吾輩は猫ではない。

 猫又である。

 毎日することがない猫又と違って、何かと忙しい人間には休みの日というのがあるようで、今日はあの寝坊助女子高生も堂々と昼までぐだぐだ眠っておるらしい。

 よけいな見守りをする必要もないから、吾輩は散歩に出ておる。

 葉が茂ったミカン農園をつっきり、本土側の坂を下って港に出る。

 休日といっても、吾輩と同じで島は元から毎日が開店休業みたいなものだから何が変わるというわけでもない。

 ふだんから閑散としておる漁港は停泊している漁船に人影はなく、ぷちゃぷちゃと打ち寄せる波にただ眠たげに揺られておるだけじゃった。

 目と鼻の先にある本土からの連絡船が近づいてくる。

 休日だからといって観光客が増えることなどない。

 この島には何もないのだ。

 ここに居着いてずいぶんになるが、人が多かったときも少なかったときも、何も起こらなかったし、何もなかった。

 ――この島にいる限りは何も起こらない。

 たまに訪れる物好きもおらんではないが、「本当に何もないな」とつぶやいて本土に帰っていくだけじゃ。

 逆に、こちらから眺める本土はずいぶんと変わったものよ。

 ひなびた宿場町だった対岸も、海の近くまで山が迫って平地が少ないくせに、ニョキニョキとビルだのマンションだのが建ち並び、昔ながらの細い道路は車だらけで毎日渋滞しておる。

 年寄りの昔語りかよなどと馬鹿にするでない。

 猫又であるがゆえに、目だけはいいから、どんなに細かいものでもよう見えるのだ。

 あの慌て者の女子高生が通う高校は対岸の山の中腹にあり、休日だというのに、部活とやらでずいぶんと賑わっておるようじゃ。

 三女の茉里乃は『まっすぐ帰宅部』という活動をしておるらしいが、吾輩はまるで興味がないからどうでもいい。

 吾輩が対岸へ行ったのはずいぶんと昔のことだ。

 まだ人が手でこいだり、帆を張っておるような時代で、あれからいったいどれくらいの時が流れたのであろうかのう。

 連絡船がこちらの港に接岸した。

 最近の船は大きくなって車まで積んできよる。

 なのに、吾輩が乗ろうとすると、生意気な人間にシッシッと追い払われる。

 吾輩が車より重いとでも思っておるのか。

 まったく、ちょっと太めだからと馬鹿にしよって。

 誰が航行の安全を見守ってやってると思っておるのじゃ。

 人間どもなどまともに相手をしてもつまらぬので、ちょいと尻尾を振って帰ろうとしたら、船から降りてきたばかりの、つばの広い帽子をかぶったいかにも休日の観光客といった服装の若い女が吾輩に話しかけてきよった。

「猫ちゃん、魚でも拾いに来たの?」

 ん?

 なんじゃ、失礼なやつだな。

 吾輩は猫ではない。

 猫又である。

 落ちている鰯なんぞを拾い食いするわけなかろう。

 だが、愚かな人間にはそんなことも分からぬであろうから、返事などしてやらぬ。

 どうせ「映える」とかいって写真でも撮るのであろう。

 ほれ、撮れ、尻尾くらいなら振ってやらぬでもないぞ。

 ところがその若い女はカメラも出さずに吾輩の前にしゃがみ込むと、ふわりとした髪に指を通しながらまっすぐに見つめてきよった。

「あなた、猫又さんでしょ」

 フニャッ?

 ただの太った猫だと思われるのも嫌じゃが、正体を見抜かれるのも落ち着かないものよ。

 しかし、なにゆえに吾輩の正体を知っておるのだ。

「だって、カフェのお姉さんが言ってたもん」

 なんじゃ。

 どうやらあのお団子頭の言うことを信じておるだけらしい。

「ふつうの猫なら太りすぎだけど、猫又ならかえって貫禄があっていいよね」

 そうじゃろう。

 なにしろ、日々うまいものしか食っておらんからな。

 若い女は晴れておるのに古びたビニール傘を持っている。

 と、そこでようやく思い出した。

 一年くらい前にあのカフェに来た客じゃな、おぬし。

 あのときとだいぶ服装が変わって気がつかんかったわい。

 吾輩の何百年もの猫又歴にくらべたら、一年などつい昨日みたいなものだが、吾輩はどうでもいいことはすぐに忘れるのだ。

 だから、人間と違って猫又に悩みなどないのはいいが、思い出すのに少し時間がかかるのは年寄りじみてて困るんじゃがな。

「ねえ、あのカフェにまた案内してくれる?」

 そういえば、去年も道に迷っておったこの客をカフェに案内したんだったか。

 ま、よかろう。

 ついてくるがいい。

 吾輩は尻尾を振って坂を上り始めた。

 ミカン農園が広がる丘の中腹まで来たところで客が振り返る。

「わあ、相変わらずいい眺め」

 だろう。

 何もない島じゃが、みなそう言うのだ。

 ――ん?

 そういえば、おぬし……。

 去年来たときは雨が降っておったんではなかったかな。

 吾輩はどうでもいいことはすぐに忘れるが、サンマの小骨のように引っかかったまま消えない記憶もある。

 吾輩の頭の中には、そうした片づくことのない記憶のかけらが何百年分も降りつもっておるのだ。

 なにしろ吾輩は猫ではない。

 猫又なのだからな。