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 静かにノックしてドアを開けた潮が顔を差し入れると、白いカーテンが揺れる保健室のベッド脇には、茉里乃ではない女子高生がいた。

「こんにちは」

「はい、なんでしょう」

 教師ではない大人に警戒の目を向ける生徒に、潮は柔和な笑みを向けてたずねた。

「保健の先生は?」

「今、職員室に行ってまして。私、友達の付き添いをしているんです」

「茉里乃のお友達?」

「あ、はい、クラスの保健委員です」

「あたし茉里乃の姉なんです」

「あ、お姉さんですか」

「母親だと思ったでしょ」

「あ、いえ、あの……」

 動揺を隠しきれず、かえってあからさまに両手を振って取り繕おうとする相手に、潮は笑みを返した。

「いいのよ。実際、産んでてもおかしくないくらい年が離れてるからね」

 室内に入って後ろ手にドアを閉めながら潮は頭を下げた。

「放課後まで残ってもらっちゃってごめんなさいね」

「いえ、部活とかもやってないんで大丈夫です」

 間合いを一歩詰めながら潮がたずねた。

「もしかして、七海さん?」

「えっ」と、目を丸くしながらうなずく。「は、はい、そうです」

「うちの茉里乃は、ほとんど学校のことは話さないんだけど、七海さんの名前だけは聞いたことがあるのよ」

「あ、そうだったんですか」と、七海はちらりとベッドに目をやった。「そう……なんですね」

 茉里乃は穏やかな表情で眠っている。

 潮は七海の隣に立って、ささやき声で会話を続けた。

「うちの子、お昼とかどうしてるの? 一人でどこか行って食べてるとか?」

 七海がふるふると首を振る。

 それは茉里乃の仕草にとてもよく似ていた。

「茉里乃ちゃん、しゃべりませんけど、私たちのグループに入って一緒に食べてますよ。みんなの話にうなずいたり、ちょっとにっこりしてみたり、反応はあるんで、ちゃんとなじんでると思います」

「ふうん、そうなんだ」

「言葉では会話してないけど、茉里乃ちゃん、意外と表情は豊かだから、何考えてるかは分かるんですよ。なんか、みんなとは違うけど、それが茉里乃ちゃんなりのコミュニケーションの仕方なんじゃないかなって、最近思うんですよ」

「分かってくれてありがとうね」

「言いたいことが分かると私もすごく嬉しいですし」

 七海の声のトーンが上がる。

「茉里乃ちゃん、結構男子に人気あるんですよ」

「そうなの?」

「男子たちの間では『茉里乃様』って呼ばれていて、ファンのグループが二つもあるんですよ。『茉里乃様を見守る会』と、『茉里乃様親衛隊』です」

 潮はため息のような笑みをこぼした。

「ホストにアイドル。なんなのよ、うちの子たち」

「ホスト?」

「あ、いえ、こっちの話」

「授業中に順番に指名されるときがあるじゃないですか。茉里乃ちゃんの順番が来ると、そういうファンクラブの男子たちが率先して挙手して、『先生、俺がやりたいです』って名乗り出るんですよ」

 潮は呆れ顔で話を聞いている。

「たまに茉里乃ちゃんが照れた感じに赤くなって笑みを浮かべてたりすると、男子たちが『おい、見たか、見たかよ』って騒ぐんですよ。なんかみんなで助け合わなければっていう空気があって、茉梨乃ちゃんのおかげでクラスがまとまってるような気がしますね」

 桃のように頬をうっすらと染めた七海が潮に朗らかな笑顔を向けた。

「まあ、半分ノリみたいなものなんですけどね」

 と、話し声が聞こえたのか、茉里乃が目を開けていた。

「あ、起きた?」と、潮が顔を突き出す。「具合どう?」

 一瞬口を開きかけたものの、七海に気づいたのか、ベッドに寝たまま首を縦に振った。

「じゃあ、帰ろっか」

 ゆっくりと起き上がる茉里乃に七海が寄り添う。

「荷物ここに持ってきてあるよ」

 うん、とうなずく茉里乃に、潮が苦笑してお団子頭に手をやる。

「『うん』じゃないでしょ、偉そうに」

 それにも、うん、とうなずきながらベッドから出ると、さっさと鞄を持って出口へと歩いて行く茉里乃の背中を七海は苦笑しながら見送っている。

「茉里乃ちゃん、また明日ね」

 やはり、振り返ってこくりとうなずくだけだ。

「ごめんなさいね」と、潮は七海に頭を下げた。

「いえ、いいんですよ。いつもの茉梨乃ちゃんで安心しました。保健の先生には伝えておきます」

「どうもお世話様。ありがとうね」

 軽トラにもどると、ポムが荷台で待っていた。

「あら、素直に待ってたのね。出歩かなかったの?」

 言葉が分からないのか、あくびをしながらそっぽを向いてしまう。

 二人が乗り込み、軽トラが動き出す。

 いつもの反対側から見る小富士山は撫で肩の稜線に日差しを浴びて輝いている。

 学校前の坂を下り、古い町の路地を抜け、港に出たところで、茉里乃が目を細めて顔を突き出した。

「どうしたの。何か見えるの?」

「ううん、なんでもない」

 姉と二人だけだと茉里乃は普通にしゃべる。

 接岸したフェリーから車と人が出てきて、入れ替わりに軽トラを乗り入れる。

 出航時間になっても二人と一匹の他に客は来なくて、フェリーは汽笛を鳴らして出航した。

 デッキからは対岸の赤白の灯台と麓の集落から延びる石段、そして小富士山の中腹にある神社の鳥居が見える。

 手すりから身を乗り出すようにそれをじっと眺めている茉里乃に潮は声をかけた。

「ちょっと、落ちないでよ」

「うん、大丈夫」

「テストはうまくいったの?」

 返事はない。

 いいときも悪いときもすぐ顔に出る。

 ――本人は気づいてないんだろうな。

 ただじっと鳥居を見上げている茉里乃の横顔を、潮は手すりに背中を預けながら笑みを浮かべて眺めていた。