◇
しばらくすると、羽美香がうたた寝をしていた客席まで、何やら鼻につく香りが漂ってきた。
「おねえ、何作ってんの?」
厨房をのぞいてみると、潮がちょうど焼き上がったものをオーブンから取り出していた。
「プリン」
そう言われてあらためて匂いをかいでみるものの、どう考えてもプリンの香りではなかった。
「これ、納豆の匂いだよね」
「余ってたからすりつぶして使ってみた」
「プリンに?」
「うん」と、潮は事もなげにうなずく。
「なんで入れんのよ」
「世の中いろんなプリンがあるでしょ。かぼちゃプリンとか」
「あるけど、納豆はないでしょ。おねえもさ、余り物をなんでも入れちゃうその癖、少しは直した方がいいんじゃないの」
と、スプーンで一口すくって食べた羽美香の手が止まる。
「あれ、おいしい。香りは納豆なのに味はプリン」
「でしょ」
「うーん、なんか負けた気がする」
「勝ち負けを争ってるわけじゃないでしょ。いつからお料理バトルが始まってたのよ。そもそもあんた食べるだけで作らないじゃない」
「おいしいのに悔しい。あーなんか、脳がだまされてるみたいでモヤモヤする」
「それなら、こっちはどうよ?」
調理台の上に出されたのは、明石焼き風に出し汁に浮かべたたこ焼きだ。
「まさか、これにも納豆入れたの?」
「醤油で味をつけてから、細かく刻んで粘りと香りを引き出してね」
「そういう問題じゃないでしょうに」と、呆れ顔でひょいと一つつまんで口に放り込む。「う……ん、ネギがおいしい。お出汁もきいてる。おでんみたいだね。たしかにアリかも」
「でしょ」
「でもさ、おねえ、たこ焼きにミートソースとか、いつだったかも明太子入れてたよね。入れてみればなんでも合うと思ってない?」
「あれも明太子パスタみたいでおいしかったでしょ」
「そりゃさ、材料同じだもんね。小麦粉と明太子」
「あのときは、ニンニクをカリカリに炒めて香りをつけたオリーブオイルをプレートに塗ったからね。見た目以外は完全にイタリアンでしょ」
だったらふつうの明太子パスタでいいじゃんと言いかけたのを、納豆たこ焼きと一緒にぐっと飲み込む。
「おいしいけど、おねえ、デザートとおつまみ的な物しかないじゃん。それに、いくら何でも夏におでんみたいな料理って合わなくない?」
「ちゃんと冷たいのもあるわよ」と、潮は冷蔵庫を開けた。「今日のメインはこちら」
取り出したのは、お刺身を細かくしてネギなどと混ぜた料理だった。
「それって、『なめろう』ってやつ?」
「そう。納豆のなめろう。たたくと粘りが出てお魚と合うのよ。丼にするといいかなって」
「それで余った納豆をデザートに使ったりしたわけね」
「そういうこと」
「私、そっちの方がいいな」と、羽美香がなめろうに手を伸ばす。「見た目もおいしそうだし」
「それはお客さん用だってば」
「でも、納豆ってさ、一度にたくさん食べるのは良くないらしいから、コース料理には向かないよね」
「あくまでも香りづけ程度だから、その心配はないわよ」
「ああ、そうなの」
「この三品でも一人分なら一パックしか使ってないから」
「へえ、それでも充分なんだね」と、隙を見てなめろうに手を伸ばそうとするも、潮の手にペシリと阻まれる。
「野良猫じゃないんだから」
「なんでよ。おあずけはきついって」と、グラスを揺らす。「お酒に絶対合うもん」
「お酒を止めればいいじゃないのよ」
「無理に決まってるじゃん。ガソリン入れなきゃ車も走らないでしょ」
「戦車より燃費悪いよ、あんた」
「補給の尽きた我が軍は撤退いたします」と、敬礼しながら厨房を出ようとした羽美香が足を止めた。
玄関ドアが開いて、化粧っ気のない若い女性客が顔を差し入れていたのだ。
