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 しばらくして二人の間に会話がなくなり、無言になるほど海を見つめていると、ようやく羽美香が料理を運んできた。

 二人の前にそれぞれブイヤベースをよそった深皿とスライスしたバゲットを盛った籠が置かれ、テーブルの真ん中には、タイ、ヒラメ、エビ、アサリ、イカ、牡蠣、ムール貝などの魚介を盛った大皿が据えられた。

「具材は別になっているので、お好きな物を自由に取り分けてください。おかわりもたくさんありますから」

「豪華ですね」と、早速ショートボブ女子がトングを持つ。「これ、全部地元産なんですか」

「今朝、漁港で仕入れたものばかりです」

「すごーい。おいしい物がいっぱい採れていいところですね」

「他には何もないですけどね」

 客がはしゃぎながら自分たちの取り皿に魚介を盛り付けていると、猫がテーブルの脚を引っかき始めた。

 下をのぞき込みながら羽美香が厨房を指さす。

「はいはい、ポムの分はおねえがあっちに用意してるからね」

 フニャーゴと牙をのぞかせる。

「なによ、待たせたから怒ってるの?」

 返事をせずに猫は壁を回って裏口へと消えてしまった。

 いったん中に入った羽美香が、手を後ろに回しながら戻ってくる。

「お二人とも、この後、車の運転とかは大丈夫ですか?」

「ええ、歩きですから」と、セミロングの客がうなずく。

「じゃあ、こちらはお店からのサービスです」と、背中に隠していた白ワインのボトルを差し出す。

「え、いいんですか?」

「ええ、私もご一緒させてもらいますから」と、グラスを三個テーブルに置く。

「きゃあ、是非」

 歓声が上がったところで、窓から潮が顔を出した。

「あのねえ、あんた、うちはそういうお店じゃないでしょ」

「誰がホストよ」と、言い捨てて、二人に笑顔を向ける。「いいのいいの。お近づきのしるしだから」

 椅子に座って三人分のグラスに手際よくワインを注ぐ。

「あの、お姉さんの分は」と、セミロング女子がたずねると、中で潮が首を振った。

「あたしはいいの、下戸だから」

「ああ、そうなんですか」

「気にしないで」と、羽美香が二人にグラスを勧める。「遠慮しないでどうぞ」

「じゃあ、乾杯」

 グラスを触れ合わせると、時の流れを止めるような澄んだ音色が中庭に響く。

 ポムはちゃんと食べてるかしらと潮が厨房に下がったところで、ショートボブの客が名乗った。

「私、美波です」

「私は真帆」と、セミロングの客も続けた。

「私は羽美香で、あっちは潮おねえ」

 雑な自己紹介をしながら羽美香は自分のグラスにおかわりを注いだ。

「ペース速いですね」

「そお?」と、微笑みながら大皿のイカをつまんで口に入れる。「おいしいから、食べて食べて」

「はい、いただきます」

 スープを一口飲んだ二人が満面の笑みを浮かべて、「んー、おいしい」と歓声を上げる。

「うまみがすごいね」

「海が広がるみたい」

「大漁って感じ?」と、相槌を打った美波が羽美香に満面の笑顔を向ける。「思ってた以上においしくてびっくりです」

「良かった。喜んでもらえて」

 二人に向かってグラスを掲げながら、羽美香も笑みを返した。

 鯛の身をほぐして口に入れた美波が目を丸くしながら口元を押さえる。

「お魚の皮がおいしいなんて初めてかも。とろっとしてて本当にとろけるみたい」

「エビも皮が柔らかくて丸ごと食べられるよ」と、真帆は皿にもう一つ手長海老を取り分けた。

「丘を越えて歩いてきた甲斐があったね」

「うん、探して良かったね」

「ねえねえ、これおいしいよ」と、美波が真帆の皿に鯛を取り分ける。「食べてみてよ」

「うん、ありがとう。ハーブの香りもすごく合うね」

 弾む二人の会話を横目に、羽美香がパンをちぎって自分の皿のブイヤベースに放り込む。

「あ、やっぱりそうします?」と、美波がパンを食べようとしていた手を止めた。

「そりゃあ、こうした方がおいしいに決まってるもの」と、スプーンでおさえてしっかりと吸わせる。「お二人もどうぞ」

「じゃ、遠慮なく」と、美波がさっそくパンを浸す。

「他に誰も見てないし」

「そうですね」と、真帆も遠慮がちに真似た。

「こういうときにいいところでしょ」と、羽美香が片目をつむる。「誰もいないって」

 海を眺めながらの食事は続く。

 羽美香が二杯目のグラスを空けてからたずねた。

「二人は女子旅ってやつ?」

「はい」と、美波がうなずく。「私たち、三年前に同じ大学を出て、今は別々の会社で働いてるんですけど、休みのスケジュールを合わせてこんなふうに二人でいろんなところに出かけてるんです」

