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その夜、中庭の椅子では酔い潰れた羽美香が膝掛けをすっぽりかぶって眠っていた。
膝掛けといっても、テーブルを覆えるくらい大きな物で、羽美香はそれを布団代わりにしてくるまっている。
真鍮製テーブルの脇に置かれた焚き火台では輪切りの木材で作ったスウェーデントーチが燃え、テーブルの上ではケロシンランタンの炎が揺れている。
羽美香の横では潮が炎の向こうの闇をじっと見つめていた。
パジャマ姿の茉梨乃が中庭に出てくる。
「お姉ちゃん、どうしたの?」と、後ろから肩を揉む。
「夜を見てる」
「眠れないの?」
「眠らなくてもいいじゃない」
「じゃ、私もここにいる」と、オルガンで童謡でも奏でているかのようにリズミカルに体を揺らしながら肩を揉み続ける。
「あんたは寝ないと寝坊するでしょ」
「だって、私も眠れないんだもん」
「ポムでも抱っこしてなよ」
「いないよ」
「また出かけちゃったんだ」と、潮が腕を広げる。「そんじゃ、あたしが抱っこしてやるよ」
「もう、馬鹿にして」と、茉梨乃は頬を膨らませる。「お子様じゃないんだから」
「一人じゃ眠れないのは立派な子供でしょ」
「はいはい、おやすみっ」
床を踏みならしながら奥へと消える茉梨乃の後ろ姿は体だけ大きな子供そのままだ。
笑みを浮かべて潮が椅子に座り直すと、ちょうどそこへ表側から庭を回ってきたポムが姿を現した。
「あら、あんた、いたの」
返事をしない猫の後ろから、デニムワンピースのセミロング女子が顔を出す。
「あら、あなた、昼間の……」
「あのう、まだお店やってますか」
「どうぞ、お待ちしてました。帰ってくるかなと思ってたから」
「えっ」
「ま、こっちの話」と、潮は肩をすくめてから羽美香の反対側にある椅子を勧めた。
「ちょっと、喧嘩してきちゃって」と、真帆は目を伏せながら腰掛ける。
「ふうん、そう」
「最終のフェリーで島に戻ってきたら、猫又さんが待っててくれて」
「で、あんたが案内してきたの」と、潮が足下のポムに声をかける。
猫は返事をしない。
「大変だったでしょ。昼でも迷うところだからね。島にはほとんど街灯がないから夜道は不安だろうし」
「はい、でも、星がきれいですよね」
「そうね。何もないのもいいものでしょ」
わざわざ夜遅くに戻ってきたというのに、それっきり真帆はテーブルの上に置かれたランタンの炎を伏し目がちに見つめたまま黙り込んでいる。
潮も闇の向こうからささやきかける波の音に耳を傾けているだけで話しかけようとはしない。
こういうお客さんには慣れている。
ここは《島のカフェ こころのこり》、心に凝りのある人が帰ってくる御飯処なのだ。
スウェーデントーチの木材がパキッとはぜて火の粉が蛍のように舞い上がった。
潮がテーブルに手をついて立ち上がる。
「おなか空いてるんでしょ」
「はい。何も食べずに飛び出してきちゃったので」
「ちょっと待ってて、何か作るから」
「あるもので、ですか?」と、真帆が笑みを浮かべて見上げる。
「そう、残り物でね」と、潮もお団子頭をかしげながら笑みを返すと厨房に下がった。
入れ替わりに潮の座っていた椅子に猫がひょいと跳び乗った。
猫なのか猫又なのか、焚き火の明かりに引き延ばされた影が建物に映って揺らめいている。
「連れてきてくれてありがとうございました」
話しかけてみたものの、返事はない。
目を閉じた猫は、尻尾を背中にぴったりとくっつけて背筋を伸ばし、じっとしている。
この闇夜を支配する王様であるかのように威厳のある姿だが、ぽっちゃりとしたおなかが愛嬌を隠しきれない。
真帆は体の向きを変えると、テーブルを挟んで猫の反対側にあるスウェーデントーチに手をかざした。
昼間は真っ青な空から降り注ぐ日差しがまぶしかったが、夜の闇は心の隙間に染みこんでくるようで、体の芯が冷えていく。
震えだした自分の体を抱きしめながら火のぬくもりを求める。
テーブルの向こう側では、打ち寄せる波のようなリズムで羽美香がかすかないびきをかいている。
窮屈そうな体勢なのに、寝顔は安らかだ。
弛緩していると言ってもいい。
『そう見えるだけかも』
かっこいいと評した美波に対する羽美香の返事を思い出す。
実際、今の羽美香を見たら、かっこいいとは思えない。
だが、こんな姿勢でもぐっすり眠れるおおらかさは見習いたい気もする。
それに、揺れる炎に照らされた横顔を眺めていると、どこか西洋の宗教画のような荘厳な神秘性が感じられるから不思議だ。
そんなことを考えていると、潮が湯気の上がる皿を運んできた。
「本物の残り物ですけど、どうぞ」
ブイヤベースで炊き上げたリゾットだ。