「いらっしゃいませえー」と、慌ててグラスをテーブルに置き、声のトーンを切り替えて入り口に駆け寄る。
「あの、やってますか?」と、客は自信なさげに店内を見回している。「表で猫が寝てたんですけど」
「ああ、うちの猫いました?」
「はい、太った茶トラの猫が目印の白い壁のカフェがあるって港で教えてもらったので来てみたんです」
「そうでしたか。どうぞ、窓際の眺めの良い席へ」
おでこを出したストレートヘアにジーンズ、ロングTシャツの上に日焼け防止なのか、ゆったりめの長袖シャツを羽織った客は鞄を胸に抱え、おずおずと背中を丸めながら案内された席に着いた。
厨房から出てきた潮が水のグラスをテーブルに置く。
「うちはあるものしかないんですけど、いいですか?」
「はあ……」と、客が不安そうな顔を潮に向ける。「あるものってなんですか?」
「余った納豆です」
「えっ……」と、客は絶句したまま固まってしまう。
「ちょ、おねえ、言い方」と、羽美香が間に体をねじ込んで笑顔を向ける。「余った納豆じゃなくて、甘納豆を使ったお料理なんです。オホホホ」
「ああ、甘納豆ですか」と、客が引きつったようなぎこちない笑みを浮かべる。「すみません。聞き間違えちゃいました」
「いえいえ」と、羽美香が潮を背中で押しながら後ずさる。「納豆を使った料理もありますので、すぐにご用意させていただきます」
厨房に戻された潮が羽美香に文句を言う。
「甘納豆の料理なんて用意してないわよ」
「甘納豆はあるんでしょ」と、冷蔵庫を開けて白隠元の甘納豆を取り出す。「ほら、これで何かつくってよ」
「えー、面倒くさい。せっかく納豆で済ませようと思ってたのに」
「おねえはさ、料理人ってだけじゃなくて経営者なんだから、もうちょっとやる気を出してよ」
「しょうがないねえ」
お客さんを待たせている以上、抵抗しても無駄とあっさり切り替え、潮は調理台の上に余り物の材料を並べ始めた。
馬鈴薯、人参、そして甘納豆だ。
材料に調味料を加え、圧力鍋を火にかけると、羽美香に試食させていた明石焼き風納豆たこ焼きおでんに、刻んだ柚と三つ葉をのせる。
「何よ、さっきよりおしゃれじゃん」と、羽美香が茶化す。
「余り物だけどね。じゃあ、先にこれを出してきてよ」
「はいよ」
と、張りのある返事に潮が釘を刺す。
「お酒は持って行っちゃダメよ。うちはそういうお店じゃないんだからね」
「はあい、経営者様」と、しぼんだ声を残して羽美香が厨房を出て行く。
一品目の料理を運んでいくと、窓の外に広がる鮮やかな海に目を細めていた客がふんふんと鼻を鳴らした。
「納豆の香りがしますね」
「はい。こちら、『利尻産の昆布だしに浮かべた京都風納豆おでん』です」
目の前に置かれた料理に鼻が近づきそうなほど顔を近づける。
「これって、明石焼き……ですよね?」
まるで鑑定士のように料理を見つめる客に羽美香は押し通した。
「いえ、京都風の納豆団子のおでんです。世の中には見た目の似たお料理はいろいろありますからね」
「京都風?」
「爽やかな柚の香りと三つ葉の風味がアクセントになっております」
「そうなんですか」と、疑り深い目で箸を持ち上げ一つ目を口に運ぶ。
その途端、客の表情が夏の日差しを浴びた向日葵のようにぱあっと輝いた。
「わあ、本当にはんなりとした味付けでお上品ですね」
「次のお料理も用意しておりますので、どうぞごゆっくりお召し上がりください」
いったん厨房に下がってきた羽美香が、圧力鍋で調理している潮にささやいた。
「お客さん、褒めてたよ。お上品だって」
「あたしは京都風なんて言ってないからね」
「あら、聞こえてた?」
「柚と三つ葉がのってれば京都風で通じると思ってるでしょ」
「そんなことないよ。おねえの料理がお上品だからだよ」