「へえ、いいね」

「でも、いつも女二人で行動してるからか、お互いカレシとか全然できなくて」

「ほしいの?」

「うーん」と、お互いに顔を見合わせ首をかしげる。「それが最近よく分からなくなっちゃって」

 ムール貝の殻を外した真帆が話を引き継ぐ。

「仕事は正直楽しくもないけど嫌な職場じゃないし、時間的にも収入的にもこうやって趣味を楽しめるくらいの余裕もあって、結構恵まれてるのかなとは思うんですよ」

「なら、いいじゃない」

「二人でいると気楽っていうか、素の自分でいられる感じなんですよね」と、美波がつなぐ。「愚痴も言い合えるし、なんかいいことあったときとかは、一番最初に話したくなるし、そういう話を聞いたら自分の事みたいにお祝いしたくなるとか」

「じゃあ、なんで悩むの?」

 顔を見合わせ、て目配せし合いながら美波が切り出した。

「でも、親がうるさいんですよ。いつまでもそんなのでいいのって」

「ふうん、そうなんだ」と、羽美香はワインで唇を湿らせる。

「実は、私たち大学の時からそれぞれ一人暮らしをしてたんですけど、もっとお互いの職場に近いところでルームシェアしようかなって計画してるんですよ。家賃は高くなるけど、二人で割れば今とそんなに変わらないかなって」

「いいじゃない、いいじゃない」と、グラスを掲げる。

「でも、それをしちゃうと、もう後戻りできないのかもって、いまいち踏み出せないんですよ。だから親からもそんなふうに言われるとますます迷っちゃって」

「べつに戻らなくていいんじゃないの。このまま進んじゃえばいいじゃん。突撃!」と、羽美香が空になったグラスを突き上げる。

「うーん、まあ、そうなんですけど」

 黙り込んだ美波からおずおずと真帆が引き継ぐ。

「今は楽しいけど、三十を過ぎた頃に後悔することもあるのかなって、頭の片隅では心配なんですよね」

 いつの間にか食事の手が止まっている。

 思い出したように、美波が「これ、おいしいですよね」と、皮をあぶった鯛の切り身をトングで皿に移した。

 羽美香もパンをちぎって口に放り込んだ。

「後悔っていうのは、何か他に正解があるのに、それをしなくて良かったのかって悩むことでしょ」

「そうなんですかね」と、曖昧に美波がうなずく。

「でも、何が正解か分からないのに勝手に迷うことの方が多くない?」

「うーん、でも」と、返事の途中で美波は鯛で口をふさぎ、考え込んでいた。

「他人が言ってたことが正解で、自分で決めたことは間違いだった。そう思い込むように誘導されてるのかも」

 羽美香の言葉に小刻みにうなずきながら、真帆が会話に栞を挟むようにつぶやく。

「自分で決めたことの方が正しいかもしれないのにってことですか?」

「だって、正解が決まってないと採点できない学校のテストじゃないんだから、そもそもたいていのことに正解なんてないでしょ。ブイヤベースにパンを浸すべきかどうかなんて、どうだっていいじゃない。気にするのは押しつけマナー講師ぐらいでしょ」

「それはそうかもしれませんけど」

 ため息をつく真帆に羽美香が続けた。

「自分の出した答えに丸を付けるのって、自分が責任を負わなければならないわけだけど、他人から責められると面倒だから、無意識のうちにそれを避けようとしちゃうんじゃないかな」

 その言葉に、真帆はまっすぐに羽美香を見つめ返した。

「逃げてるってことですか」

「受け入れてないっていう方が近いかも、自分自身を」

「ああ」と、二人が同時に声を上げる。

「今までずっと誰かに丸付け……じゃなくて、バツ付けをしてもらっていたから、自分はいつも間違うんだって思い込んじゃって、本当は正解だったのに、今度も間違えたんだって思い込む。それが後悔の本質なんじゃない?」

 羽美香は二人のグラスにワインを追加して、わずかな残りを自分のグラスに注いだ。

「海ってどんな形してると思う?」

 唐突な質問に美波が首をかしげる。

「海の形……ですか?」

「波の違いとか?」と、真帆が正面の海に目を細めた。

 羽美香は絵描きのように指でフレームを組んで腕を突き出す。

「この中庭から見てると、両側の壁と屋根で切り取られて額縁に納まった絵画みたいに見えるでしょ」

「いい風景ですよね」

「でも、立ち上がって前に踏み出してみるとね」と、言葉通り羽美香が屋根の下から日光の当たる場所へ進み出た。「額縁なんてどこにもないの。見渡す限り全部海」

 そして、スポットライトを浴びた主演女優のように手を広げて振り返る。

「もとから海に形なんてないんだもん」

 初めて海を見た子供のように二人ともハッと目を見開いている。

「形なんて、ただの見方の問題だから。自分が決めてしまえば、それが自分の形になるんじゃないかな」

 穏やかな波の音が坂を上ってささやきかけてくる。

 羽美香はまた椅子に腰掛けた。

「他人に決められちゃうから窮屈なのに、なんでみんな一歩踏み出してみようとしないんだろうね」

「勇気がないからですか」と、美波がつぶやく。

「なんで勇気がないんでしょうね」と、真帆がうつむいた。

「慣れてないからじゃないかな」と、羽美香は二人を交互に見据える。「学校とか会社って、人から言われたことをやる場所でしょ。自分で考えて行動すると勝手なことをするなって怒られるじゃない」