「いただきます」
一口味わった真帆が口を押さえて笑う。
「本当に昼のと同じ味ですね」
「だって、余り物だから」
「でも、すごくおいしいです」
「おなかがすいてればなんでもおいしいものね」
「でも、おいしいです」と、湯気が目にしみるのか、食べているうちに涙が浮かび始めた。
椅子から降りた猫がアンテナのように尻尾を立てながら闇の中へと踏み出していく。
潮は空いた椅子に腰掛け、背もたれに体を預けると脚を組んだ。
――夜を見ている。
何も見えない闇をじっと見つめるその目は、まるで青空の下で輝く海を眺めているかのように穏やかだ。
リゾットを食べ終えた真帆に潮が声をかけた。
「喧嘩したの?」
「はい」と、真帆が頬に光る涙をぬぐう。「私たちふだんあんまりお酒飲まないんですけど、お昼にワインをいただいたせいか、感情に歯止めがきかなくなっちゃったみたいで」
あ、でも、と話を区切る。
「昼間、厨房にいらっしゃったから、何のことだか分かりませんよね」
潮はかたわらでいびきをかいている羽美香にクイッと親指を向けた。
「あたしはいなかったけど、話はこの子から聞いてる」
「あ、そうなんですか」
安心したように言葉があふれ出す。
「私は大学に入るまで、心から打ち解けた友達がいなくて、クラスのみんなに合わせることばかり考えていたんですよ。でも、美波に出会ったとき、ふと、自分が笑ってることに気づいたんです。一緒にいても気をつかわないし、ふだんほとんど口にすることもない冗談を言ったりもして」
潮は相槌を打つこともなく、夜を見つめたまま聞いていた。
「二人でいると本当に楽しくて、美波のことばかり考えていて、美波を笑わせることができたときは体が熱くなるくらい嬉しくて、だから、こうして大学を卒業しても一緒に旅行ができるのはすごく幸せだなって思ってたんです」
「実際、その通りじゃないの」と、潮がつぶやく。
「ええ、そうなんですけど」と、ランタンに話しかけるかのようにためらいがちに続ける。「いつも美波のことを考えているのって、もしかしたら、クラスの人たちに気をつかっていたのと同じだったんじゃないかって思い始めたんです」
「嫌われたくないから……ってこと?」
「はい」と、真帆は首をすくめるようにうなずいた。「いつも美波が決めたことにただうなずいてるだけで、あまり自分の考えを言ったことがなくって」
「あまりっていうことは、言うときもあるんでしょ」
「まあ、でも、ほとんどないって感じですかね」
「それが不満?」
「不満ではなくて……」
「べつに、相手に主導権を握られているのが嫌ってことでもないんでしょ」
「ええ、それは違います」と、言葉を探りながら視線を左右に揺らす。「何が正解なのか分からなくなっちゃって」
パチリと木がはぜ、二人の視線が引き寄せられる。
樹液がしみ出し、しばらくの間、音を立てて炎が揺らいだ。
トーチが落ち着いてきたところで、真帆が話を戻した。
「今回のルームシェアの計画も美波が言い出して、私は嫌じゃないから反対してないんですけど、それでいいのかなって」
「今までだって一緒に行動していたんでしょ。それが答えなんじゃないの?」
「でも、いつかそれは変わってしまうのかも」
「その時はその時じゃない」
「でも、時間は巻き戻せないんですよ。私のせいで美波が結婚できなくなったら、申し訳ないじゃないですか」
「どうして申し訳ないの?」
「だって、私が邪魔したからですよね」
「美波さんは邪魔するなって言うの?」
「言うわけないじゃないですか」
「なら、あなたがそんなふうに思わない方がいいんじゃないの。自分が思ってもいないことを他人にそう思ってるって決めつけられるのって、あたしだったら一番嫌かも」
強い口調になったことをわびるように、潮が頭のお団子に手をやる。
真帆は唇をギュッと結んだまま黙り込んでしまった。
「真面目すぎるんじゃないかな?」と、潮が手を組み合わせて真っ直ぐに腕を突き出す。「誰も責任を取ってくれなんて言ってないのに」
腕をそのまま真上から背中へと回し、ふわあと、猫のようなあくびをする。
「真面目な人ほど、正解にこだわるでしょ。学校の成績って、教わった正解をどれだけ忠実に答えられたかってことだからね。正解があるのなんて学校だけだから、卒業したとたん、道に迷っちゃうんじゃない?」
目を伏せる真帆に潮がたずねた。
「今日、旅行に来たことを後悔してる?」
「いえ、それは」
「なのに、不安?」
「はい」
真帆はぎゅっと目を閉じて小刻みにうなずいた。
「形にこだわる必要なんてないんじゃないの?」
「そうでしょうか」と、目を閉じたままうつむく。