潮が鼻で笑って納豆なめろうの丼を用意すると、羽美香が物欲しそうに顔を突き出した。
「余ったら、私が食べるからね」
「その前に、ポムに上げてきなさいよ」と、別のお皿に、薄味に調整したなめろうを取り分ける。
「えー、私の分は?」
「ちゃんとあるから」
「わーい。ポム? ポームったら、どこ行ったのかな?」と、呼び名も声も弾んでいる。
「さっきお客さんが表で寝てたって言ってたでしょ」
「あ、そうだそうだ」
嬉々として裏口から表へ回っていく羽美香を横目に、潮は火襷模様のついた備前焼の小鉢を戸棚から出した。
圧力鍋で炊き上がったのは人参と馬鈴薯の甘納豆煮だ。
カイワレで彩りながらそれを小鉢に盛りつけたところで、羽美香が戻ってきた。
「玄関のところであくびしてた。ポム、めちゃくちゃ御機嫌でさ、喉鳴らしちゃって、たまにはああいうかわいいところも見せるのよね、あいつ」
「あら、そう」と、潮は素っ気なく返事すると、羽美香に小鉢と丼を持たせた。「はい、持ってって」
「これは肉じゃが?」
「肉入ってないでしょ。甘納豆の肉なし肉じゃが」
「また変なの作ったね」
「あんたが作れって言ったんでしょうよ」と、眉を寄せてにらみつける。
「どうせだったら肉を入れておけば堂々と肉じゃがですって言えたのに」
「味がまとまらなくなるの」
料理人らしいまともな意見を言う姉に反論できず、羽美香はおとなしく料理を運んでいった。
出し汁までしっかり完食していた客が、姿を見せた羽美香に顔を向けた。
「おいしかったです」
「それはどうも」と、小鉢と丼をテーブルに置く。「こちらは『甘納豆のおじゃが』と『納豆風味のなめろう』です」
「おじゃが?」
「肉なしの肉じゃがなので」
「ああ」と、うなずきながら箸を持つ。「いただきます」
一口目をじっくりと味わうと、口元を手で押さえながら客が顔を上げた。
「わあ、なんか懐かしい。ホクホクしたジャガイモに甘納豆の甘みが染みてますね。私……」と、一瞬言葉を詰まらせて言い直す。「甘納豆大好きなんです」
と、そう言い切った次の瞬間、客の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「えっ、どうかなさいましたか?」
「いえ、すみません」と、取り繕うものの、客の涙は止まらない。
口に入れていた分を飲み込むと、こらえきれなくなったのか声を上げて泣き始めた。
羽美香は困惑しながらハンカチを差し出すのが精一杯だった。
「大丈夫ですか」
「す、すみません。ありが……とう、ございます」
あふれ出てくる涙をハンカチで一生懸命ぬぐいながら、窓の外の海に視線を流す。
客の泣き声を聞きつけて慌てて厨房から出てきた潮が羽美香に詰め寄った。
「ちょっと、あんた何やってんのよ」
「私じゃないよ」と、肩をすくめながら欧米のように両手を広げる。
「お客様、何か不手際でもございましたか」
「いえ、違います」と、客はハンカチで顔の下半分を覆いながら首を振った。「お料理が……」
「おねえのせいじゃん」
と、つついてくる羽美香の肘を潮は手で払った。
「あの、料理に何か」
「いえ、すごくおいしくて」
「はあ……」
不手際ではないらしいが、原因がつかめず困り果てた潮が羽美香を肘でつつく。
合点承知とうなずいた羽美香は厨房に駆け込み、白ワインのボトルを持って戻ってきた。
「お客様、こちらはお店からのサービスです。気持ちが落ち着きますよ」
「いえ、そんな、申し訳ないです」
「いいんですよ。私も飲みますから」
対面の椅子に腰掛けると、すかさずグラスを二つ並べ、ワインを注いで差し出す。
客はお辞儀をしながら受け取った。
潮は口出しせずに、渋い表情で様子を見ている。
