◇
吾輩は猫ではない。
猫又である。
だから、太っているからといって、石段を登るくらいどうということはない。
だが、この島の神社だけは別格だ。
吾輩がここに住み着く以前からある石段は、さすがの猫又でも息が切れるほど急で、いつも鳥居をくぐるときにはヘトヘトで動けなくなってしまうほどだ。
茉里乃のやつを探しに来てやったが、どうやら遅かったらしい。
さっきまでいたような気配はするものの、もう姿はなかった。
と、その時じゃった。
「はあい」と、何者かが吾輩を軽々と抱き上げよった。
フニャッ?
「あたしよ、あたし」
――こ、こら、離せ。
「何暴れてんのよ、猫じゃあるまいし」
気配を消して近づき、吾輩の正体を知っているこいつはもちろん只者ではない。
千年以上前からこの神社にまつられている天女なのだ。
吾輩より年増のくせにヘソ出しの服など着て若作りしよって。
「お久しぶりね。さびしかった?」
んなわけあるかい。
「もう、照れちゃって」と、吾輩の背中を撫で回す。
――ニャ、ニャーオ……。
こやつは吾輩を手なずける急所を熟知しておるせいで、体から力が抜けていく。
「うふん、ほうら、おとなしくなった」
そんなつもりもないのに勝手に喉がゴロゴロと鳴りよる。
「かわいいのねえ」
ふてくされて黙っておると、天女のやつめ、吾輩に頬ずりしてきよった。
「あの三人が姉妹として暮らせるのって、あんたのおかげでしょ」
フニャッ!?
「知らん。吾輩は何も知らんぞ」
「また、照れちゃって。らしくないじゃん」
「吾輩は何にも知らんて。ただの猫又だからな」
「隠したってバレバレだってば」
天女は泥を踏みしめながら境内の脇に並んだ石碑へと歩み寄った。
「あたしだって、外のことまでは手が届かないけど、責任は感じてるのよ」と、苔にまみれた石碑を撫でる。「橋があればそもそも起こらなかったことだろうし」
――あの日もこんな雨の日だった。
小骨のように刺さっていた記憶が鮮明によみがえる。
灰色の水墨画に色が重ねられていくように、吾輩の頭の中に転覆した船底の赤い色が広がっていく。
――この島には何もない。
と、そんな映像が吹き消されるように天女が吾輩の耳にささやきかけた。
「でもさ、なんであんた、あの三人が姉妹でいられるように守ってあげてるの」
「守ってなどおらんわい」
「また、もう、ごまかしちゃってえ。かわいいんだから」
「言うなよ」
「言っちゃおうかなあ」
「深い理由などないわい。ただ単に、飯を食わせてくれるからだ」
「ふうん、そう」
まったく、よけいなお世話だ。
「あたしさ、知ってるよ」
ニャッ!?
「ホントはあんた、あの子に抱っこしてほしいんでしょ、茉梨乃ちゃんに」
んなわけあるか。
あほらしい。
「あたしが抱っこしてあげてるじゃん。ほれ、ほれ」と、胸を押しつけてきよる。
「こら、やめんか」
「うれしいくせに」
吾輩の抗議など無視してますますきつくなっていく。
「柔らかくていい毛並みねえ」
猫又ですら逃げられぬほどきつく抱きかかえられて、さすがに息が苦しくなってきよった。
「やめろ、こら」
腕の中でもがいておると、いきなり猫なで声がしわがれた老婆の声に変わる。
「ほんにまあ、すべすべじゃのう。ええ子、ええ子じゃ」
――ちょ、おまえ……。
千年もの間この島を見守ってきた天女が正体を現して吾輩をしっかりと抱きしめておった。
思わずぶるっと体が震え出す。
こやつの前では、吾輩などただのひよっこだ。
「え、何、どうかしたの?」と、急に声が元に戻って若い娘姿の天女が大きな目で吾輩をじっと見つめておった。
「い、いや」と、相手の力が少しゆるんだ隙に、石畳の上にするりと逃げる。「なんでもないわい」
解き放たれても体の震えは止まらない。
天女は鳥居の向こうに見える海に目を細めている。
「あの子さ、海を怖がらないよね」
「当たり前じゃろ。島のまわりは海だらけだぞ」
「またまたぁ。あんたが何かやってんでしょ」
「知らん」
「ふうん、あっそ。ま、いいけど。茉梨乃ちゃんなら、ちゃんとお姉ちゃんと仲直りして帰ったよ」
フン、そうかい。
上から目線で吾輩を見下ろしながら偉そうにニヤけよって。
「これからも見守ってあげてよ」
「分かっておるわい」
「もう少しだと思うんだよね。茉梨乃ちゃん、あたしとは話せたから」
だといいのう。
ふと見回すと、若作りの天女はもうどこにもおらんかった。
――ふう。
気がつくとまだ尻尾が震えておった。
吾輩は猫ではない。
猫又である。
だが、吾輩ですら手も足も出ぬ者はおる。
さわらぬ神にたたりなし。
吾輩は神社の脇から丘の稜線を越えて、白い壁のカフェへと逃げ帰った。