「形を決めても壊しちゃう人もいるわけだし。どっちにしろ正解かどうかなんて、関係ないんじゃないの。結婚って、世の中では正解の形とされてるけど、それが窮屈な人だっているわけだし」
「結婚しても離婚する人もいますよね」と、真帆は両手で頬を包み込みながらつぶやいた。
「そりゃそうよ。だって、正解とは限らないんだもの」
「そうですよね」
「どうしてあなたは他人のことばかり考えているの?」と、潮は脚を組んで膝を抱えた。「答えは自分の中にあるのに」
ランタンの炎を見つめながら背もたれに体を預けると、真帆は曖昧な笑みを浮かべた。
「なんでなんでしょうね」
「正解なんてどこにもないのに、探しに行こうとする。あなたにとって大切なものがなんなのか、答えは最初から自分の中にあるのにね。だから進もうとすればするほど離れてしまうし、道に迷っちゃう」
潮は背後のカフェに親指を向けた。
「で、たどりついたのが、ここ」
暗闇の中から猫が戻ってきた。
スウェーデントーチの横をすり抜けてテーブルの下に潜り込む。
体を曲げて猫の様子をうかがいながら潮がつぶやく。
「子供って、ピーマンが食べられないと怒られるけど、大人は自分の好きな物を食べればいいのよ。好きなものばかり食べてたってべつに偏食じゃないの。ただ大好物なだけ。大人と子供の違いは、何を取り分けるか、自分で決められること」
ため息をつきながら真帆は深くうなずいた。
テーブルの下から視線を戻した潮は目尻を下げながら笑みを浮かべた。
「うちのお店はメニューを選べないけどね。ごめんなさいね」
「羽美香さんも同じ事言ってました」と、真帆が体を起こして座り直す。「仲いいですね、お二人」
真帆がテーブルの向こうでいびきをかく羽美香に目をやると、横で潮がつぶやいた。
「助け合って生きていくしかないからね。あたしたち、親がいないから」
「えっ、そうなんですか」と、真帆は膝の上に手を置いて潮を見つめた。
ランタンを見つめる潮の目は真剣で、冗談とは思えない。
「べつに、生活に困ってはいないから、ふだんは気にしないんだけどね」
すうっと息を吸って、止め、そして、潮はまた真帆に笑顔を向けた。
「正しい形でもバラバラになることはあるし、いびつでも安定していたらそれが正解。それがあたしたちの形なの」
二人の肩が同時に下がる。
テーブルの上ではランタンの炎が、自らの熱とそれが生み出した気流によって揺れている。
しばらくの間二人は無言のまま気ままに揺らぐ炎を見つめ合っていた。
羽美香のいびきが止まり、膝掛けにくるまったまま体の向きを変えた。
絶妙な加減で椅子からは落ちない。
「この子、いつもこうなの」と、潮が鼻で笑う。「ベッドだと眠れないんだって」
「変わってますね」
「でも、ちゃんと自分の正解を知っている」
「だから、こんなに安らかな寝顔なんですかね」
「ううん」と、背もたれから体を起こし、テーブルに手を置く。「ただ、だらしないだけよ」
テーブルの下から猫が顔を出して真帆の膝につかまる。
「あら、抱っこするの?」
と、声をかけると、フミャーオと小さく鳴き声が返ってくる。
「おいで」
素直に猫が真帆の膝に跳び乗った。
「重たいでしょ」
潮がたずねると、真帆はゆったりと首を振った。
「抱き心地のいい枕みたいです」
背中を撫でているうちに、猫と一緒に真帆の瞼がとろんとしてきた。
羽美香にも負けないほどの安らぎに満ちた表情だ。
お団子頭に手をやりながら潮がささやく。
「どこにもないけど、ここにあるものって何だと思う?」
「分かりません。何ですか?」
「あたしも知らない」
「はあ……」と、催眠術にでもかかったかのように真帆の頭がふらつき始めた。
「答えがあるものばかりじゃないし、正解を知らなくても困らないでしょ。正解はないの」
「なんか、だまされてるみたいです」
「言いくるめられてるとか?」
「ですよね」
「でも、それでいいじゃない」
「うーん、そうなんでしょうか」
真帆の目はいつの間にか完全に閉じていた。
椅子から立ち上がった潮が聞かせるともなくつぶやく。
「心の凝りはほぐれた?」
返事はない。
猫も真帆の体に揺りかごのように収まって眠っている。
潮は店内に入って大きめの膝掛けを取ってきた。
それにはなぜか真ん中に穴が空いている。
真帆の肩を覆うようにかぶせると、ちょうどおなかのあたりの穴からポムが顔を出していた。
「おいしいものを食べてぐっすり眠れば、朝が来るの」
潮はリゾットのお皿を取り上げてランタンの火を消した。
「明日朝の船であちらにお帰りなさいな」
スウェーデントーチから蛍のように舞い上がった火の粉が闇へ吸い込まれ消えていく。
その闇の向こうから子守歌のように聞こえてくる波音は一晩中絶えることはなかった。