◇
――フガッ。
吾輩としたことが、毛繕いをしているうちに眠ってしまったらしい。
魚介出汁のいい香りに鼻をくすぐられて目が覚めた。
吾輩は屋根から降りて厨房をのぞいてみた。
白い壁に、青い扉の戸棚が並び、中央にある大理石の調理台にはさまざまな調理器具や葡萄酒の瓶が並んでいる。
ガスコンロの前では、三姉妹の長女潮と次女羽美香が、中火にかけた寸胴鍋の中身を掘り起こすようにかき混ぜながら話をしておった。
二人とも清潔な白シャツと黒ジーンズに着替えて、紺の胸当てエプロンをしておる。
『馬子にも衣装』という言葉はこの二人のためにあるのかもしれんのう。
「あの子、真面目すぎて心配なのよね」
潮が言っておるのは、どうやらあの慌て者で寝坊助の女子高生のことらしい。
「真面目か?」
白葡萄酒をグラスに注ごうとする羽美香を潮が止める。
赤白関わらず、いつも料理用の葡萄酒を勝手に飲んでしまうので喧嘩になるのだ。
「だって、あの子ちゃんと学校行くんだよ。毎日寝坊してるくせして皆勤賞とか、わけわかんないでしょ」
「たいしたことないでしょ。私だってちゃんと行ってたよ」
「ふつうはサボるでしょ」と、浮いた灰汁をすくう。
「だから、私も行ってたって。聞いてる?」
「行きたくない日とかあるもんでしょ」と、灰汁をすくう。
「あのさ、真面目っていうのは、ちゃんと自分で目覚ましかけて一人で勝手に起きてチャリこいでいく人のことでしょ。毎朝寝坊してたら、私と変わらないじゃん」
「そりゃそうなんだけどさ」と、潮は窓から海に目を細める。「学校って、そんなに行きたいものかねえ」
「楽しいんじゃないの?」
「学校が楽しいわけないじゃん」と、ひたすら灰汁をすくう。
「それは潮おねえの感想でしょ。私も学校は楽しかったよ」
「ええ、嘘でしょ。あんたが?」と、灰汁をすくう手だけは止めない。
「真面目じゃなかったけど、楽しかったよ。みんなで馬鹿みたいに笑って、なんか知らんうちに時間が過ぎてた」
「うわあ、青春してやがる」と、袖の上から潮が腕をさする。
「そんな鳥肌立てないでよ。勉強は苦手でも、言われたことをさ、なんか適当にやってれば卒業できたし」
「あんた、そういう適当って得意だよね」
「潮おねえは適当じゃないの?」
「そりゃ、いい加減だけどさ」
「うん。料理の味付けとか、いつも違うもんね」
――おいおい。
食堂としては致命的欠陥なんじゃないのか?
「だけど、なんとかなってるでしょ」
「天才じゃん」
と、おだてつつ葡萄酒に手を伸ばそうとする羽美香を、潮がまたはたく仕草でやめさせる。
「なんかさ、適当って結構きっちりしてると思わない?」
「どういうこと?」と、羽美香が首をかしげる。
「適当ってさ、なんかいい感じのところでスイッチ押せちゃう人でしょ。ほら、百ぴったりじゃなくても、九十八とか百三くらいでさ」
「ああ、四捨五入したら合ってるって感じ?」
「でもさ、あたしの場合、なんかよく分かんないけどこの辺でいいかってスイッチ押しちゃうわけでしょ。そしたら八十五とか、百二十あたりだったりするわけじゃない。全然合ってないの。だから、適当といい加減って全然違う気がする。なんか根本的に違うよね。むしろ対立してるような」
「ねえ、火強すぎない?」と、羽美香が鍋底をのぞき込む。
「あらま、弱めてなかったっけ」
「大事なところが抜けてるんだよね、おねえは」
ほとんど消えそうなくらいの弱火にして全体をかき混ぜたところで腰に手を当てる。
「なんの話してたっけ?」
「茉梨乃が天才って話?」
「ええと……天才じゃなくって」と潮が笑みを浮かべる。「真面目って話だったでしょ」
「だから、茉梨乃は真面目じゃないって」と、羽美香が両手を広げる。「大丈夫だよ。心配ないって」
真面目じゃないから心配いらないとか、どういう結論なんだか、こいつらの思考回路の方が心配になる。
しかし、吾輩が気になるのは料理の味で、くだらん話などどうでもいい。
「ねえ、味どう?」
潮が小皿にブイヤベースをすくって渡すと、一口すすった羽美香が首をかしげた。
「なんかぼんやりしてるよね」
こんだけいい素材を使っておるのに、味が決まらぬとは、誰が天才だと?