「私は羽美香、おねえは潮」
雑な自己紹介と共にグラスを掲げて視線を交わすと、一気に一杯目を流し込む。
「私は希海です」と、一口ワインを含んだだけでもうおでこが赤く染まる。「あの、お姉さんは」
「あたしはいいの、下戸だから」
「そうなんですか」
自分のグラスに二杯目を注ぎながら羽美香がたずねた。
「何か心に引っかかってることがあるんですか?」
「すみません、ご心配をおかけして。自分でもびっくりしちゃって止まらなくなってしまって」と、頬をハンカチで拭いながら理由を語り始めた。「私が小さかった頃、同居していた祖母が小豆じゃなくて甘納豆を入れたお赤飯を炊いてくれたんですよ」
「地方によってはそうらしいですね」と、潮がうなずく。
「はい。それがすごくおいしくて大好物だったんですけど、このお料理を食べたらなんかその味を思い出しちゃったんです」
「ああ、そうだったんですか」
「三年前に亡くなっちゃって、もう食べられなくなったのがずっと心残りだったんですよ」
《島のカフェ こころのこり》にやってくるのは、小骨のように引っかかった『心の凝り』を抱えたお客さんだ。
ジャガイモを箸で割って口に入れると、また希海の目から大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
「なのに、なのに、私……」と、言葉を詰まらせながら泣いている希海の隣の椅子に腰掛けると、潮はそっと肩に手を置いた。
料理を味わおうとしつつも過呼吸気味に肩を上下させる希海に静かに語りかける。
「大丈夫、ゆっくり、ゆっくりでいいから。ゆっくりと息を吐いて」
ふと、顔を上げると、厨房から茉里乃がこちらをのぞいていた。
胸に教科書やノートを抱えている。
自分の部屋では気が散ると、客席で勉強するつもりだったらしく、希海と目が合うと、ペコリと頭を下げて隠れてしまった。
潮は客に出したなめろうの丼を指さしながら羽美香に目配せした。
うなずいて、茉里乃と一緒にまかない御飯を食べるために羽美香が引っ込むと、潮は丼を勧めた。
「お食事を召し上がってくださいな」
うなずきながら箸を持ち直した希海が納豆なめろう丼に手をつけた。
「納豆の風味でお魚の臭みが消えてておいしいです」
ジャガイモと交互に味わいながら食事が進み、落ち着きを取り戻した希海が話を戻した。
「うちは母がシングルマザーで、実家で面倒を見てもらっていたんです。祖父は早いうちに亡くなっていて、祖母が私を育ててくれました」
「おばあちゃん子なのね」
潮がそう相槌を打つと、希海ははにかみながらうなずいた。
「病棟勤務の看護師だった母は働きに出ていてほとんど家にいなかったので、代わりに祖母は私になんでもしてくれました。私は甘えん坊で、今思えば、祖母を困らせてばかりいるわがままな孫だったんだと思います。祖母は料理が上手で、いつも私に『お夕飯、何がいい?』って聞いて、なんでも作ってくれました」
潮はテーブルの上で手を組んで静かに聞いていた。
「中学校に上がった頃だったんですけど、私の大好物だからって、何でもない日にわざわざ祖母が甘納豆のお赤飯を炊いてくれたんです。なのに、私……」
言葉を詰まらせながらも、希海はさっきは言えなかった話の続きをしっかりと口に出した。
「私、祖母にひどいことを言ってしまって。『いつまでも子供じゃないんだから、こんなの食べたくない。お祝いでもないんだから白い御飯がいい』なんて」
――そうなの。
潮は声には出さずうなずきながら、批判も同調もせずに相手の言葉を受け止めていた。
目に涙を浮かべつつも、取り乱さずに希海は話を続けた。
