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 降りしきる雨の中、軽トラが坂を上っていく。

 助手席の凪沙が灰色に煙る海を眺めながらつぶやいた。

「妹さん、大変ですね」

「いつもはあんなんじゃないんだけどね」

「そうなんですか」

「あの子ね、外に出るとしゃべれなくなるの。もっと正確に言うと、あたしと羽美香以外とは話せない」

「え、お店の厨房ではあんなにしゃべってたのに?」

「家の中ではあんなふうだけど、一歩外に出るともうダメ。近所の人からは隠れちゃうし、お店のお客さんに挨拶もできない」

 凪沙はうなずきながら聞いていた。

「あたしたちとはしゃべるわけだから、しゃべれないわけじゃないし、読み書きとかの言語能力にも問題はない。ただ単に、他人に声を出して話すことができないの」

「心理的問題ってことですよね。何が原因なんですかね?」

「まあ、いろいろなのかな」と、言葉を濁す。「あたしたち親もいないし」

「あ、そうだったんですか。立ち入ったことを聞いてすみません」

「いいのよ」

 気まずそうに視線を流し、凪沙は助手席の窓に流れるミカン農園の風景を眺めていた。

 そんな相手に聞かせるともなく、潮は続ける。

「小学校と中学校は統合されて、まだいちおうこんな小さな島にもあるんだけど、各学年一人ずつだったから話さなくても先生がなんとか理解してくれてたのよね。ただ、さすがに高校は向こう側に行かなくちゃならなくて、無理かなと思ったんだけど、自分から行きたいって言ったのよね」

「通ってるんですか」

「毎朝寝坊して大騒ぎだけどね」

「学校のみんなとは交流できないんでしょうね」

「そうね。だから、うちではわがまま言ってんのよ」

 丘を越えて本土側の坂を下ると、色彩を失った水墨画のような風景が広がっていた。

「私、雨の景色って結構好きなんです」と、凪沙がつぶやく。「ふつうは旅先だと晴れてる方が喜ばれますけど、水分の多い風景って落ち着くんですよね。べつに雨が悪者ってこともないし」

「ああ、分かるかも」と、潮が人差し指を立てる。「あたしたち三人とも海を眺めるのが好きなのはそれかも。決して晴れてるときだけじゃないのよ。湿度に包まれるのって、案外悪くないのよね。お客さんがいないときに三人そろって雨を眺めてるときがあるもの」

 凪沙が体の向きを変えて潮の横顔を見つめる。

「それ、私も入れてもらっていいですか」

「姉妹じゃないけどね」と、前を向いたまま潮が手をピストル形にして人差し指を突きつける。

「はい。家族……とか、遠い親戚ってことで」

「やっぱり、そういうところなんじゃない?」

「え、何がですか?」

「自覚なさそうだけど、人と気軽に接することができる特技」

「これからは自覚します」

「真面目ねえ。うちの子より心配だわ」

 軽トラが港に着く。

 出航を待つフェリーに島の車が積み込まれていく。

 車を降りて傘を広げた凪沙が振り返って頭を下げた。

「ありがとうございました。また来ます」

 そして、はにかみながら首をかしげた。

「次もちゃんとたどり着けるといいですけど」

「大丈夫。次は迷わないから」と、潮は手を振った。「だって、もう自分の家みたいなものでしょ」

「そうですね」と、凪沙も手を振り返す。

 集落の奥へと消えていく軽トラを見送った凪沙は、乗り場へ向かおうとして不意に立ち止まった。

 ――フニャーオ。

「あれ?」

 振り向くと、足元に太った茶トラの猫がいた。

 しゃがみ込んで傘を差しかけながら目を合わせると、再びナーオと柔らかい声ですり寄ってくる。

 雨なのに毛はふんわりサラサラだ。

「さっき、カフェにいたよね。もしかして猫又だから車より早く着いたの?」

 と、語りかけてから、ふふっと笑みを漏らす。

「分かった。車の荷台に乗ってきたんでしょ。なあんだ、そっか。手品みたいでだまされちゃうところだった」

 自分で納得して猫の頭を撫でると、手を振って立ち上がる。

「じゃあね、バイバイ」

 なのに猫がついてくる。

「向こうに行きたいの?」と、かがんで本土を指さす。「でも、ごめんね。連れていくわけに行かないでしょ」

 語りかけてみたところで言葉が通じるはずもなく、猫は脚にまとわりついて離れない。

「妹さんを探してあげてよ。あなた、猫又なんでしょ」

 フンと、急にふてぶてしい態度になったかと思うと、猫はアンテナのように尻尾を立てて先をゆらゆらと揺らしながら去っていった。

 乗船場で係員が呼んでいる。

「出航しまーす。乗る方はお急ぎください」

「はーい」と、手と傘を振りながら凪沙は駆けだした。

 フォンと汽笛を鳴らして船が港を離れていく。

 荒天で波は高く、揺れる船内から窓越しに眺める島は灰色に煙って小富士山はよく見えなかった。