「もうちょっとだけ塩気を足すか」と岩塩を擦る。
「ついでにワインのコクも追加で」
「あんたが飲みたいだけでしょ。また一から灰汁取りしなくちゃならなくなるから、いらないよ」
「じゃ、残ってるワイン飲んじゃってもいいよね」
「いいわけないでしょ」
料理も完成せぬうちから喧嘩など始めおって。
仕方がない。
この吾輩がなんとかしてやるか。
やつらの足元にすり寄って鍋を見上げながらちょいと尻尾を一振り。
これでなんとかなるだろ。
なのにやつらは、吾輩を邪魔者扱いしよる。
「ちょっと、ポム、まだですよ」
「いい匂いがするとすぐに寄ってくるんだから」
ふん、誰のおかげで味が決まると思っておるのだ。
二人で小皿にすくって味を見る。
「あ、いい感じだね」と、羽美香が親指を立てる。
「オッケー。あとはこのまま弱火で放置」と、潮が壁の時計に目をやる。「それにしても、お客さん、来ないね」
お昼の十二時はとっくに過ぎている。
「いつものことじゃん」と、羽美香は淡々とつぶやく。「こんなところ、わざわざ来る人いないもん」
「せっかくいい感じに仕上がったんだからさ、来てくれた方がいいじゃない」
――やれやれ。
吾輩が様子を見てきてやるとするか。
客が来ないと、こいつらは吾輩にも飯を出さないからな。
しかし、動物虐待で訴えたりはせぬ。
吾輩は断じて猫などではないのだからな。
裏口からするりと抜け出して表に回る。
海と反対に道路側に突き出した立方体の玄関ポーチは、壁がアーチ型にくりぬかれて三方から出入りできるようになっておるのじゃが、正面のアーチを挟んで植えられたオリーブの木がひさしの役割を果たしておって陽だまりが柔らかくてのう、季節を問わず吾輩のお気に入りの場所なのじゃ。
――ん?
なんじゃ、誰か来ておるではないか。
「ねえ、ここだよね」と、髪の短い女性。
「白い壁って言ってたもんね」と少し長めの女性が相槌を打つ。
女子二人組が何やら迷っておるようなので、吾輩が喉を鳴らして呼んでやる。
「あ、いた。生意気そうな茶トラの猫」
「ホントだ、すんごく太ってる」
なんじゃ、いきなり失礼な連中じゃな。
追っ払ってやるか。
「わあ、尻尾振ってる」
「招き猫の手みたいだね」
「ホントだ、教えてくれてるのかな」
ちょ、なんじゃ、逆じゃ、来るな、シッシッ、あっちに行けというのに。
まったく、人間ってやつは、話が通じぬ生き物で困る。
「かわいいね」と、二人に両側から手を差し出されては、逃げ場がない。
しかたないから、吾輩はちょっとばかり体を撫でさせてやる。
「おなかぷにぷにだね」
そりゃそうじゃ、うまいものしか食っておらんからな。
「ねえ、猫さん、ここはカフェですか?」
吾輩は猫ではない。
猫又である。
だが、ここがカフェなのは間違いではない。
「ねえ、どうする。入ってみる?」
「うん、そうだね。他に白い壁の建物なんてないし、おなかも空いたもんね」
本日のお客第一号か。
ならば吾輩が案内してやろう。
ほれ、こっちに来い。
「やっぱり招き猫なんだね」
「お店のマスコット猫なのかな」
「そのわりにはふてぶてしい顔してるけどね」
なんじゃと。
よいか、吾輩は断じて猫などではない。
とはいえ、猫又だからといって、失礼なおまえさんがたを取って食おうなどとは思わん。
なにしろ、もっとうまいごちそうが食えるのだからな。
木製の玄関ドアをカリカリと引っかくと、人間が自分で取っ手を引いて中をのぞく。
「あのう、すみません」
「はーい、いらっしゃいませ」と、潮が駆けつける。
「ここ、カフェでいいんですよね」
「ええ、そうですよ」と、お団子頭を怪訝そうにかしげる。
「看板とか、何も出てないから、やってないのかなと思って」
「え、出てませんでした?」
と、足元を見下ろすと、外に立ててあるはずのスタンド看板が店内の観葉植物の陰に隠れていた。
うまくもない手書きで、《島のカフェ こころのこり》と記されておる。
「あらまあ、お客さん来ないはずだわ」
潮がドアを開け放って、よっこらせと看板を外に出す。
「ごめんなさいね。分かりにくかったでしょ」
