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――フォン。
五月の連休も過ぎて、世の中は日常の落ち着きを取り戻していた。
本土の港から汽笛を鳴らして小さな連絡船が動き出した。
軽トラック二台と郵便局のバイク、十名ほどの乗船客は女性二人を除いて島の住人ばかりだ。
急峻な斜面にミカン畑の広がる対岸の島はフェリーで八分ほどの微妙な距離にある。
それくらいなら橋を架ければ良さそうに見えるのだが、島に人口が多かった時代ですら漁師はみな自分の船を持っていたせいか、地元選出の議員が国からお金を引っ張ってきたときもまったく関心を持たなかったと言われている。
時代が変わって少子高齢化が進み、今はもうほとんどが引退して港には数隻の漁船しか停泊していないし、小中学校も一つに統合されて、かろうじて各学年に一人生徒がいるかどうかという状態になってしまった。
そうなると今度は経済効果が見込めず、架橋の計画が持ち上がることすらなくなったらしい。
実際、島の産業といえば衰退した漁業と、後継者のいないミカン農園くらいのもので、観光地として旅行客を呼べそうな名所など一つもないから、地元の人間ですら誰も困らない。
いちおう島の中央にそびえる山の上に、天女が舞い降りたという伝説が残る神社があって夏祭りでは賑わうが、それにしたって年に一日だけのことだ。
本土に並んですぐ隣には、有名な城と神社があり、立派な橋のかかった観光客向けの島もあるせいで、こちらはほとんど見向きもされないのだ。
海とミカン以外に何もない島。
それでもこの島を訪れる旅人がいないわけではない。
何もない島だからこそ流れるゆったりとした時間に身を委ね、日々の疲れを癒やし、明日への活力を取り戻す。
ガイドブックに載っていない島に流れ着くのは、そんな自分自身に疲れた人なのかもしれない。
フォンと軽く汽笛が鳴る。
もう対岸の港が迫っていた。
船から見上げる島は撫で肩の富士山のような形をしている。
中央の山は低いながらも地元では『小富士山』と呼ばれていて、麓の集落からまっすぐに伸びた石段の先には赤い鳥居と小さな祠が深い緑に埋もれている。
小富士山からは海鳥の翼のように丘陵が連なり、島の両端にはまたそれぞれ小高い山がある。
港を両側から防潮堤が囲い、その左右の先端にはそれぞれ小さな灯台が建っている。
右側は郵便ポストのように鮮やかな赤色に塗られていて、左側のは塗り重ねられた白さが目に刺さる。
連絡船は速度を落としながら灯台の間へ滑り込んでいく。
赤い灯台を背景に自撮りしていた女性客二人から「映えるね」と歓声が上がる。
雲一つない青空と、まぶしい太陽を反射した穏やかな海。
たしかに今日は島日和だ。
牡蠣の殻にびっしりと覆われた岸壁にスクリューが起こした波が打ちつけ、フォンフォンとまた汽笛を鳴らして船が着岸した。
足取りの軽い女性客の後ろから地元の人々が上陸し、軽トラックやバイクと共に集落に散っていく。
空っぽになった船が静かに波に揺られる港には海鳥が一羽円を描いて舞っている。
港周辺の集落には店や食堂どころか人の気配すらない。
さっき船から降りたばかりの島の人々も、どこかへ吸い込まれてしまったかのようだ。
「ホント、何もないね」
「どこ行こっか」
女性客二人は島を巡る海沿いの道をあてもなく歩いて行く。
二人は同じくらいの背丈で、一人は明るいセミロングにデニムワンピース、もう一人はポロシャツとベージュ系のブーツカットパンツの黒髪ショートボブだ。
ようやく出会った漁師にショートボブがたずねた。
「あのう、ここらへんって、食事のできるところってありませんか」
額に巻いたタオルを外して漁師が頭をかく。
「何もないよ、この辺は。島の向こう側さ行けば、白い壁のカフェーがあるけんどもよ」
「じゃあ、行ってみます」
「分かりにくいところだから見つからんかもね」
「えっ、そうなんですか」
困惑顔のセミロングに漁師が笑みを浮かべる。
「猫がいたら、ついていくといいさ」
「猫、ですか?」
「すんごく太った茶トラの猫。生意気でふてぶてしい顔しとるんで、すぐに分かる」
「茶トラ?」
「生意気?」
お互いに顔を見合わせた二人は漁師にお礼を言って歩き出す。
青い空の真上から太陽の光が降り注ぐ。
風景の感想を言い合いながら海沿いの道を進んでいた二人はしだいに無口になっていく。
海、空、山、光、風、かすかな波の音。
この島には、本当に何もないのだ。