「その時の祖母は怒ることなく、ただ『そうかい』とつぶやいて、さびしそうにお赤飯を食べていました。そんなひどいことを言ったくせに、さすがに私も悪いと反省して結局お赤飯を食べたんです。でも……」
いったん言葉を切って希海は涙を拭った。
「それ以来、二度と食卓に甘納豆のお赤飯が出ることはなかったんです」
と、そこへ、厨房から羽美香が忍び足でやってきた。
顔の前で刀のように左手を立てながらワインのグラストボトルを回収していく。
そんな飲兵衛を渋い表情で見送って、潮は話の続きをうながした。
「私は高校を出てから、看護の専門学校に入って母と同じように資格を取ったんです。大学病院付属の学校だったので、資格取得後にそこの病院で働けば学費が免除になるんですよ。母に負担をかけたくなかったので」
「ああ、よくある制度ですよね」
「資格を取って勤務を始めたときに、病院に併設された寮に入ったんです。寮費は格安だし、食堂で食べるなら安く済むので助かるっていうのもあったんですけど、なんていうか、一度家を出てみたいっていう気持ちがあって、初めての一人暮らしが実現したんです。でも、ちょうどその頃祖母は脳梗塞で倒れてしまって、介護施設に入ることになったんですね。仕事が休みの日に外出はできたんですけど、私も始めたばかりの慣れない仕事で疲れていて、あまりお見舞いに行けなくて」
「それは仕方がないでしょうね」
「でも、後遺症から軽度の認知症が出たり、言語もあやふやな感じで、耳も遠くなって会話がかみ合わなくなってきたんです。自分も仕事でご高齢の患者さんを見てるので、回復の見込みがないことが分かってしまって、会いに行くのが辛くなってしまって。私が小さかった頃は元気で優しくしてくれてたのに、恩返しどころかひどい言葉を投げつけたままで、なのに、もう謝っても話が通じなくなっていて……それに」
希海は大きく深く息を吸い込んだ。
「私がお見舞いに行くと、どういうわけか祖母はいつも私に千円札を握らせたんです」
「千円札?」
「はい、孫にお小遣いでも渡すつもりだったのか、お見舞いに行って私が手を握っていると、ベッドサイドの引き出しを開けろと言うかのように指を動かすですよ。開けるとお財布が入っていて、やっぱり中からお金を取るように手を震わせるんです。『おばあちゃん、お金どうするの?』って耳元で聞くと、私の手をギュッと握ってクシャッとお札をつかませるんです。それが信じられないほど強い力で、いつも私の手が赤くなってしまうくらいだったんですよ」
「力の加減が分からなくなってたのかもしれないですね」
「ええ、ただ、すごく必死なんだってことは伝わる感じで」
「おばあさんは、何か言ってました?」
「いえ、言葉にならない言葉をつぶやく感じで、私が返そうとすると、やっぱり手をがっちりとつかんで離さなくて」
「どうしても渡したかったんでしょうね」
「でも、私、お金が欲しくてお見舞いに行ってたわけじゃないですし、なんか、物欲しそうな孫だと思われてたのかなって、行く度に後ろめたさばかりが積み重なってしまって」
「そのお金はどうしたの?」
「使わないでとってあります。どうしたらよかったのか、いまだに分からなくて」
唇を突き出すようにため息をつく希海に潮は微笑みを向けた。
「使ってもとっておいてもどっちでも良かったんじゃないですか。おばあさんは、希海さんがしたいようにしてほしかったんだと思いますよ」
「でも、私ももう働いて自分なりに稼いでいましたし、奨学金の返済もなくて困ってなかったんですよね。べつにお金が欲しくてお見舞いに行っていたわけでもないし、そもそも祖母は年金しか収入がなくて、お金に余裕なんてなかったんですよ」
そうつぶやいたきり希海は黙り込んでしまった。
窓の外ではまぶしい夏の太陽に照らされた海が輝いている。