弁明する潮に二人が頬を引きつらせながら作り笑いを浮かべる。
「でも、なんかおいしそうな匂いがするからご飯屋さんだよねって、入ってみたんです」
「猫ちゃんも呼んでるみたいな気がしたので」
そうじゃ、吾輩のおかげじゃぞ。
「あら、ポム、こっちにいたの?」
いたのじゃないわい。
呼んでやったんじゃないか。
誰のおかげでこのカフェが成り立っておると思ってるんじゃ。
潮が吾輩を指さす。
「この子、自分のことを猫又だと思ってるの」
ちょ、待てよ。
こら、おまえ何を言っておる。
「猫又って、妖怪ですか」
「そう。でも、尻尾が二股に分かれてるから猫又なのに、一本でしょ」
「ピンとしてて、きれいな尻尾ですよね。かわいい」
「ただの食いしん坊の太っちょですよ。ふてぶてしい顔してるでしょ」
言いたい放題、吾輩のことを馬鹿にしおって。
本物だと言っておるだろうに。
抗議しても、フニャーゴとしか聞こえないらしい。
吾輩の言葉も理解できぬ愚か者どもめ。
なのに気安く吾輩を撫でおって。
ま、触らせてやらんでもないがな。
触れ、ほら、撫でろ。
好きなだけ撫でていいぞ。
迷える人間どもよ、撫でれば撫でるほど御利益があるぞ。
なにしろ吾輩は本物の猫又なのだからな。
「海の見える窓際の席へどうぞ」と、潮が客を招き入れる。
「ありがとうございます」
――なんじゃ、もう終わりかい。
つまらん。
実につまらん。
店内はオリーブの木を意識しておるのか、淡い緑の壁紙を基調として、木材を使った内装で統一されている。
「わあ、中庭もテーブルがあるんですか」
「お天気も良くて気持ちよさそう」
奥へ進んだ客が真鍮製のテーブルを見つけて窓辺に歩み寄る。
「ええ、そちらでもいいですけど……」と、潮が慌てて背中で隠す。「ちょっと、羽美香、片付いてないじゃないのよ」
「はあい」
間の抜けた返事と裏腹に、背筋をまっすぐに伸ばし、堂々と厨房から姿を現した羽美香を見て、二人がヒソヒソ囁き合う。
「かっこいい。モデルさんみたい」
「歌劇団にいたのかも」
――はあ?
何を言っておるんじゃ?
ボサボサ髪の飲兵衛だぞ。
ぐしゃぐしゃの膝掛けと芝生の上に落ちた葡萄酒瓶を後ろ手に回収した羽美香が二人を中庭に導く。
「いらっしゃいませ。それでは、こちらのお席へどうぞ」
「わあ、素敵な眺めですね」
「ホント、映えるね。地中海みたい」
空と海しか見えんけどな。
偉い坊さんなら悟りを開く風景かも知らんが、まぶしくて青いだけだ。
水を運んできた潮がコップを置く。
「あの、メニューは?」と、二人があたりを見回す。
「うち、あるものしかないんですよ」
謎かけのような答えに困惑した客が顔を見合わせる。
「えっと、あるものってなんですか?」
「今日は魚ですかね」
「魚?」
「港でもらった魚と厨房の余り物をとりあえず鍋に放り込んで煮てみたスープです」
投げやりな料理名にますます眉根を寄せて二人が目配せし合うと、「おねえ、言い方」と、羽美香が潮の前に割って入る。
「あのですね、本日のお料理は『地元産の新鮮な魚介類をロレーヌ産の岩塩でじっくりことことうまみを引き出した初夏の爽やかブイヤベース』になります」
「わあ、そうなんですか」と、髪の短い方の声のトーンが一段上がる。「すごくおいしそう」
「他には何があるんですか」
髪の長い方の質問に潮がまた一言答えた。
「それだけですよ」
「はあ」と、あからさまに落胆する二人に、羽美香が言葉を添える。
「具材が多彩なので、ボリュームもあって、魚介のフルコースをお楽しみいただけますよ」
「あ、それならいいですね」と、髪の短い方が頬を引き上げ、ぎこちない笑みを浮かべる。
「う、うん、おいしそう」と、長い方も必死に首を縦に振る。
「では、ご用意いたしますね」と、羽美香は潮の背中を押して厨房へ向かった。
ふうと、二人そろって客がため息をつき、気まずそうに目配せをしつつ、目の前の海に視線を流して笑みを浮かべる。
「きれいだね」
「うん。ホント、きれい」
「あとはお料理がおいしいといいけど」
「どうだろうね」
やれやれ、すまんのう。
あるものしかないが、味は吾輩が保証するから心配せんでくれ。