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 その翌日、午前中のことじゃった。

 いつものように中庭のテーブルで眠る羽美香の隣で吾輩が涼んでおると、長女の潮がやってきた。

「ちょっと、羽美香、起きてよ」

「何よ、おねえ、お客さんでも来たの?」

「学校で茉里乃が具合悪くなったんだって。迎えに行くから留守番しててよ」

「熱?」

「頭痛らしいよ。保健室で休んでるって」

「めずらしいね。テストでお勉強のしすぎ?」

「そんなにしてたようには思えないけどね」

「容量オーバーか」と、飲兵衛が両腕を突き上げ、骨をバキバキと鳴らしながら背伸びをした。

「あんた、二度寝しないでよ」

「大丈夫、私には迎え酒があるから」と、頭をふらつかせながらテーブルに手をついて立ち上がる。

「お客さんが来ても、一緒に飲んじゃダメよ」と、姉が人差し指を突きつける。「うちはそういうお店じゃないんだからね」

「はあい。行ってらっしゃい」

 酒臭いあくびをしながら雑に手を振る妹に渋い視線を残しつつ、潮が裏庭の軽トラへと急ぐ。

 どれ、吾輩もついていってやるとするか。

 向こう岸へ行くのも久しぶりじゃしのう。

 軽トラの荷台には雨よけのシートがのせてある。

 吾輩はひょいと跳び乗ってその下に潜り込んだ。

 エンジンをうならせながら咳き込むように軽トラが動き出す。

 運転が下手なのか、車が古すぎるのか、その両方なのか、さすがの吾輩でも酔ってしまいそうじゃ。

 吾輩は雨よけシートから尻尾だけ立ててちょいと振った。

 その途端、レールに乗ったかのように軽トラが滑らかに走り出す。

 じゃが、夏の日差しが照りつける荷台は暑くてかなわんのう。

 寝坊助女子高生も、この暑さにやられたのかもしれんな。

 港に着くと、ちょうど対岸から到着した船から車両が出てきたところじゃった。

 潮は入れ替わりに軽トラを乗り入れ、客室デッキへ上がってしまった。

 吾輩は雨よけシートの下に隠れてじっとしていたが、出航してからは顔だけ出して海を眺めておった。

 本土と島の間の海はいつも穏やかで、ほとんど揺れることはない。

 小富士山の中腹にある神社の鳥居に誰かおるような気がして見上げると、若作りの天女がこちらに手を振っておった。

 ――チッ、すべてお見通しかい。

 ぶるると勝手に身震いが起きて、吾輩は雨よけシートの下に頭を隠した。

 対岸について軽トラが動き出す。

 古い宿場町の狭い路地を縫いながら丘に続く道に出て、えっちらおっちらと坂を上っていく。

 しだいに視界が広がるにつれて、エンジンが悲鳴を上げていくが、なんとか登り切ったところで軽トラが止まった。

「さてと、着いた」

 潮が降りてバタンとドアが閉まると車体全体が揺れる。

 と、雨よけシートの端がちらりとまくり上げられた。

「ポム、勝手に歩き回っちゃダメよ」

 フニャッ!?

 なんじゃ、潮のやつ、吾輩が隠れているのを知っておったのか。

 あのお団子頭に何か秘密でもあるのかのう。

「あたししか乗ってないのに、軽トラがいつもより重たかったんだもん。運転してたら分かるに決まってるでしょうよ」

 そういうことかい。

 吾輩はシートから顔を出して牙を見せてやったが、お団子頭はひるむ様子もなかった。

「いい子にしてるのよ。帰りにいなかったら、置いてっちゃうからね」

 フニャオ。

 おとなしく顔を引っ込めると、足音が遠ざかっていく。

 フン、何がいい子じゃ。

 せっかく、魔法で助けてやろうというのに。

 吾輩がちょいと尻尾を振ってやれば、あの寝坊助の頭痛などスッキリ治るというものよ。

 なにしろ吾輩は猫又なのだからな。

 どれ、そろそろ行ったかのう。

 と、吾輩が荷台から顔を上げたときじゃった。

 校舎の入り口で立ち止まった潮がこちらをじっと見ておった。

 ――フニャッ!

 ニヤリと笑って吾輩を指さしておる。

 ぐぬぬ……。

 吾輩を出し抜くとは。

 あやつ、化け猫の生まれ変わりかもしれん。

 だが、これくらいのことでおとなしくなる吾輩ではない。

 今度こそ大丈夫じゃろう。

 あたりを見回しながら顔を上げると、さすがに潮の姿はもうなかった。

 しめしめ、それじゃあ、忍び込むとするかのう。

 と、いきなり足音が迫ってきた。

「おい、部活の前にチャーシューメン食いに行こうぜ」

「よっしゃ、一番遅いやつ、全員に味玉おごりな」

「ずりーよ、てめーら」

 無駄にエネルギーを消費して地球温暖化を促進しておる暑苦しい男子どもをやりすごし、校舎に入ると、一転してひんやりとした廊下が足の裏に心地良い。

 つい、腹ばいになって転がりそうになるのを我慢する。

 ――危ういところじゃった。

 吾輩は猫ではない。

 猫又なのだからな。

 期末試験とやらが終わって部活が再開されたらしく、どこからか単調な楽器の音や、「ファイトー」と掛け声が聞こえてくる廊下を歩いていると、後ろから叫び声が上がった。

「あ、猫だ!」

「うわあ、すんごく太ってる」

 なんじゃ、失礼な。

 振り向くと、コンビニ袋を下げた女子高生が二人、吾輩を指さしておった。

「お尻がまん丸」

「尻尾フリフリしてあたしたちのこと呼んでるみたい」

 愚か者め、おまえらなど呼んでおらんわい。

 なのに、スマホとかいう板を出して吾輩を追いかけてくる。

「写真、写真!」

「猫ちゃん待ってよ」

 少しばかりからかってやるとするか。

 廊下の真ん中で待っておると、カシャカシャカシャと音を鳴らしながら迫ってくる。

「あれ、写ってない。なんで?」

「ホントだ。おかしいよね、ちゃんと狙ったのに」

「だよね。ていうか、廊下は写ってるじゃん」

 フン、下手くそどもめ。

 どこを見ておる。

 吾輩はこっちだぞ。

 廊下の角で尻尾を振ってやると、奴らがあきらめずに追ってくる。

 カシャカシャカシャ……。

 うるさいのう。

 おぬしらは小豆を洗う妖怪か。

「やっぱ、写ってないじゃん。意味わかんないし」

「ああ、もう、なんでよ。猫ちゃんってば」

 吾輩は猫ではない。

 猫又である。

 ゆえにさらばじゃ。