちらへ」
席に案内された客が、上着を脱ぎながらふんふんと鼻を鳴らした。
「これってボローニャ風キッシュですか。いい匂いですね」
「ええ、ただいまご用意しますので」
雨の打ちつける窓辺の席に座った客に水を出すと、二人は再び厨房に戻った。
「さてと、二回戦だね」
バターをプレートに落とし、タネを投入しようとしたときだった。
一人厨房で待っていた茉里乃がぽつりとつぶやいた。
「ねえ、お姉ちゃん、たこ焼きパーティーがしたい」
「だから、今度タコもらったらね」
「今やりたい」
「あのね、お客さんが待ってるでしょうよ。今じゃなくてもいいでしょ」
「やりたい!」
駄々っ子のようにごねる茉里乃に、潮と羽美香の手が止まる。
「いきなりどうしたのよ?」
羽美香を無視して茉里乃は声を張り上げた。
「学校のみんなもたこ焼きパーティーやってるんだって」
潮はぴしゃりとつっぱねた。
「ここは学校じゃありません」
「女子高生はみんなやってるもん」
「みんなって本当に調べたの? 何人のうち何人がやってたのよ」
「みんなだってば」
「よそはよそ、うちはうち」
言葉の応酬が続き、感情的になった茉里乃の目に涙が浮かぶ。
「私もタコパやりたい。タコパ! タコパ!」
「お友達がやってるなら、お友達とやればいいじゃない」
「だって……」
「『私も混ぜて』って言えばいいだけでしょ」
「もう、いいもん」
茉里乃は泣きながら厨房を出て行ってしまった。
二人が追いかけると、窓辺の客がきょとんと成り行きを眺めている。
「お騒がせしてすみません」と、頭を下げながら玄関に急ぐ。
だが、茉里乃の姿はどこにもなかった。
「おねえ……言い方」
「仕方ないでしょ。あたしは間違ってないんだから」
「だけど」
「あたしはただ台本通りに自分の役割を演じているだけ」
「うん」
黙り込む羽美香に聞かせるともなく潮が続けた。
「あたしは三姉妹の長女なんだから」
窓に打ちつける雨を見つめながら羽美香がつぶやく。
「私が探しに行こうか?」
「大丈夫よ」と、潮は傘立てを指す。「あの子、ちゃんと傘を持っていったから」
傘立てには古びたビニール傘が二本だけ残されていた。