「まあ、そうですね」

「でも、うちみたいなお店は自分たちのやりたいようにやるからね。指示されるわけじゃない。自分で考えて決める。毎日そうだと、それが当たり前だと思うものよ」

「じゃあ、私たちには難しいかもしれませんね」と、真帆がため息をつく。「会社を辞めるわけにはいかないし」

「そう極端にならなくてもいいんじゃない」と、羽美香は笑みを浮かべた。「簡単なことから自分で決める練習をしてみるとか」

「いつもと違うメニューを選ぶとか、ですか?」

「そうそう、そんな感じ」と、うなずいてから声を上げて笑い出す。「うちのお店はメニューを選べないけどね。ごめんね」

 二人もつい吹き出して笑う。

「でもおいしかったですよ」と言ってから、美波が真帆と顔を見合わせる。「お魚も結構食べたし、スープを吸ったパンって、けっこうおなかにたまるよね」

「うん、おなかいっぱいかも」

 と、そこへ潮がデザートを運んできた。

「島ミカンのゼリーです」

「わあ、なんでも地元でそろうんですね」

「出かけるのが面倒だから地元で済ませちゃうのよ」

「言い方」と、羽美香が割って入る。「本日のデザートは、『島の農園でお日様をいっぱい浴びて実った果実をギュッと閉じ込めた柑橘ゼリー』です」

「いただきまーす」

「んー、爽やか」

「やっぱりデザートは別腹だね」

「食後のお飲み物は何にしますか」と、潮がテーブルの上を片づけながら注文を聞いた。

「何があるんですか」と、美波が不安げにたずねる。

「コーヒーですね。ホットかアイス」

 ああ、と二人共苦笑しつつ、ホットコーヒーを注文する。

「ドリップコーヒー、エスプレッソ、カフェオレ、カフェラテ、カプチーノ、ウィンナーコーヒーのどれにしますか」

「え、そんなにあるんですか」と、今度は二人そろって目を丸くする。

「全部コーヒーだから」と、潮が肩をすくめる。

「ええと、じゃあ……カプチーノで」と、美波。

「私はウィンナーコーヒーを」と、真帆。

「かしこまりました」

「あ、おねえ」と、羽美香が人差し指を立てる。「どうせエスプレッソいれるなら、私はアイスのカフェアメリカーノね」

「あっそ、はいはい」

 潮に続いて羽美香もボトルとグラスを片づけていったん厨房に下がり、客二人がデザートを食べ終わった頃に戻ってきた。

 椅子に座った羽美香に、美波が待ち構えていたようにたずねた。

「羽美香さんは後悔したことないんですか」

「私はね、お酒飲みながら海を眺めていたいと思ったからここにいるの」

 答えになっているようでなっていない返事に、二人は視線を交わして苦笑いを浮かべる。

「かっこいいですね」と、美波がつぶやいた。「したいことをしてるって」

「そう見えるだけかも」

「えっ?」

「後悔はしたことないけど、満足もしてないし」

「そうなんですか」

「不満もないけどね」と、交互に二人に視線を送る。「単に受け入れてるだけかも、自分を」

 二人が続けるべき言葉を探しあぐねているところへ、潮がコーヒーを運んできた。

「カプチーノと、ウィンナーコーヒーです」

「わあ、いい香り」

「クリーム山盛りですね」

 歓声を上げながら二人は一口目を味わった。

「お砂糖いらないかも」

「うん、クリームが滑らか」

 羽美香はエスプレッソベースのアイスコーヒーを氷を鳴らしながら一息で飲み干すとさっと立ち上がった。

「じゃ、あとはお二人でごゆっくり」

 二人だけになると、美波も真帆もお互いに目配せし合うばかりで会話を切り出すことはなかった。

 話したいことはあるのに、言葉が見つからない。

 その隙間を埋めるにはコーヒーの苦みはちょうど良かった。

 ささやきかけるような波音の数だけ時が過ぎていく。

「ここの景色、ずっと見てられるよね」と、唇についた泡をなめながら美波がつぶやく。

「うん」

「なんかさ」と、美波がためらいがちに一呼吸置く。「私たちみたい、ね」

 うふ、うふふふと、頬を赤らめながら二人は自分のカップに視線を落とした。