そんな風景を眺めながら、聞かせるともなく潮は自分たちの身の上話を始めた。
「うちは両親がいなくてね」
「え、そうなんですか?」
「船の事故でね。二人とも亡くなってしまって。このカフェを始めたばっかりだったんだけどね」
希海は思い出したように食事に手をつけながら潮の話に耳を傾けていた。
「両親は調理科がある高校で知り合って、卒業してすぐに結婚したときから自分たちのカフェを出したいとずっと考えていて、働きながら準備を続けてきて、ようやくこの島に移住してきたの。あたしと羽美香は正直引っ越ししたくなくてね。親の夢のためとはいえ、あたしたちまで住み慣れた場所を離れなくちゃならないのは嫌だったのよね」
「高校生くらいだったんですか?」
「二十年前、あたしがちょうど高校に上がるタイミングね」と、潮はうなずいた。「いちおう、文句は言ったけど、子供だから自分だけでは暮らせないし、来たら来たですぐに慣れちゃったから、反抗しただけ無駄だったんだけど」
笑みを浮かべる潮に希海も笑顔でうなずき返した。
「茉里乃はこっちに来てから三年くらいして生まれてね。あたしと羽美香がおむつ替えたりミルク飲ませたり散歩に連れていったりしてたのよ。お風呂も三人で入ったっけ」
懐かしい思い出のアルバムをめくるように穏やかな表情で話を続けていた潮がいったん言葉を切って続けた。
「それからこの建物ができて、いよいよカフェを始めるぞってなった時だったのよね。開業に必要な手続きとかで本土側に行っていた両親が乗った帰りのフェリーがエンジン火災で浸水して沈没したの。波も高かったり、悪条件が重なっちゃったらしくてね」
「あの連絡船ですか?」
「ううん、向こう岸じゃなくて、昔は外海に出てよその街へ行く航路があったのよ。元々赤字で、事故の後、後継の船も作れなくて廃止されちゃったから今はないの」
希海は肉なし肉じゃがと納豆なめろうを完食して、グラスに残ったワインを軽く揺らしながら香りを味わっていた。
丸まっていた背中を伸ばして潮がお団子頭を撫でた。
「いきなりそんなことになっちゃって、もちろん悲しかったし、いろいろ大変だったんだけど、あたしたちも生活していかなくちゃならないから、成人したばかりだったあたしがそのままカフェの経営を引き継いで、妹たちの世話もしてね」と、厨房を親指で指す。「羽美香は高校生で、下の茉里乃はまだ二歳だったかな」
「ご苦労なさったんですね」
「ま、それはどうでもいいんだけどね」と、潮はエプロンのポケットから預金通帳を取り出した。「両方の祖父母は四人ともまだ健在なんだけど、遠くにいるからなかなか会えないのよ。それでも、私たちのことを気にかけてくれていて、毎月お金を振り込んでくれるのよ」
潮が広げて見せた通帳の振り込み人欄には『オイモオイシイ』『ゲンキダヨ』『サクラサイタネ』『クーラーツケテネ』といった季節ごとの一言メッセージが記されていた。
「ああ、お手紙になってるんですね」
「そうなの。カフェの運営が行き詰まったり、本当に生活に困ったりした時に何度かありがたく使わせてもらったから残高はたいしたことないけど、それでも少しずつお金が貯まっていくの。祖父母も年金暮らしで歳を取っていくけど、続けてくれているうちは元気なんだなって、通帳見てるとホッとするのよね」
ふと、顔を上げると、厨房から羽美香と茉里乃が顔だけ出してこちらの話を聞いていた。
「あたしはべつに遠慮したり後ろめたいなんて思わないで、必要な時には使わせてもらってるの。苦しかった時も困った時もいろいろあったけど、何冊もある通帳の記録が今ではいい思い出ってわけ。向こうもね、振り込みするためにわざわざATMまで行くのも運動になるからいいんだって」
