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 終業式が終わり、校門からあふれ出た生徒たちが古い宿場町へと坂を下っていく。

 並んで歩いていた七海が港を指さした。

「ねえ、茉里乃ちゃん。今日で夏休み前の最後だから、ちょっと海でも眺めていこうよ」

 茉里乃は七海を見つめながらコクリとうなずいた。

「実はさ、クッキー焼いてきたんだ」と、鞄からリボンで結んだ袋を取り出す。「じゃーん、チョコチップクッキーだよ」

 二人はフェリー乗り場の脇を通り抜け、防波堤の突端に向かって歩いた。

 強い日差しに照りつけられた赤い灯台がかたどる狭い影に収まって二人並んで座る。

 穏やかな波と共に吹き寄せる海風が優しい。

 七海が差し出す袋からクッキーを一枚取り出し、茉里乃がひょいっと口に入れる。

 大きなドングリを見つけたハムスターのようにポリポリとかじる様子を七海はまぶしそうな目で見つめていた。

「どう?」

 詳しい感想を期待していたわけではなく、うなずくか首を振るか、それだけでも知りたくて聞いてみたのだった。

 返ってきた答えはまるで予想もしないものだった。

「おいしいね」

「えっ!?」

 無口だった茉里乃がいきなりしゃべったのだ。

 あまりにも驚く相手に、お互いに困惑しながら顔を見合わせる。

 ――七海は茉里乃がしゃべったことに。

 ――茉里乃は褒めた相手が眉を寄せたことに。

「い、今、なんて……?」

「これ、おいしいねって」

「う、うん、ありがとう」

 頬を染める七海の手からもう一枚クッキーをもらい、今度は半分だけかじって口に入れる。

「ヘーゼルナッツも入ってる?」

「うん、分かる?」

「うちのお姉ちゃんと同じくらい上手」

「あはは。茉里乃ちゃんはお姉ちゃん好きだねえ」

「好きっていうか、お姉ちゃんはお姉ちゃんだよ」

「べつに照れなくたっていいじゃん。好きなんでしょ、お姉ちゃんのこと。だって、頼りになるし優しいもんね」

 ちょっと調子に乗ってはしゃぎすぎたせいか、相手が急に黙ってしまった。

「何よ。正直に言っちゃいなよ」と、七海は気まずさをかき消すようにわざとらしく肘でつついた。「他に誰も聞いてないんだし。好きなんでしょ」

 島から戻ってきたフェリーがフォンと汽笛を鳴らして港に入ってくる。

 茉里乃は顔を横に向けて、まっすぐに七海を見つめた。

「私が好きなのは七海だよ」

 ――はあ?

「ちょ、いきなり何言ってんの」

「だから、私は七海が好きなの」

「え、は、ちょ、え?」と、あわてて立ち上がったものの、日陰から出たとたん汗が噴き出し、七海はまたスカートを押さえてしゃがんだ。

 茉里乃がキラキラと輝く海を見つめて目を細める。

「七海が私に『寂しい』を教えたの」

「はあ、え、何よ、それ。私が悪いの?」

 こくりとうなずく茉里乃が七海の肩にもたれかかった。

「すごく寂しい」

 七海は灯台になったかのように固まってしまった。

「だから、そばにいてよ」

「う、うん、いいけど。よく分かんないけど」

 穏やかな波が打ち寄せる防波堤で、二人はパタパタと脚を振った。

 対岸の小富士山の上で太陽が輝いている。

 左手をかざしてそれを見上げながら、茉里乃がつぶやいた。

「この前、タコパやった」

「へえ、だれと?」

「お店のお客さんと」

「えっ、お客さん?」と、思わず体をひねったせいで倒れそうになった茉里乃を七海が肘で支えた。

「茉里乃ちゃんちのカフェって普通じゃないよね」

「普通じゃなくていいよ」と、茉里乃が自分で体を起こす。

「あ、まあ、そうか」

「うん」

 じゃあさ、と七海が手をたたく。

「今度、クラスのみんなでタコパやろうよ、茉梨乃ちゃんちで」

「いいけど、たどり着けるかな」

「え、どゆこと?」

「まずは猫を見つけてください」

「なんで?」と、七海が眉を寄せる。「茉梨乃ちゃんって、しゃべってる時の方が意味分からないね」

 と、言ってしまってからハッと手で口を隠すが、茉里乃は化け猫のようにニンマリと笑っている。

 ちょっと引きぎみに七海も固い笑みを浮かべてたずねた。

「どんな猫よ?」

「ものすごく太った茶トラの猫」

「茉梨乃ちゃんちの猫なの?」

 茉里乃がコクリとうなずく。

「名前は?」

「ポム」

「かわいい名前だね。ポムってさ、たしかリンゴっていう意味だよね。おしゃれなケーキ屋さんで、アップルパイに『ショソン・オ・ポム』って書いてあったもん。フランス語なんだっけ」

 茉梨乃はふるふると首を振る。

「太ってポムポムしてるからだよ」

「でも、子猫の時って太ってなかったんじゃないの?」

「最初からポムポムしてた」

「ふうん。やっぱり変なの。写真とかないの?」

「写らない」

「なんでよ。写真が嫌いな猫なの?」

「そういうことでいい」

 一瞬、ポカンとした表情を見せた七海は、海へと視線を流し、アハハと笑い出した。

「やっぱり、意味分かんないよ。だけど、茉里乃ちゃんの言うことって、全部本当なんだよね。面白いからみんなで行ってみよっと。大冒険になりそう」

 クッキーを食べ終えた二人は立ち上がってスカートのほこりをはたいた。

「あ、茉里乃ちゃん」

「ん?」

「ほっぺにチョコついてるよ」

「ちょこっと?」

「ずるいよ、茉里乃ちゃん」と、七海がおなかを抱えて笑い出す。「初めてしゃべっていきなり駄洒落なんて」

 そんな七海に、すまし顔の茉里乃は頬を突き出した。

「取ってよ」

「はあ?」

「ペロって」

「ちょ、は、え!?」と、のけぞった七海が防波堤の端で踏みとどまる。

 そんな動揺を楽しむように、茉里乃は笑みを浮かべた。

「うふふ、冗談」

「あ、うん……」

 呆けていた七海が肩を怒らせ両手の拳を握りしめて叫ぶ。

「こらー! 茉里乃ぉー! ずるいぞぉー!」

 形のない海に二人の笑い声が広がっていく。

 小さな穴にすっぽりとはまり込んでいた茉里乃の世界は、まだふくらみ始めたばかりだった。