「お年寄りは何かの口実を作らないと出歩かなくなるって言いますもんね。私も仕事柄、そういう話をよく聞きます」
「ま、だから、ありがたく受け取っておくのも孫としての孝行なのかなって」
「ですね」
潮は椅子から立ち上がって、テーブルの上を片づけた。
「全部おいしかったです」と、希海が膝に手を置いて頭を下げる。
「今、デザートを用意しますね。コーヒーはホットとアイスどちらにしますか」
「ホットで」
「ドリップコーヒー、エスプレッソ、カフェオレ、カフェラテ、カプチーノ、ウィンナーコーヒー。他にも本日のデザートと相性抜群のシナモンパウダーを浮かべたチョコレートのカプチーノもあります」
「コーヒーはいっぱい種類が選べてカフェっぽいですね。じゃあ、そのおすすめのにします」
「かしこまりました」
姉が厨房に来ると、妹たちは顔を引っ込めた。
待ち構えていた羽美香が潮にささやきかける。
「おねえが通帳見ていつもニヤニヤしてるのって、そういう理由だったんだ」
「なんだと思ったのよ」
「マフィアのドン」
「なんでよ。風が吹けばどうやったら桶屋がマフィアのドンになるのよ」
「それは茉里乃に聞いて」
と、羽美香があっさり譲ると、茉里乃は顔を真っ赤にしながらふるふると首を振った。
荒唐無稽な末っ子の妄想を受け流して潮はコーヒーを用意した。
カプチーノにスイス産のミルクチョコレートを溶かし、フォームミルクを追加で表面に回してシナモンパウダーを振りかける。
「おねえ、私の分は?」
「お酒の方がいいんじゃないの?」
「こんなにおいしそうな物目の前で作られてお預けはきついって」
「茉里乃もいる?」
勉強の手を止めた茉里乃はこくりとうなずいた。
「じゃ、これ、糖分補給ね」と、潮は二人分のプリンも調理台の上に置いて、客席にコーヒーとデザートを運んでいった。
「わあ、いい香り」と、希海が期待に満ちた目で待っている。「私、シナモン大好きなんです。祖母が良くアップルパイを焼いてくれて……」
と、そこまで言いかけて言葉を切ると、テーブルに置かれたコーヒーとプリンに目を落としてつぶやいた。
「アップルパイは、食べたくないなんてわがままは言ってませんけど」
潮は対面の席に腰掛け、「どうぞ召し上がれ」と、手を差し出した。
「いただきます」
祈るように手を合わせてからスプーンを持った希海は早速プリンを一口食べた。
「納豆の香りはするけど、味はプリンですね。なんか不思議な感覚です」
羽美香と同様の感想に苦笑しつつ、潮は自分のシナモンコーヒーを飲んだ。
「好意の受け取り方って難しいのよね」
唐突な切り出し方に戸惑いつつも、希海もコーヒーを口にしながら耳を傾けていた。
「もちろん、素直にありがとうって感謝すればいいんだけど、やっぱり、自分が望んでいたことと違うことをされる時ってあるじゃない」
「病院でも、患者さんに手を貸そうとしたら病人扱いするなとか、よく言われます」
「それであなたは怒る?」
「もう慣れたので、なんとも思わないですね。自分の力で頑張ってるんだな、くらいで」
「おばあちゃんも、たぶん怒ってなかったんじゃないかな」
「うーん」と、プリンのカラメルをなめながら希海が首をかしげた。「それはどうでしょうか」
「あなたは、自分の感情を決めつけられても反論しない?」
「それって、例えば、怒ってないのに怒ってるでしょとか言われることですか?」
「こっちは本当になんとも思ってないのに、必要以上に謝られると、なんか自分がそういう怖い人だと思われてるみたいで、あたしは嫌なのよね」
希海が目を閉じてうつむいた。
「でも、だからって、私がひどいことを言ってしまった事実は取り消せませんし、許されることでもないですよ」
「あなたはただ甘納豆のお赤飯が口に合わなくなっただけ。それを正直に言葉にしただけ」
目を開けて何かを言おうとした希海に向かって潮は人差し指を立てた。
「変わったっていいのよ。昔のことを懐かしく思い出すのは、自分が変わったから。成長したから。それがお世話をしてくれたおばあちゃんへの、一番の恩返しでしょ」
「でも……」
「言われたその時はびっくりしたし、ガッカリしたかもしれないけど、それも成長の一コマとして受け止めていたんじゃないかな」
希海は唇をキュッと結んで窓の外へ視線を流した。
「反抗期って、必要でしょ。自立するための通り道なんだから。与えられた物で満足できなくて、自分で選びたくなるのが成長だもの」
潮は窓に映る希海と視線を交わして微笑んだ。
「うちはメニューを選べなくてごめんなさいね」
「でも、全部おいしかったですよ。このコーヒーも今まで飲んだ中で一番おいしいです」
「それはどうも」
そこへ、白ワインのボトルを持った羽美香がやってきた。
「お酒はどうですか?」
「あ、いえ、もうやめておきます」
「そうですか」と、羽美香は姉の隣に立って、希海にたずねた。「お母さんとは、このことを話したことあるんですか?」
「母と?」と、疑問符が浮かぶ。
「希海さんにとっておばあちゃんは一人だけど、おばあちゃんにとっては、二度目だったんじゃないですか?」
「あっ」と、希海の目が大きく開く。
「だってもう一人、娘としてあなたのお母さんを育ててたわけだし。その時にも同じような経験をしてたんじゃないかなあ」
潮が言葉を引き継ぐ。
「許されるとかは別のことかもしれないけど、おばあさんは、受け入れてくれたんじゃないですかね。娘の時と同じだなって」
羽美香は顔を隠すように天井を見上げながらつぶやいた。
「おばあちゃんだって、いつまでも抱っこしてるわけにはいかないんだもん。そうやって孫が離れていくのも、さびしいけど、いつかはそうならなくちゃいけないんだって分かってたんじゃないかな」
希海の目からまた大粒の涙がこぼれ出す。
羽美香は温かいおしぼりを差し出した。
そんな様子を眺めながら潮は続けた。
「本当に嫌いな人ならお見舞いに来るなって言うし、来たら職員さんに会いたくないと伝えて追い返してたでしょ。おばあちゃんにとっては、孫が来てくれて嬉しかったんじゃない?」
「そうでしょうか」と、希海はおしぼりを頬に押しつけて涙をぬぐった。
「さっきのお金の話ね」と、潮は椅子の上で姿勢を正した。「もううまくしゃべれないし、字も書けなくなってしまったおばあちゃんはなんとか気持ちを伝えたかったんだと思うのよね。そのお金は、おばあちゃんからのお手紙だったんじゃないかな」
「手紙?」
「あなたが小さかった頃なんでもしてくれたおばあちゃんは、あなたが大きくなった時には歳を取って無理がきかなくなってしまった。それでもまだ孫に何かしてやりたくて、それがおばあちゃんの安心と喜びで、その気持ちが、お金だったんじゃないかな。うちの預金通帳みたいにね。だから、必死に、あなたに握らせたんだと思う」
「そうだったのかもしれませんね」
「まずは、お母さんと話をしてみたらどうですか?」
「母も、そういう時期があったかもしれませんね」
「おばあちゃんがそこまで考えていたかは分からないけど、希海さんがお母さんと話をするきっかけを作ってくれたのかもしれないわよね」
「あっ」と、希海が小さく声を上げた。「そうかもしれませんね。思えば、母とはあまり話をしたことがなくて。迷惑をかけちゃいけないから頑張っていい子にしてなくてはって、そういうことばっかり考えてきたような気がします」
『心の凝り』がほぐれて『心残り』が消えたのか、希海は初めて安らいだ笑みを浮かべながら窓の外の海を眺めていた。